IC20-10
1960-89 万国博覧会、未来都市あるいは第二の自然
[掲載日:]
20世紀初頭の万国博覧会は、「技術の進歩」と「世界」を認識する場であり、そこには楽天的な未来都市への信頼があった。新しい機械、異なった民族、未知の物産に接触することで人々の好奇心は高まり、未来都市への約束手形となった。そしてその後の工業社会は、加速度的に進歩と発展を続け、人々もまた工業社会が用意する未来の無限の可能性のなかに生きていた[★1]★01。万国博覧会におけるモニュメントの歴史自体が、ある意味でそのような未来都市への挑戦のシンボルだった。けれども二度の世界大戦、「6日戦争」が引き起こした経済・エネルギー危機、技術の進歩による環境汚染や自然破壊を経験した世界は、未来に対する不信という反動を惹起していた。
このような状況のなかで、万国博覧会にも変化が生じる。1958年のブリュッセル万博以前は、人間の外側にある環境の問題をテーマとして扱ってきたが、1962年のシアトル21世紀万博では「宇宙時代の人類」、1967年のモントリオール万博では「人類とその世界」、1970年の日本万博では「人類の進歩と調和」というように、「人間」や「人類」という言葉を博覧会のテーマとして用いるようになる。1960年以降われわれは、あらためて自らの存在について考え、技術の進歩をテーマとしてきた博覧会から人間をテーマにするそれへと転換したのだった。
アメリカではケネディ大統領が暗殺され、ヴェトナム戦争介入の深刻化や公民権をめぐる人種闘争が激化していた1964-65年にかけて、ニューヨーク世界博覧会が開催された。この博覧会は「理解を通じての平和」というテーマを掲げ、人類の平和を象徴する大地球儀「ユニスフェア」をモニュメントにして、楽観的な未来世界を人々に約束して見せた。ゼネラル・モーターズの「ニュー・フューチャラマ(新しい未来世界)」は、長さ230メートルという巨大なパヴィリオンで、そのなかで観客は、電動式椅子に座ったままで未来都市や月世界を体験し、音・光・色がつくり出す映像のスペクタクルを楽しんだ。また初めてウォルト・ディズニーのプロデュースによる4つのパヴィリオンが出展された。それらはそれぞれ、イリノイ州館の「ミスター・リンカーンとの偉大なひととき」、ゼネラル・エレクトリック館の「プログレス・ランド(進歩の国)」、フォード館の「マジック・スカイウェイ」、ペプシ・コーラ館の「イッツ・ア・スモール・ワールド」であった。「ミスター・リンカーンとの偉大なひととき」は、人間そっくりな皮膚をもつ「オーディオ・アニマトロニクス」[★02]★02というロボットを使って、リンカーン大統領を甦らせた。「プログレス・ランド」は、当時のゼネラル・エレクトリック社の宣伝PR「進歩こそわれわれの最も重要な製品です」に呼応して名付けられたパヴィリオンで、それは円形ステージのまわりを観客席が回転していく舞台装置で構成され、19世紀末から近未来世界に至るアメリカの住宅と電気製品の変遷を描き出していた。「マジック・スカイウェイ」は、タイム・トリップの世界をつくり、人類の進化を擬似体験させるもので、観客をフォード社製のオープンカーに乗せて、地球の誕生から宇宙時代へと導びくものだった。ウォルト・ディズニーは、すでに1955年カリフォルニア州にディズニーランドをオープンさせていて、このニューヨーク世界博が終了した後、「イッツ・ア・スモール・ワールド」と「ミスター・リンカーンとの偉大なひととき」のショーはそのままディズニーランドに移された。
1971年には、フロリダにウォルト・ディズニー・ワールドがオープンする。その核となったのは、EPCOT(Experimental Prototype Community of Tomorrow)センターである。直径180フィートのアルミニウムでできた球体、「宇宙船地球号」を中心に「エネルギーの宇宙」「動きの世界」「ホライゾン」「イマジネーションへの旅」「ザ・リヴィング・シーズ」「ザ・ランド」の各パヴィリオンが並ぶ。これらは「フューチャー・ワールド(未来世界)」と名付けられ、現代世界につくられたショーケース・シティである。
このようなショーケース的建造環境である「未来世界」は、本当にわれわれの未来都市なのであろうか。それともたんなるファンタジーなのか。しかし確実に言えることは、このような未来都市を連想させる建造環境の出現は、技術の進歩による自然・社会の管理を定式化していく危険性をもつことである[★03]★03。
この危険性は、今までにあらゆるかたちで表現されてきた。西洋の世俗文学では、文明の行き過ぎに対する不安として、田園詩のなかにあらわれ、ウェルギリウスだけでなく多くのギリシア・ラテンの作家たちが、農業を賞めたたえて歌い、都市生活の腐敗を警告した。エリザベス朝の詩人たちは、羊飼いの汚れのない幸福・生活を廷臣たちのまやかしの喜びに対比させた。
1750年にジャン=ジャック・ルソーは、ディジョン・アカデミーの質問に対する返答で、文明の諸技芸と諸科学はモラルを純化するより腐敗させると語り、19世紀文明の第一のスポークスマンであったジョン・スチュアート・ミルでさえ、「個人のエネルギーと勇気のゆるみ……、人類の多くの部分が人造の奴隷になること……」と、文明の便益は高い代価を払って買い取られたのだと論じた[★04]★04。
ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』[★05]★05、H・G・ウェルズの『タイム・マシン』[★06]★06、エドワード・ジョージ・ブルワー=リットンの『来たるべき種族』[★07]★07、E・M・フォースターの『機械は止まる』[★08]★08、タルドの『未来史断片』[★09]★09はみな、未来都市で人類が自分で苦痛のない何でも手に入れられる技術的環境をつくり出したと仮定し物語が始まる。リラダンは非正統派であるが、熱心なカトリック信者で、過去からはポーの神秘主義を受け継いだ一方、未来ではウェルズの技術重視を先取りし未来都市を描いている。『未来のイヴ』では、技術の驚異が神の驚異よりも劣っていることを証明しようとしただけだったが、技術パラダイスによる未来世界はどんなに誘惑的であろうと、まやかしであり、致命的なものになる可能性があると彼は警告する。
フォースターらは、この警告をもっと世俗化したかたちで展開した。特にH・G・ウェルズが意識的に未来都市を描き、彼の『タイム・マシン』では、ピカピカ光る真鍮とニッケルの自転車のような機械で、タイム・トラヴェラーを紀元80万2701年に運ぶ。その都市は田園のユートピアで、草も虫もなく、果実が至る所に実り、病気は根絶され、都市全体が庭園になっている。けれどもタイム・トラヴェラーは、この社会的パラダイスにないものがとても気になる。それは、そこの住人たちが知的な努力も肉体的な努力もしないため、彼らの好奇心やエネルギーが感じられないことだった。彼らの都市は、人間のいない抜け殻だけの廃墟になっていたのだ。リットンの『来たるべき種族』では、古くさい人間的な美徳を擁護する振りをしながら、じつは確立された社会秩序を擁護している。そこには来たるべき未来都市への不安と困惑が表現されている。フォースターの『機械は止まる』では、驚異的な新技術でつくられたマシンが自分自身の食料管路、医療管路、音楽管路を建設し、複雑にそして攻撃的になっていく。このマシンは、未来都市のなかでは政治的な力としてどこにでも存在しているものだが目に見えないもので、政府の代わりに姿のない「マシン中央委員会」が、この都市に存在するだけである。リットンとフォースターの描く未来世界では、技術の進歩による未来都市の出現と人類の繁栄との間には、逆行する関係が必ずあることを立証する。エミール・デュルケームの好敵手だったタルドは、『未来史断片』のなかで、太陽が弱まり地上の大部分の人間が死に絶え、生き延びた人々が地下に移住するスペクタクルを描いている。地下生活を余儀なくされた人々は、地下空間に2つの都市を建設するが、すぐにこのつくられた中央集権主義の工業都市と連邦主義の芸術都市の間で戦争が起こる。この戦争は工業都市が敗れ終結するが、また性の自由を主張する自由思想都市と、慎重な規制のために戦う独房都市との間で戦争が勃発する。結果は後者が勝利するのだが、ここで重要なのは、未来都市においても戦争が繰り返し行なわれることだ。
近代世界システムのなかで、博覧会場のようなスペクタクル空間がつくり出す未来都市は、戦争、災害、困難を除去できるのであろうか。世界の人口の大部分は今なお飢え、渇き、病気の挑戦に曝されている。富む国の人々でさえ、高度に技術的な環境のなかで生活することに、苦痛やストレスを感じている。つまり、万国博覧会が描く未来都市像は、危険を取り除き、輝かしい未来世界を保証するものではけっしてなく、そこでは、古い危険が新しい危険へとすげ替えられているにすぎない。未来都市は、われわれの都市に取って代わるのではなく、それ自身、新たな快楽と危険とをともない、やがて第二の自然になるのである。われわれの抱く未来都市への憧れは、博覧会場、アミューズメント・パーク、テーマパークのようなスペクタクルなショーケース的建造環境をつくることによって、消費と集団性のために第二の自然をつくり出してきた。第二の自然に適用できる、新しい種類の人間性をもつくり出してきたと言ってもいい[★10]★10。
この「都市化された人間性」には、時間・空間・貨幣に関する特殊な感覚が授けられ、また日常生活の他で失われてしまうかもしれないものを取り戻すための、洗練された能力と戦略が授けられている[★11]★11。長距離間のマス・コミュニケーション手段がつくり出され、人々の孤立が効果的で社会的な管理方法として定式化したとき、この一方通行となった社会で生活するわれわれは、博覧会場やテーマパークなど消費と集団性という目的のために擬似的に組織された第二の自然が必要になったのだ。また既存の社会だけでは、われわれの消費欲望をためきれなくなったとき、この第二の自然が必要になったのだ。この第二の自然には、スペクタクルな消費文化を擁護する力があり、人々に「都市化された人間性」を要求する。この囲い込まれた人工のパラダイスの魅力は、荒廃した現代社会の悲しい光景を目にしたときの反動なのだ。しかしもうひとつの魅力は、それが荒廃した公衆の領域からの避難所の役割をしてくれるところにある。そこにはスペクタクルがある。未来都市、消費のための人工のパラダイス、技術の魔法の領土は、社会的崇高さという人造で無限大の呪力から逃れる守り札になる。1960年代以降の高度に発達した消費環境、人工のパラダイスあるいは第二の自然の出現は、社会生活の退化に対する反動であると同時に、それを生んだ原因でもあるのだ。
