IC16-22

二つの文化

[掲載日:]

ある年代以上の知識人なら、欧米でも、そして恐らくは日本でも、「二つの文化」というと、あれかと思われるに違いない。そう、あれである。

1959年5月、C・P・スノウは、その後長く多くの論争の種になった講演を、ケンブリッジで行なった。「二つの文化」(邦訳『二つの文化と科学革命』松井巻之助訳、みすず書房)である。スノウの母国であるイギリスにおいて、もしかすると最も顕著であった(である)かもしれない人文系の「文化」と理工系の「文化」との乖離を指摘し、この乖離を乗り越えない限り、科学技術革命を迎えつつある世界のなかで、イギリスは立ち遅れるのは必至である、という国内的な警告と警世の発言であったものが、そうしたイギリスの国内的な状況をはるかに凌駕して、一般論として受け止められ、まれに見る論争や論評の対象となっていったのは、二つの文化の乖離現象がイギリスにおいて最も顕著であったとしてもなお、先進圏における一般的、普遍的な問題として暗々裡に認識されていたからであろう。

ここで議論するつもりはないが、少なくともイギリス固有の問題として見る限りでは、スノウの発言は当時として当を得ていただけではなく、「イギリス病」と言われたような状況を多少とも予言し得ていたと言うことができるだろう。スノウ批判の集中点の一つは「文化」という言葉遣いで、たしかに「文化」という言葉で表現されれば、イギリスには伝統的に人文系文化に劣らない科学系の「文化」があって、しかも、そこに属する知識人は、決して科学だけを信仰する“Fachidiot”(訳すれば「専門馬鹿」であるが、どういうわけか、ヨーロッパ語では、このドイツ語の単語が最も端的な表現力をもっている)ではなく、古典語にも通暁し、芸術や文学にも十分な教養をもつという点では、ほとんどのアメリカ(まして日本)の科学者たちは及びもつかない。つまりスノウの発言は、「文化」という言葉のもつある側面からすれば、イギリスにおいて最も不適切となるとも言えるのである。

しかし、社会の機構を動かし、機能させる組織的な体制、具体的に言えば政治組織、そして国家や地方自治体などの官僚組織、あるいは教育組織などを中心にして、社会全体の支配構造は、イギリスにあっては、圧倒的に人文系の教養に傾いた人材によって動かされており、科学とりわけ技術は冷遇されてきたこともまた、はっきりした事実である。スノウが言いたかったのは、その点だったはずである。

しかし、そうした個別イギリス的な事情を越えて、問題が普遍化した理由は、(先進圏の国々が、程度の差こそあれ、イギリスに似通った事情を抱えていることは措くとして)人文系と理工系の「文化」の乖離という現象が、一種の社会問題として認識されたからであった。言い換えれば、これら二つの知的な活動領域の間には、知的な交通が途絶しているという問題が、明確化したからであった。

一般論として見れば、この問題はむしろ激化こそすれ、各国において解決の方向へ向かっているとは言い難い。日本を取り上げて見ても、かつて30年前には、大学の一般教養科目として、文科系、理工系を問わず、人文、社会、自然の三系列に亙って、それぞれ三科目以上、12単位以上を修めることが必修として義務づけられていたし、少なくとも国立大学では、受験科目は理工系も人文社会系も形式上は区別がなかった。現在では、高校教育の段階で、この二つの系列はすっかり切り離され、例の「大綱化」以来、大学教育における一般教養の占める位置は、下がる一方である。専門科目を大学教育の前半に降ろそうという圧力は、大学の内部にむしろ強い。大学の大衆化と、専門教育の早期化、強化とは、明らかに矛盾するにもかかわらず、である。こうして、教育制度のなかで、人文系と理工系とは早くから分断され、それが奨励されている状況にある。

大学教育の本体を、多様な知識領域どうしの間の交通の場として捉え、あるいはその交通を促進する場として理解し、教師も学生も、その場にあって、領域に閉じこめられていては行なえないような発見を期待する、という考え方、さらに言えば、専門的な教育・研究活動(大学院における)も、そうした交通と発見の上にはじめて実り豊かなものとなり得るはずだという考え方は、「専門教育」、「研究指向」のスローガンの下で、もはや生き残ることができないかに見える。かつては教養学部という、国立大学として(まして私立大学では希有な)稀な組織を手掛かりに、“later specialization”つまり「専門化をできるだけ後に延ばそう」という理念を掲げていたはずの、東京大学教養学部教養学科にさえ、その理念の継承はおぼつかなくなっているように見える。

しかし、世界的に見たとき、新しい芽が感じられないわけでもない。例えばアメリカの知識人の一部に「第三の文化」という概念が生まれ始めている。そこに属している(と自認する)人々は、ピア(狭い専門を同じくする少数の同僚たち)だけを相手に研究論文を書くだけでは満足しない。自分の得た知識の面白さを、多くの人々に分かち合って貰おうと、一般の読者を相手に書物を書く。とくに理工系の文化に帰属する人間にとって、一般向けの書物を書くことは、極めて危険な企てと考えられてきた。その人はピアからは、もう仲間とは見なされなくなる覚悟が必要だったし、多くの場合実際にそのように扱われてきた。今でも事情は本質的には変わっていない。けれども、何人かの人々は、そのタブーを積極的に破り始めている。専門的知識を、閉鎖的に専門仲間の間だけの交通に止めず、スノウ流に言えば、個別の文化を越えて広げるための交通のネットワークを造り、あるいは自らその役を買ってでる、そういう人々が、すこしずつ目につき始めたのである。典型的な例はスティーヴン・グールドだろう。日本では生命誌研究館を実現した中村桂子もその一人と言える。草思社の「サイエンス・マスターズ・シリーズ」という企画は、その意味で最近の注目すべき現象である。

ことは人間個人に止まらない。概念や理念、あるいは手法というようなレヴェルでも、同じような越境的かつ「第三文化」的な性格のものが、ここ20年ほどの間に目立ち始めている。マンデルブローの「フラクタル」概念は、数学という専門領域を飛び出して、物理学や生物学はもちろん、美術や音楽にまで広がりを持つに至っている。

知識の流通は広く大きい方がよい、という一般論は、啓蒙主義的価値観の結果に過ぎず、それが人間にとって常に善であるという判断に私は与しない。オブスキュランティズムと言われようと、知識の流れ込みを拒否する権利が人間個人にとって大切となる場合があることを、私は主張するに吝かでない。しかし、知識の面から考える限り、今生まれつつある新しい交通のチャネルに期待を繋ぐことに私は躊躇しないものである。

(むらかみよういちろう・科学史)

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