IC19-43
自分とは
[掲載日:]
人はしばしば言う。自己の自分が大切だ。自己との出会いが肝心だ。デルポイの神託にはこうあったという。「汝自身を知れ」。
言いたいことは判らぬではない。そういう表現で求められる何事かがあることは否定しない。しかし、およそ人間が「自分と出会った」り、「自分を発見した」りするとはどういうことなのか、はっきりせよと言われて、明確に答えられる人がいるとも思えない。
そこには通常見知っている「自分」は、本来の自分ではない、という決めつけがある。
けれども私は、「本当の自分」というものを簡単に信じることができない。今ここでこうしている「自分」は、「世を忍ぶ仮の姿」であって、「本当の自分」は別のものである、という言い方が、嘘だとは言わないが、それは多少の吟味にも堪えられないだろう、というのが私の観察である。人がそう言うとき、結局は、自分を制御するための一種の「政治的」な発言をしているのだ、と私は考える。「世を忍ぶ仮の姿」の方も、それと対置された形の「本当の自分」もどちらも、実は「自分」なのであって、たまたま「世を忍ぶ仮の姿」の方の「自分」が「辛く」感じられるときに、われわれは、精神衛生上その「自分」を、「世を忍ぶ仮の姿」に追いやるのである。
いや、すでにそこにも顔を覗かせているように、「自分」なるものは、ほとんど無限後退するような状況のなかにある。例えば、上の記述でも、二つの自分を比べ、一方を「世を忍ぶ仮の姿」とし、他方を「本当の自分」と分類している「自分」がいるのではないか。そのどれを「本当の自分」というのだろうか。
ある意味では非常に陳腐な言い草になるが、「自分」が見えるのは、ある文脈のなかにおいてである。無色透明な無菌室の空中に浮いているような人間など存在しない。人間は常に、何らかの状況のなかの存在であり、文脈のなかの存在である。日常的な状況や文脈のなかで発見する「自分」は「お馴染み」の自分である。
状況や文脈が変われば、今までの「自分」からすれば思いがけない、変わった「自分」が発現することもあるだろう。それは必ずしも極端な状況、例えば戦場とか、沈没しつつある船のなか、などである必要はない。日常からの僅かな逸脱、それでさえ、「別の自分」を出現させることがある。日常的な文脈を変え、状況を変える。それを交通というなら、まさしく、人間は、交通によって、様々な「自分」に「出会う」。
そう、確かに、そこでは「出会う」という言葉が適切かもしれない。というのも、日常性の破壊は、そのまま、通常の自分ではない「自分」の発現へと繋がる場合が多いからである。しかし、それは、「新しい自分」、「本当の自分とは違った自分」なのだろうか。もちろん、日常的な文脈のなかに定着している、見慣れた「自分」から見れば、それは「新しい」かもしれない。けれども、話はそこまでだろう。状況が新しい、文脈が新しい、それゆえ、そこでの自分も「新しい」。それだけのことだ。何か特別のことが起こっているわけでもなく、自分が突然変わったのでもない。自分にそういう「面」があることを、今まで示す状況と文脈に恵まれなかった、というに止まる。
それを「発見」というなら、それは、まさしく、もともとそこにあったものが、たまたまその状況のなかで現われたに過ぎない。「発見」の契機となったのは、状況であり、文脈である。あるいは、それらの変化である。
そして、そうした「自分」を発見している「自分」がいる。新しい「自分」を、日常の「自分」とは違った「自分」だと判断している「自分」がいる。それを疑っている「自分」もいれば、そうした「自分」を発見して、あるいは「出会って」驚いている「自分」もいる。驚いている「自分」を眺めている「自分」もいるだろう。どれも、確かに「自分」である。どれも「本当の自分」である。
まさしく、「ラッキョウの皮むき」のように、どこかに「本当の自分」があると思って、色々な「自分」を剥いで捨てていくと、どこまで行っても、そんなものには「出会え」ず、最後には、無限後退のなかに雲散霧消してしまうだろう。
しかし、考えてみると、その無限後退の線は一本なのである。無限後退を軌跡に残すとすれば、そこには、一本の(複数の、ではなく)線が残るはずである。それは他者とは違う。机のような他物とも違う。まぎれもなく「自分」である。
もっとも、その軌跡となった線を、「自分」で確認することは難しかろう。生きている限り、「自分」は常にその線上にあって、その一部をなしており、線全体を見通す位置にはいられない。先に書いた「汝自身を知れ」というような言い方の示そうとするのは、こうした線全体を眺める視点を持て、ということなのかもしれないが、すでに判るように、それは論理的に不可能である。そうした線から離れて、その線を眺める視点を持ったとしても、その視点にいる「自分」はたちまちその線の一部になってしまうからである。線全体を眺める視点もまた、即座に線のなかに組み込まれるからである。
奇妙なことを書くようだが、こうして描かれた線は、その人の死によって中断、もしくは切断されるのだろうか。その問いは、実は誕生に対しても投げかけられ得る。言い換えれば、その線は誕生を起点とし、死を終点とする線分なのであろうか。
この問いに対する答えには、次の三種が考えられる。
(1)線分である。
(2)起点はあるが終点はない。
(3)起点も終点もない。
常識的な答えは(1)だろう。(2)はある種の宗教にとっては正解となるだろう。例えばキリスト教では基本的に「終わり無きいのち」を信じることになっている。その意味は、時間に関して未来に開かれている「自分」を信じることになるだろう。(3)もまたある種の宗教、例えば輪廻転生を信じる仏教にとって正しいことになるだろう。「未生なる自分」を問題にすることになるからである。
曲がりなりにもキリスト教の信仰を持つ私の立場から言えば、当然私の答えは(2)でなければならないことになる。
絶対の確信をもってそう言い切れるか、と問われれば、私は揺らぐ。ただ一つ、確かだろうと思われることがある。それは、人間がそうして描いた「自分」という線が、その線が、誰彼の目から見て、輝かしいものであるのか、貧しいものであるのか、あるいは幸福なものであるのか、不幸なものであるのか、そうしたことは一切かかわり無く、どこか、に記帳されて残る、という思いである。
その記帳を、愛と哀れみと慰めの眼差しで見守る存在を確信する。それも実は「自分」の線の一部には違いないのだが。
(むらかみよういちろう・科学史)