IC11-44
なぜ「インタラクティヴ」か
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連載[第2回]
マルチメディア時代のキーワードの一つはインタラクティヴだといわれる。確かにネットワークを介しての参加者同士の情報交流はインタラクティヴな行為そのものから成立している。しかし、コンピュータ・ソフトとしての作品やインスタレーション型の作品までが、ことさらにインタラクティヴ・アートと呼ばれているのは何故だろう。
考えてみると、本来すべての芸術はインタラクティヴ・アートであったはずである。作家が意図したかどうかに関係なく、少なくとも鑑賞者の側からすると、作品の認知から解読、鑑賞の行為まで、立派なインタラクションでなくて何だろう。どんな歴史上の名画でも、受け取り手の内面的なインタラクションなしには、ただの絵に描いた餅にすぎないからである。
アートはディスコミュニケーションの上に成り立っているといった人もいる。しかし難解なアートであればあるほど、見るものの内面的インタラクションをかりたてることも事実である。それどころか、美術史をひもとけば、作家自身が鑑賞者側とのインタラクションを期待して制作した作品も無数に存在する。
例えばルネッサンス期の遠近法による絵画の真に迫ったリアリティ。さらにその遠近法を逆用して生まれた遊びの精神旺盛なアナモルフォーシス絵画や、近世の無数のトロンプ=ルイユ(だまし絵)の系譜。あのホガースの絵は、画面の奥行きに対するこちら側の知的な詮索というインタラクションなしには、その非条理の構図が見抜けまい。
それどころか、ピカソの絵に代表される立体派の空間的コラージュの技法や、未来派の、時間を駒落としに凍結して見せた作品なども、その時代の作家の時空の視点にまでさかのぼる見る側のイマジネーションの介入なしには、その意味が伝わってこない。60年代のオプティカル・アートやキネティック・アートのなかにも、こちらの積極的な参加がなければ、見えるべきイメージも見えてこないものが少なくない。ましてや現代の、ときとして晦渋なコンセプチュアル・アートを味わうためには、見る側の積極的でインタラクティヴな意識の働きが要求されるのである。
それでは何故、コンピュータ技術から生まれたマルチメディアの作品が“インタラクティヴ・アート”なのか。そこでうたわれたインタラクティヴィティは、伝統的なアートのそれと本質的にどう違うのか。もしかして、電子メディアのもつマン=マシン・インターフェイスによる作品とのフィジカルな(物理的な)インタラクションだけを重視するあまり、作品の持つメッセージと鑑賞者のメンタルなインタラクションがなおざりにされているのであれば、あまりにも皮相な道具主義的定義ということにならないか。いったい、伝統的なアートとメディア・アートのインタラクションには、本質的、構造的な違いがあるのだろうか。これは、もしかしたらすべての芸術の鑑賞行為そのものの再考にもつながる問いかけなのである。
その違いを考えていくと、まず第一に電子メディアのインタラクティヴ・アートは、確かにフィジカルなインタラクションにその成立の基盤を置いている。マウスによるクリックや、その他さまざまなインターフェイスを介して、情報化されたデータベースを呼び出す作業が、この新しい体験的鑑賞の前提条件になっている。面白いのは、この情報化し、記号化されたデータという、本来非人間的な存在とのフィジカルな手応えが、かつての芸術の持っていた素材の物質性や触覚性を無意識のうちに代償し、人間的な触れ合いを擬似的に回復させる効果をあげていることである。物理的なインタラクションが、もう一つのフィジカルな(肉体的な)インタラクションを引き起こしているといってもいい。
第二に、従来のアートの平面的作品が、常に全体像を投げ出して、観察者の自由な視点移動による自在な読み取りを許しているのに対し、例えばハイパーテキストで構築された非線形のデータから成り立っているリンク構造は、その複雑な階層レベルが一望にしては読み取れず、画面の全体あるいは部分をクリックして変化する連鎖的プロセスのなかで初めて意味が見えてくることである。ということは、最初のイメージだけでは、ほとんどブラック・ボックス状態で、なんらかのインタラクションを起こさないかぎり、その構造が見えてこない。例えばハイパーカード型の作品の場合、画面のどこかをクリックして初めてその物語が始まる。リンクの仕方はときにランダムであったり、作者が用意した選択肢のあるツリー構造になっていて、観客は結局その誘導に従わざるを得ないのである。
