IC9-45

物と情報のあいだ

[掲載日:]

せんだってICCから1本のビデオテープが送られてきた。今年はじめに東京デザインセンターで行なわれた高校生のためのワークショップ「光る!動く!あやしい?」のドキュメンタリー・ビデオ作品だった。このワークショップについては、本誌8号に東京都写真美術館の森山朋絵さんが書かれているので、詳述は避けるが、当時その制作の途中と最終日の本番の二度も現場に足を運んでその経過を目撃した私にとっては、現場の生徒たちの高揚した雰囲気が鮮やかによみがえってきて、おもわず感激を新たにした。なかでも印象的だったのは、参加した生徒たちとチューター役の6人の大学生が、ワークショップ終了後の短いインタヴューで見せた生き生きした満足感と表情だった。そこにはいまの学校生活ではほとんど味わうことのできなくなった手や五感による問題発見や、その解決のプロセスを通じて享受できた楽しさが素直に伝わってくる。現代の、とかくコンピュータやビデオの端末との対話ばかりに走っている情報優先型の教育現場では見失われがちな大切なものの一つを、彼らは全身で再発見したようであった。

その彼らの喜びがどこからきているのか、いま大人たちはじっくりと考え直してみる必要があるのではあるまいか。

一つの理由はもちろん、この企画自体のユニークなコンセプトにもよっている。制作のテーマが、一種の連鎖反応ともいうべき玉突き方式の原理による制作を目指していたため、参加者たちの推理力や想像力が自由にのびのびと触発されたからである。それはテレビゲームの謎解きに似たスリルにも通じるものだったかもしれない。あるいは見知らぬ仲間と、数日のワークショップを通じて友情を育てることのできたチームワークの楽しさも挙げていいだろう。しかし、それ以上に見落とせないのは、現代の情報環境化する生活のなかで、人々が次第に触れる機会を失った「もの」そのものとの対話がもたらした、手応えのある楽しさではなかったか。ここでの「もの」は、電機部品のジャンクや、ガラクタのようなそれ自体では巨大ゴミの一つともいえる、本来の機能を失った物質のかたまりだったが、それらのなかに、彼ら自身で新しい文脈を探り出し、新しい意味を再創造していく作業の楽しさこそが、このワークショップの醍醐味になっていたとみていいのではあるまいか……。

考えてみれば、これらはすべて、決して今日生まれてきた新しい価値というわけではない。むしろ、大昔から人類が積み重ねてきた創造作業の原点だったものである。しかし、こんな「もの」との対話が、いまさらあらためて新鮮に思えるほどに、私たちの生活のなかでは、手を使って「もの」の意味を再発見する喜びが失われ、映像や情報的なデータとの対話だけに明け暮れがちになってきている。若者たちにとってはなおさらのことであって、それだからこそ、この再発見の感動が大きかったのではあるまいか。

そう思って、ここ数年の世界のメディア・アートの流れを振り返ってみると、そんな「もの」との対話や、五感の触れ合いへの郷愁が、何度となくかたちを変えて出現していたことに改めて気づかされる。あの国際的なコンピュータ・グラフィックスの大会であるアメリカの「SIGGRAPH」でさえ、数年前までは大ホールでのビデオ・アンド・フィルム・ショーが全体のハイライトであったのが、ここ1、2年来、“明日のリアリティ”や“マシン・カルチャー”の展示のように、もっと五感やからだ全体を使って対話できるインタラクティヴなアート展示への傾斜が、次第に強まってきているほどである。

いや、これは単なる情報から物への意識の流れにとどまらない。むしろ映像情報の氾濫のなかで失われがちな肉体性の復権をよりはっきりと打ち出したアートの作品までが、ここ数年のあいだには世界的に増えてきているのである。サンフランシスコのマーク・ポーリーンの率いる「サヴァイヴァル・リサーチ・ラボラトリー」の、五感に強烈な痛みを感じさせるほどの暴力的なアートの出現や、オーストラリアの作家ステラークが肉体のなかの筋電や心臓の鼓動、血流や呼吸までを各種のセンサーや電極を介して増幅し、さまざまな映像、音や光、機械を操作して行なったパフォーマンスの出現は、そんなアーティストの側からの発信の例である。日本では小竹信節をはじめ、何人かの作家が同様な文脈の上で健闘している。

