IC3-37
めぐり
[掲載日:]
いまから二三百年前に書かれた三味線の楽譜が数冊ある。
どれもが自分だけのやりかたで、習った曲をかきとめている。
1664年出版の糸竹初心集。
テスツテスツとあれば、
テとは3の糸をはなして上から引き、
スとは2の糸の5寸ほど下をおさえて引き、
ツとは2の糸の乳袋のきわをおさえて引くと解説され、
そのとおりに手をうごかせばできる。
手をうごかしてつくられた結果としての音をかくのは
中国や西洋の楽譜にもあるやりかたで、
それができるのは音のピッチをはかる方法をもっているからだが、
音楽の理論を教わっていない江戸の人は、
習ったものを習ったとおりにかきあらわす記号をかんがえだした。
習うときには紙の上の記号は見ない。
師匠とむかいあって、
師匠が一節引く手を見て一遍、
師匠といっしょに手をうごかして二遍、
ひとりでくりかえして三遍、三遍やったら今日はおしまい、
忘れないうちに帰ってもう一遍やってみるか、
やってみないか、
やってみてできるのか、
こうして何回も通ってやっと一つの曲ができるようになる。
(子日学而時習之不亦説乎)
先生が言う。
さしだす手があり、うけとめる手がある。
手から手へとつたわるものがある。
それだけではない。そこには時間があり、
羽と羽をかさね、または羽をくりかえしてうごかし
足先をすすめるのだ。
口をとじてふくらませ、両腕を下からささえて、
胸からのぼってくるものを声に解放する。
(ブルース・ガストン)他人の音をぬすむサンプリング、
コンピュータにまかせた記憶。あぶないあぶない。
きみは記憶をうしなわないように気をつけなければいけないな。
バンコクでブルースのバンド、フォン・ナームの練習を見にいった。
タイ宮廷音楽の合奏のなかに
めだたないようにサンプラーやシンセサイザーの音が埋めこまれている。
クブヨン老先生が冗談をいいながら、ふらふら歩いて帰っていく。
合奏のあいだは、先生はそこここに気ままに音をつけたして、
その音はそれほどめだたないのに、
音楽に光がちらちらさしこんでくる。
(ブルース)ここでは楽譜はつかわない。
メロディを習う。
習ったメロディをやるんじゃない。
メロディをめぐって演奏する。
クブヨンは若い人のように速い演奏はもうできないが、
ほんのすこしの音でだれよりも自由にメロディをあらわすことができる。
その音楽がどんなに深いか、
きみにはわからないだろうな。
音楽は紙ではない。紙の上の記号ではない。
空気の振動ではない。オシログラフのえがく波形ではない。
時間を横軸としピッチを縦軸として記録される点の位置の変化ではない。
これらのものなら機械が記録し再生することができる。
1と0の列におきかえることができる。
それ以前にも、
音符という記号と5線という二次元の解析をあわせた
洗練された方法もあった。
だが、そういう方法では
音のかたちには不充分だ。
なにかがはみだしている。
記号からうけとるものだけでなく、
それをめぐって生まれるものはどこにある。
一本の線をひいて
物の輪郭とまわりの空間を同時にあらわすことはできても、
ひとつのメロディを記録して、
その変容を記号から想像するのはむつかしい。
ひとつの話をはじめからはなしてもいい。
おわりからはなしてもいい。
建物のまわりを歩くこともできるし、
なかに入ることもできる。
庭の小径のように
そのなかを気ままに歩きまわれる
音楽もある。
音がきこえはじめたとき音楽がはじまり、
音がきこえなくなったとき音楽がおわるのだろうか。
音楽は目に見えないし、なにも語らないから、
音のはじまりが音楽のはじまりなのか、
音のおわりが音楽のおわりなのか、
音楽のどこにはじまりがあり、
おわりがあるのか
さえわからない。
糸竹初心集は音を記録しようとはしていない。
左手を三味線の棹のどこにおき、
右手をどの方向にうごかすか。
左手は位置、
右手はうごき、
の組み合わせに仮名ひとつをあて、
それをとなえて習う。
口について手がうごく。
声という字は石板を棒でたたく手とそれを聴く耳をあらわしている。
音という字は口にこもった声をあらわしている。
声には5声の音律があり、
音には5音の音色があった。
漢人には石や青銅の文化があり、
音律は正確にはかって石板に切りだし、
青銅の鐘に鋳って保存しておくことができた。
中国の調には音律があり、音階がある。
音楽につかわれるあらゆるピッチは
一つの基準になるピッチから
一つの音程関係をつかって計算することができる。
板の上に絹糸を張り、その長さを基準音にあわせる。
その3分の2の長さをとれば、5度上の音になる。
そのまた3分の2の長さをとり、
その長さが糸の半分より短ければ倍にする。
その3分の2をとり、……
これをつづけて12の音をつくって音律とする。
その12の音の一つからはじめて五つか七つの音をとって音階とする。
音階をつくる七つの音のどれを中心にするかによって
別な音階ができるから、音階の数は全部で84。
木と竹の文化が漢字をとりいれたとき、
声と音は意味がさかさまになる。
声は口にこもるもの、
音はとおくからきこえてくるもの。
正確な律ではなく、
調子とよばれるどこかあいまいなものが
音楽にはいりこむ。
雅楽の六調子は
「めぐり(旋)」によってきまるというが、
めぐりは音のうごきの型、
音階のどの音からどの音へ、
どのような線をたどって移るか、
どの音を強調するか、など。
理論からではなく、
演奏から経験的にまとめられたもの。
音楽をきけば
それがあることはわかるが、
だれもはっきり書き表わしたことがなく、
すべてを書きつくすこともできないもの。
めぐりを演奏するとはどういうことか。
演奏しながらめぐりを感じることだ。
どうやってめぐりをまなぶのか。
めぐりをもつメロディを
手から手に習い、
それを忘れるまで、くりかえし習う。
あとは手がやってくれる。
めぐりはラーガやダストガーハのように
モード(旋法)なのか。
たしかにメロディの始まりの音、終わりの音があり、
中心になる音があり、
終わりかたのきまりがある。
だが、いくつかの固定された音をのこして、
音階はあいまいにひろがっていく。
ちがう音律をもつ楽器が同居し、
微妙にちがう音のふれあいをよろこぶ。
固定されたピッチの置き換えという
モードの前提がない。
表面の構造を残して
それをつくっている要素を
別なものに入れ替えてしまったために
めぐりはいっそうわかりにくいものになっている。
時間の周期もすこしずつぼかされ、
4の倍数でできている拍子のシステムが
ゆらぎ、ゆがみ、ずれていく。
後の三味線音楽になると、
調子は調弦法を意味するようになる。
異常に長い棹の上に
いくつかの共振する音のつぼが見つかる。
これらの響く音のつぼからつぼへ移動しながら、
中間に響かない音をいれていくやりかたが、
手と呼ばれる型にまとめられる。
能の八拍子の構造は
拍から次の拍までの間隔を持続として感じ、
その長さを心理的に操作する方法で解体される。
音楽は響きと間とに解体されても
音階と拍子の見かけの理論は廃止されなかった。
人を混乱させるだけの繁雑な理論は
音楽の実体とはかけはなれていて、
師匠たちは一応はそれを口にはするものの
それを信じているふうでもなく、
しきたりと勘にたよってやっている。
実体とは分離した見かけを維持する必要が
日本の伝統文化の特徴となっているようだ。
それを仮名の方法論と呼ぶこともできる。
(たかはしゆうじ・作曲)
[編集部責任校正]