IC14-38

デジタルとアナログのあいだ

[掲載日:]

久しぶりで、アマチュアの私がむかし撮りためた8ミリフィルムを見直す機会があった。ホームビデオ時代が訪れて以来、長いあいだ本棚の片隅にほこりをかぶって眠ったままの古いスーパー・エイトのフィルムの山を、黴が生え、色褪せて見えなくなってしまわないうちに、せめてビデオに変換しておこうと思い立ち、息子に頼んで安い簡易変換機を買わせ、試しに70年代のアメリカ留学中の記録をビデオ化して見直してみたのである。映写機もほこりを被っていたが、なんとか動いて、そのカタカタという走行音までをビデオに記録して、なんと、まさに無声映画時代の感慨で、私のいささか遅い青春の日が甦ってきたのである。色彩もまずまず元の色をとどめてはいるが、フィルムの傷やほこりはいかんともしがたいし、何よりも画面の解像度やちらつきはいまのビデオ技術には比べるべくもない。

しかし、そこに再現したのは、まぎれもなく1970年夏から1年間、確かに私が住み、私の目に映ったハーヴァード大学周辺の町のたたずまいであり、同じ町に住む懐かしい友人たちの表情であり、留学後にヨーロッパの旅で拾ったさまざまな町の風情であった。そのなかに、ときたまちらりと現われる自画像は、友人が回したシーンに違いないが、20余年前のいささかはしゃぎすぎの自分の姿をそこに見出して、あらためてすべての生物を支配しているエイジング(加齢現象)の重みに感慨を新たにしたものであった。

それにしても、この8ミリフィルムの再現が思いがけなく呼び戻してくれた過去へのノスタルジーは、ほんとうにそこに映った風景や建築物や人物の時間的落差だけがもたらしたものだったのだろうか。いやいや、そうではあるまい。もちろんそこに映し出された被写体の歴史的時間の経過そのものが、その感慨をもたらした第一要因だったとしても、私にはむしろそれを映し出した、いまとなっては流行遅れの8ミリフィルムという媒体そのものの生命、いや媒体を支えている物質のもつ加齢現象や機能の老化そのものからきていたのを無視することができない。ほこりや傷に汚れ、ちらつきのある光芒のなかに再現してくる遠い日の時間の記録……。それがもし、最近の高解像度による映像媒体によって、当時の風景や人物をその迫真力で再現したとすれば、そこにはまるで他人事を写したような客観的臨場感はあったとしても、これほどに個人的で、内面的なノスタルジーというものを感じさせなかったのではあるまいか。このことは、メディアのもつ物質性ということを忘れて、情報理論だけでその効率性を語ることの限界について、何かを暗示してくれる。

例えば同じことは、最近華々しく登場してきたデジタル・メディアの場合にもっと強くいえるだろう。このメディアの可能性が一方ではきわめて大きく期待されているときだけに、そのメディアの背後に潜む心理的盲点や、使い手の意識にもたらす影響について、いろんなことを考えさせる。デジタル・メディア技術というのは、これからのマルチメディア時代の到来を約束している新しい記録方式で、いままでのメディアと大きく違い、一言でいえば、情報の老化しない媒体である。従来のフィルムやテープのように、情報の乗物としての素材の物質性に依存してイメージが記録されるのではなく、すべての画像情報は0か1のビット数に還元して記録されるために、乗物の素材としての物質性に依存せず、0か1の違いを表現できる媒体でさえあれば、永久にもとの記録情報を保存し、伝達することができる。ここから革命的といえるメディアの可能性も生まれてくる。例えば、オリジナルとコピーがまったく同じ情報的価値を持ちうること。そこから新しい版権問題が登場してきているのは周知の事実だが、同時にこのデジタル情報は、乗物としての媒体を自由に変えても生き続けられる。ここにシームレスな(継ぎ目のない)メディア文化の可能性が開けてくる。例えば、CD-ROMの中身をそっくり、有線、無線のネットワークを介して、リアルタイムで世界中にオリジナルと同じ品質で届けることができる。これは従来のメディアの物質性の寿命に依存していた情報を、完全に媒体の物質的制約から解放し、情報データとして独立した時間を持つ生命を獲得したことを意味している。