それだけではない。オーストリアのリンツで毎年行なわれているメディアのイベント「アルス・エレクトロニカ」では、91年に“アウト・オブ・コントロール”、92年に“内部からの世界像(Nano and Endo)”と、立て続けに、現代の情報化文明を、肉体や生物学的な視点から探る好企画のテーマを立てて、問題提起を訴え続けている。“アウト・オブ・コントロール”では、やはり人々の肉体的な痛みの感覚までを引き起こす暴力的なアートまでが登場して、人間性の本性の一面としての物質性、生物学的リアリティへの問題意識に訴えかけていたほどである。

たまたま同じ年に勃発した湾岸戦争で、米軍が駆使した情報化戦術の映像効果への反省が、逆に人々に忘れられていた物や肉体との対話を思い出させたということもあっただろう。人々はそのテレビ画面に流れるにおいのない血の色に、マクルーハンのいう映像のクールさというものを改めて実感したのであった。そして、それから2、3年もたつと、再び、その感慨は風化しはじめてきている。先日起こった名古屋空港での航空機事故を、世界中の人がテレビで傍観しながら、コンピュータ・コントロールによる文明の裏表を、再び強く感じたのであった。

そういえば、ここ1、2年来、マルチメディアということばが、産業界から教育界までまき込んで、新しい映像産業時代への期待で日本中が浮き足だち始めている。もとはといえば、アメリカの副大統領ゴアの情報スーパーハイウェイ構想の未来像が日本にも波及して、バブル崩壊後の新しい産業と生活の夢をそれに託そうという期待さえ生まれてきたものである。しかし、ここでもまた、テレビゲームに象徴されるインタラクティヴなパッケージ・ソフトの生産、あるいはネットワークで流れる新しい音像・映像の複合的ソフトの未来市場への期待ばかりが肥大して、「もの」との根源的なつきあいを忘れさせる風潮が出始めている。教育界でも、この映像ソフトの制作に携わる人材養成へのウェイトが高まってきて、教育現場のなかでの人間とものとの対話の必要性を訴える主張はかげをひそめがちになってきている。

じつは、この最近のマルチメディアということばは、ついエレクトロニクスによるデジタル・メディアの応用と狭義に解釈されがちで、本来の芸術や文化を生み出してきた人間のコミュニケーション・メディアの幅広さが、意識的、無意識的に産業や生産効果のフィルターを通してカットされてきているのを感じないわけにはいかない。

広義のマルチメディアには、本来人間のイメージ活動のすべてである言語や、身体表現、物や映像や音響、さらに五官を通して入ってくるすべての情報源との対話が含まれるものである。たまたまエレクトロニクス技術の対象になりにくい分野を割愛して生産効果に結びつけようとするあまり、人間の文化的産物をこの狭義のマルチメディアのコンセプトに押し込んでしまい、他の部分を無視しがちな結果に走っているきらいがある。しかしそうだからこそ、一方では、そこで欠落しがちなメディアの重要な本質に対して、常に覚めた目を持ちつづけている必要があるのではあるまいか。現実には、その盲点は経済界や官僚社会の縄張り主義ともどこかでつながっている。マルチメディア政策は、通産省も、郵政省も、文部省や厚生省も建設省も、いやすべての文化や生活のインフラストラクチャーの構造にあずかる政治的・経済的・文化的活動と結びつけて考えていかない限り、未来の人々の生き生きした生活環境の実現には結びついてこないだろう。

