IC10-26
大学と交通整理
[掲載日:]
既成の知の組み替えと新しい知の創造という場面が、他者との出逢いによって生まれてくることが多いという事実を、前回歴史的ないくつかの都市空間との関連で考えてみた。ここでは、その認識的な構造について、論じてみることにしよう。
例えば、現在の大学への新入生の多くは、通常のコースを辿って来た高校卒業生であるが、彼らは生まれたときから高校を卒業するまでに、さまざまな機会の積み重ねのなかで、学問とはどういうものかということについて、ある種の知識を造り上げている。それらの知識はおおむね、社会のなかで広く流通している出来上がった言葉、出来上がった概念、出来上がった記号系によって構築されたものである。もちろん、それが無意味というわけではない。正直なところ、大学の入学試験でも、受験者が、社会のなかで広く流通している記号系を、どのくらい自分のものとして使いこなせるか、ということを調べることが、その一つに重要な目的であるとさえ言えるかもしれない。
しかし、実は大学において営まれている知の営為は、そのような社会に流通する記号系からは微妙に、あるいはかなり逸脱していたり、さらには、それへの直接的な批判となっていたりすることがしばしばである。そうでなければ、つまり学問の本質が(そして、それは、基本的には、今でも大学において初めて追求できるものである、という幻想を抱いておくことは、建設的であると思われるが)一般に流通する記号系と本質的に変わらないものであるとすれば、われわれは、学問の缶詰を造ってそれを市場で売り出すことができることになり、あるいはそれを買った「消費者」が缶詰から取り出した知識をそのまま咀嚼してしまえば、知識や学問について、それ以上何も考慮する必要がなくなることにもなるはずである。そこには「創造」も「新生」も、いや「変化」さえ期待できないことになるだろう。
そうだとすれば、大学に入学した学生は、それまでに修得した既成の記号系で考えることを中断し、既成の記号系で語ることを停止し、既成の記号系を通して世界を理解することを止めることを要求されるはずである。余計なことだが、大なり小なり、そのような要求を学生に突き付けないような教師は、大学の教師としての自分を恥じなければなるまい。しかし、それを実行するためには、一体何をすればよいのか。一つの望ましい方法は「カルチャー・ショック」を与えることだろう。
自分がそのなかで育ち、それによって世界を理解し、それによって他者を語り、それによって自分をも語ってきた、当の記号系、ようやくそれまでの教育と修練によって何の意識的努力もなく使いこなすことができるようになり、それによってようやく世界が判るようになったという自信さえ生まれてきた、その当の記号系が、単に、数多くのそうした記号系の一つに過ぎず、あるいは、数多くの選択肢の一つに過ぎないものであることを、はっきりと思い当たらせるようなショックを学生に与えることである。いや、それよりも前に、自分が、世界について語り、世界を記述し、他者と自分とを理解することができる、ということが、一つの選択された、出来上がってしまった記号系によってでなければ不可能である、ということを悟るためのショックこそが、大切なのだと言えよう。そして、それをしも、われわれは「カルチャー・ショック」と名付けているのだと私は思う。
そのようなショックは、言うまでもなく、「他者」との出逢いによって触発される。ここで言う「他者」とは、これまでの文脈で現われたそれとは違う。これまでに登場した「他者」は、実は、自分の延長としての他者である。そう言って悪ければ、自分を理解させてくれるのと同じ記号系のなかで捉えられた他者である。つまり、それは、出来上がった既成の(そして自分自身を成立させてくれている)記号系のなかで捉えられた他者であった。ここでの「他者」はそうではない。むしろ自分と他者との関係としてこれまで理解し、判断し、記述することを可能にしてきた生の場には、登場してこないような、いわば「理解不可能な」他者である。異なった記号系のなかで生活し、判断し、行動する存在である。そうした存在を理解するために、人間は言うまでもなく、先ずは、自分の記号系を相手に投げ掛ける。出来上がっている(と思っている、あるいは、その意識さえなく、余りにも当然として意識さえすることのない)自分の記号系の内部に、相手を引きずり込んでしまうことを試みる。その試みに失敗したとき、初めて、そこに問題が生じる。
その問題を、どのように捉えるか。第一には、自分が一つの選択された結果として存在していることについての否応のない実感であろう。それまで意識化されることのなかった、自分自身が浸っている既成の記号系の働きに気付くことが、カルチャー・ショックの構造的な性格である。自分が特定の記号系のなかで生き、判断し、行動し、理解してきたことへの、確かな自覚の発生こそ、そのショックの本質である。そのショックとともに、自己を読み解こうとする努力が可能になる。そのショックまでは、自己を構築することの努力だけに関心が寄せられてこざるを得なかったのであり、自らの記号系の自覚によって、構築されたと思われた自己自身が、なお知的探求を待つ存在であることが教えられるのである。
