IC8-30

コンピュータ音楽(その1)

[掲載日:]

シンセサイザーであれ、デジタル・サンプラーであれ、
電子音に慣れることはむつかしい。
1962年にはじめてNHK電子音楽スタジオでしごとをしたときは
真空管の発振音でしかなかったのが、
いまは比較にならないくらい多彩になった。
楽器の音や自然音のシミュレーションもほとんど完璧だし、
どこにもなかった音をつくることもできる。
それでもまだ、どこかがちがう。
風の音は一瞬ごとに変化する。
楽器の音も二度とおなじにはならない。
サンプリングによる音は、いつもおなじであり、
さまざまに変化させても、変化させられた音という感じがのこる。
もともとの微妙な差異と、あとから付加された変形とのちがいは、
おなじように発音されるおなじことばの微細な表情の翳りを
何千年も読みとってきた人間の耳をだますことができない。
あたらしい音をつくってからしばらくは、
感情移入によってか、
今度こそいきいきとした音の運動がつくれたと思うが、
1年ほど後にききなおすと、どこか空虚で
よそよそしい響きになっている。
技術は日進月歩だが、これではアキレスと亀のようでもある。
生楽器といっしょに演奏したものの録音は、
演奏のときに設定したはずのバランスに対して
生楽器だけが浮き出して、
電子音は背景に退いているようにきこえる。
生彩のない音はどうしても知覚の周辺にいってしまうのだろう。
これに対しては二つの戦略がある。
ひとつは、音をかさね、ずらして複雑にするやりかた。
もうひとつは、意図して意識の周辺にあるものとしてあつかうこと。
第二のやりかたは、「島の輪郭によって大海を暗示する」、
あるいは、電子的な音の結界をはりめぐらすことで、
これがコンピュータ音楽《翳り》を思いつくきっかけとなった。

いまつかっている機材は、
コンピュータ Macintosh SE/30とサンプラー Akai S3200
(両方ともRAMを32MBに拡張)、
それに時々MIDIキーボードもつかうが、
だいたいはコンピュータのキーボードで操作する。
以前はだれでもやるように、
複数のシンセサイザーやエフェクター、
ミキサーなどを組み合わせていたが、
一人では操作し切れないからだんだんにやめてしまった。
(ノート型パソコンと、おなじくらい小さいサンプラーなり
他のデジタル音源になればもっといいだろう。)

いま流行のインタラクティヴなしかけもほとんどつかわない。
外部からの情報をMIDI数値に変換しても、
使えるのはピッチか強度だろうが、
このようなパラメーターが重要になるのは
ヨーロッパ音楽の考え方でのことだ。
もっとおおざっぱに、イヴェントの発生あるいは差異に対して
応える、あるいは認知のしるしを見せる、ということなら、
ランダムなずれをもって、ランダムな反応を仕組むことはできる。
しかしこれなら、人間がキーボードやマウスの操作を通じて
反応をそのつど設定したほうが、ずっと複雑になる。

コンピュータ・プログラムでは、どこかにかならず
ランダム変数がはいってくるが、
乱数を発生させる式にはそれぞれの顔があり、
使っているうちに、水に落したインクが水を染めていくように
全体として平均化されてくる。
このような「汚染」を避け、非予知性をたもつために
多重化・複合化、平均値や限界値を変える、といったくふうをしても、
いつかは定常化への傾向が再帰する。

(コンピュータ・チップが固有のパルス発振のためではなく、
自然音や楽器の擬態を演技させられているから
こうした問題が起こるのかもしれない。
音のイメージから出発するのをやめて、
チップを組み合わせて外部から刺激をあたえるだけなら、
それらに固有のふるまいによって、
人間的美学からは自由な音楽が生まれるかもしれない。
1960年代アメリカのライブ・エレクトロニクスが
アナログ回路でつくりだしていた思い入れのない音響を
デジタルでも、だれかがやっているのかもしれないが、
もっとも、デジタルではDSPとして
アナログ回路からの入力と組み合わせることしかできないかもしれない。)

さて、《翳り》は、68のサンプルを4×4組に分け、
同時には4組までがそれぞれ独立した時間のなかで点滅する。
時計の音、きしみ、竹の楽器や口琴、太鼓、
アザラシ、ゾウ、クジラ、カエル、雷、シンセサイザーの音、
発語サンプルを組み替えたグロッソラリーなど、すべて短い音。
(ヨーロッパやアメリカの電子音のイメージは
鐘を原形としているように思える。
そして目指すのは、長く複雑な内部構造を持つ弦楽器のような音。
それに対して、東アジアの音は
竹や木をたたく余韻のほとんどない音、あるいは
銅鑼のような、複雑ではあっても弦楽器のように
人間がたえず介入して引き延ばすのではなく、
自然にゆっくりと消えていく音だ。
消えていこうとする音を鞭打って、
途絶えることのない線の音楽を目指すのだ。)