そして、その欠落したもののなかにこそ、じつは、こんどのICCのワークショップで高校生たちか再発見した「もの」との触れ合いや、全身を使って万物と対話することの重要性が秘められていたということではあるまいか。その対話の姿勢こそが、身障者の生活環境から高齢者の生きがいの創造までを含むすべての人々の生活文化の質的成熟につながる問題発見の芽を宿していたように思うのである。かといって、私はいままでのメディア教育をやめて、かつての工芸的な彫刻や絵画に返れといっているのではない。そうではなくて、ものや身体性を通じての教育と、映像やコンピュータ言語による教育が、もっと相補的に、有機的に行なわれるべきだと考えているのである。

それは、かつての1930年代のバウハウスの精神がもっていたさまざまな芸術・文化領域を境界を超えてつなげ合おうとしたトランス・カルチャー[★1]★1の視点にも通じるものである。ときには寺山修司の「書を捨てて町にでよ」式に、コンピュータを捨てて、山野を歩くことも必要になるだろうし、あるいは山野を歩く体験をコンピュータのイメージ体験と交流させることの実験的追求までが必要になってきているのである。

ヴァーチュアル・リアリティは、その二つのリアリティの間をつなぐメディアとして活用することで初めて意味が生まれてくる。残念ながら現代のインターフェイスの不完全さのために、それは依然としてにおいのない世界や、微妙な触覚の及ばない世界との交流にとどまっている。そして一方では、私たちの肉体の感覚自体が、その不完全なヴァーチュアル・リアリティのなかで麻痺し、鈍化していく不安さえ生じてきている。

数年前、アラン・ケイのもとでビバリウム計画を担当していたアン・マリアンは、小学生のこどもたちに海の生態圏で生きる魚や海草の世界との対話をはかるために、一方では実際にこどもたちを海岸に連れていき、魚に触れて観察させ、さらに学校に帰ってからコンピュータの上で、魚類の運動をシミュレーションする作業を行なわせ、知と感性をバランスよく結びつける教育を試みていたことがある。あるいは、腕につける羽の支持体にかかる力を通じて、羽ばたきながら空中を舞うシミュレーション装置を構想し、からだを通じて物性の世界への触れ合いを目指そうともしていた。その実験的な試行錯誤がその後どこまで成果をあげたか、まだ聞く機会に恵まれないが、いまこそこの種の二つのリアリティの間の往復運動をもっと執拗に続ける必要があるだろう。そうして、そのためにも、現代の若者たちの教育現場では、ものや自然とのからだによる対話がもっと必要になってくるのである。

そういえば、かつてロサンゼルスのワーマンとデグラーフは、「SIGGRAPH」のショーの前座としてコンピュータ・グラフィックスによる司会者の表情を、ジンバル型に前後左右上下に動かせる三次元のマウスを使って、舞台上の人物の動きにリアルタイムで追随させるデモを行なった。これは未来の電子人形芝居の可能性を先取りするもので、私はいままでの文楽の人形遣いが、将来こんな新しい三次元的マウスを自由な手さばきで操って、日本からパリの映像舞台の上に、ネットワークを介して新しいCG文楽を演出する日がくることを夢見たことがある。それは触覚的、筋肉的な意思の伝達を可能にする新しい映像ツールの夢である。それが可能になったとき、いままでのダンスや舞台芸術や、パフォーマンスは、ジャンルの壁を通過して、新しい参加型の文化を生みだし始めるだろう。しかし、そこに至るためには、いまの教育現場のなかで、「もの」と五感の対話ができる場がもっと増えなくてはならないと思うのである。

それは単にマルチメディアのソフトウェア産業の興隆のためというより、五感と肉体の発達による映像情報との対話という、人間の未来の文化的成熟までを考慮したものであるべきである。

私の手元に送られてきた一巻の「光る!動く!あやしい?」のドキュメント・テープは、わずか30分あまりの記録だったが、そのなかから私は多くのことを学んだ。コンピュータや映像教育の現場の人々にもぜひ見てもらい、学生たちと一緒にその意味や可能性を討論してほしい素材の一つである。

(さかねいつお・サイエンス&アート理論)

★1 従来の文化やメディアの境界をとっぱらって透明化し、インタラクティヴな活性化のなかで生み出されてくるハイブリッドな文化のこと(『現代デザイン事典1994』[平凡社刊]巻頭論文参照)。

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