IC6-25
常に1からの出発
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普段はとくに気にならないことが、突如気になり出したという体験はどなたにもおありだろう。今、ちょっとその状態にある。今回気になっているのは、生きものはどうして、常に1から出発という方式をとったのだろうということである。誰もが親から生まれる。両親からDNAを受け継ぐ。しかし、この時に、必ず受精卵というたった1個の細胞から始まるのだ。体を半分渡すということはしない。いや、指1本だって渡さない。自分自身を構成しているものを譲るのではなく、自分の身の内にはあるけれど、本人が生きていくためにはあってもなくてもよいものから次の世代を作るのである。そのあってもなくてもよいものとは、卵と精子である。
指とか髪の毛などを考えているうちは、中古品を貰うよりは、新品を作った方がよいに違いないので、新しく作り直す方法のよさも理解できる。しかし、脳になるとちょっと違う。モーツァルトの脳だ、アインシュタインの脳だと言わなくても、懸命に受験勉強をして歴史の年表をみんな憶えてしまったとか、長い滞米生活で英語を母国語のように操れるとか、そんなものを獲得した脳がすべて一代限りで誰にも譲れないのはなぜだろうと思ってしまう。コンピュータなら、メモリーを移すことができるのに。もちろん、コンピュータのメモリーは、人間のメモリーでもあるわけで、そこに蓄積していけばよいのだが。
そんな風だから、人間をも含めて生きものの変化は遅々としている。藤ノ木古墳に見られる装飾品、エジプトのピラミッドから発見される数々の装飾品などの造りを見ると、現代作家の作品と比べて決して見劣りするものではない。見方によっては、昔のものの方が優れているようにさえ見える。恐らく、脳と手の組み合わせによる表現能力は、ほとんど変化していないのだろう。もっとも、科学的知識は、外部に蓄積され、教育という形で伝達され、その知識を活用した技術の産物としてかつては存在しなかったモノたちが身のまわりに増えてはいる。電話、テレビ、ファクシミリ、ビデオ、CD……。しかし、そのメディアで伝えられる内容は、どれだけ変化しているかと考えると、あまり変わっていないような気がする。
なぜ生きものは、こんな風なのだろうか。などと問うても、その理由は分からないのだが、少なくともこの系は、常に常に新しいものを作って、それの持っている可能性を試すという性質のものなのではないかと思う。既存のものを前提として、それにつけ加えていくというのではなく、いつも新規まき直し。何か面白いものは生まれないか、そして何か面白いことを始めないかと試みているのである。とは言っても、新しいものを作り出す素材は、既存のものに求める他ないのだが。
ところで、今、生きものはいつも新規まき直しと言ったが、それは必ずしも正しくない。よく知られているように、大腸菌のような細胞などは、分裂と言って、まさに自分自身を二つの娘細胞にするのである。新しくやり直すのは、人間、イヌ、トリ、サカナ……といった多細胞生物と呼ばれる仲間である。これらは細菌とどこが違うか。ディプロイドといって、同じDNAを二つ、つまり一組持っている。そして卵や精子のような生殖細胞をつくる時には、その一つずつを入れるのだ。これはハプロイドと呼ばれる。そして、受精が起これば再びディプロイドができ、そこから個体が生まれる。
親が子にDNAを渡し、新しい個体が生まれるという過程を細胞のレベルで見ると、このように、DNAが一組存在するディプロイドとそのうちの片方だけを持つハプロイドの間の往来ということになる。
分裂で子孫を作っていく細菌などは、もちろんハプロイド。これが生きものの持つDNAの最初の姿である。それが、ある時同じDNAを二つ持つようになった。これは、たまたま2倍にふえたDNAをそのまま持ち、分かれなかった細胞が生まれたのがきっかけでできたのかもしれない。この細胞は、余分のDNAを持っているというデメリットもあるが、メリットもある。一方のDNAに変異が起きて、生存に不可欠な機能が消えてしまったとしても、もう一つのDNAの方にその機能が残っていれば、その細胞は生きていくことができるからである。けれども、一対のDNAを持っていても、これがただ分裂をして増殖していったのでは、その子孫には、傷のついたDNAが必ず残ることになり、長い間には結局この変異が仲間の中に広がってしまう。
