IC20-4
〈零〉の速度に向かって
万博をめぐる19世紀の情報空間(1851-1899)
[掲載日:]
先日、赤いモロッコ皮張りの表紙に、青絹の裏打ちがある貴重な豪華本『万国産業の成果の大博覧会』全9巻(1852)の一部を閲覧する機会を得た[★01]★01。その重厚な書物は、いわゆる1851年のロンドン万国博覧会についての委員会と審査員の公式報告書、公式図解カタログ、そしてメダルや証明書の版画から構成されたものである。その刊行から145年を経た現在、物量的にも圧倒するばかりの膨大なデータの山を前にして、この大型本が出されるために万国博覧会は開催されたかのような錯覚にとらわれてしまった。あるいは、博覧会よりも書物が先に構想されていたのだとも。実際、ロンドン万博は、後に増えるあからさまな娯楽施設も少なく、純粋な知の空間化に近いものだったといえよう。その知のモデルが百科全書であることは想像に難くない。この傾向をさらに突き進めたのが、パリ万博である。鹿島茂がその名称に着目したように、ロンドンは大きな(great)博覧会だったのに対し、パリは万有(universelle)博覧会であり、後者の思想的背景にはサン=シモン主義の百科全書的な哲学が結びついていた[★02]★02。つまり万博は「人類は良い百科全書をもったときに完全な科学を手にするだろう」というサン=シモンの言葉通り、この世に存在するあらゆる事物の展示(exposer)を行ない、人々を教育し、啓蒙するのだ。
世界のマトリクス化

- シカゴ万博会場風景(1893)

- 第1回オリンピック・アテネ大会(1896)

- ロンドン万博開会式(1851)
万博とは「世界」を表象する舞台にほかならない。たとえば、40カ国を超える海外の生産品を集めたロンドン万博では、水晶宮において展示品を4部門に分けたうえで「代表諸国の地理的位置に従って区画を分けて」いるし、1867年のパリ万博の主会場では同心円上に同一種の製品を並べつつ、放射状の方向には国別で分けていた(もちろん各国の思惑はさまざまであったけれど)。

- パリ万博楕円形会場(1867)
飛躍的に「世界」の情報がインフレーションを起こした時代において、それを処理するために、透明な容器の中で、地域と種類のマトリクスが整然と区画される。水晶宮は誰もが見るための施設であるという意味において、誰もが見られるパノプティコン的な装置とは反対の志向をもちながらも、皆を見る視点を確保しており、同時にスペクタクルと監視の機能をもつ[★03]★03。おそらくそうした理知的な透明性ゆえに、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』の主人公は水晶宮を嫌ったのだろう(ただし、彼のいう「水晶宮」は、むしろフーリエが人間行為を分類化したファランステールを指す)。ここでは製品も彫刻も絵画も、すべてが情報として等価である。たとえば、19世紀後半から20世紀初めの万博における絵画の展示をみると、壁面をところせましと埋めるそれは、広い空間に展示されるべき芸術的な価値をもつ対象というよりも、情報と呼ぶほうがふさわしい。
当然、「世界」から集積された情報は、同じ地平の上にのせられねばならない。それは各種の情報が比較可能であることを言明する、審査制度によって保証される。優秀な作品への褒賞は、18世紀の産業博覧会から存在していたが、金・銀・銅メダルを授与することは、1801年や1855年のパリの博覧会などで明確に規定されるようになった。後に開始する近代オリンピックが、1896年の第1回アテネ大会よりメダルの制度を導入しているのは、万博の方法を参考にしたからであろう(古代オリンピックでは、優勝者に月桂樹の冠をあたえ、大理石の柱に名を刻むだけだった)。そしてオリンピックに要請される身体運動の精確な測定は、やがて時間と空間の均質化に大きな影響をあたえる。これを記録として数字化することによって、人間も比較される対象に変わるのだ。かくして情報の標準化を促進したことか万博の功績であるとすれば、そのモニュメント的作品の水晶宮(1851)やエッフェル塔(1889)が、きわめて標準化された部材による画期的なプレハブ建築だったことは興味深い一致といえよう(前者は全体の寸法体系でも24フィートを単位としていた)。
同時代性の創造
つまるところ、「世界」の情報を共通の格子にあてがいながら、ひとつの会場に集める「万国」の祝祭は、同時代性の意識を高めることになろう。たとえば、ボードレールが1855年5月に書いたパリ万博の美術展評では、諸国民の産物の比較ほど、魅力的で、啓示に満ちた仕事は少ないと記しており、その驚きを隠さない。彼は中国の美術に触れ、それを「普遍的な(universelle)美の一つの見本」であるとみなしたことから、世界市民性(cosmopolitisme)が必要だと考えるにいたる。こうした国際的な展示の場は、後に有名な「現代生活の画家」を論じるボードレールにとって、「現代性(modernité)」の概念を成立させる契機になったと言われている(もっとも彼は進歩の概念には批判的であるが)。
同時代性は、急速な交通のネットワーク化によってもうながされた。もちろん19世紀はミシェル・フーコーが空間と権力の新しい局面として興味を示したように、鉄道が整備された時代である。交通の発達により、イギリスでは定期的な市や縁日から交易の機能が失われたりもした[★04]★04。が、とりわけ特筆すべきは、万博とパック旅行の提携である。1851年の万博では、トーマス・クックが労働者階級をターゲットに積立方式で費用をつくらせて、大量動員を条件に地方とロンドンを結ぶ鉄道会社から割引切符を購入していたのだ(ジョン・アーリーによれば、鉄道会社がリゾート観光にのりだすのは世紀末になってから)[★05]★05。特に入場料が格安となる日には、特別列車にのって大衆がつめかける。彼が送りこんだ客数は16万を超え、入場者数全体の3%を占めたという。続いてクック親子はパリ万博において、フランス語に不安をもつイギリス人に対し、引率者が伴う一切おまかせの団体旅行を成功させている。旅行の平等化を唱える彼らは、1864年には100万人以上もの庶民の旅を商品化していた。つまり中世のサンチアゴ・デ・コンポステラなどへの聖地巡礼、近世のグランド・ツアーによるイタリア修学旅行にかわって、近代は万博開催地への観光旅行が人間の大移動を発生させたのだ。ベンヤミンが言うように、「万国博覧会は商品という物神の巡礼場である」。たとえば、1889年のパリ万博の総入場者3235万人を会期の6カ月で割ると、1日平均約18万人が訪れたことになる。つまり都市的な規模の人間が、毎日、現われては消えたのだ。多くの異邦人が流入したことも、空前のスペクタクルを生む。実際、1867年のパリ万博では、日本館は芸者を、中国館は小人と巨人を展示しており、生きた人間も見られる対象だった。ともあれ、ある時点において「世界」の断面を切り取る万博は、同時代性を強く喚起させながら、それに誘発されたツーリズムは、さらに同時代的な情報の交換を加速していく。

