IC4-20

時の彼方に

[掲載日:]

時間の三相、

 過ぎゆく時の 線、

回帰する 時の円環、

顕 現する時の原 点、

 それら を如何に統合 するか、

その ための技法に はどのような ものがあるの か。

時間は 認識様式であ り、人間はそ の檻のなかか ら世界を見て いる。

だが視 覚型の動物で ある人間にと って

 時間の 檻は空間の檻 のように日常 的に感じられ るものではな く、

見えるも のの変化を通 して推測する ほかはないか ら、

その認識 にはある種の 危険をともな うことがある 。

見出された 時はほとんど の場合すでに 失われている 。

そうした衝 撃から身をか わすための方 法はさまざま 発明されたが 、

 どこか自 己欺瞞がつき まとう。

時 間認識の様式 それぞれは人 間が世界に打 ち込む楔。

混 沌の闇から身 をまもる光の 矢。

だがそれ は世界をつな ぎとめるだけ ではなく、

 自分の身にも 刺さってくる とげ。

線で ある時間は解 放する、ひと りひとりの存 在を、

独自性 を、瞬間の現 在を、純粋な 感覚を。

だが それも制約に すぎない。

 目標は無限に 遠く、

一歩 一歩は理由もな い偶然の酔歩 。

行く手に道 はなく、道連 れもない。ふ りかえれば

過 ぎていく瞬間 はこぼれ、失 われていく。

 円環の時間 はリズムであ り色である。

 青草をふたた び見るとき、 鮭がふたたび 川をのぼると き、

人間はも うひとりでは ない。

暦があ り、わかちあ う時間、

おく らせてはいけ ない協同の作 業をかかえた 共同体ができ る。

 だがこ れだって罠な のだ。

反復は 業であり、一 方では逃れら れない輪廻と なり、

他方で は革命の弁証 法となる。

運 命の車輪がま わり、

何かを 天頂に押し上 げたおなじ力 が、こんどは

 それを地底 へ引き落とす 。

善と悪がた たかうのでは ない。善は

存 在し続けるだ けで、すでに 悪なのだ。

 個の逸脱とし ての線があり 、

 共同体と しての反復が あるだけでは 充分ではない 。

これらを成 り立たせるた めの規範とし て潜在する原 点がある、

き められた手続 きによって呼 び返される原 点の時間の顕 現は

回帰では ない。

反復さ れるのは型あ るいは手続き であっても、

 顕現される ものは二度と おなじ現われ かたをしない し、

そうだか らといって一 回限りの偶然 ということも できない。

そもそも、それ について直接 語ることがで きることばが 存在しない

 蔭によって光 を知るように 、

しかもこの 場合は、影を つくるのは人 間自身の知な のだから、

 この光に背を 向けた姿勢で やっと

顕現の 痕跡を時間の なかで体験す ることができ る。

この時間 は時間のブラ ックホール、 超密度に圧縮 された時間、

 直接体験でき ず、時間内に のこすひずみ によって知ら れるだけの

時 間の孔。ある いは

 この時 間は異次元へ のゲート、多 次元の時間か ら

一次元の時 間への投影図 。

語ることも できず、知る こともできな い

ほとんど時 間とはいえない時間、

時間 の彼方に、あ るいは時間の 裏にあるこの 時間が

 原点 として時間の 規範になるこ とのふしぎさ 。

無限遠点が 幾何学を規定 するように。

直線、円環、 原点と視覚的 イメージに転 換されて

やっと 語ることの できる時間の 三相。では、

  それらの相 関関係と相互 変換をあらわ す視覚的イメ ージは。

円 周は回帰する 時間のイメー ジとなってい るが、

もしこ れを中心にた だ一つの原点 をもつ円軌道 ではなく、

原 点の求心力と 直線の遠心力 が拮抗して

  ゆがんだ一次 元空間と見れ ば、

無限直線 は有限の円と なり、

その円 周上のいたると ころに出現 する原点の密 度が

この線を 歪曲している ことになる。

 あるいは円 軌道のイメー ジを拡張して

 一つの原点か ら膨張し収縮 する球体を思 いえがいても よい。

この球 体の表面は無 限個の円軌道 からできてい る。

もしそれ を三次元の実 体ではなく

歪 曲した二次元 空間とみなせ ば、

 この面 はいたるとこ ろに出現する 点の密度によ ってゆがんで いて

それに 直交する無限 個の直線軌道 のうえで拡散 する空間は、

 その直線のね じれにそって

 やがて収斂す る。この断面 では

