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遺伝子ってなあに

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生命誌(バイオヒストリー)。物語として生命を捉え、それを読み解くことを“生命の理解”と考えようとする分野である。前回とりあげた「ゲノム」と「細胞」の組み合わせから生まれるさまざまな物語は、その一端を読み取るだけでもワクワクするものがある。そこから読み取ったものは、数字や専門用語で報告するだけでなく、物語として多くの人に語りたいという意欲を抱かせる。このように、生命誌の「誌」には、物語としての生命という意味と共に、生命に関する理解は、物語として伝えるのが適している性格を持っているという気持もこめてある。

ところで、語るということになると、どうしても必要なのが言葉である。もちろん、論文での報告にも言葉を使うが、それは、明確な約束事があってのことであり、使う側も読む側もそれを知っている。たとえば、今、生命について語る時に不可欠な言葉のひとつになっている「遺伝子」、分子生物学の中で使われている時は、ある特定のタンパク質の合成を指示する構造遺伝子、構造遺伝子のはたらきを調節するさまざまな調節遺伝子など、その役割は明解である。また、その実体についても、たとえばそのヌクレオチド配列はどうなっているかというところまで解明されていることが多い。

ところで、同じ生物学でも、集団遺伝学やそれを基盤にしている進化生物学、行動生物学などで使う「遺伝子」はまったく違っている。簡単に言えば、メンデルがエンドウマメを使って実験をした時に、その結果を説明するために用いた「遺伝因子」と同じ意味である。たとえば、ドーキンスの言う「利己的遺伝子」の遺伝子は、“表現型効果の差異をもたらす染色体上の一片”と定義されている。これはまさに、マメの粒にシワがあるかないかという表現型をもたらす染色体上の因子としてメンデルが提示した遺伝因子の定義と同じである。

このように、外から見れば「生物学」としてくくれる図柄の中でさえ、同じ言葉がまったく違う内容を表わしている。ここで「中でさえ」と書いたが、実は、このように「中で」違っているのが最も困るとも言える。異分野の人は、分子生物学と行動生物学を区別しない。そこで、遺伝子と聞いた時に、動物の行動として現われる現象の背後にあると考えられる因子とヌクレオチドの数やその配列まで解析された「がん遺伝子」や「成長ホルモン遺伝子」を区別はしないだろう。そして、利己的遺伝子も、あるヌクレオチド配列を持ったDNAとしてイメージしてしまうに違いない(時には、生物学者の中にもこれを混同して使っている人がある)。なにか面倒なことを言っていると思われるかも知れないが、言葉の正確な使用は、知的行為の本質に関わることである。

物理学者ハイゼンベルクが「理解する」ということについて、「基本概念が変われば、言葉も思考も不確かなものになり、不確かなところからは理解は生まれない」という意味のことを言っている。はっきりした問題設定と、そこから生まれる新しい概念構成、それを説明する正確な言葉があって初めて理解ができるということである。これは、物理学という論理性・普遍性を基盤にする学問に限ったことではない。日常生活も含めて、あらゆる場面で新しいことを生み出そうとしたら、言葉を正確に使用することは不可欠だと思う。少し話は横道にそれるが、よく出される「日本人に科学的創造性はあるか」という問いに対しても、ひとつ考えてみなければならないのはこの点ではないだろうか。ハイゼンベルクの言うような、言葉に対する厳密さを持たなければ、新しいものは生まれようがない。ところが日本では、その辺のあいまいさは許容される。

たとえば、「遺伝子」についても、ドーキンスの言う「利己的遺伝子」の検討などはまったくせずに、それを拡大して、都市にも産業にも遺伝子があるという発言がなんとなく受け入れられる。都市や産業技術も含めて、人間の活動の歴史を見ると、その底流にある共通なものが存在することは誰もが感じる。5万年前に地球上に現われたわれわれの祖先と現代人とでは、脳の構造など重要な部分は変わらないと言われる。同じ人間が、長い間子へ孫へと伝えてきたものが、現代社会にも生きているのは当然と言えよう。文化、慣習、伝統などと呼ばれ、それぞれの社会を支えているものとして、これまでも評価されてきたものである。しかし、それを改めて「遺伝子」と呼ぶなら、せめて古典的でも結構、遺伝子の定義を取り入れた視点を出さなければ、それは単なる言葉遊びに過ぎない。もちろん、言葉遊びはすべていけないなどと言うつもりはない。ただ、ハイゼンベルクの言うような理解の喜びと新しい概念の形成にはつながらないという指摘をしておきたいだけである。こう話を進めてきた以上、現代生物学でいう「遺伝子」とはなにかを説明するという厄介な役を引き受けなければならないだろう。“厄介な”と言うのは、実は、今や遺伝子を定義することはとても難しいことになっているからである。