- パリ万博中国館(1867)
情報のスペクタクル
ところで1852年に世界初の百貨店、パリのボン・マルシェを世に出した男、ブシコーはその商法を1855年と1867年のパリ万博の展示に学んだという。あらゆる商品を集めてアウラを発生させること。製品のスペクタクル空間をつくること。両者の類似点は少なくない。しかも彼は売り上げの落ち込む2月を狙って、白物の衣類や布地を集中的に販売する「白の博覧会(exposition de blanc)」を行ない、店内を白い布で覆い尽くし、パリの女性の圧倒的な支持を得ていた(後に百貨店は、子供博覧会など、客寄せのために本当の博覧会も催すようになるのだが)。

- ボン・マルシェ
また技師のエッフェルに助力を願い、鉄とガラスの壮大なクリスタル・ホールを1874年に完成し、空間的にも万博との親近性を示している。さらにボン・マルシェは宣伝のために、パリ万博において、パンフを無料配布したほかにも、1878年に自社製品でメダルを獲得したり、1900年にはプチ・トリアノンを模したボン・マルシェ館を建設している。とはいえ、百貨店の展示が博覧会とやや異なるのは、ただ売り場を体系的に配置するのではなく、少々無秩序になっても人気商品の位置を適当に散らして、人の流れを交差するよう仕向けたことだ。すなわち百貨店は、効果的な人間の流通と、薄利多売によって、商品が回転する速度を限りなく高めることを目指した空間なのである。

- J・ワイルド「グレート・グローブ」断面図(1851)
刹那的にものを見るという、移動する速度からのパノラマ的な知覚が、博覧会の施設のほかにも、デパートや鉄道と共通していることは指摘されてきた[★06]★06。つまりさまざまな情報を疑似体験しつつ、すべてを見るパノラマとは、すぐれて19世紀的な視覚装置なのだ。たとえば、汽車や航海による仮想の旅行をテーマとしたそれは空間を横断し、歴史的な場面をテーマとしたそれは時間を縦断する(1889年のパリ万博ではフランス史の名士が千人近く登場するパノラマ「今世紀の歴史」が登場した)。ここにはイメージが現実を凌駕するひとつの転換点が存在し、代理体験への萌芽が認められるだろう[★07]★07。すなわち「スペクタクルにおいて、世界の一部がこの世界の前で演じられ[=代理・表象され(se représente)]、しかもそれはこの世界よりも優れたものなのである」[★08]★08。情報のもたらされる速度が上昇し、情報が爆発的に増大した世紀であるがゆえに、パノラマはそれを統一的に俯観する視覚の場を用意したのかもしれない。もはや現代においてスペクタクルは遍在しているのだが、こうした「スペクタクルの社会」とは、シチュアシオニストのドゥボールが同題の著作(1967)のなかで分析の対象としながら、同時に徹底的に批判したものだった。彼の批判は十分にスペクタクルの本質を言い当てており、傾聴に値するだろう。そして情報のスペクタクルは19世紀にその起源が求められる。本来、情報が速度を志向し、その究極の実現が同時性であるならば、万博とは各国の最新情報と技術を一カ所に集積する場なのだから、次世紀にかなえられるであろう情報の同時性という最高速度への始動の一撃だったのだ。19世紀の情報空間において万博は「世界」を揺さぶったのである。〈零〉の速度に向かって。
(いがらしたろう・建築史)
万博・オリンピック(1851▶1899)[★09]★09
★01 Royal Commission(ed.), Exhibition of the Works of Industry of All Nations 1851, Spicer Brothers, 1852(大阪中之島図書館所蔵)★02 鹿島茂『絶景、パリ万国博覧会サン=シモンの鉄の夢』河出書房新社、1992。★03 Tonny Bennett, The Birth of the Museum, Routledge, 1995, p.65★04 I. Starsmore, English Fairs, Thames and Hudson, 1975★05 ジョン・アーリ『観光のまなざし』(加太宏邦訳)法政大学出版局、1995★06 デパートについてはT. A. Markus, Buildings & Power(Routledge, 1993)を、鉄道についてはヴォルフガング・シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史』(加藤二郎訳、法政大学出版局、1982)を参照されたい。★07 ベルナール・コマン『パノラマの世紀』(野村正人訳)、筑摩書房、1996★08 ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』(木下誠訳)、平凡社、1993、 p.30★09 