そのことはある意味できわめて逆説的で、従来の伝統的な芸術作品の方が、観客がその作品の全体から主体的な意味を読み取るのに、むしろより積極的な参加を要求され、これと対照的に、現代のメディア・インタラクションによる作品の方が、多かれ少なかれ作家の誘導に従って、なかば受け身の観客的参加に走ることにもなりかねないのである。これは現代のインタラクティヴ・アートがかかえている大きなパラドックスといってもいい。
もし現代のインタラクティヴ・アートが、期待していた人々に失望を与え、古典芸術のもつ深みに欠けた単なるゲームに留まっているという不満をもたらしているとすれば、それはこんな構造的な違いから来ているのではあるまいか。
しかし、それにもかかわらず、現代のマルチメディアによるインタラクティヴ・アートの構造に新しい可能性がないわけではない。むしろ、その発見と創造こそがこれからのアーティストに与えられた課題でもあるが、その未来を予感させる作品も、世界的に見渡すと徐々に現われて来ているようである。
そのリンク構造の非線形データを巧みに利用して、プロセスそのものを観客が楽しめるアートの形態……。それは従来の完成された確固とした作品との対話というインタラクションではないかもしれないが、もっと開かれた偶発的出会いを取り込んだプロセス・アートとはいえないだろうか。例えば作家が用意した“素材”と、“調理道具”や“調味料”を使って、作家の“レシピ(献立)”を頼りにしながら、参加者が自分自身の味を発見しながら作るインタラクション。いわば、一種の“クッキング・アート”とでも呼べる新しいアートの形態なのである。
そこでは味覚や嗅覚の満足までとはいかないが、視聴覚からときには触覚までの参加も楽しめる。キッチンの周りで歩き回る身体的なインスタレーションもありうる。そこから、偶発的な五感の統合が生まれて、作家さえ予期しなかったような新しい情感が観客にもたらされることさえあり得るのである。それはときにきわめてゲームに似た意識の動きを伴うが、ときには内容次第で見る側の想像力を触発し、瞑想的な気分さえかきたてる。
例えば、昨年カールスルーエのメディアーレに出品され、今年春ロサンゼルスのインタラクティヴ・メディア・フェスティバルにもノミネートされたパリのジャン=ルイ・ボアシエの作品《Flora petrinsularis》というインスタレーション。ジャン=ジャック・ルソーの『告白録』の本を、左ページにはページ数や年代、右ページには文章の形で印刷したものがテーブルに広げられ、観客がページを操ると、その上に吊るしたビデオカメラがセンサーとなって新しいページ数を追い、目の前のモニターにそのページの文章を映し出す。観客がテーブルの手前のトラッキング・ボールを動かすと、モニターの見開きページにはルソーの回想に現われたさまざまな女性との思い出にまつわる植物や果実が、ときに風景や女性像と一緒にコミカルに描き出されるインタラクティヴな作品であった。
あるいはアメリカの女子学生レベッカ・ヒューゾンが、1991年に卒業制作としてハイパーカードで作った《Event Horizon》。モノクロの風景写真と、詩人ウィリアム・グルニエの詩に触発された短い詩句、それを音読する声、イメージにそえる効果音の四つを、画面右側のコントロール・パネル部分に置くカーソルの位置で、ランダムに呼び出して構成するゆったりしたリズムの作品。ここにはゲーム的なスリルはないが、ときにこちらがランダムの選択性を操作することで、その偶然的な結び付きが生みだす効果を、半ば受け身で、半ば選択的に鑑賞することができる。それは連句の座に加わって句の展開を見守る感興にも似ているといえるかも知れない。作品としての完成度はともかく、その実験的な意欲で一昨年のアルス・エレクトロニカのインタラクティヴ・アート部門の入賞作品の一つにもなったほどである。
CD-ROMの作品の例では、いまアメリカでベストセラーになっている『MYST』が、従来のゲームとはひと味違い、知的な大人の鑑賞にも十分耐えられる。霧のなかの深い海や木立の緑に囲まれた神秘的な孤島のSF的推理物語だが、林を抜けていく潮風の通奏低音が孤独感を盛り上げ、巧みに五感訴求型のメディアの効果を生かしている。作家の幅広い人生体験や五感を触発する総合的な知覚効果が、こんな形の体験型インタラクティヴ作品に生かされる可能性はこれからも増えてくるだろう。
ときにはこんな風に、これまでの歴史のなかに眠っていた古典に新しい血肉を与える文化遺産の蘇生術的メディアとして、あるいはいままで予想もできなかった幻想的な世界への道案内役として、現代のインタラクティヴ・アートにはまだまだ多くの可能性が秘められている。そして、そんな作品との出会いが、同時に従来の伝統的なアートの鑑賞形態の持つインタラクションを見直すことにもつながっている。そこからはやがて、ジャンルの枠を超えて、過去から未来までの歴史的展望を秘めた新しい時代の芸術作品が生まれてくるかも知れない。
(さかねいつお・サイエンス&アート理論)