IC20-3
スペクタクルの神話作用
序に代えて
[掲載日:]
スペクタクルがある種のコミュニケーションの編制機構ないし装置としてこれまで存在し、かつ現在においても延命していることは、誰しもが首肯するところであろう。のみならず、それが集団や社会に対して発信される複数のメディア・コンプレックスでもあることを考えるなら、非言語的なひとつの社会的編制機能をその中に見出すことも不可能ではない。スペクタクルはコミュニケーションの政治性と表裏の関係にある。
最もわれわれが想起しやすいスペクタクルの例として「祭り」があるが、こうした祝祭性を帯びた特異な情報環境は、規模の大小、時間的な持続性、そして何よりもスペクタクルを支える背後のポリティクスの差異を超え、近代─現代社会のあらゆるシーンに遍在する。言うまでもなく、より集団をインヴォルヴし、より社会の狂言回しの役割を強め、より超個人的な色合いを濃くするほどに、それがもつ力の強度は増していく。
スペクタクルの力は、また同時に、[無差別化した群衆+超越的なソフトウェア]という構図が先鋭化されればされるほど、増大される。近代期にはいるやこの構図を確固たるものにすべく、多くの先端テクノロジーや伝播メディア、そして巨大資本が介入することになった。
この「無差別性」は、内的にはスペクタクルの時空間という仮設的なユートピアを共有するという個の意識に結びつく。そこに束の間の透明なコミュニケーション環境(という幻想?)が出現すると言ってもいい。この環境に自己を投錨することによって、個を超えるもの=エクスタシーが獲得されるのである。先端テクノロジーが駆使されたスペクタクル空間への臨場は、社会のみならず、時代へ臨場することでもあったのだ。そして、スペクタクルは特定の群衆が対外的にもつ公共的な顔となり、かつ群衆をより強固に組織付ける手段となる。
一方、「超越的なソフトウェア」はとりわけ近代社会においては捏造規範に包含される。多くの近代スペクタクルは、周知のように、スペクタクルの一大叙事詩でもあった旧訳聖書や古典古代の大物語、さらに伝承童話までが援用され、再演される。これは、ディズニーをはじめとする常設スペクタクル環境であるテーマパークから、エンターテインメント・イヴェントに至るソフト制作のクリシェとすら化している。啓蒙期から実験的に繰り返され今世紀前半に開花したスペクタクルとしての近代都市に明晰なオリンピアのイメージが二重映しされたことは有名であるし、96年アトランタ・オリンピックのオープニング・セレモニーでその肉体イメージが執拗にアトラクション化されていたことも記憶に新しい。
ここではソフトウェアの必然性よりも、まさにスペクタキュラーなレトリックに充ちた説得力が君臨するのだ。その規模が巨大になるほど、物語の神話作用がその商品価値となる。そしてこの神話は、スペクタクルの文脈で、絶えず拡大再生産されるのである。
スペクタクルが文字通り、ヴィジュアライゼーションを中心とした臨場感そのものをコミュニケーション媒体とすることからすれば、こうした超越的なテクストに信託されたメッセーの露出の形態、正確にいえば、露出の制御や演出がその背後のポリティクスの活性化を効果的なものにする。その意味では、件の構図の演出政策のうちにポリティクスが宿るといいかえても過言ではない。このポリティクスは、純粋な近代イデオロギーやナショナリズム、リージョナリズム、ヴァナキュラリズム、さらにはテクノロジーそれ自体に代理化された商業資本やテクノクラシシズム等実に多様なものである。20世紀を通じ、明らかにこれらは神格を自装しながら、よりコマーシャリズム的なるものへ、そしてその露出形態はより広告的・広報的性格をもつものへ、一言でいえば、情報経済学的な優位性をマネージメントするものへと変容しつつある。
メディア・テクノロジーの介入は、ここにおいて不可避なことがらだ。われわれは、巨大スペクタクルとメディアの親和性についての最も典型的な祝典を、1664年ヴェルサイユ宮苑で催されたルイ14世の歓待スペクタクル「魔法の島の喜び」(Plaisir de I'Île Enchantée)と1937年ニュルンベルクのツェッペリンフェルトで催されたナチ党大会スペクタクル(Reichsparteitag in Nürnberg)において見ることができる。この2つは、人類史上空前のスケールで実現されたスペクタクルとして有名なものだが、前者は複製銅版画、後者は映画というメディアによってイメージが量産され、かつそのメディアに映える形の演出が徹底して開発された。これは世界的な情報交通網を前提として疑いもなく考案されたものでもある。途方もない巨大さは、当事空間のプロデュースのみならず、そのイメージの無辺際へと加速する量産性にも宿るわけだ。そして、この人為を超えたカルマ的合理性とコミュニケーションの一元性をスペクタクルがその宿業として育んでしまうというアンビヴァレンツが、多くの批評対象となっていることは、更めて述べるまでもないだろう。万国博覧会や近代オリンピックといった制度化されたスペクタクルにおいて、この親和性が不断に進化される状況を見ることは比較的易しい。
しかし結果的に、あるいは同時的に、メディアでフレームワーキングされた世界がスペクタクルに変貌する事態が生起する。それは写真や映画、ヴィデオなどの保存技術に加え、テレビ衛星中継や電子テクノロジーがつくりだすリアルタイム技術によって生産されたもうひとつのスペクタクル空間である。月面映像や湾岸戦争、多くのカタストロフをフレームワーキングする視界とはそれ以外のものではない。
CNNのニュースがスペクタクルだと言われているように、今やわれわれの日常環境はメディア革新によって、無数のミクロなスペクタクルに包囲されつつある、とある意味ではいえるかも知れない。この地平においても、情報の伸延性(グローバルなスペクタクル像の共有性)、テクノロジーのバックアップ、アクチュアルであれヴァーチュアルであれそのメルヴィーユ(驚異)やサブライム(崇高性)の光景とそのエンターテインメント性がきわめて重要な要素としてクローズアップされているのだ。
肉体、肉声、空間といった身体的なメディア、文字を中核ととした印刷メディア、移動や通信に代表されうるトランザクション系のメディア、そして電子系のリアルタイムかつヴァーチュアルなメディア、それらのアクティヴな介入によってスペクタクルの形態自体も相対化されつつある一方、先にスペクタクルという情報環境がある種のユートピアであると記したが、何処にもないユートピア(No-where)が「今、ここに」(Now-here)ある時空間であるという教えに因むとすれば、身体的でアクチュアルな臨場感をもつ古典的なスペクタクル空間そのものが、情報ネットワーク社会のなかで、新たな神話力をもって回復しないとは誰も断言できないだろう。もちろんそこには、動員数や購買部数、視聴率、アクセス率を超えたスペクタクルの審級と刺激的な集団的かつ社会的なコミュニケーション空間のヴィジョンが不可欠であることは言うまでもない。
(ひこさかゆたか・建築家、環境デザイナー)