そのことだけをみれば、記号的な文字情報だけに頼る媒体の時代であっても、それほど大差はなかったかも知れない。いまでも古代ギリシア文明時代の文献がそのままの情報価値で読めるように、本来文字自体がデジタル的な情報システムに乗っているからである。だが、画像や音のように、もともと媒体の物質性に大きく依存する情報が、これからのデジタル・メディア技術によって時間の限界を超え、作られたときのまま永遠の生命を保ちうるようになったとき、過去の記憶に基づいて構成されてきた人々の意識の流れや歴史感覚には、多かれ少なかれ微妙な影響が現われずにはおかないという気がするのである。いままでの歴史の持つ無情感というものが、人々とさまざまな過去の媒体との出会いによる意識のなかの共鳴作用によって増幅されがちだったことを思うとき、そんな歴史的感慨のありかたが、これからは微妙に変化していくに違いない。

以前どこかで、ダ・ヴィンチの描いたモナリザの絵の画肌が、無数のひび割れをみせていたという話を書いたことがある。そしてそのひびのなかにこそ、じつは作品の生命の物質的な感触を漂わせていて、それは作品を味わうための欠かせない要素だったという話である。作品に出会ったときの感慨のなかに、情報としての作品価値と、媒体の物質性までを含んだトータルな存在としての作品価値までが微妙に重なっていることに、私たちは時折気づくことがある。しかし現代の文明が次第にデジタル情報化し、多くの芸術がメディア化をめざしはじめたとき、人々の時間感覚や歴史的無情感というものはどう変容していくのだろうか……。

もちろん、デジタル化は、地球規模での異文化の共有には確かに便利な方法ではある。アンドレ・マルローの「空想の美術館」は、当時、写真メディアで異なった文化圏内の芸術作品を記録して交流しあう夢の提案であった。それがいまのデジタル・メディアをもってすれば、まさにマルローの提案などすぐにでも実現可能である。それどころか、これからはもはや印刷媒体さえ不要で、ネットワークを通じて、古今東西のアートを世界中でリアルタイムで鑑賞できる時代が来ようとしているほどである。

メディア・ラボのニコラス・ネグロポンテは、そんな現代のデジタル・メディア時代の特徴を、先日『ワイアード』誌日本版の出版記念講演会のために来日した際に、「アトムからビットへ」という巧妙な喩えでまとめてくれた。かつての社会は物質の最小単位である原子によって支えられてきたが、いまは情報の最小単位であるビットの支配にとって代わり、物質的生命の限界から自由になろうとしているという話であった。ただネグロポンテの指摘は確かにその通りだとしても、すべての存在が物質性を離れては成り立たないこと、すべての情報の乗物にはエイジングを伴うことを忘れてしまうと、人類の精神活動は単純化し、次第に痩せ細っていくのではあるまいか。

見逃してはならないことは、確かに情報系のやりとりの間では、情報のロスのないデジタル情報は優れているが、その意味を解読し、鑑賞する人間の知覚現象そのものがアナログ的な働きをしているために、感覚で受信できるアナログ情報にまで変換しなくてはならないことである。従ってそこでは、モニターの画面にしても、プリント画面にしても、人間の感覚でとらえられる最終情報を物質的なアナログ媒体にまで戻してやる必要がある。同様に、情報を取り込む際のレンズなど光学系機器やスキャナーなども、物質的な存在であるだけに、その物質的、機能的寿命と品質は切っても切れない関係にある。人間が受け取る情報の品質が、端末の物質的生命と、受けとる人間自身の感覚器官や脳神経の生体としての寿命に依存していることを忘れると、文化のもつ陰影に対しての歴史的評価もなおざりにされる恐れがあるのだ。

とはいうものの、むりに肩ひじ張ることもあるまい。人間の平均寿命が延びたおかげで、メディア技術の進歩を多くの人が素直に楽しめるようになったことも事実である。そのおかげで、いまはかつてのように無声映画時代のノスタルジーに甘んじていないで、安直に世界の旅をビデオの記録で確かめることができる。私自身、25年前に8ミリフィルムで再現して見たヨーロッパの町を、再び小型ビデオカメラで記録・再現し、その間に変わった町や人や自然の表情と、記録する情報メディア機器の進化とを比べて、こんな感慨まで持つことができた。そのおかげで、私自身のかつての青春のほろ苦い思い出までを取り戻すことができたほどである。

(さかねいつお・サイエンス&アート理論)

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