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コンピューターの中のアジア

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これは理論ではない。いまやっていることに関わるいくつかの観察にすぎない。この方向のしごとがやがて理論やシステムを形成するのか、ということも疑わしい。むしろ、これは少しずつ変化しつづけるプロセスであり、システムどころか方法にさえなり得ないものではないだろうか。

ともかく、いまやっていることは作曲プログラムによってコンピュータがサンプラーをコントロールして音を出すという演奏のやりかたで、一つのコンピュータと一つのサンプラーだけでできているから、この種の演奏形態としては最小限のものと言えるだろう。

これだけでも音楽の演奏には充分ではあるが、生楽器の演奏と組み合わせる方がおもしろいし、その場合は近代楽器よりは伝統楽器との方がよい。伝統楽器は固有の共振モードをもっていて、音色にもとづくやりかたに適応しやすい。近代楽器はピッチを明確に伝達するために改良されているので、音色は副次的な指標にすぎない。その意味では抽象化した楽器だが、コンピュータから見ればまだ抽象度がたりない機材であり、中途半端な存在と言ってもいい。これらの楽器はいずれ再改良、あるいは逆開発によって、いったん元の状態にもどしてから、改良の過程で失った音色やノイズを含んだ新しい形を考えなければ飽きられてしまうだろう。バロック音楽だけではなく、モーツァルトまでが古楽器で演奏されるようになった。音色をとりもどすことは、現代音楽の作曲家や演奏家たちが試みたような、ピッチにもとづいた近代的な形態をそのままにして、その上に特殊奏法を付け加えるようなやりかたではできない。

さて、この最小限の演奏装置を手にして作曲し、演奏しているうちに分かってきたことがいくつかある。

1960年代にコンピュータとはじめて出会ったときは、それは超人間的な巨大頭脳だった。普遍的なシステムが存在し、コンピュータはそれを体現して、世界を制御するべきものだった。文明は空間を拡大し、時間を縮小する。東京からニューヨークまで飛ぶこともできるし、通信衛星を通して東京にいながらニューヨークの画像を見て、会話を交わすこともできる。すべてが情報になったとすれば、人間が動かずに情報を動かした方が効率的だろう。ただし、こうして集められる情報量と情報の価値は反比例するらしい。それは「くだらないことばかりを知るようになる」というよりも、「知ってしまえばたいしたことはなかった」という感じに近いが、脳の食物が情報だと考えたテクノロジーは一面的なものだった。最近になって再会してみると、コンピュータは道具箱になっていた。持ち歩けないまでも机の上に置けて、記憶させておいた資料を取り出してはいくつかの操作を加えて、またしまっておくための装置。一つのプログラムで世界をあらわすことはもうできないが、いくつかの標準化され、交換可能なプログラム単位、あるいはモデュールが、組み合わされてさまざまな仕事に対応する。人間を支配する中央機関としてのコンピュータではなく、記憶を操作する補助装置としてのコンピュータ、個人と対話するだけでなく、標準化されているからいたるところに分散しつつ、個人の間に交信可能な関係の網を織りなしていくコミュニケーションの媒体としてのコンピュータがここにある。

モデュールに分解するやり方は、音楽を作るのにも役に立つ。普遍的な論理が存在し、単一の構造にデータを投入すればあらゆる状況に対応できる、というような超ヨーロッパ音楽はもう考えられない。さまざまな文化が共存し、多様な音楽のタイプが存在している現在は、異なるタイプの基本構造の交換と組み合せという方法は、対話のためにはたしかに有効だろう。

受け取った情報を操作して送り出すという点では、コンピュータはフィルタであり、モデュレータでもある。フィルタの機能が選ぶことと、選ばれたものからノイズを取り除くことだとすれば、モデュレータは一つの関係をそれと等価の別な関係に置き換える。ここでは外からあたえられた情報と装置に内在する構造は、構造がデータを処理するという一方的なコミュニケーションしかもたない。しかし、音を聴くという知覚のレヴェルでさえ、外部との接触は双方向に作用している。データに対応して構造も変化すると言ってもよい。音楽を創るということにでもなれば、構造を変革するだけでなく、ランダムなデータから自己創造する構造が必要になる。こうなると現在のコンピュータは人力飛行機のレヴェルにしかない。もちろん1960年代に考えられていたような、デミウルゴスを封じこめたランプを期待しているわけではないが、現在のマン=マシン・インタラクティヴ・システムは対話の相手としては白雪姫の継母の手鏡よりもたよりない。