これらを制御するプログラムはMAXで書かれている。
(最近はほとんどこれだけをつかっている。
数年前シンセサイザーを演奏していたときは、
ちがう時間構造を同時進行するシーケンサー・プログラムと、
パターンに基づく即興の生演奏を組み合わせていた。)
プログラムは、かんたんなアルゴリズムを組み合わせて、
音の選択をリアルタイムでおこなう。
コンピュータ・キーボードからそれぞれの回路をスタートさせると、
30秒から180秒のあいだの
(こういう上限・下限の数値は変更可能、以下も同様)
ランダムな間隔で、スイッチは自動的にオンオフをくりかえすが、
キーボードから介入することもできる。
介入しないで放っておけば、
かなりまばらな間隔で音が鳴ることになる。
さらに、ランダムな時間に、
選ばれるサンプルの組を交換する回路がはたらいているが、
このスイッチを切ることもできる。

同時にうごく4組のサンプルは、
それぞれが2分の1秒から10秒までのランダムな間隔で
ステレオ音空間の任意の位置からある音を発生させる。
そのうち1組だけが音のなかで左右に音像移動する。

(連続的に変化する数値をMIDIで送るのには限界がある。
MIDIはキーボードをモデルにしていて、
音のパラメーターを離散的にとらえている。
連続的な変化はチャンネルごとに1つしかできない。
ある和音を構成する音が
独立に音量を変えていくようなことは不可能。
音像移動を、聴衆を囲む4つのスピーカーの音量の、
独立した連続的な変化でつくろうとしたら、
コンサートの途中でコンピュータがだんだんおそくなり、
ついに停まってしまった。
MIDI回線の処理能力を超えてしまったらしい。
16チャンネルの音が同時にこまかくゆれうごくような
プログラムをうごかしてみたときは、
MIDI以前に、コンピュータ・システム自体が停まった。
オーケストラにも追いつけないようなコンピュータの
存在価値はどこにあるのか。)

ここでつかっているランダム変数には3種類ある。
一様乱数、これはあらかじめ設定された上限と下限のあいだで、
前後関係なく選ばれる場合。
第二は、前に選ばれたものと近いほど選ばれる確率が高くなるもの。
これは、0と1のあいだの一様乱数の平方根を1から引いた数と
上限あるいは下限と以前の選択との差を掛け合わせたものが、
以前の選択からの距離になる。
この場合、選択される数値は
似たようなところをうろうろしているが、
しばらくすると急にはじかれたように変化する。
第三は、その逆で、
以前の選択から遠いほど確率が高くなる。
これは、平方根と1との差ではなく、
平方根をつかうだけで、第二の式とおなじ。
このときは、一回ごとのばらつきが大きくなる。
それぞれはちがう顔をもっているが、
どの方式をつかっても、平均値はわりと早い時期に
上限と下限の中間辺りにおちつく。
時折は介入して、かき乱してやらないと、
時間がしだいに均質化してくる。
だが、ここでできることは、
各回路のスイッチを切ったり入れたりすることと、
サンプルの組の入れ替えを指示することに限られている。
これらの操作を頻繁におこなえば、
それは演奏に近づいてくるが、演奏とはちがって
どこまでいっても、思ったとおりの音をだすことはできない。

このプログラムでは、
なかのアルゴリズムを一部入れ替えることもできるし、
サンプルを入れ替えることもできる。
これらの選択は恣意的なものでしかないし、
プログラムもつかうたびに、すこしずつ変えている。
定型にはまだなっていない。
アルゴリズムによる自動操作と
手動操作の介入のバランスも一定しない。

この音楽は、さまざまな音で空間の境界をつくるために
(これが仏教では結界と呼ばれる)つかわれる。
そのなかでおこなわれることとは直接のかかわりをもたないが、
偶然のように発生する音が、時間や空間に影を落す、
それが《翳り》であり、
コンピュータ・プログラムも、そこへの介入も、
その空間に仕掛けられた音響の
撹拌装置とかんがえられる。

こうして書いてみると、すくなくともこの例については、
コンピュータ音楽の作曲家がよくやるようなこと、
リアルタイムで演奏される音楽を分析して、
それに対応する響きをつくりだす、
といった使用法とは対照的かもしれない。
コンピュータには、人間のすることを理解したり、
協調することはもとめられていない。
それは外部のもの、異質なもの、不測の要素、
偶然混紡装置として扱われているようだ。

(たかはし ゆうじ・作曲)

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