IC5-22

身体技法としての音楽

[掲載日:]

慣習としての音楽。
くりかえされる
音楽という行為。
習い覚えて、
うたいだす声。
意味を考えることもなく、
くりかえしに身をまかせている心地よさ。

電話ゲーム。何人かが環になって座り、
耳打ちされたことばの列を隣の人に耳打ちする。
こうして一周すると、
情報は如何に不正確に伝わるか。
だが、八世紀の唐楽は
千二百年の間くりかえされ、
くりかえされれば自ずと変わり、
そういうものとして生き残る。

くりかえされるのは情報ではないだろう。
知識でもないだろう。意味でもない。
それは音でもないのかもしれない。
くりかえされるのは指のうごき、声のゆらぎ。
ひとつの身体からほかの身体に写されながら。

笙を電熱器で炙っていた手がそれを顔の前に捧げもつとき、
千年ほど前に別な手が東大寺の庭で
(電熱器はまだなかった)
炭火にかざした笙を取り上げる
その手付がそこに写っていて、
古文書に記された譜を解読するよりはたしかに
古代の音楽をうけついでいく。

楽器にしみこんだ記憶、
その管の長さ、指孔の位置が空間の鋳型となって、
手袋に手をさしいれるように、
そこに当てられる指を
千年前の指の残像に流し込む。

記憶というのは正しくないかもしれない。
今ここで笙を吹いている楽人が
千年前のだれかの音楽をうけついでいるというのは
外側からの言い方で、
実際に起こっているのは
今でなくても、千年前でなくても、
たくさんの人がやってきたように、
手慣れたやり方で、笙を吹いている
というだけのことだろう。

音楽は習い覚えるものである限り、
人と人のあいだにあるものだ。
習うときは、羽と羽をかさねるように、
音をつくる動きが手から手に写される。
先生にいっしょに弾いてもらって、一節ずつ音をなぞるのが
伝統的な方法だ。
アジアの舞踊では
先生が後ろから生徒の身体を操る教え方がある。
音楽ではそこまではできないだろうが、
他人の手にうごかされることは
覚える上でどうも必要らしい。
(これは遺伝子の自己複製とどこがちがうのか。)
(ここで写されるのは情報なのか。)

音をなぞるとき、細部を調整するのは
同調、あるいは引き込みと呼ばれる現象だ。
わずかなずれが、その場で位置修正されるのは、
かならずしも意識的ではない操作によって
一致点へと引き込まれるからなのだが、
全体として見れば、他の手の動きが
いままでの手の慣習のパターンを組み直して、
別な動きの慣習をつくりあげる過程なのだろう。

人と人のあいだで写されるものは
一回限りの形にすぎない。
その限りでは動きの同調を実現することはできるが、
なぞる過程を終えて次の段階にすすむとき、
何がどのようにうけつがれたのだろう。
写された形はできるだけの正しさをめざしながら
どこかにあいまいなところが残ってしまう。
形が写された手の側で何回かくりかえされて
確実なものになったと判断されたとき、
(だが、どこに基準があるのか)
その用法が教えられる(かもしれない)。
動作の目的、あるいは意味を意識することは
かならずしも必要ではない。
目的意識は動きを急がせ、
つまずかせることもある。
動きがくりひろげられる過程を速めることはできても
途中を跳びこえることはできないだろう。

形を写すのは
それ以外に方法がないからだ。
最終的にうけつがれるのは、
その形そのものではない、
それとは別なものでもない。

形はくりかえされることによって、
ひとりでに変化する。
型と呼ばれるものは形から抽象されるが、
型を厳密に定義するのは多くの場合たいへんむつかしい。
例を示すことしかできない場合もある。
例はまさに例にすぎないことを
どうやって示せるだろう。

