IC6-22

手袋があれば手はいらないか

[掲載日:]

(カリフォルニアと東京を結ぶ
友人たちのパソコン通信に
書きつけたメモから)
*コンピュータとかかわると、
ともすれば身体のことはわすれている。
近代化にしたがって
メディア全体が視覚化されてきたが、
電子情報文化はそれではたりずに、
神経化・唯脳化したがっている。

この傾向を逆転できないだろうか。

*異文化理解は
身体的リズムの同調からはじまるのではないか。

*たとえば、歩くことは
電子テクスト形成に
どのように生かされるのか。

*オオカミは仲間と交信するのに
声と姿勢以外に
においづけによるマーキングをのこすそうだ。
おもに排尿と排便によるが、土掻きと蹴散らしもある。
これらは獣道の交差地点にのこされ、
これらのscent post をつなげると
行動圏の地理が他のオオカミに伝わる。

*カフカは文章をノートに書き込むことを
kritzeln(scratch)と称していた。
物語は尖ったペン先から流れ出る。
ペンがひっかかると、物語も中断され、
未完のまま放置される。

*ネコが爪をといだり、ひっかくのは
意識を介入させない自動的な反応のように見える。
ネコをある姿勢に追いこむと、
突然爪があらわれ、脚がすばやくうごく。
それはネコにとっても予測できなかったこと
のように見える。

*エイゼンシュテインは歌舞伎を見て
役者の声、しぐさ、音楽すべてで泣くという
表現の冗長さに興味をもった。
montage にはつみかさねるという意味もある。

*君子の六芸。礼、楽、射、御、書、数。
巫術、巫楽、射弓、馬車、筆の舞、細い竹棒をかぞえる。
身体の統合術。

*電子的テクストは0と1の長い列が
文字の擬態をしめしている。
キーを打つと、擬態が表面にあらわれ、
その痕跡が電子空間のどこかに記憶される。
パスワードを打ち込めば、記憶にアクセスできる。
ここではキーを打つ手より
オンラインの転送のほうが速いから、
理想的にはキーボードに制約されず、
視線のうごきほど速く書ければいいと思う。

この状態は進行性麻痺の最終段階に似ている。
眼のかすかなうごきだけでも交信できるのだから。

だが、テクノロジーの未来物語はこれでも満足できない。
視線さえよけいなものだ。脳だけでいい。
こうしてテレパシーに行き着く。
思っただけで通じればいい、
脳から運動器官を通さない
(でも未来世代コンピュータを通しての)
神経回路の直接交信の可能性。

脳は自立した器官なのか。
意識は(他の)意識についての意識なのか。

*身体のうごきを統合する脳に
手をつかうことによって
新しい層が生成される。

手がさきにあり、
意識はあとから
必要なだけつくりだされる。

うごきが確定し、意識の支えを必要としなくなると、
制御回路は括弧にいれられる。

何かの理由でこれが再意識化されると、
うごきは停まってしまう。
うごきはいったん解体され、組み換えられて
新しい慣習が身につけられる。

*身体が新しいうごきを覚えるときのやりかた。
中国武術を例にして(楽器でもおなじだが)。

まず、先生といっしょにくりかえしうごいて、
全体の構図を身体に写し取る。
要所要所で停まって、姿勢を確認しながら。
最初はできるだけ細かく区分し、
うごいている部分が感じられるほどゆっくりと、
なれるにつれて、区分をおおまかにし、
なめらかに流れるようにしながら、
だが、自分でできると思う速度よりはおそく、
ていねいに、だが、軽く、よけいな力をぬいて。
うごきについての説明はほとんどない。

これができたら、次には
先生のうごきをよく見るように言われる。
脚、肩、肘、手首、手、
身体の向き、傾き、頭、胸のうごき、視線などに
注意しながら。
さらに、それらの身体部分がどのように連動しているか。

それから、またいっしょに数回練習してから、
ひとりでやってみるように言われ、
うごきの細部を直され、
やっと自分で練習することが許される。

すると、それまでかかって写したうごきは、
もう糸がきれたようにぎごちないものになっている
こともある。

先生といっしょの時には
同調するリズムに支えられていたうごきは、
いまや自分の身体にリズムの基準をもとめて
はじめからつくり直されるのだろうか。

こうして身体に移植されたうごきは、
その身体のものになるにつれて
いくらか変わるところがある。
くりかえすうちに、
水が流れやすい路を自然と見つけるように
きもちのいいうごきの路が、
身体のなかにひらかれるかのようだ。

覚えたうごきをとりだして、
ゆっくりやり直してみると、
何でもないかんたんなうごきにも
思いがけないところに隠れた脇道が見つかることがある。

直線的だったうごきは弧をえがき、
空間にいくつかの分岐点をあらわし、
微分的な速度変化がそれらにメリハリをつける。

右手指先の微かな反りも、
左腰のわずかな緊張と対応する。
それはまた左足親指裏で支えられ、
胸のゆらぎ、肩のゆるみ、肘の下降に対応する。
そのとき、左手はこれらすべてに対応する
もうひとつの連関を反対方向につくろうとしている。

前後、左右、上下、集中と拡散。
虚実、陰陽。
内部運動感覚がえがきだす身体の地図。

うごきがゆっくりになり、かろやかに、
外部からわからないほどちいさくなったとき、
より多くの部分が連係して、
内部の運動量とその結果発生する力は大きくなる。

型を身につけた後で、その用途を教えられると、
うごきの方向や焦点をつくりやすくなる。
その逆に、目的が先にあたえられると、
形が身体に滲みこむプロセスは
充分展開せずに終わるようだ。

これらのうごきは、
犀が月を見る、
鶴が純白の羽をひらく、といった名で呼ばれている。

目的、意味、名などは
うごきの後にあらわれ、
その増幅装置として機能するのではないだろうか。
それらがつくりだすイメージは
うごきをやりやすくするが、
それらの側からはじめては、
うごきをつくりだすことはできない。

*文化は自然を人工で置き換えていく。
最終的には、自然なしでもやっていけるのだろうか。

手から意識が発展する。
(手は身体システムの見える先端部にすぎない。)
いまでは意識が手を制御し、
そのはたらきをすくなくして、機械で置き換えている。
やがて、意識は手から離陸するのだろうか。

(たかはしゆうじ・作曲)

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