IC2-25

手の記憶

[掲載日:]

書くこと。書きつづけ書きすすめること。集中して、まったく集中して書く手先に。書かれたことばをふりかえらないですむように。次に書くことばをとびこさずに。ゆっくりと書きすすめること。ことばの糸を切らないように、それが自然にほどけてくるままに、ことばの触角がすすむ先をそっとたしかめながらすすんでくる半歩前にいるように。考えずに。考えることはふりかえること。ふりかえれば、ことばの触角はためらい、ほどけてくる流れ、くりだしてくる糸はとまる。

いったんとまれば道はもうない。すすむこともできない。まがることもできない。枝がそこでおわる。ほそくせまくなった流れをすてて、はじめにもどる。はじめからやりなおすことの利点。はじまりの地点にはひろがりがある。どの方向でもいい。最初の枝とおなじ方向にすすむとしても、それはおなじ流れをつくらない。ちがう時間がちがう流れをつくり、前の流れからいつかそれていく。根から這いのぼる別な時間の樹液はそこにあった枝にかさなっていても、いつか別な方向を見つけてあたらしい枝をのばす。そのゆっくりとした途絶えないうごき。うごきが見えないほどちいさくなれば、流れは全体にひろがっていく。

機械は最後に見たものを記憶する。何度も失敗し何度もやりなおし最後にこれでいいと決めたものを、そのものだけを機械が記録する。何度失敗し何度やりなおしても機械が記録したものははじまりの日のかがやきをもっている。そこには時間がない。ひとつを記録することはそのほかのものをすべて忘れること。ひとつを選ぶことはほかのすべての可能性をあらかじめ取り除いてはじめて可能になる。それも最後に選ばれたもの、一番あたらしいものだけが最初からそこにあったかのように。それも次にくるもの、もっとあたらしいものにいつでも取り替えられるかたちで。この記録には記憶がない。

人間が年をとるにつれて時間は速くすぎていく。そのそばを通りすぎるものごとは淡くただよい引潮の渦のなかに見失ってしまう。見ることは跡をのこさない。聴いても何も聞こえてこない。そうなったときに記憶の地図はかさなりあった枝をひろげる。ひとつのものごとはくりかえされない。おなじ川にはいつもちがう水が流れる。人間の記憶は呼びもどされるたびに乾いた川床にあたらしい水を流すだけではない。地下をめぐるたくさんの支流の水脈がゆっくり浮きでてくる。それはもうおなじ流れではない。古い記憶はつかわれなかった時間の重みで別なものになってよみがえる。半透明で透かして見るとなかにとじこめたかたちや色合いがつぎつぎに変わる空間の孔。昔のことを思いだすとき、すぎてしまったものごとがそのままもどってはこない。時間のなかで何回も重ね書きされた線があいまいな輪郭をつくりあげるが、その輪郭をつくる線はどこにもない。いたるところではみだし、いたるところに食いこみ、気ままにふるまいながら、輪郭に沿って引かれるかわりに、何もない空間に自然にあらわれたメロディがそれ自身の輪郭を夢見ているだけ。メロディが唄いながら想像のなかでつくっていくそれ自身の輪郭はそれ自身から引き離すことができない。時間のなかで重ね書きされるおなじメロディはおなじ線ではない。それがつくりあげる輪郭はおなじ輪郭ではない。線が重なった部分を切りとり、別な時間に通りすぎたおなじ地点をかぞえあげそれらを集めて輪郭と呼んでみることもできるだろうか。こうして切りとられ数えられた輪郭と呼ばれるものが偶然の効果としてとりのぞいた線の一回限りのふるえ、何も意味していないちいさな偏りやあまり確信のない移動がその線を唄わせているとしたら。重ね書きのかさなった領域のすべてではないにしても、ほんの一部にしても偶然にかさなったもの、または偶然とみなしてとりのぞくはずの細部が偶然にかさなったものでないとは言えないとしたら。

一回限りの線でさえも、まだ何もない空間をよこぎりながらそれ自身の輪郭を思いえがいている。その線が一回限りのものとなって消えてしまわないように見ている目にさしだすものはその線自体ではなく、その輪郭。おなじ線が何度もあらわれて空間をよこぎるたびにぼやけていく輪郭は線が通りすぎた地点をたしたものでもなければ、かさなった領域でもないとすれば、線の記憶のうしろにある時間の深さがのこる。見えない手が空中にあざやかな線をえがいて消えると、しばらくのあいだその輪郭がのこり、その残像もゆっくりうすれ熔けていく。たよりない残像から線の運動をもう一度つくろうとしても、楽譜から呼びもどされるメロディは過去の音楽になってしまっている。線はそのたびごとに輪郭をさしだすが、あらわれるたびに変化する線を輪郭からはつくれない。できるのは、ひからびた線の残像がせいぜい。

