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ルネサンスを発火させたもの

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ルネサンスと言えば、言うまでもなく、ヨーロッパ中世の終焉を告げる時代として理解されている。技芸の分野において、伝統的な形式や技法に対して、新しいさまざまな動きが生まれたのは周知のことだが、知識の領域でも、大きな展開、もしくは転回があった。知的伝統として、大学を中心に、明澄な論理性と合理性、あるいは静的な秩序を追究してやまなかったスコラ学に、一部の人々が不満を抱き始め、より動的、より多元的、より「不合理」とも言える新しい知の実験へと、大胆に踏み出していったのがルネサンスだった。

そのきっかけは何であったのか。むろん、答えは幾様にも与えられるだろうが、私は、その最も主要な契機は、新しい文献類の流入にあったと考えている。すでに12世紀ルネサンスにあって、ヨーロッパは、ギリシャ・ローマの文献類を初めて本格的に入手するという「事件」を経験した。これは奇妙な言い方に見えるかもしれないが、いわゆるヨーロッパという文化圏が、ギリシャ・ローマの直接の後継者である、というのは、単なる誤解に過ぎない。ヨーロッパは少なくとも学問的伝統に関する限り、ギリシャ・ローマからほとんど何も受け継がず、12世紀になって、一挙にイスラム圏とビザンツから輸入したのであった。その結果として生まれたのがスコラ学だった。

このような大規模な文献類の流入がヨーロッパに再度起こったのが15、6世紀だった。フィレンツェを中心に、この流入は、一部は当時のトルコに圧迫されたビザンツから他律的なかたちで、また大部分は意図的に収集を図るかたちで、精力的に行なわれた。12世紀ルネサンスの場合と全く同様に、文献類は単に集められただけではなく、徹底的に翻訳された。ギリシャ語から、アラビア語から、ヘブライ語から、ペルシャ語から、ラテン語への翻訳が、丹念に、徹底して進められた。そこには、それを支える人材もあった。資金面でのパトロンであるコジモ・デ・メディチ、その意を体して翻訳を統括し、自らも献身的に働いたマルシリオ・フィチーノのような人物がその場に関与していたのであった。

こうして、すでに成熟した知識の伝統があり、それを支える大学と修道会を中心とした制度も完備されているところへ、それとは極めて異質な、新プラトン主義的と一応は概括できる、しかし、内容は極めて多岐に亙る思想を盛り込んだ文献類が、大量に流れ込んだのである。

ヨーロッパの知識界が色めき立ったのも当然と言えるだろう。しかし、その結果は、12世紀ルネサンスの場合とはかなり異なっていた。12世紀ルネサンスにあっては、ヨーロッパの伝統はキリスト教しかなく、それとハーモナイズし得るものとして、ギリシャ・ローマの思想のなかから、アリストテレス主義が選ばれた。そして、結果として、曲折はあったにせよ、キリスト教とアリストテレス主義の混淆体系であるスコラ学が、統一的な知的伝統を形成することになった。

しかし15、6世紀のヨーロッパの場合には、流入する「異形の」思想を選択することも叶わず、カバラからヘルメス主義、魔術から純粋のプラトンの著作まで、実に多種多様な文献類がもたらされた上に、それに対するヨーロッパ側の反応も、極めて多様になり、多岐に分かれることになった。キリスト教という基調となる根本的な思想だけは一様に、しかしその上に構築される体系はさまざまに、この時期のヨーロッパは、極めて実り豊かな反応を示したと言えるだろう。

ここには、一つの統一的な思想体系が支配する文化圏に、新しく外からもたらされた「異形・異質」の思想が取り込まれたときに、どのような生産的な反応が起きるか、という歴史的実験のまことによい実例がある。

ところで、これまでわれわれは、このとき起こった反応を、理解し損なってきた、という感を私は持っている。例えば、このルネサンスの「成果」として、われわれは、コペルニクスやケプラーの「近代的天文学理論」の誕生を挙げるだろう。あるいはガリレオやデカルト、場合によってはニュートンの仕事も、そこに含められるだろう。ニュートンは1642年に生まれて、1727年まで生きていたから、「ルネサンス」の思想家とは言い難いという側面があるが、ルネサンスの「余波」あるいは「第二波」と言えばそれほど抵抗はないと考えられる。

しかし、もしそのように言うのであれば、例えば、ヨーハン・アンドレーエ、パラケルスス、ピーコ・デラ・ミランドラ、ジョバンニ・バッティスタ・デラ・ポルタ、ロバート・フラッドなどの仕事も、同じように扱わなければ不公平というものであろう。いや、ルネサンス期を語るのに、こうした名前は不可欠だとおっしゃる方も多かろう。しかし、「語り方」が、問題である。多くの場合、前のパラグラフで挙げられた人々を一つのグループ(Aグループとしよう)にした上で、このパラグラフのなかで挙げられた人々(Bグループと呼ぶことにする)がそれに対比されることになる。ルネサンスの「暗い」(この形容詞は「非近代的」を表わすべく比喩的に使われているが)面を強調したいと考えれば、Bグループが表に扱われ、「明るい」(近代的な)側面を強調したい場合には、Aグループが主役として扱われる、という具合で、この二つのグループは、はっきり異なった方向を示唆するものと考えられてきた。

果たしてそのような図式的な解釈が歴史に対して正当であろうか。

詳論する暇はないが、私の主張は、こうである。そもそも、AとBとに分けること自体が、現代的な視点をルネサンスの時代に持ち込んでしまう誤りを犯しているのではあるまいか。現代的な後知恵ではなく、ルネサンスの時代により即して眺めれば、実はAグループの人々の思想のなかにも、Bグループの人々に特徴的と思われているものを探し当てることは容易であるし、その反対もまた同様であるのではないか。

もっと直截に言ってしまえば、もともとルネサンス時代にはAグループとBグループとを区別することなど不可能だったのではないか。コペルニクスとパラケルススとの間に現代のわれわれが置いている距離、あるいはケプラーとフラッドの間にわれわれが現在感じている距離は、実際にかれらの時代には、存在しなかったのではないか。

問題をこのように立ててみると、15、6世紀ヨーロッパに起こっていたことは、これまでとは少し異なった姿をわれわれに見せてくれるように思われるし、その姿こそ、ルネサンス理解にとって重要なものではないかと考えるものである。

ルネサンスを発火させたものの画像
ルネサンスの人文主義者たち。左端がマルシリオ・フィチーノ

(むらかみよういちろう・科学史)

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