IC18-37

「新しさ」の発見

[掲載日:]

大航海時代が一段落した後のヨーロッパは、文字どおり「新しい」時代を迎えた。すでにエンリケ航海王子の時期、ポルトガルの王室は、アフリカ西岸の各地からもたらされる新しい文物に強い関心を抱いた。もちろん、黄金や奴隸の魅力もあったには違いないが、新しく着岸した土地の風物や、そこで得られる、それまでヨーロッパの人々に未知であった細々としたもの、動物、鉱物、植物の類に王室の人々は魅せられた。それらは、当時はほとんど秘密にされたと言われる。

しかし、こうした新航路は、所詮ポルトガルの独占のままではいなかった。ポルトガルが巨大な資本を費やして発見し、征服した、新しい(無論ヨーロッパ人にとって)土地もまた、彼らの独占することのできないものであった。かくしてヨーロッパの人々は、「新しい」土地からの「新しい」文物に、無邪気な好奇心をかきたてられることになった。

一般に、こうした関心は「博物学」という言葉で総括される。確かにヨーロッパは、古典ギリシア、あるいはより明確には古典ローマに遡れる博物学の伝統の継承者ではあった。プリニウスの博物誌は、ヨーロッパの学問伝統の中心でもあった。それは、古典時代とは違って、神の創造の手の働いた結果、つまり神の計画の実現される現場についての、総合的な知識をわれわれに与えるものとして評価された。『創世記』においては、神がこの世界を創造する有り様が、克明に語られる。草木が造られ、空を飛ぶ鳥、地を這う動物、水の中を泳ぐ魚、そして地の上の獣、すべてが神の手によって造り出された、と紛れなく述べられている。

博物学は、この神の創造の行為を確かめる学問だった。そして、古くからの文献と自分たちの経験は、そうした神の御業のすべてを見せてくれるものとして受け取られてきた。

しかし、「新しい」土地からもたらされるさまざまな文物は、それまで文献と経験が教えてくれた世界が、実は神の広大な御業のごく一部にしか過ぎないことを、更めてはっきりさせたと言える。アメリカ大陸、アジア大陸、そしてそれらを繋ぐ大海洋には、それまで彼らに知られてこなかった「驚くべき」ものが、ふんだんにあることが判った。神の御業の限界は無限とも思われるほど拡大された。それらが『新世界からの喜ばしい知らせ』(Joyfull News out of Newe found World, 1577 [この綴り字は当時のもの])などという題名の書物になって、人々に伝えられた。

この「喜ばしい」という表現の意味には、一つには、こうした新しい文物のなかの相当のもの、特に植物類が、「薬」として利用することが期待できる、という実利的な側面が含まれていたことは間違いないが、しかし、根本的には、自分たちが考えてきた神の御業の世界が、ほとんど限りなく広がっていくことへの「喜び」があったのである。

こうして、ヨーロッパ人たちは、「新しいもの(News)」に対する関心を卒然とかき立てられることになった。実際16、17世紀のヨーロッパでは、知識人のみならず、一般の人々の間にも、「新しい」もののコレクションが熱病のように広がっていった。人々は、家のなかの廊下にアルコーヴを整え、そこにキャビネットを埋め込んで、そのなかに何重にもなった観音開きの扉を持つもの入れや棚を造り、「新しい」と思われるものなら何であろうと、並べ立てた。南海で採れた貝殻の隣には、どこかの鉱山から採ってきた怪しげな鉱石の塊があり、その隣には「鳄の鱗」と称するものが、大切そうに安置されている、といった具合であった。ドイツ語の「好奇心に溢れる」という意味の言葉は〈neugierig〉であるが、これは文字どおり「新しいもの好き」という語感である。言い換えれば、「好事家」たちが跋扈していたことになる。

この現象自体は、むしろ軽薄な流行に過ぎないという評価も可能だろう。実際のところ、こうした現象から直接知識上あるいは学問的な成果が生まれたと思われるところはほとんどないと言ってよい。しかし、ヨーロッパの歴史を振り返ったときに、このような「時代」の存在は決定的な意味を持っていたと私は考える。

中世からルネサンスまでは、ヨーロッパでも〈something new〉がもて囉されることはなかった。「古い」こと、「古くから」時間の経過を経て認められ続けてきたこと、そこにこそ価値がある、と考えられてきた。一つには、ヨーロッパにとって、永く巨大な過去と考えられてきた古典ギリシア・ローマ文献類と、そこに盛られている知識や学問が、あまりにも「決定的」だったからであるが、しかし、それを割り引いても、「新しい」ことに価値があるという考え方は決して主流ではなかった。コペルニクスは太陽中心説を説いた自著『天球の回転について』(1543)の序文で、この書物の中で自分が書くことは、すでに過去に多くの著者たちが述べてきたことに過ぎないと明言している。

17世紀になると事態はすっかり変わった。1662年と言えば、イギリスで王立協会が設立された年であるが、この組織が造られた理由の一つは、「新しい」ことを発見したという人々の主張を整理・登録し、最初の発見者の権利を擁護するところにあった。ニュートンとフック、ニュートンとライプニッツなど、すでにこの時期には、自分こそが重力、あるいは微分法の最初の発見者である、というような諍いが生まれている。

学問の世界では「エポニム(eponym)」という現象が見られる。「シュレーディンガーの」波動方程式、「ハイゼンベルクの」不確定性原理、「アハラノフ=ボーム」効果など、現代の物理学の世界ばかりではなく、さまざまな分野で、原理や法則や現象の前に、それを最初に発見した人の「名前」を冠せることを言う言葉である。

こうした「エポニム」もまた、「新しい」ことこそが価値があるという16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパで確立された考え方の、反映の一つである。同時に見逃せないのは、それがあくまでも「個人」との関わりとして捉えられているという点である。「新しい」ことを発見したのは「個人」でなければならず、「エポニム」によって永く称揚されるのも「個人」である。ここでは人間の匿名性は、顧みる価値のないものとして捨てられている。

18世紀啓蒙主義を経た今日のヨーロッパでは、「新しい」ことは、神の御業の世界を広げるから「喜ばしい」、ということにはならなくなった。「好奇心」は独り立ちをし、好奇心に駆られて〈something new〉を追いかけることが、科学研究の基本として理解されるようになった。19世紀のことである。以後、飽くなき追求が「新しい」ことに向けて続けられ、それを達成した「個人」は「エポニム」を得、時にはノーベル賞を得るようになった。彼らの言う「独創性」とは、まさにこの価値観に支えられる。

(むらかみよういちろう・科学史)

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