じっさい、安定した作曲モデュールをつくるのはむずかしい。一つのモデュールは使う度に再編集と修正が必要になる。それは「あらゆる場合に備えてより一般化する」という方向ではなく、「個々の状況において対応のしかたを変える」ことになる。一つのモデュールを他から区別している特徴的な振舞いもだんだんあいまいになっていく。結局モデュールとは変化の過程のある段階で見えている形にすぎない。道具箱としてだれでも使える作曲プログラムはついに完成することはなく、自動作曲機械の設計はむなしい夢におわるだろう。基本形態や基本構造が存在していて、それを組み合わせれば音楽になるという考え方は、じつは組み合せの結果として生まれるはずの音楽がはじめから存在していることを前提にしている。

ところが実際には、細部まで楽譜に書き込まれた音楽を演奏しているときでさえ、この曲は演奏がおわるまでの時間内にすでに存在していて、演奏とはそこにある音符を一つずつ聞こえる響きに変えていくことだ、などと言うことはできない。音がそこにあり、沈黙がそこにある、そのようなことが無数の音について起こる。さまざまな色をもつ音の点滅から音楽的時間や音響空間が生まれる。その反対に抽象的なピッチ空間と連続時間がはじめから存在していて、その枠のなかですべての音が規定されるのは、最近200年のヨーロッパ音楽の習慣にすぎない。

ある構造とデータが接触すれば、双方に変化が起こる。データの特性をこわさないような操作をおこなう柔軟な構造は、自ら変化することによってこの操作を可能にする。この場合、変化度は少なく、双方がその特性を失わない、おだやかなコミュニケーションが成立する。それをプログラムするのは、かなりむずかしいだろう。触れる度に構造がいくらか変化するようなプログラミングは、規則に対して例外があるのではなく、それ自体の内側に例外を含んでしまった規則で構成されることになるだろう。易の変爻を思い浮かべてみよう。また、ある種の卜筮は吉祥が出るまでくりかえされる。世界のバランスの微かな変化をさぐっているのだろうか。結果としてのコインの表裏は、連続性を前提として確率的に決まるというよりは、時機の到来を告げるものだ。

ある構造を創ったらすぐに、それをあいまいにすることを考え、一つの規則があれば、かならずその例外をどこかに表示する配慮は、アジアの多様な伝統に共通している。絶えず変化するプロセスの接線としての構造は仮の家であり、点滅する音には決まった位置や関係もなく、音は安定した根から生じるものでもない。それでも、ゆれうごき、あてどもなく漂うこの音をコンピュータで創り出すことはできるはずだ。混沌から出発し、わずかな差異を感じとり、仮設の足場を築いては崩しながら、音色の容器としての音楽を織りあげていくことができるはずだ。

差異を敷衍すれば両極に至る。天地、善悪、清濁、明暗、陰陽、内外と、二極対立を判断の軸に立てるのはさまざまな文明に共通しているが、ヨーロッパの論理が「あれかこれか」という選択と、それをおこなう主体に基づくのに対して、アジアではそれとは異なる論の立て方が残っている。それは表面的には「あれもこれも」と言っているように見える。我をすてて世界の矛盾をあるがままに受け入れる「すべてよし」という大愚の悟りが東洋の知恵の道と思われている。しかし、両極のバランスをとることは、むしろ両極の作用を弱めることと考えられる。神々と悪霊とにひとしく供物を捧げること、喜びや悲しみをあらわさないこと、あるいは過剰にあらわすこと、客をもてなすことと心を読まれないように慎むこと、他処者を首長に迎えることのようにさまざまに矛盾する風習に影を落としているのは、宇宙の秩序を乱さないための、あるいは世界の秩序によって乱されないための配慮と、報復へのおそれ、「あれでもなく、これでもない」という反選択であり、あいまいさのテクノロジーでもある。

太極は太虚でもある。存在しない中心に収斂しようという見せかけ、中心をぼかし、準備とあとかたづけに時間をかけ、装飾の尖端に内面の変化を読み取ろうとするこの反世界の反論理は、ことばで追究すればするほど定位しにくくなるが、精密な技術であり、日常的に現われる、ありふれたものでもある。音楽の音色、舞踊のなかの身体の印、儀礼のなかの作法は、その結節点となっている。1か0かというデジタルの論理は、選択の究極にたどりついたものではあるが、デジタル、つまり指の論理である限りでは、1でもなく0でもないナタラージャの指先の反りとメビウス的な表裏の関係にあるのかもしれない。ある日、音色の数学を手に入れることができるとすれば、それは確率論にそっくりな反確率的関数かもしれない。

(たかはし・ゆうじ)

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