遺伝子の最初は、メンデルの法則に見られるように「概念」だった。実験・観察できるのは表現型。シワの有無、背丈の高低など、いくつかの性質をもつエンドウマメのかけ合わせで、各々の性質がまったく独立に、しかも決まった比率で子孫に伝わるところから、その性質を決め、しかも親から子に伝えられる因子があるに違いないと考えたのがメンデルである。表現型を支える因子という概念を確立したのだ。

ところで、生きものの表現型には、変異が見られる。赤い眼をもつハエの仲間の中に、ある日白い眼のものが混じっているというように。Ⅹ線を照射すると人工的に変異がひき起こせることが分かり、遺伝因子の実体感は強まった。そこへ、アカパンカビにⅩ線をあてると、ビタミンを与えない限り育たなくなるという発見がなされた。ここで、Ⅹ線によって変異したのは、ビタミン合成に関与する酵素の遺伝子であるとして、「一遺伝子一酵素説」が出された。こうして「機能の単位としての遺伝子」が見えてきたのである。

次いで、実体の追跡の結果つかまったのがDNA、ワトソンとクリックにより二重らせん構造が発見され、すべての生物に共通な言葉と言えるコドンがみつかり、分子遺伝学が確立した。この時点で、遺伝子は手の内に入ったと多くの生物学者が考えたのも無理はない。後は、ひとつひとつの遺伝子の機能を追いかけていけばすべてが解明できる見通しが立ったからである。

ところが……ここで思いがけないことが起きた。生物の持つDNAの中に、機能を持つ遺伝子とは呼べない部分がなぜ存在することが分かったのである。しかも大量に。ヒトを例にすれば、機能の明確な部分は数パーセントしかなく、残りは現在のところどのような意味を持つか分からない状態なのである。遺伝子とは呼びにくい部分がなぜあるのか。それを解くひとつの方法は、まさにゲノム生成の過程、つまり生命の歴史物語を解読することなのだ。

こうして話は最初に戻る。その生命の物語を正確に読むには、遺伝子という言葉の意味を正しく捉えなければならないというところに。つまり、遺伝子の意味を注意深く考えながら、DNAと細胞の中に書きこまれている物語を読み解いていくことが、遺伝子とはなにかということと同時に、生きものとはなにかについての答を積み重ねていくことなのである。分子生物学における遺伝子は今このような状況にある。

一方、進化や行動の生物学でいう遺伝子は、今もなお最初に述べたメンデルの「概念としての」というところにあることは、すでに述べたとおりである。今のところ、遺伝子を仮定してさまざまな現象が説明できるので、それで構わないというのがその分野の立場かもしれない。しかし一方で、分子生物学の側から、分子進化学、行動遺伝学のようにミクロとマクロを連結する試みが始まっている。ある現象(現時点では主として病気)の原因となる遺伝子を手に入れ、この遺伝子のもつ機能を調べるという逆遺伝学も活用されており、発生や神経などの分野にもDNAと細胞を基盤にした考え方が入りつつある今、メンデルと同じ概念で語っているのは、あまりにも能がないように見える。オスがメスをひきつける方法、子育ての方法などを観察し、それがある仮説で上手に説明できるか否かを検討しても、生物の場合、ひとつの仮説ですベてを説明できた例はほとんどない。科学の法則は、通常、ひとつでも例外を見つければ成立しないとするのに、仮説にあてはまる例だけをあげてそれを主張するという方法がどれだけの成果をあげ得るのだろう。生命体を、ミクロからマクロまで通じて全体として捉えようとするなら、やはり、現代の遺伝子で語ることが求められるだろう。

そうなると、ゲノムという概念、つまり個体が再び呼び戻されることになり、恐らく今言われている「利己的遺伝子」というような視点は意味を持たなくなるだろうと思うのだが。いずれにしても、マクロの生物学が脱皮する一段階として、遺伝子という言葉を持ち込むだけという時代は終わった。それを振り回すのはそろそろ止めて、全体像を探る努力をすべき時が来ているのではないだろうか。生命誌は、分子生物学の側からマクロに近づいて全体像を作り出そうとする努力であり、今マクロの生物学者との話し合いを始めている。それがミクロの側にとっても刺激的であるという実感から是非多くの人がこのような仲間になって欲しいと思っている。

(なかむらけいこ・生命科学)

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