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1964|東京オリンピックとその時代性

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衛星中継とオリンピック

“1964年”という年の日本で開かれるということに、このオリンピックの歴史的意味が決定づけられたのであった。この世界的イヴェントがアジアの国で初めて開かれたということ、あるいはアフリカ独立を受けて史上最大の参加国を擁したということ以上に、シンコム3号によってテレビ衛星中継されたことに東京オリンピックの重大な意味が存在していた。オリンピックがテレビ中継されること自体はすでに行なわれていたのであるが、ついに世界的規模でテレビ画面の前の人間に、リアルタイムでカメラの前の出来事を同時体験させることが可能になったのである(前回のローマ大会以後1960年代前半の間に、全世界のテレビ人口が2億から10億人と飛躍的に伸び、世界人口の3分の1までに増大していたことも、テレビというメディアの影響力の下地となっていた)。

東京オリンピックに対してはその開催において、何よりもこの時代に進みつつあったメディアの技術革新の可能性が見抜かれていた。実際に「テレビ中継技術のオリンピック」と呼ばれるほどに、新型機械の開発に力が注がれた。衛星放送技術をはじめ、超小型カメラ、接話マイクロフォン、カラー放送に向けた2撮像管分離輝度カラーカメラ、ヘリコプター通信など、最先端通信技術の開発に日本の企業が取り組んだ。オリンピックが世界的に同時中継されるまでにメディアの技術が高められたことは、文字通りそのスポーツの祭典としての世界性を高め、またナショナリズムの高揚の場へ世界の人々にライヴで参加する感覚を味わわせることになったのであるが(現代においても世界的スポーツ・イヴェントの衛星中継はこの効果を強力にもちつづけている)、そこでは世界史上画期的な放送そのものによって、日本という国の先端技術を世界へ向けて「展示」するということが実現されていたのであった。オリンピック、万国博覧会などという世界的イヴェントを初めて開催することになった日本は、東京オリンピックをして万国博覧会のもつ最先端技術の「博覧」という役割を、メディア・テクノロジーという今日的課題において効果的に担わせることに成功した。つまり、衛星中継時代のテレビが博覧会の持つライヴな博覧機能を代替することになったのである。

また放送に直結する記録測定装置の分野は、そうした博覧の効果を大いに発揮するところとなる。コンマ数秒の記録を可能にする日本の電子工学の技術は、テレビの前の観客に興奮とともに技術の先進性を送り届けていたし、そうした記録は何よりもクリスタル・クロノメーターなどのオリンピック用の時計を国産技術により開発し、過去のスイス時計の独断場に風穴を開けた“SEIKO”のブランド・ネームとともに、画面に映し出されることになっていた。もちろんそうした「展示」に国産技術のみが参画していたわけではなく、たとえば膨大な記録のデータを瞬時に整理、配信するコンピュータ・システムの優秀性を誇示していたのが外国企業IBMであり、オリンピック中継における博覧会的可能性が注目されていたのである。このデータ処理システムのおかげで、スポーツ・テレビ観戦に記録による分類・序列という博覧的参加を大いに視聴者に開いたことも、ここに特記されてよいだろう。

60年代アーバニズムとオリンピック都市東京

東京オリンピックが衛星中継時代の幕開けを告げる時期に開催されたことで、技術の展示が新たに開示された形式において行なわれたことは先述したとおりであるが、文字通り「博覧会」としての機能を期待されるとき、19世紀以来国威発揚のための博覧会が行なってきた「伝統/文化」の展示も、必然的にオリンピックの最も重要な催しとして組み込まれることとなった。オリンピックで要求されていた催し、すなわちスポーツに関する芸術展示において、前例を破り特別に伝統芸術の展示や古典芸能の上演に力が注がれたことは、こうした目的に向けての強い意志の現われと見ることができる。

しかし、日本文化あるいは日本の国家像の世界に対しての映像による「展示」では、当然ながらテレビの画像においてより効果的に働くものが要求されていた。そこで注目されたのが「メディア」としての建築であった。オリンピック競技が行なわれるときに必ずテレビ画面に写される競技施設こそが、豊かな伝統をもちかつ近代的な技術を誇る日本の姿を雄弁に物語る存在として期待されたのである。当時の国際オリンピック委員会のブランデージ会長が「日本の友人たちは最高の技術水準を生かした組織を提供し、日本の伝統的な様式に基づいて魅力ある数多くの新しい建造物を設計したのである」と述べたが、まさにオリンピック会場は博覧会のパヴィリオンの役割を担い、会場を訪れた外国人のみならず、世界の人々に現代の日本を映像的に体験させることに成功したのである。

1950年代の「伝統論争」を経た建築界は、日本の民族/国家の伝統と近代技術の融合した建築を志向する潮流を生み、論争の中心的存在であった丹下健三は、それを国立屋内総合体育館として具現化した。蘆原義信設計の駒沢体育館やオリンピック記念塔も、そうした流れの中から生み出されたものであるといってよいだろう。このオリンピックにおいてこうした建築がいかに世界の眼に注目されたかは、丹下が「オリンピック功労賞状」を特別に授与されたことが証明している。

こうした「パヴィリオン」はオリンピックというイヴェントの枠にとどまらず、かつてのいくつかの万国博覧会のパヴィリオン建築がそうであったように、新たな都市像を表現し、また同時代の都市の構成物としての役割を担っていた。それは伝統の今日的表現であるとともに、日本の首都であり1千万の人口を擁する現代都市東京へ向けて投企された60年代的アーバニズムを担うエレメントでもあった。このムーヴメントにおいてイメージされた代表的なプロジェクト《東京計画1960》において丹下は、大量交通を制御するインフラとしてのメジャー・ストラクチュア=「都市軸」を中心に設定しつつ、これに接続されるマイナー・ストラクチュア=建築の一つの型として、日本的造形を連想させる合掌型の架構を提出していた。東京大会には「技術と造形のオリンピック」という呼び名が与えられていたが、いままさに技術による都市創造が示す現代性と固有の伝統の共存をアイデンティティとして掲げようとしていた60年代の国家的意志が、オリンピックの建築に表現されていたことを言表しているように思われる。

首都高速道路の建設が象徴するように、いままさに新しい東京のインフラの骨格が形作られているという実感を伴った現実に、個別の建築としての丹下の作品は人々のイメージを経由して造形的な強度でもって拮抗する存在となる。そこで想起された全体性こそが1964年のオリンピック都市としての東京の姿としてあり、人々はそこに丹下らが描いた60年代のアーバニズムのユートピアへ向けての一抹のリアリティを感じ取ったのではないか。テレビ画像に展開する競技の一大スペクタクルに挿入された建築を通じて、そうしたリアリティが日本のアイデンティティとして世界へ向けて発信されていたのである。また同時にそれは、すでに受信契約数1700万を超え世帯の大半にテレビが普及していた日本の国民に対しても、高度成長経済揺藍期の国家のシンボルとして首都東京のイメージを、画面を通じて強力に打ち出していたのだ。思えば、ちょうどこのときこそ、あの60年代に都市へ向けて打ち出されたいくつもの夢想と現実の世界とが、最も近接していた瞬間ではなかったか。

  (いしざき じゅんいち・建築学)

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