IC13-22

手袋のなかに手はあるのか

[掲載日:]

たくみな方法は、方法ではない。
ことば、かたち、イメージ、(あるいは響き)、
それらなしに方法は語れないかもしれないが、
方法はそれらのものではない。
流れる水は河床をつくるかもしれないが、
河床は水をつくらない。
流れる水はたえず変化していると言えるだろうか。
いつもちがう水だと言えるだろうか。
たえず変化しているなら、変化する水は、
なぜ水と呼ばれるのか。
いつもちがう水なら、流れる水はどこにあるのか。
そう考えれば、流れる水は流れるとも言えず、
流れないとも言えず、さらに、
流れる水は水であるとも言えず、
水でないとも言えない。

変化する音がきこえる。変化する音はどこにあるのか。
変化する音はたしかにある。
なぜなら、音は音としてきこえるもの以外ではないからだ。
変化する音が音であるならば、
音であると定義できる部分はどこにあり、
変化と言われる部分はそのほかのどこにあるのか。
このように、コンピュータ上で音を定義し、
変化を定義し、
その二つの定義の対象の組み合わせを定義すれば、
変化する音が生まれるが、それは、
変化しない音と、音のしない変化を結びつけたものを
変化する音と呼ぶことで、
本来ひとつのものである変化する音の
虚像をつくりだしているだけだ。
このように分解し、実体化した部分を組み合わせて、
うごくもの、流れるもの、変化してやまないものの、
過ぎ去ったあとの影を捉えることしかできないのだろうか。
さらに、
このようにしてつくられた「変化する音」は、変化しない。
なぜなら、定義とは、くりかえされる組み合わせを
ひとつの記号で置き換える手続きであり、
くりかえされる変化は、もう変化ではなく、
おなじ手続きのくりかえしにすぎないからだ。
固定化した「変化」を外側からつけくわえ、
変化の幅とその不規則性を定義しても、
定義するということ、そのために記号を必要とすることによって、
不規則性やランダム性は、一定の相貌をあらわす。
もともと、知ることのできないものを
知られる空間内にひきずりこむのが確率論の目的だから、
こうなってしまうのが当然で、しかたのないことなのだが、
楽器の上で指がつくりだす変化の幅や不規則性が、
もっと小さいものであるはずなのに、
変化する音の印象をあたえる(ということは、
まさに変化する音であることを可能にする)、
たくみな方法があり、
電子的につくられた音を聴き続けるうちに耳が飽きてしまうのを
防ぐ方法は、なかなか考えられない、というのも
皮肉なことではある。

たくみな方法は方法になり得ない方法だ。
ことばから離れるためにことばをつかい、
概念に因われないために概念をつかい、
イメージを超えたものを指すためにイメージをつかい、
記号では捉えられないものを捉えないで済ますために、
最少限の記号を書き残す。
たとえば、ことばはことばが指すものではない。
だから、ことばが定着すれば、
ことばを発するものと、ことばというあいまいなひろがりと、
ことばが向けられる世界との一体感が破られ、
複雑な関係の網が一瞬につくられる。
ことなる部分があれば空間が生まれ、
ことばの前後に時間が生まれる。
ことばで定義すれば、対象が固定され、実体化し、
ことばで主張するならば、目標とプロセスが分離する。
ひとつのことばを発することだけでも、
表層世界のゆたかさを創造するのには充分だ。
すると、ことばによってことばを打ち消す、
これでもなく、あれでもない、という否定の論理が、
対立と分離を超えるものとして登場する。
この否定は、対立する両極に向けられるから、
そのいずれでもない場をひらく。
そこでは一極は対立する極に含まれているかも知れない。
原則は例外を含み、例外によって成り立つ。
あいまいさだけでなく、誤りがむしろ必要とされる。
ここでは、純粋なものは、世界のバランスを破壊することだろう。
したがって、全体がバランスをとるためには、
どの部分も純粋ではなく、
したがってどこまで分割しても究極の一なるものはなく、
一がなければ、それを積み重ねた多元的なものもない。
さらに、
そこには選択がないから、意志もなく、
創造もないが、世界はそれ自体で、
そのうごきそのものによって、生起する。

ことばやイメージや概念、
あるいは記号から音楽をつくるのではなく、
音を楽器の上でつくりだす手のうごきからはじめるのは、
手袋から手をつくるのではなく、
手にあわせて手袋をつくるのとおなじことだ。
そこには作曲者も作品もなく、
思考や感情も、冷えたミルクの表面にできる薄膜、
流れるエネルギーの表面に漂う仮の凝結にすぎない。
ところで、
一連の手のうごきを極端におそくし、
注意をプロセスの細部に向けると、
指先のわずかなうごきは、全身をつかっての大きなうごきの、
表面に見える尖端でしかないことがわかる。
外側のうごきが小さくなればなるほど、
内側のうごきが激しくなる。では、
手自体も内側をなぞっている手袋にすぎないのだ。
さらには、内側のうごきでさえ、
流れのひとつのあらわれにすぎないと感じられる。
流れはどこにあるのか。
直接見ようとしても、それは空間全体に拡散している。
あらわれはたしかにあるが、
あらわれているものはどこにもない。

(たかはし ゆうじ・作曲)

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