IC20-6
1900-29|夢の移動空間が舞台であった時代
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時間や空間は無数に存在する。
これが物理学者アインシュタインのテーゼであった。20世紀は、1905年からの一連のアインシュタインの相対性理論の発表に始まるとも言われる。つねに同一不変な絶対の時間は存在せず、すべては無限数の対象から相対的に了解されるとして、ニュートンによって定められていた従来の概念を覆してしまったからである。時間も空間もただひとつの尺度で測ることはできない、この呼びかけは、現実のなかに複数の時間、言い換えれば複数の未来が同時存在していることを意識していた当時の人々に相通ずる感覚でもあった。さらに相対論が電車の動きになぞらえて説明されることでもわかるように、人々に実感を伴ってその意識を与えたのは何らかの「乗り物」であった。「乗り物」を利用して移動することにより、時空の間のずれを体験し、初めて自らの時間と空間そのものを自在に操作可能なものとすることができたのである。
すなわち、20世紀初頭(1900-29)の世界は、既存のパラダイムが打ち破られ、人類の進歩という考え方が最も信頼された夢の時代であった。ビルの間を行き来するモノレールやスカイ・デッキ、あるいは摩天楼上のエアポートから飛び立つヘリコプター、そして天空を飛び交う飛行機群。時の建築ドローイング家ヒュー・フェリスなどの手によって、その夢は鮮やかに予言されていった。未来への進歩という希望を、競ってメトロポリス内の夢の「乗り物」に象徴化する作業が行なわれたのである。そこでの「乗り物」は、たんに空間上の距離を近接化させる道具としてではなく、現実から切り取られた未来として組織された空間映像に一層のスペクタクル性を与えるモチーフとして描かれていた。そして日々、現実の都市が未来図に近づくにつれ、夢はなおも膨らむ一方で、メトロポリスというユートピア(夢物語)にむかってとどまるところを知らなかった。
じつはこのような都市の移動空間は、博覧会におけるアトラクションによって次々と先行的に公開されていった。博覧会は、このころから以前の見世物だけのスタイルから、実際に参加することができる場に変わりつつあり、入場者たちは未来都市の理想の姿を実体験をもって味わうことができたのである。まさに都市移動装置の公開実験の場であった。1900年、パリ万博における全長3.6キロメートルにも及ぶ動く歩道は、大地を時速8キロメートルでスライドさせ、従来の空間観念を逆転させてしまった。このことに始まり、また日本においても、1903年に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会で本邦初公開されたウォーターシュート(「飛艇戯」)は、いわばスピードマシンの走りで、その高速性で人々を魅了した。8人乗りボートに乗って地上12メートルの台から一気に疾走するアトラクションで、軌道全長95メートルを5秒で滑降、最高速度は実に時速60キロメートルにも達したのである。1912年、大阪ルナパークで登場したサークリングウェーヴも同様にスピード感を希求するものであり、直径およそ11メートルの円盤が上下動しながら高速で回転し、大変な人気を博した。ほかに初のエスカレーターやエレベーターも同様に博覧会においてアトラクションとして登場し、新しい感覚をいちはやく喚起したのである。このように当時、世界中の人々はライド・アトラクションに積極的に乗ることによって未来空間を看取することに夢中だったのであった。まさに博覧会とユートピア空間は等価なのであって、これらの「乗り物」は、すこし大げさにいえばタイム・マシンに近かった。
やがて、フォード社が自動車の大量生産をいよいよ開始(1913)し、「乗り物」は博覧会を飛び出して実際の生活の中に本格的に入り込むことになる。逆に言えば、いわば都市空間自体が博覧会化されていくのであった。T型フォードの価格も1924年には290ドルにまで下がった。人々はこの「観覧料」を支払って夢の時空へと駆け出し、自らがあのユートピア図のなかの一員であるかのように酔いしれた。それは都市民そろって新たなスペクタクル空間の舞台装置の設営に参加したイヴェントであったとみることもできよう。
さらに登場したのが不可視な「乗り物」であった。無線通信は、従来ダッシュ/ドットによるモールス符号で単に無機的な信号音が交換されるにすぎなかったが、1906年についに人の声に代わる。アメリカの物理学者R・A・フェッセンデンが、マサチューセッツの自分の会社からクリスマスのあいさつを流したのがいわゆるラジオのはじまりであった。その後1920年には公共ラジオ放送局が開局、その数は1922年までに570局に達したというのだからその勢いはすさまじかった。放送は、ピッツバーグにおいて大統領選挙の開票速報で始まったが、この段に至ってラジオは、もはやたんなる「装置」から音楽や演説を伴ってトポスを移動させる「乗り物」へと変貌した。実際、初期のラジオのなかには、それを意識して流線形に作られたものも多かった。また、臨場感を強調するため、1923年に行なわれた世界初のラジオドラマの際には、場面を思い浮かべやすくするために部屋の明かりを消して聴くよう放送局が促したほどであった。まさにそれは新しいリアリズムの誕生を意味していた。リアルそのもの、あたかも目の前に話者がいるかのようなスペクタクル性を備えた空間「移動」のシステムであったのだ。1926年ヘヴィー級チャンピオン、ジャック・デンプシーの試合中継に至っては、10人のリスナーが興奮のあまり心臓マヒで死亡してしまったというのであるから、いかにラジオがいながらにして別の時空をシミュレートさせていたかが看取されるであろう。
しかし、この「乗り物」には、ノンフィクションを移動させる迫力とともに、その冷淡さもみられた。1929年10月、ラジオという「乗り物」が、1300万台、じつにアメリカの40パーセント以上の家庭に普及しようとするころ、未曾有の好景気と、これまた空前の株暴落をありのままに伝えたことで20世紀スペクタクルの第1幕は終わることとなる。「乗り物」は夢の時空を運び、また奪い去りもしたのである。
■参考文献
『20世紀の歴史』日本メール・オーダー、1979
室井尚『情報宇宙論』岩波書店、1991
(さいとう ただし・建築)