ところが、2本のDNAを一度分けて、まったく別のDNAと混ぜるというプロセスを一つ入れると、変異の入らない個体が生まれ、仲間全体としては変異の影響が薄まる。これが今、人間を含めた多くの生物のとっている戦略である。つまり、一対のDNAを持って、1本の時よりは安定になる。そして次の世代を作る時には一度1本しかDNAを持たない細胞になってもう一度新しい一対を作るという方法だ。これが、性である。
性がなぜ存在するようになったのか。これは、生物のことを考えていれば、必ず出てくる疑問である。子孫を残すためには、自分のゲノム(ある生物が個体として存在するために必要なDNA)とうまく対になるゲノムを持つ相手――具体的には同種の異性を見つけなければならないのだから大変だ。大変であるだけでなく、相手がみつからないことだって多かろう。それなのに、なぜ進化の過程で性が生まれてきたのか。それには、DNAを混ぜ合わせるためという答が用意されてきた。それも一つの理由だろう。しかし、それに加えて、常に個体をつくり直すためという答もあるのではないだろうか。
機能を持つ遺伝子の数には限りがある。最も複雑なことをしているヒトでも10万個ほどの遺伝子で動いているのであり、恐らくこれより多くは無理に違いない。遺伝子がDNAという物質に乗っている限り、この物質の安定性との関係で、機能するDNAがいくらでも増えるというわけにはいかない。従って、情報の絶対量を増やして、新しい試みをするのは、ほぼ限界に来ているのではないだろうか。これから後は、組み合わせによって多様性を出すことである。
そこで、これまで述べてきたように、新しい組み合わせを作る方向に進化した。ところでこの新しい組み合わせは何でもよいというわけではない。それをチェックせずに闇雲に組み合わせを試みてもしかたがない。そこで、これがきちんと個体を作れるかどうか、そこから試してみなくてはならない。それが、性を有する生きもののやっていることである。そうなると、脳も一緒にやり直しである。脳は自分を作りながら、共に作られていく身体の他の部分のはたらきの制御係をしなければならない。体中の筋肉ときちんと線をつないで運動のコントロールをしたり、心拍や血液の流れをリズム正しく調節したりする機能を身体ができ上がっていくのと並行して完成させていくわけである。
こうして、すべてが初めから作られるので、一つ一つの個体は、まったく独自のものになる。生きものにとって重要なのは、この唯一無二ということなのではないだろうか。そのための苦労が「性」なのではないだろうか。
普遍と個別。生きものを見ていると、知の中での基本的問いと言ってもよいこの問題を考えざるを得ない。ところで、この問題の扱いにも当然のことながら変遷が見られる。思想史についてはまったくのしろうとだが、近年、普遍に対置されるものは、一般者を限定化または特殊化した個ではなく、単独性、固有性と考えられるようになったと聞いた。こうなると、生命体はまさにそれを具現化するためのシステムになっているということになる。
しかも、この普遍と固有を結ぶものは、時間であり歴史であるというのが、私が提唱した「生命誌」の基本である。普遍と固有を結ぶのが歴史であるということは、すべての現象に共通だろうが、生命体の強みは、その歴史がゲノムという形で個の中に刻みこまれていることである。しかもそれは、生命体の形成の時に、また日々の活動の中に表現されている。私がゲノムに関心を持つのは、単に自然科学の一分野としての生物学の視点からだけではない。この中に、われわれの自然の認識の基本が隠されているのではないかという期待を持っているのだ。もちろん、解答はATGCと並ぶゲノムの一次構造の分析からだけで得られるとは思っていない。それがどのようにして表現されるか、その時の環境との関係はどうかということもすべて「ゲノム」という言葉の中にこめてのことである。
「生命」の時代とはよく言われるが、その意味はここにあると思っている。「ゲノム」については、これぞ「鍵」と思っているので、これまでも話題の中心にしてきたが、今回もまた話はそこで終わることになった。
(なかむらけいこ・生命科学)