IC7-53
電子的貧困
[掲載日:]
ここで、ふりだしにもどり、
今これを書いているコンピュータそのものの
つかいかたについて、
具体的にかんがえてみよう。
これはMacintosh SE/30で、
日本語システムがはいった直後に買った。
今は製造中止になっているが、
これに替わるものを見つけられないでいる。
第一の用途が音楽であり、
MIDI情報を生演奏の場でコントロールするためには
コンパクト型が運びやすく、ディスプレイが見やすいという
二つの条件を同時にみたす。
音楽以外にはたった今やっているように
ワープロとしてつかうだけだ。
ハイパーカードによって手帖としてつかうのは
すぐやめてしまった。
いちいち机の前にいったり、
電源をいれなければならないし、
全体をひとめで見たり、
ぱらぱらとめくれないような手帖は役にたたない。
書き込むのも手のほうがはやい。
文章を書くためには、
漢字をだしてくれるし、訂正ができるし、
記憶してくれるし、複製もできるからべんりだ。
検索機能はつかわない。
ことばの検索ができても、概念や文脈の検索ができないのは不便だ。
象ということばをつかわないで象のことを書いたら、
象で検索してもでてこない、ということではこまる。
訂正すると訂正以前のものが消えるのにも、こまることがある。
文章というものは、一本の線ではなく、
複数の線がからみあったものかもしれないし、
書かれたことばの裏には書かれないことばがある。
そして、ことばの機能も指し示すということだけではない。
ことばによって隠すというのも、
かならずしも嘘ときめつけるべきものではない、
人間の生きる技術だった。
宗教も詩も、それなしには存在できなかっただろう。
何かを指し示すということが、同時に
何かを隠すことでもある、
そういうことばのありかたを、
ワープロは理解できるだろうか。
ポインタでことばを指したり、ある領域を囲むことによって、
ことばや文章を変換することは、書く過程だけでなく、
書かれた後でもありうるが、
書くということを異本を同時進行でつくる作業とかんがえるような
ワープロがあってもいい。
キーを押すと、文章が自動的に変化して異本をつくったり、
ちがう版が同時に読めるような装置がなければ、
タイプライタの電子化以上のものではなく、
電子的書法とはいえない。
単線的な文章は笛のようなものだ。
オーケストラのような文章ができてもいい。
コンピュータがなくてもタルムードは書かれた。
それを思えば、今のワープロは退行現象だ。
印刷術は、書くことから読むことへのアクセントの置き換えだった。
ワープロは、書くことも読むやりかたでやろうとする。
書いていると思うのは錯覚なのだ。
書けるもののすべては、すでに書かれている。
いままでに書かれたことのないものを書いていると思っていても、
じっさいは、ワープロに登録されたことばを並べ替えて、
すでに存在している情報を操作しているだけだ。
そのような情報は、情報としてすべて等価であり、
わかっていることだから、
それを読むことは、再確認であり、
読者が自分を情報の鏡像として作り替えることなのだ。
Macintoshの日本語システムは最近
漢字Talk6.0.7から漢字Talk7にバージョンアップした。
その結果、いくつかの漢字が使えなくなってしまった。
あたらしいシステムが造字機能を切り離したせいで、
いままで書いていた雅楽の楽器名なども、書く方法がない。
プリントアウトに手で書き入れなければならない。
フロッピー入稿や電子メイルで送ることもできない。
こういうことが起こった場合、
存在しないことばに対応する事物は、世界内から消滅する。
それはもう情報ではない。
以前からふしぎに思っていたのだが、
ちいさな店が、そこにしかないものを売っていて、
成功して店を拡張すると、
そこではもう、どこの店にもあるものしかなくなってしまう、
ということが、よくある。
バージョンアップの不便さを経験して、
すこしわかってきた。
20人しか欲しがらず、20個つくれば間に合うものは、
2000人を相手にする店には置けない。
2000人に売ることができないからだ。
みんなにひとしく手渡すことができないものは、情報となり得ない。
したがって、存在しないとみなされる。
プログラムをプログラマーが考えなかった選択肢でつかって、
コンピュータがとまってしまうと、それをバグと呼ぶ。
よいプログラム、バグのないプログラムは、