ところで、音が出たときには
それをつくる動きはすでに終わっている。
と言っても、いくらかの微調整をする時間はまだあるだろう。
耳はこの最後の段階ではたらくのに、
音楽が、すでに音が出てしまった状態から分析されるのは
おかしなことではないか。
音は身体の一連の動きの統合をたしかめる指標だが、
これらの動き自体は
・孤立した身体のなかに閉じ込められたものではなく、
楽器という物とそれを弾く人とのあいだにかわされる会話、
習いうけつがれる技術として人と人とのあいだで共有され、
音を聴く他の身体を音から遡って同調させ、
引き込んでいくことができるものとして、
外部に開かれている。

音楽を考えるためには、
結果としての形、
固定されてはいても
じつは偶然に生まれただけのものかもしれない音の特性、
意味を担うように見える記号の列に還元された計量可能な部分、
音の高さ、長さの構造からではなく、
楽器の上の特定の場所に吸い寄せられていく指、
手になじんでいく動きから始めるべきではなかっただろうか。

計量しにくい音色や間合いのような要素も、
外部の物や他の身体との対の関係のなかで捉えられない限りは
抽象構造にすぎない。
これらの対のあいだでとりかわされた音の一回限りの形から
型が生まれ、規則が生成され、
また破られ、崩されていった。
対の関係が
形の反復と同時に変化を保証していた。

東南アジアでは(東アジアでも)
単純な竹の楽器は、そのつくりから楽器固有の音楽まで
手や指を基準に測られ、伝承されてきた。
複雑な音楽も、
基本的に合奏であるために、
集団的な同調とゆらぎによって記憶されている。
ところが、古楽譜のように記号でしかなくなったものは、
さまざまに解読され、復元されるが
音楽としてよみがえる身体的根拠を欠いているように見える。
雅楽の古楽譜は、その曲の
一つの楽器による一つの演奏例の記録であると推定される場合
が多いが、
そのようなものが現われたこと自体、
伝承力がおとろえた証拠ではないだろうか。
それらの楽譜が固定されると、
音楽が保存されるどころか、じっさいには
伝承がほとんど絶えることになるだろう。
すくなくとも、伝統は変質する。

近代以後、表面的には状況は逆転したかもしれない。
音楽は記号、意識的な方法、さらにシステムによってつくられ、
様式の変化も意識的に、急激に起こる。
(これは、いわゆる芸術音楽より
大衆音楽の分野でのほうが徹底しているように見える。)
固定されて活力をうしなった伝統にかわる、
社会や世界の存在根拠を見つけることができない
若い世代の不安定な心身分離のなかで、音楽も
共有される技術ではなく、専門化した個人的表現とみなされる。
機械的反復による物理的訓練によって実現される反面、
形は偶発的、一回性のものとして消耗される傾向がある。
だが、この反抗も様式に取り込まれるときがくる。

アジアのどこかで音楽の始原的状況にめぐりあった
音楽学者のフィールドワークだけではなく、
近代を通過した都市のなかにあっても、
身体技法としての音楽のモデルを構築することができる。

あらかじめ変化の芽をプログラムした形、
種子のように不安定に基づくエネルギーを内包する形、
部分のゆるやかな統合が組み替えを示唆し、
あいまいさによって反復のなかから変異を誘発する構成を
多義的な記号によって提示することもできるだろう。

このような形の生成を
コンピュータでシミュレートできるだろうか。
生成の規則と限界を決めてやれば、
反復と変化によって自己組織する音楽を
プログラムすることはできる。
だが、コンピュータにとって
外部はどのように感じられるものだろう。
外部からの信号に同調し、
情報を外部とやりとりするのは
コンピュータにとってあたりまえだが、
そこで中心のないネットワークを組んだとしても、
コンピュータはどのくらい
それに向かってひらかれ、
それになじみ、
それをよろこんでいるのだろう。
(教えたことはすべて記憶し、
正しい指令はすべて守り、
正しい問には正しくこたえる
このかわいそうな、
頭の悪そうな、ブラックボックス。)

(たかはしゆうじ・作曲)

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