時間の深さに裏打ちされた線。そこに見えるのは線そのものではない。線がのこしていく輪郭の時間の断層を透かして見えているのは、この線があらわれるたびにそこにあって、しかも一度もそれとしてえがかれることがなかったもの、線のはじまり、はじめの線。それは時間のなかに重ね書きされたすべての線からとりだされるもう一本の線ではない。線があらわれるたびに通過するきまった地点の集まりではない。この線がこの線であるものとしてはじめてえがかれたとき、またはこの線がまだこの線であることを知らずにえがかれたときでさえ、そこにはたらいていた手のうごきがあった。手をすすめていくひとつの意志があった。手をうごかしているこの意志は、それをさまたげる関節のかたさを手が手であるために必要な支えだけをのこして和らげながらその意志のままにうごこうとする手の指の先の一回限りのふるえ、かすかな偏りと別なものではない。その意志はこうして指先にある。それと同時に指先から一番遠い場所が、そのうごきにつれてわずかにうごいているのが感じられる。それはたとえば足首かもしれない。背中のどこかかもしれない。そして首の付け根は。頭の上は。胸のどちら側が。さまざまな場所を感じながら手をうごかしていく。手のうごきはおそくなり、ちいさくなる。抵抗がゆるみ、からだはたえず墜ちていく。指先はかるくなり、すばやくうごく。線はしなやかに、つよくなる。手のうごきがちいさくなるにつれて、からだのあちこちに枝わかれした線がうごきだす。のぼってくる線があれば、その反対側にはおりてくる線。枝わかれした線のゆれうごくバランスにそって、このからだは共振する。

いま目のまえをよこぎっていく一本の線。この線からその輪郭。輪郭を透かしてはじまりの線へ。線のはじまりから何もない空間にあらかじめ引かれていた軌道をたどっているとでも言うように、その上にかさなる時間の断層の厚みを予感していると言わないばかりに、じっさいには軌道も予感もなく、向かうべき方向があったとしても、いそがず手の一回限りのうごきのままに、ためらわずすすんでいく手。その手のうごきから見えないが感じられるいくつかのうごきのゆれうごくバランスへ。えがかれた一本の線からからだの内側の運動感覚にさかのぼることと、そのような線がはじめて引かれた遠い昔にこの線がたどることもあり得たいくつかの軌道を発見することとはほとんどちがわない。これを空間の外側と内側が対応していると言ってしまえば呪術になってしまう。意志が手を通して線に変わると言えばメッセージになってしまう。意志が内部で分れたうごきのバランスと別のものではなく、線がそれらのうごきの束を見る一つの角度にすぎないときに、時間のはじまりも取り返しのつかない過去から、越えていくべき未来へと環になって回り込む。

人間が手と口で記憶をつくりあげてきた伝統は、石にきざまれ紙にしるされた記録とは反対方向を向いていた。手も口もよびだされるたびに記憶されたものをその場でつくりなおしてきた。いつからともしれない昔はすぎさってしまうことはなく、それはいつもいまのものとしてその場にあらわれる。石にきざまれたものはきざまれた姿のままでいる。紙に書かれたものも過去の過ちのままに古くなる。つくりなおすためには石をけずり、紙をこすって別の線をつけくわえなければならない。それもそのまま。そこでうごかなくなる。手の記憶。口の記憶。これらは日々の務め。日々の祈り、日々の食事、日々の瞑想。そのたびに完了しても、次の時にははじめからやりなおさなければならない。次にすすむためにははじめにもどらなければならない。ちいさな記憶がそれぞれの時間の環をつくり、無数の環がかさなりあって回転している日々の生活。人間の文化。文化の伝統。この時間の環のかさなりに発明はない。時の深みからつきない発見はある。

手のつくりだしたメロディではなく、メロディをつくりだす手を手が書きとめようとする。チベット人は声の色、あるいは喉を通りぬける息の色を書く楽譜をもっている。息はことばの上にたちのぼる旗。時間の波となって打ちよせる風の馬。唄は口伝えにおしえられる。覚えてしまったときに記憶をたすけるために楽譜があたえられるという。あるいは、覚えてしまったときは、記憶にそれをきざむために楽譜を破らなければいけないという。ユダヤ教会、ビザンティン教会でも楽譜は声の抑揚をしめす手のうごきからつくられたという。いまでもインド古典音楽の歌手は手をつかってうたう。口の記憶が衰えるにつれて、手のうごきを書きとめた記号は記憶から記録に変わっていく。電子メディアは記号を記録するだけでなく、記号列を毎回つくりなおすプログラムをもつこともできる。さらに見えない手そのものになることができるだろうか。その必要はあるだろうか。


【後記】

付 編集部へのFax通信

コンピュータ編集によりフロッピー入稿をしているのに、ゲラを速達で送るとは、何のためのニューメディアでしょうか。著者校などとは何という古典的作法でしょう。[編集部責任校正]としておけばいいのです。

テクノロジーをほめたたえる文章などは、だれでも無責任に書きちらすことができます。そんなものをのせるより、テクノロジーをつかって編集システムを変えることや、すっきりとしたページをレイアウトするほうがたいせつなことではないでしょうか。書体が変えられるとかグラフィックが使えるからといって雑然とつめこんだページがならぶ雑誌はいままでもありましたが、そういう雑誌はながくはつづいたためしがありません。「編集」は20世紀が発見した重要なコンセプトです。著者の主張などは19世紀にまかせておけばいい。テクノロジーもメディアも編集の必要を追って変化してきました。

校正の概念にしても、たとえば「かさねて」と「重ねて」が混在する文章で書式をどちらかに統一しようとするのは、バッハのクリティカル・エディションをつくるように作者と作品の理念を優先する文化であり、不統一のまま放っておくのは口承と即興を尊重する文化と言えるでしょう。こうして編集は知の考古学となります。著者校などで責任を回避せず、自発性をもって判断してください。

高橋悠治 [編集部責任校正]


(たかはしゆうじ・作曲)

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