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移動と生

漱石を巡って

[掲載日:]

漱石の『行人』のなかの直子は、夫の一郎から、義弟の二郎とのなかを疑われている。二郎は、自分にとって嫂に当たる彼女を、どういう事情でか、はっきり書かれてはいないが、とにかく兄と結婚する前から知っており、それが、一郎の疑惑の一部を構成していることも知っている。無論、二郎には自分からその関係を積極的に進める意志も勇気もないが、その状態が自分にとって全面的に不愉快でも迷惑でもないことを、感ぜざるを得ないのでもある。

その直子が、家を出て下宿をした二郎の部屋を、里帰りの帰路に訪ねる場面がある。雨の降りしきる春寒の宵になって現われた、この蒼白い頰と淋しい片髷をもった女は、自分の前に座って、火鉢に手をかざす。二郎は、その訪問にあやしい疑いと惧れと、そしてひそやかな期待を覚えつつ、世間話を交わす。この体験が、二郎にとっては衝撃的なものとなったことを、漱石は鮮やかな筆致で描く。

そのまとまらない直子の話のなかに、彼女と、兄一郎との関係が、二郎が家を出たあとも、好ましくない方向に向かって進んでいるという件りが挟まれている。二郎が、近々自分が外国へでも行ってみたいと、計画とも希望ともつかない言葉を述べたとき、直子は「男は気楽なものね」とつぶやく。「男は厭になりさへすれば二郎さん見たいに何處へでも飛んで行けるけれども、女は左右は行きませんから、妾なんか丁度親の手で植ゑ附けられた鉢植のやうなもので一遍植ゑられたが最後、誰か来て動かして呉れない以上、とても動けやしません。凝としてゐる丈です。立枯れになる迄凝としてゐるより外に仕方がないんですもの」。

小学生のころから繰り返し読んで、ほとんど暗記している行文だが、この個所にはいつもどきりとさせられる。とりようによっては、二郎に「来て動かして呉れ」、その「誰か」になって欲しいと痛切に訴えているかにさえ聞こえるこの直子の言葉は、少なくとも読者にとっては衝撃的に映るが、不思議なことに漱石は、二郎がそこまで感じたとは書いていない。

この思いがけない訪問が何を意味するのか、二郎があれこれ思い悩む有様は、かなり執拗に描く漱石だが、直子にこれほど大胆な言葉を吐かせて置きながら、漱石が女性に対して常に抱くイメージである「無意識の偽善」(中野好夫は「われにもあらざる役者」という訳を残した)さながらに、作者の漱石自身がここでは「無意識の偽善」を決め込んでいるようにさえ見える。直子の発言のこの個所は、その後直接には全く触れられていないからだ。

しかし、もし私が二郎だったとしたら、直子の発したとされる言葉のなかで、この部分こそが、焔となって激しく心を焼いたに違いないと、いつも思ってきた。一面では、それが漱石の心理描写としてはやや空々しく響くからでもある。漱石が描く女は、ほとんどいつも、男のエゴイズムから見れば「無意識の偽善」のなかで行動すると映るような女である。『三四郎』の美禰子にしても、『明暗』の延子や清子にしても、『坑夫』では、直接は登場しないままに、しかし主人公が東京を逐電する原因を造ったとして言及される女性にしても。そして、それらの裏返しとして描かれる『門』のお米も。

男が来て動かさなくとも自分で動こうとし、あるいはそのふりをして見せることによって、男の方が動かされて「丸くなったり四角くなったりする」ことこそ、漱石が小説で描こうとした永遠の主題だった。お米はまさにその反対の像として、言い換えれば「偽善」の欠如として、描かれている。ある意味では、直子の振る舞いに翻弄される(と自分では感じている)一郎もまた同じテーマのなかの人物であるはずだ。その点から見れば、この直子の言葉は、衝撃的には違いないが、皮相的でもあるからである。まあ、そういう言葉を吐くことによって、二郎を「動かそう」としていることは、当然認められるにしても、である。

しかし、そのことに立ち入るとすれば、漱石の作家論の問題に踏み込むことになるだろう。ここでは、それを論じるつもりはない。要は、あのような状況下に、あのような言葉を聞かされて、自分が直子を「動かす」かどうか、考えない男はいまい。それは男の自惚れにも通ずるが、直子の言葉はまさしくその自惚れを引き出すために用意されたものでもあるはずだからである。

女は大地に根を下ろし、根を張って、動かない。動くとすれば、男が来て「動かす」ときだ。それは世間的な常識でもある。漱石にこだわるとすれば、『それから』の代助は、かつて旧友に譲った三千代に、自分の愛を打ち明けた後、これからどうするという場面になって「漂泊――」と尋ねる。三千代はほとんど自棄的に「漂泊でもいいわ」と答える。ここでは、大地に根を下ろした状態を犠牲にする三千代の決心が語られているとも解釈できる。いずれにせよ代助は、平岡との生活に倦んで、そこから脱出するのであれば、どんなことでもしようとさえ、意識の下で感じていた三千代のところへ「来て動かす」役目を果たした。

『それから』を受け継いだ「門」における夫婦は、おそろしく小市民的でつましい形ながら、「動かない」状態として描かれている。それはあたかも漱石にとって理想の世界のようでさえある。それほど、かれら二人の生は、漱石の筆の前に愛おしげに表現されている。その穏やかで動かない生に、暗い不安を投げ掛けた、細君のお米のかつての夫である安井の出現も、とりあえずは何事もなく済む。将来への漠たる不安を残しつつも、漱石ともども読者はそこでほっとし、小説は終わる。

こうしてみると、大地に根を張って動かない、という「女の状態」は、実は男のエゴイズムの理想とする生でもあるのかもしれない。というより、男はそういう女を望み、かつそういう女に寄り添って生きることを望んでいるとさえ考えられる。何のことはない、男の方が「動かない」状態が欲しいのではないか。

移動は生を変える。それは、環境が変わるからだけではない。空間の移動そのものがすでに生への変化をもたらす。空間を動くことは、心も意識も動かすことになるからだ。子供っぽいと嗤われるのを覚悟で言えば、旅に出るために列車や飛行機に乗り込んで、自分が動き始める瞬間、今でも私の心も踊るように動き始めるのだ。あのときめき、それは移動そのものがもたらしてくれるものだ。

もう一度漱石を引用すれば、『虞美人草』で、京都から宗近君や甲野さん、それに小夜子らを乗せた汽車が東京を目指すとき、あるいは『行人』で、主人公の二郎らが関西からの旅行から列車で帰京するとき、それは常に生の転換を意味している。移動は生を変えるのである。それを望んでいるのが男か女か、その双方か、漱石は男にそれを帰しているようで、結局は女にこそ暗黙にそれを帰しているように見える。まあそれはどちらでもよいことかもしれない。

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