第二には、その自覚と、恐らくは時間の上ではほとんど同時に現われる、他者を取り囲む記号系の存在の認識である。自覚された自らの依拠する記号系の対象化ないし相対化は、同時に、それ以外の異質の記号系の可能性に対する確認を導き、かつ、その存在を実感するに到る。自らの外なる存在の確認とそれへの尊敬ぬきには、自己自身およびそれを浸している記号系の確認という作業も不可能となるはずである。
第三には、そこで知覚された複数の記号系どうしの間に「翻訳」の試みがなされるだろう。大切なことは「翻訳」とは、異なった記号系のなかで起こっていることを、自分の記号系のなかに移し換えることではない。それは「翻訳」ではない。単なる「解釈」(自らの記号系を発動させての)にほかならない。そこでは何の移動も起こらない。「翻訳」とは、最終的には、異なった記号系どうしを通約する新しい地平の創造である。いや、少なくとも、それに繋がる可能性を拓く試みである。ここに「地平」と書いたが、誤解を産み出さないことを期待したい。ここで言う「地平」の創造とは、確固たる第三の記号系が構築されることを指しているのではない。そうではなくて、二つの記号系の間を通約的に移動できる空間、あるいは余地とでも言うべきものを指している。そのような空間が保証されて初めて、人間の知の営みは、それ本来のしなやかな動的性格を発揮することができるようになるからである。
このとき人間は、初めて、真の意味での「知」の営為の世界へと踏み込むことになる。それは、自らの「知」の相対化を可能にし、そこからの移動を可能にし、敢えて言えば、そこへの帰還をも可能にする。そこでは、これまで、その社会一般のなかで流通している記号系によって秩序付けられていた「知」が一旦解体され、シャッフルされ、そして、再び、ある形に秩序付けられる。しかし、新たに創造された秩序は、仮に形の上では、その移動が起こる前のそれに似ていたとしてさえ、言い換えれば結果として自らの「知」への帰還が起こったとしてさえ、かつての秩序と決して同じものではないことに留意しよう。それは、多数の可能性のなかからの選択を、普遍的に人間に与えられた所与のものと誤認することから免れ、自らの意志による選択であることの認識に支えられ、それゆえまた、今後の経過のなかではもう一度、再解体されかつ再構築されるかもしれない可能性を胚胎するものであることの十分な容認を内包するはずだからである。
このような移動と運動の営みこそ、「知」の営みであり、それが学問の本質でもあるだろう。例えば大学とは、そのような「知」の営みの現場であり、絶えざる移動と運動の現場でなくてはならないのである。学生は、それだけの体験を大学という場で積み重ねなければならないし、教師はそれだけの内容を提供することが求められている。
かつて、そのような大学という場が用意されていなかった時代には、知の伝統は、どこであろうとそうした「翻訳」を実行する現場を造らなければならなかった。歴史上の都市、例えばアレクサンドリア、バグダッド、トレド、フィレンツェ、江戸などでは、まさしく、為政者もしくはヴォランタリーな実力者が、そうした現場を組織し、その組織の下で、「知」の組み替えと、新しい「知」の体系の創造が、実際に起こったことが確認されている。
現代では、むしろ情報の氾濫とでも言うべき状況のなかで、そのような集約的な現場を構成することが難しくなっているという現実が一方に存在する。あらゆる記号系の垂れ流し現象のなかで、一つの記号系への真摯な固執も起こりにくく、したがってまた、それへの根源的な相対化による批判と、そこからの必然的な移動とが、かえって阻害されているとも言えるだろう。
スマートに、すべてを相対化することによって、あるいは、すべてからひたすら「逃走」するという形での移動を図ることによって、結局は何ものをも産み出さない、不毛の空回りだけが目に立つという結果を招いているのでもある。もちろん、何かを産み出すということが善である、というのは、近代西欧の価値体系に固執した結果である、という批判は十分あり得るだろう。しかし、氾濫する「情報」のなかで、記号系の働きを確実に見極め、そこに働く記号系の異同を正確に腑分けし、かつ、自らの知の移動と運動の空間を確保する、という優れて知的な行為は、決して、「空回り」からは得られないものである。
その意味で、現在大学に課せられている責務は、実は極めて大きいのである。もともと、真の「知」の運動と移動の場の創設を意図して制度化された稀有の社会組織である大学が、今日ともすれば、逆に、既成の硬直した記号系の押し売りを標榜したり、あるいは、「知」ではなく、「情報」の伝達のみに浮き身をやつして、氾濫する情報の垂れ流しに手を添えている状態こそ、知的退廃という言葉をもって報いなければなるまい。
複数の記号系の批判的な変換過程(それが「翻訳」という作業の基礎である)は、しかし言うまでもなく、複数の記号系の流入する「文化の十字路」において初めて起こり得ることでもある。とすれば、そのことは大学にも保証されていることが重要であろう。したがって、流入する記号系の交通を整理し、位置付けをはっきりさせる作業は、「十字路」には決定的な意味を持つ。ショックを期待できるのも、そのような交通整理のなされることが前提となるのであって、闇雲の衝突は、カオスを産み出すのみである。急いで付け加えるが、実はカオスもまた、決して拒否すべきでない場合も十分あり得る。そのことを認めた上で、それゆえ大学においても、交通の整理には配慮しなければならなくなるのである。
(むらかみよういちろう・科学史)