直線群は メビウスの環 となって、

  そのいたると ころに特異点 をもち、

拡散 と収斂は非可 逆的方向をも つおなじ運動 、

全体はクラ インの壺のよ うな多次元時 間体を構成す る。

ここでは 過ぎ去る時 間は偶然の選 択の連続では ない。

 瞬間 は失われる点 ではなく、あ いまいにひろ がる時間のし み、

個人の日 常は一本の孤 立した線では なく、にじん だ時間の帯。

 選択された可 視的現在の裏 に可能性の束 があり、

視点 の転換はいつ でもできる。

 多義的な可能 性の共存とし て現在を考え ることもでき る。

竹筒を 石の上に落す 。軽くこもっ た響きはすぐ 消える。

人間 が時間を区切 るこのやりか た、沈黙の句 読点としての 音。

それをく りかえすだけ の音楽。

アジ アのどこにで もあるこの単 純なリズム、

  日本で雨垂 れ拍子と呼ば れる

アクセ ントをもたず反 復されるパル スは、

行為の 継続する線で あり、反復で あり、

さらに 音の間を聴き とることで音 を地とする沈 黙の顕現とな る。

 チベ ットや日本には 間を次第に つめていくリ ズムがある。

 音ではなく、 音によって区 切られる沈黙 に注意を向け るための

技法 と考えられる 。

反復され るパルスに第 二第三の音が

  それぞれ異 なる間隔をも って加わると き、

階層化さ れた時間組織 があらわれる 。

音がそれま での沈黙にこ たえるかたち で

時間を区切 るということは 、

異なる時 間で沈黙を区 切る複数の音 は

 それまで の他の音にも こたえている ということで 、

それらの間 の引力が

それ ぞれの時間に わずかなゆが みをあたえる 結果、

パルス は伸び縮みし て、

単純な反 復がそのまま で変化の原動 力にもなる。

反復するパ ルスの重層化 が

音色の差異 やメロディと しての変化を つくりだすと き、

それらを 統合する規則 が必要になる 。

アジアでは 2や4の倍数 でリズムを組 織する音楽が おおい。

 対 の考え方に由 来するのか、 あるいは

対 の概念はここ から発生したの かはともかく 、

後の拍は前 の拍にこたえ てそれまでの 時間を区切る ために

より強 調される。

ガ ムランでは大 きなゴング、 雅楽では大き な太鼓が

 最 後の拍に打た れるが、長い 余韻やアクセ ントのために

 西洋音楽に慣 れた耳はそれ を最初の拍と して聴く。

 音が組織され 、

異なる周期 が対の原理そ の他によって 統合されると

  図と地は逆 転し、沈黙は 音のなかに埋 没する。

時間の 三相のバラン スを回復す るための技法 、たとえば

 雅楽の笛のよ うにリズムの 区切りと呼吸 の周期をずら すこと、

ガム ランのように 、終止音が確 定しないうち に次の周期を 先取りして始 めること、

  叙事詩のよう に、特定の音 に重心がかか らないように

 停止点にあた る音をいつも 変える、

能楽 のように間を つめたり、た めたりして

規 則的な周期を ぼかすもの、

 唄の場合、こ とばの切れ目 とメロディの 区切りをずら す、

 センテ ンスの途中か らうたいはじ め、途中で終 わる、など。

 アクセントを ぼかして途切 れない流れを つくるこれら の技法は

単一 のパルスの反 復による原初 のバランスを 思い出させる 。

連続した 時間の思いが けない中断で

  沈黙の優位 を回復する技 法もある。

異 なる音色の介 入による中断 は、

連続した 単一の時間を

 色分けされた 別々の時間の 集積に変える 。

夜と昼は一 日の周期のな かのリズムで はなく、

 異 質な時間のそ れぞれの堆積 になる。

ジ ャワやバリの 暦には

いくつ かの周期をか さねあわせる ものがある。

 5日の周期と 7日の周期の 各日には固有 の数があり、

  それらは連 続した数列で はない。

5日 周期と7日周 期の数を足し た結果が奇数 であれば、

そ の日は1日周 期でルアンと 呼ばれる。

偶 数ならその日 は存在しない 。

こうして計 算すると、

  35日周期の 間に1日周期 の日は不規則 にあらわれる 。

5日間続く としばらく空 白になり、ま た1日だけあ らわれる

とい うふうに。

(たかはしゆうじ・作曲)

[編集部責任校正]

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