あらゆる段階であらゆる選択肢に対応していなければならない、
とすれば、選択肢はすべて等価、
だれでも使えるが、すべての使い方はすでに予想されている。
ということは、何をやってもおなじこと、
何もやらないことも含めて、すべてが許されている。
選択や決定は、ここでは意味がない。
人間がどちらかを選んで決めることに
価値や意味を見いだすということは、
人間はコンピュータから見ればバグでしかない、ということで、
共存はむつかしい。
仮想現実やマン・マシン・インタラクションが
幼稚に見え、しっくりいかないのは、
発展の初期段階だからではなく、
原理的にちがいすぎて、
相互不信と不満が双方にのこるからではないだろうか。
ワープロのもうひとつの問題点は、
ごく短いものは別だが、
文章の全体が見えないことだ。
一枚の紙は二次元空間だが、
紙の束は、三次元空間のなかにある。
紙の上に書いたものは、全体を見わたすか、
めくって概略を見通すことができる。
ディスプレイは二次元以上にはならないし、
一度に見える範囲もせまい。
スクロールという手もあるが、
あれは巻紙とおなじで、
結局、紙からは次元も低くなり、退行したということになる。
その上で書いていれば、
文章だけでなく、思考も線的になる。
結局、文章を書くことは、
どこまでいっても自分のしごととは思えない面がある。
外側の、強制されたしごとという感じがつきまとい、
ことばは自然にはでてこない。
ワープロはその感じを増幅する。
ことばを書きつける手のリズムがないので、
想像でそれをなぞっているからだろうか。
音符を書くのはそれとちがって、抵抗がない。
楽譜を書くソフトがあって、
これをしばらく使ってみた。
入力はMIDIキーボードでできる。
弾いた旋律線は、たちまち音符に変換される。
そこまでは、たいへんすばらしい。
ところが、このままでは役にたたない。
楽譜は一つの音をあらわすやりかたも文脈によってちがうのに、
コンピュータは、同じものはいつも同じ、という論理だし、
文脈という考え方がよくできないようだ。
それに近いものは、条件表だろうが、
もしAならS1、BならS2、と列挙することと、
明示されない全体と個々の要素の相互作用である文脈は
おなじことではないだろう。
ある音を嬰ハとするか変ニと書くかで、
全体のなかのその音の意味が変わってくるが、
その音を含む全体もそれによって変わる。
たとえば、旋律のなかで嬰ハを選ぶのと変ニを選ぶのによって、
次の音の選択に影響する。
それは、すでにあるものを書き取るだけではなく、
リアルタイムで創造していくプログラムでなければならない。
このように自己言及的な論理を
リアルタイムでできるプログラムはすくない。
楽譜を書くということが、ある意味で作曲そのものでもある、
というのは、ヨーロッパ的音楽観からは当然のことだが、
コンピュータの楽譜ソフトには、それがわからない。
そこで、一音ずつチェックし、訂正しなければならない。
リズムについてもおなじ。
このプロセスにかける時間があれば、
あと10曲も作曲したほうがはやい。
音の高さと長さについてはMIDI入力ができる。
そのほかの記号はすべて、ひとつひとつ書き入れなければならない。
それは記号表から選んで入力するかたちをとるから、
そこにない記号は、はじめからデザインしなければ使えない。
楽譜ソフトは、速度の問題だけでなく、
音楽の考え方からしても、
楽譜出版社には便利でも、
つくったり、書き取るためのものとは思えない。
音楽学には、ある曲の楽譜の異本を照合して、
一つのクリティカル・エディションをつくるしごとがあった。
最近のバロック音楽の演奏には、
そのような「原典版」によるのではなく、
作曲者の手稿のファクシミリによる方法が登場してきた。
それを可能にした最新の音楽学の成果は、
ヨーロッパ各地の図書館に散在する手稿をさがしあて、
原本を傷めないで複製することや、
それを検査して、使われた紙から作曲年代を推定することなど、
電子技術の発展なしには考えられない。
手書きの記号のひとつひとつちがう形は、
作曲家の個性だけではなく、時代様式や、
それぞれが文脈のなかでになう意味をしめしている。
専門家にこのような分析方法を提供したテクノロジーは、
非専門家には、技術によって世界を拡大するどころか、
いままでにあったものも切り捨てて、
貧しく一元化されたメディアを売りつける。
(たかはしゆうじ・作曲)