IC10-24

途上で

[掲載日:]

ここでは「コンピュータ音楽」(その2)を書くつもりでいた。
3月にパリ郊外のアトリエUPICで、クセナキスのつくったグラフィック・インターフェイスによるリアルタイムでの作曲および音響コントロール装置をつかって仕事をしたのだから、それについて書くこともできたはずだった。
また、パリにいたあいだに、IRCAMでの「空間」シンポジウムで、エマヌエル・ヌニェスの空間音楽のデモンストレーションを見た。
それについて書くこともできるかもしれない。
だが、それらの経験は失望でしかなかった。
おもに人間組織上の問題によってそこに実現されているはずのものが、みせかけだけ、あるいはまったく存在さえしていない。
コンピュータ・テクノロジーから見ても、音響技術から見ても、信じられない低水準。
(20年前のこわれたトラクターを運転するのとおなじ。)
ひどい作曲とへたな演奏。
調整されてもいないスピーカーのあいだをふるえる手の跡をのこすヴァイオリンの音が横切っていく。
それが、権威主義と官僚主義とあいもかわらぬパワー・ゲームのなかで、ヨーロッパ音楽最先端の成果として通用している。
もちろん、日本の現代音楽だって似たようなことがあるわけで、住み慣れた泥水は澄んで見えるだけのことだろう。

だが、そんなことをいまさら批判しても何も変わりはしない。
それに、そんなことをしている時間がもうない。
枯れた枝にしがみついていても、自分の重みで枝が折れるだけだ。
音楽はどこかよそにある。

コンピュータ音楽を否定するのではない。
コンピュータは道具にすぎないし、それがまだ限られたことしかできないとしても、だれかがそこに別なコンセプトをもちこまなければ、それ以上のものにはならないのだから。
別なコンセプトはいまのコンピュータの内部からではなく、外部からやってくる。
現状をいくら見ても、そのなかに現状を超えるものが見えるわけはない。
科学者がカエルの泳ぎを、鳥のはばたきを研究してうごきのメカニズムを機械にとりいれようとするように、コンピュータをつくりだした知の風土では忘れられたもの、異なる心のはたらき、手のうごき、息のゆらぎから、別な論理、未知のメカニズム、それだけでなく、それを実現する人間の関係とかかわりの再組織ができるかもしれない。
東アジアの複数の伝統を観るのは、回帰のためではない。
原初の分岐点にたちもどり、ありえたが実際にはなかった道にはいりこむために、伝承を役立てるだけだ。
身体にきざまれた伝承は、意味にさきだち、ことばのように拡散していない。
コンセプトやイメージは、了解をたすけるかもしれないが、了解それ自体を代行はできない。

分岐点を探し当てるのは、感性や美学ではない。
それらに安住することが、自我の拡大、知の暴力を呼ぶ。
論理の刃で感性を切り裂くのは、最初の一歩。
論理は理解するが、創造しない。
そのさきは、シンボル、アナロジー、イメージが分析的論理にかわる道具となるだろう。
それらは指し示す指、だが、それら自体は幻のようなものであり、身体に収斂し、消えていくべきものだ。
こうして創造する身体が、最初の分岐点を回復し、方向転換して、いままで見えなかった風景を見る。

いままでここで書きつづけてきた文章は、一貫した線を構成してはいない。
その時々に複数の伝統のさまざまな側面を観察しながらつくりあげるイメージは、音楽というとらえがたいものをめぐってその場限りのことばをならべたものにすぎない。
それらを照合すれば、ことばは矛盾だらけにせよ、コンテクストは、そこにある伝承をアナロジーによって拡散させる、あるいはシンボルとして意味の転換をはかる、というプロセスとしては一貫しているはずだ。
それは方法であり、しかし方法とは指示にすぎないから、測定地点によって磁針が時にはまったく反対側を指すように、あるいは、「一切は実なり非実なり非実非非実なり是を諸仏の法と名づく」(中論)のようにあり、そして、道の途上にあるものだ。
方法は仮の足場にすぎない。

響きというものも、指示であり、それ自体としては、どこにも見つけることができない。
三味線の木の胴、猫の皮、絹の絃、木の棹、左手の押さえる勘所、右手の象牙の撥、そして手さばき、これらの集合から、これらを条件として、音または響きと呼ばれるものが発生する。
音は胴や皮や絃でもなく、胴や皮や絃のなかにもない。
響きは撥や指でも手さばきや勘所でもなく、それらのなかにもない。
楽器と人間の接触が音をつくるということも正確ではない。
これらの条件のすべてがあっても、響きが生まれるとは限らない。
また、生まれた音がどこにあるのか、空間のなかのどこか、時間のなかのどこか、指し示したときには音はそこにはない。
むしろ、生まれつつある音がそれとともにある空間と時間の意識をつくりだす。
音をはなれて絶対的な空間と時間があり、その空虚な枠のなかに音が生まれてくるわけではない。

響きは音符でもなく、周波数でもなく、波形でもなく、粒子でもない。
世界のなかにあるものではなく、世界の外にあるものでもない。
響きは炎のように生まれ、水のように流れ、虹のように空中に消える。
それは幻のようにとらえがたく、夢のように境界がさだかでなく、影のように、覗きこんでも何も見えない。
生まれた音を手でつかむことはできない。
だが、手がなければ音は生まれない。
すべてはそこからはじまる。

(たかはしゆうじ・作曲)

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