IC11-43
知識の流通
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知識というものも、水に似ているところがある。つまり、一般には高い方から低い方に向かってそれは流れることになっている。知識を多く蓄えている貯蔵庫は、その意味では、知識の水源地のようなものである。現在電子機械的な方法でこれが行なわれれば、それがまさしくデータベースということになる。人は何とかその水源地へのアクセスのチャネルを造って、そこから自分の手許に水を引こうとする。単なるデータベースではなく、そこにある程度の判断や、それに基づく選択や編成の作業が加われば、いわゆるエキスパート・システムであるとも言えよう。興味深いことに、この水源の比喩が、ある意味では知識にとって根本的に妥当でない側面が一つある。それは言うまでもないが、水源に結ばれたチャネルに水が導かれれば、当然、水源の水は減少する。今年の夏は日本中で、水源地の水の減少に悩まされた。しかし、知識の場合は、源の知識は、いくら使われても減らないのである。
ところで、これが生身の人間である場合にはどうか。多くの場合に、教師と呼ばれる存在が、これに類する機能を果たすことになる。そして社会はそれを支えるために、学校という一つの制度を造り出した。もちろん学校という制度が保証している機能は、子供たちに知識を与えるというものだけであるわけではない。
しかし、そもそもが、集約による能率化という観点を学校から取り去ることは難しいのであって、それが教育の本質から言えば、必ずしも歓迎されないことであったとしても、学校が保証している機能、それも最も主要な機能が、集約による能率化であろう。大勢の子供たちに一人の教師が、同時に水源の役割を果たすわけである。それができるのは、知識には、先に挙げた特徴、つまり水と違って知識は、使われても減ることがない、という特徴があるからである。
そうした集約的な知識の利用ということで言えば、もちろん、現在発達中の電子メディアによるデータベースは、学校よりもはるかに集約的である、という見方も成り立つ。大学における大教室講義では、一部では600人を超えるものがあるとしても、電子メディアのネットワークの集中化では、原理的には、実際上無数の利用者が集中することができるからである。
しかし、学校の機能はそれだけではない。大切なことの一つは、それが勾配のある場であるということである。教師と生徒との関係は、もう一度それだけが教育のすべてではないものの、と付け加えたいが、少なくともある一面では、知識を持つものと持たないものとの関係であり、そこでは知識は教師から生徒に向かって流れることが最初から期待されている。
その際、重要なことは、そこに発生する場が、制度として勾配を備えているということである。その勾配は、再び、歓迎されざる言葉遣いであることを承知で言えば、権威の構造と言い換えてもよいものである。教師とは権威ある存在であり、生徒はその権威に対しては敬意を払い、それを尊重するという前提を伴うものである。
そのことは、文字通りの実体的な構造である必要はない。言い換えれば、一人一人の教師が、生徒から見て、権威あるものとして実際に尊敬できる存在であることは、必ずしも要求されない。それは人間社会のなかで望むべくもない話だろう。ただ少なくとも、教師も、生徒も、ともに、教室にあるときには、教師が権威あるものとして振る舞い、生徒はそれを尊重する、という約束の上で、その関係が結ばれている、ということを、形式的に認めるということが、必要とされるのである。
かつて天皇機関説という考え方があって、純粋の天皇主義者から激しい非難を蒙ったが、その言葉遣いを借りれば、教師機関説とでも言えばよいのだろうか。教師は、もちろんあらゆる点で、生徒や学生から尊重される存在であるにこしたことはないが、しかし、そのこととは別個に、教室という知識の流れの場においては、その流れのスムーズな流通と吸収とを保証する条件の一つとして、教師という機関は、その機関に対して社会が容認した権威を以て立つことが認められている必要があるのだ、とも言えよう。
戦後の教育の「民主化」なるもののなかで、こうした仮構の、しかしそれなりに重要な教育の構造が、ともすれば破壊され、生徒にとって友達のような教師像が理想とされることによって、なし崩しにされてきたことは、果たして正しかったのかどうか。直接の話題からは外れるが、ここで問うておきたい。
もちろん、学校の機能、あるいは教師の機能は、一方的に利用者である子供たちや、学生に、知識の水源から、知識を流し込んでやることだけにないことは、繰り返し注意してきたことである。流し込まれる知識を疑い、それに疑問を向け、自らの新しい判断を造り出すことのできるような働きを、生徒や学生から引き出すことも、知識を伝えることと同じ程度に重要であるに違いない。そのためには、上に挙げたような、勾配を持つ場を設定することは、妥当ではないのではないか、という議論は十分検討しなければならない。
しかし、大切なことは、知識の流れにおいて、とりわけ集約的に行なわれる場合には、そのような勾配を前提にすることは、決して否定できない、という論点であり、教育の場に携わるものは、この一種の矛盾を常に、自分に引き受けなければならないことを自覚しているということだろう。その自覚なしには、教育は成り立たないと私は考えている。
興味深いことに、というか、当然のことにと言うべきか、この点は、電子的なメディアに関しては成り立たないと言ってよい。生身の人間が造り上げる場であるからこそ、このような仮構の勾配ある場が求められ、かつそれが機能を発揮することにもなるのであって、それは、人間の造り出す「社会空間」と、その空間のなかでの人間の状態との間に、不断に変化する複雑な関係が存在するからである。
現代社会は、確かに「人間=機械」系と呼んでよい社会である。言い換えれば、かつてのように、社会共同体が、基本的には、文字通りの、人間の集団であるわけではなく、人間どうしの関係の間に様々な形での機械や人工物が介在し、そうした人間と人工物の共存する状態を「社会」と呼ばなければならなくなっている。「情報」という概念は、まさしく、そのような、人間と人工物とが共存する社会のなかで、流通する知識である、という定義が可能かもしれない。
情報の定義は数多くあるが、有力な定義の一つに、「情報が伝えられる」ことは「無知が減少する」ことである、というものがある。この定義になにがしかの真実があるとすれば、「情報」は「知識」であるか、そうでなくとも「知識」と深い関係を持つ何かであることは確かであろう。しかし、例えば、学校で、生身の教師と生徒との間でやり取りされ、流通する知識を「情報」と呼ぶことは、全くではないにせよ、現代においても極めて少ない。しかし、「これはテレヴィジョンで得た知識だけれど」という言説のなかの「知識」を「情報」に置き換えることは、可能であるばかりでなく、むしろ称揚されるだろう。
そうだとすると、われわれの現在目指すイノヴェーションは、「情報」の流通というところにあるのか、あるいは「知識」の流通をこそ目指すのか、という問いが立てられよう。
(むらかみよういちろう・科学史)