IC11-41

音の反日常的身体について

[掲載日:]

音は炎のように生まれ、水のように流れ、
虹のように空中に消える。
目に見えず、手でとらえようもなく、
音はすでに音の記憶にすぎない。
だが、音を創りだした手のうごきは、
そのまま空中にとどまってはいない。
ひとつのうごきは、その結果としての
もうひとつのうごきを求めている。
結果を求める事象、それが数と呼ばれる。

耳を悦ばせる音は、くりかえし求められる。
だが、消え去った音は二度ともどらない。
反復は、幻覚にすぎない。
流れる水がおなじ水でなく、別な水でもないように、
まったくおなじものとも言えず、異なるものとも言えない音が
つぎつぎに立ちあがる。
その幻への執着に支えられて、音楽がある。
虚ろなものをとどめようとして、
ひとは音にかたちをあたえる。
そのかたちは仮のものにすぎないが、
それがなければ、仮のもの、虚ろなものとしてであれ、
音について考えることさえできないだろう。

最も古い記譜法は、
音のかたちについての意識が
もともとどのようなものだったかを語っている。
ユダヤ教の聖歌、チベットや日本の声明は、
長く延ばした声のゆらぎを空を舞う手のうごきに置き換える。
そのうごきは、紙の上をうごく筆のうごきに置き換えられ、
描かれた手の跡は、反復される型としての分析によって、
自由な輪郭線からしだいに記号の数珠に変わっていく。

減字譜と呼ばれる中国の古琴の記譜法は、
一音を発するための絃の上の両手の位置と運動の方向を記述する。
それは記述文を構成する漢字の部分を組み合わせた
五十数種の記号から成り、
それぞれが動物のうごきや、花や葉の揺れにたとえられる。

経文の裏に書かれていた敦煌琵琶譜は、
古琴古譜にならって琵琶の絃柱と指法をしめし、
日本の雅楽でも古譜には、笛孔をしめす指譜がある。
それらは楽人の心覚えのための書き付けにすぎなかった。

手は目的も意味も意志もなく、かろやかにすすむ。
幻である音、連続する夢である音楽は、
その跡に残された影のようだ。

だが、記号に置き換えられた音、記号列に分断された音楽は重い。
意味の苦しみを隠し、石のようにかたく沈黙している。
手さばきと楽器のさまざまな部分との出会いをあらわす音は、
それとともにあるひろがりという空間、仮象の顕れという時間と
切り離しては考えられない。
ところで、記号になった音楽には、
限られた空間、区切られた時間が対応する。
数はもう、くりかえされる事象の悦びではない。

記号列という仮設を認めながらも、
一段上のレベルで連続性を回復する方法がある。
連音と呼ばれるものは、二つの同種の音あるいは音列を
ずらして重ねながら、途絶えることのない線を紡ごうとする。
たとえば、二本の笛がおなじ旋律をそれぞれの時間で吹きながら、
相手の息継ぎの休止を自分の音で埋めようとすることがある。
このとき、時間のブロックが溶けていくとともに、
ずれによって音のあいだの予期しない接触を起こすために、
固定された音の線の表面がゆらぎだし、
空間の微細面があらわれる。
逆に、音の抑揚の微調整と装飾法からはじめてもいい。
音の微細身への意識は、音色として感じられる。
おおくの伝統音楽で学習手段としてつかわれる口唱歌、
口三味線、口ガムラン、はそうした意識を反映している。
この意識は、音のまわりの微細な空間を見ることによって、
時間の枠も崩していく。
かたちと数はこうして、ひらかれた流れの
直接体験のなかに解き放たれる。

だが、この流れに埋没してはいけない。
アジアの多様な音楽文化は、現われたかたちは異なっていても、
このような音の経験を身体的伝承として残してきた。
それらはたしかに出発点にはなりうる。というより、
そうでない出発点をさがすのは、いまでは困難になってきている。
抽象化され、実体化された音やその属性は、
人びとのあいだにはなく、生活空間から離れた音楽、
さまざまな特徴を強調しながら、分離した実体をめざして
「私の」、「民族の」、「国家の」音楽をつくりあげる。
だが、身体的伝承が出発点となる、という意味は、
そこからはじめても、そこにとどまらず、
離れていなければならない、ということだ。
具体的な技法にとどまるならば、その特徴にとらわれてしまう。
それでは習慣のちがいを固定するだけだ。
文化の壁を作り、ここにはこの音楽、向こうには別な音楽、
ということでは、伝統は重荷になり、さまたげになるだけだ。

音であり、空間であり、時間である流れの直接体験は、
そのように指示される対象、身体技法という手段を通じて
それらを使いこなしている主体の虚像を創りだす。
これがもうひとつの埋没のかたちだ。
直観や即興にたよる音楽は、かえって自己表現を強化し、
色とりどりのようで、それぞれを取ると貧しい
ステレオタイプの羅列以上ではないことがおおい。
音も空間も時間も技法も、結果として名付けられた相であり、
段階にすぎない。
それらの相が見えないときでも、それらは消滅してはいないし、
それらによらないでは、音楽は人びとにひらかれることはない。
だれもいない森のなかで落ちる木の実の音のように、
耳に届くことを求めない音楽がある。

音に目覚めた心は、なにものにもとらわれない手の舞を、
息のゆらぎを、空間と時間の微細面をよく知っている。
だが、そこに住みつくことはできないし、
それを演じる表現者となることもできないのだ。
音楽を、あるいは音を、だれのものでもなく、
人びとが自由に入ってこられる、ひらかれた場として創り、
その創造物、あるいは創造行為そのものを、
世界にさしだすことができるだけだ。

(たかはしゆうじ・作曲)

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