(なお のぶひで・都市史)
★01 工業社会での技術の進歩については、Lewis Mumford, Technics and Civilization(Harcourt, Brace, 1934)。=『技術と文明』(生田勉訳、美術出版社)などを参照。★02 音(オーディオ)、動き(アニメーション)、電子工学(エレクトロニクス)を結合させた用語★03 彦坂裕『シティダスト・コレクション』(勁草書房、1987)、吉見俊哉『博覧会の政治学』(中公新書、1992)、吉見俊哉「シミュラークルの楽園」(多木浩二・内田隆三編『零の修辞学』リブロポート、1992)などを参照★04 この代価とはコールリッジに関するミルの論文のなかに見られる。Stuart C. Gilman, Political Theory and Degeneration: From Left to Right, From Up to Down, in Chamberlin and Gilman。を参照★05 『未来のイヴ』の初版本は、1886年5月4日に、パリのブリュノフ書店から刊行された。現在入手可能なものとしては、Auguste Villiers de L’Isle-Adam, “L’Ève future,” in Œuvres complètes, vol.1 (Bibliothèque de la Pléiade. Gallimard, 1986)などがある。最近英訳されたものでは、Eve of the Future Eden, trans. M. Rose. (Coronado, 1981) / Tomorrow’s Eve, trans. R. Adams (University of Illinois Press, 1982)の2冊がある。邦訳では、斎藤磯雄訳『未来のイヴ』(創元ライブラリ、1996)または、『ヴィリエ・ド・リラダン全集』第2巻(東京創元社、1977)を参照★06 H.G. Wells, The Time Machine,in The Short Stories of H. G. Wells, Earnest Benn, London, 1952=橋本槙矩訳『タイム・マシン』岩波文庫、1991。初版は1895年★07 Edward George Bluwer-Lytton, The Coming Race,in Vril: The Power of The Coming Race, Rudolf Steiner Publications, 1972。初版は1871年★08 E. M. Forster, The Machine Stops,in Collected Short Stories of E. M. Forster, Sidgwick and Jackson, London, 1947=小池滋訳「器械は止まる」、E・M・フォースター著作集5『天国行きの乗合馬車』(短編集I)、みすず書房、1996。初版は1909年★09 Gabriel Tarde, “Fragment d’histoire future”, 1896年。Revue internationale de sociologieにはじめて発表され、同年、パリでパンフレットとして出版(V. Giard et E. Briée)、1904年には本として出版された(A. Storck, Lyon and Paris)。英訳本は、1905年にH. G. Wellsの序文で、Underground Man というタイトルで出版された★10 都市空間の「第二の自然(Second Nature)」がいかに生産されたかについては、都市社会学に関する文献から学ぶところが多い。特に、David Harvey, Social Justice and The City(Johns Hopkins University Press, 1973=竹内啓一・松本正美訳『都市と社会的不平等』(TBSブリタニカ、1980)David Harvey, The Limits to Capital, Basil Blackwell, 1982=松石勝彦・水岡不二雄他訳『空間構成の経済理論』上・下(大明堂、1989-90)/David Harvey, The Urbanization of Capital(Johns Hopkins University Press, 1973)=水岡不二雄監訳『都市の資本論』(青木書店、1985)を参照★11 「都市化された人間性(Urbanized Human Nature)」については、David Harvey, Consciousness and The Urban Experience(Johns Hopkins University Press, 1985)、およびDavid Harvey, The Urban Experience(Basil Blackwell, 1989)/David Harvey, The Condition of Postmodernity(Basil Blackwell, 1989)を参照