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1930-1959|スペクタクルとイメージ
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ジョナサン・クレーリーは、「電子情報化社会のメディアとコミュニケーション」と題された本誌創刊記念シンポジウムの基調講演(『InterCommunication』No.1, 1992)において、ヴァルター・ベンヤミンを引きながら、西欧においてスペクタクルの社会が構造的に植え付けられたのは1930年前後だと語っている。たしかにとりわけ1930年前後から、メディア・テクノロジーの分野においてさまざまな発明がなされ、大衆の間に浸透していくことになった。近代テクノロジーが可能にした同時性と遠隔操作によって特徴づけられるマスメディアは、空間的に同一の場を共有していなくても同一のスペクタクルを共通して経験できる状況を現出させたわけである。映画が大衆に普及しはじめ、ラジオやテレビの技術開発が急速に進められたのがこの頃である。1928年にはアメリカで最初のテレビ試験放送が行なわれ、1936年にはすでにイギリスでテレビ受像機が商品化されている。
よく知られているように、マスメディアとスペクタクルとの結びつきがまず最初に実現したのは、皮肉にもファシズムの祝祭空間においてだった。ナチスの宣伝相であったゲッベルスがラジオの聴取を国民に義務づけることで、情報を国家的に管理、操作するようになったのが1933年である。そしてファシズムはそのプロパガンダの最も有力な武器として映画を用いている。「映画はもっとも強力な武器である」というスローガンによって、チネ・チッタつまり映画都市が、ファシズムの情報を管理する目的でローマ東南部に計画された。また1934年にナチ党大会がレニ・リーフェンシュタールによって記録映画『意志の勝利』に映像化される。リーフェンシュタールによれば、この党大会は、映画のために、映画の材料を提供するために組織されたものだった。すべてはカメラとの関係によって決定されたという。ドイツでは、戦争の最終局面にいたるまで、巨額な予算が与えられて映画製作が行なわれ、映画館が廃墟となった後でもナチの最後の砦で映画が上映されていた。
映画は、ファシズムにとって有効な情報操作の媒介であっただけではなかった。ポール・ヴィリリオが指摘しているように、イメージが遍在して時空間の感覚が消滅し、現実感を喪失してしまうという様態において、映画の知覚原理と戦争の知覚原理との間には同質のものが存在していたのである(『戦争と映画 I』UPU, 1988)。
1935年に行なわれたナチスのニュルンベルク党大会では、対空防御用投光器が大量に用いられて光のスペクタクルが繰り広げられたり、あるいは飛行船ツェッペリン号を上空に飛ばすという演出を組み込んでみたり、膨大な数の人間によって構成される人文字を描いて見せたりしている。ツェッペリン号にせよ人文字にせよ、ヒューマン・スケールを超えた視覚性に訴えかける試みだが、これらの祭典の場景は、数々の映像として記録され、反復されることでイメージを増幅させる。これらの祭典の場を提供したアルベルト・シュペーアによるツェッペリン広場にせよ、ムッソリーニによる未完のEUR42(ローマ万国博覧会)の会場にせよ、ファシズムの祝祭空間は社会統制の体制としての都市計画の中に組み込まれており、半ば永続的にこうした祝祭空間を反復させようと企図されている。
ここで重要なのは、こうしたスペクタクルにおいて音響テクノロジーと映像テクノロジーが協調的に用いられており、相乗効果が図られている点である。いわばファシズムは諸感覚の統合が目指される、一種の全体劇場を生成させようとしたのである。ファシズムのスペクタクルは、知覚の分裂を総合へともたらそうとするある種の神経症的な症例なのである。ファシズムは技術によって変化した人間の知覚を満足させるために戦争に期待をかけている(ベンヤミン)。こうしてスペクタクルの社会の成立は、人間の知覚の変容にともなう現実とイメージとの関係の大規模な地殻変動を引き起こすことになったのである。
(ごとう たけし・建築)