IC4-24
新しいトリックを探る
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情報という切り口で生命体を見るのが非常に面白い――一度始めたら止められず、中毒になりかねないほど面白いことは、認めざるを得ない。私も、日常よくそこで遊んでいる。ただ、そこにある転機が来ていると思うのだ。
それは、1960年代初めの「オペロン説」に始まる。現代生物学は、DNAを中心に動いていることは確かである。従って、ワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造の発見が最も大きな仕事であり、後に影響を与えたという評価は誤りではない。しかし、当時はDNAそのものを扱うことはたいへん難しかったので、DNAという物質から面白さを引き出す仕事には限界があった。相変わらず、遺伝学の基本である、変異体を用いて、遺伝子の機能を知り、そこからDNAのはたらきを予測する方法が研究の主流だったのだ。この方法は、もちろんDNA分子を手にできないという制約からとられたものではあるが、今振り返るとそれ故の楽しさがあった。見えないものを追跡するにはどうするか……そこには「アイデア」と「トリック」が必要であり、誰が皆をうならせる方法を考えつくか、お手並拝見という雰囲気があったからだ。科学の世界では、アイデアの重要性はよく指摘されるが、それ以上に大切なのがトリックではないだろうか。手品と同じなのだ。大向こうをうならせるには、アイデアだけでもダメ、トリックだけでもダメ。アイデアとトリックが渾然一体となった手品を見せられた時に観客側に生まれる緊張感とカタルシス。それが、科学の世界に暮らすことの楽しさと言ってもよい。もちろん、できることなら一級の手品師の方になりたいけれど、そうでなくとも、その楽しみを共有できる上質の観客でも充分楽しめる。
1960年代初めにフランスのパスツール研究所から出された「オペロン説」は、その意味で一級のパフォーマンスだった。素材は大腸菌。対象にしたのは、通常はグルコースを養分として成育するこの細菌が、ガラクトース(乳糖)を分解するようになるという明快な現象。そして、この変化が分解に関与する遺伝子そのものの変化によるのではなく、遺伝子の「機能の調節」によって生まれることをみごとに示したのだ。その詳細を紹介することはしないが、遺伝子が、いかに巧みな調節システムを持っているかということに皆驚嘆した。しかも、当時の感覚では、大腸菌ごときがなんと生意気なことをということで(実は、研究が進むにつれ、“ごとき”という感覚はどんどん失われていくのはよく知られている通りである)。20世紀に入って生命現象を「物質の機能」として解明する研究が新しいとして脚光を浴びていたところへ、もう一つ「調節」という概念が入りこんで、ゲームは面白くなっていったのである。
「オペロン説」が分子生物学者を魅了したのは、この説を出した方法が、一級のアイデアとトリックから成っていたうえに、その結果、生命体そのものが「トリック」に満ちたものらしいことを予感させ、さまざまなトリックを探しだす作業を期待させたからである。つまり、二重のトリックを見せたのだ。以後の研究にはずみがついたのは言うまでもない。
そして、1970年代。今度はDNA分子そのものを扱うことのできる組換えDNA技術が開発された。スタンフォード大学を中心にした米国の研究者の、これまたみごとなトリックによって。この技術は、あっという間に研究者の間に拡がり、今度は、DNA分子そのものの中に思いがけないトリックが存在することが次々と明らかにされた。そこで、「情報」という切り口で生命体を見ると、ちょっと洒落たことが言える状況になったのである。すなわち、最初に書いたように、それで遊んでいればかなりの満足が得られる。しかし、これまでに分かったことは、主としてDNAの一次構造とその機能であり、生命体はそのレベルだけで解明できるものではない。90年代のテーマは、もう一つ上のレベルに存在する「トリック」を発見することである。その方法は、残念ながらまだはっきりと見えてはいない。オペロン説や組換えDNA技術のように、大きな影響を与えるものが出るのか、それとも、ここまで来るともっと個別的なものになるのか、それも分からない状態でさまざまな模索がなされている。本稿では、現在分かっていることだけでスッパリ切る快感を避けて、泥臭く次のトリックへの手がかりを探ってみたい。
まず取りあげなければならないのは「ゲノム」である。ゲノムとは、「細胞の核内に存在するDNAの総体」(原核細胞という核のない細胞もあるが、その場合も、細胞内に1本につながったDNAがあり、それをゲノムと呼ぶ。大腸菌ゲノムというように。さらには、ウイルスの持つDNA――時にはRNA――のこともウイルスゲノムと呼ぶ)。ゲノムは、DNA以外のなにものでもない。ヒトの場合およそ30億個のヌクレオチドが一直線に並んだもの、大腸菌の場合は、490万ほどのヌクレオチドが並んだものというように一つ一つのゲノムによって大きさは決まっているが、物質としてはDNAそのものであり、従って100パーセント分析可能だ。しかも、DNAという意味では、あらゆる生物に共通でありながら、ゲノムという一つのかたまりになると、それは個々別々の生きものをつくる情報源になる。個々別々という意味は、ヒト、サル、イヌ、キジというような種によって違うというだけでなく、一つ一つの個体がそれぞれに特有のゲノムを持っているということである。生物界に見られる多様性の基本はここにある。
これまでは、DNAを個別の遺伝子または遺伝子の集合として見るか、二重らせん構造を持つ物質として見てきた。そこから、たとえばウイルスは、そのDNAに着目すると(時にはRNAもあるが、結局はどこかでDNAとしての機能に変換されるのでDNAとしてまとめる)、病原体というような一面的な見方で片づけられるものではなく、生物界のダイナミズムの一端を担っているものであることが分かってきた。ニワトリやブタに感染したウイルスがヒトの細胞に入りこんで来るとすれば、DNAのレベルでは、皆つながっていると考えてもよいことになる。つまり、そのようなDNAの動きの中では、個々のDNAは、ニワトリなのかヒトなのか、はたまたウイルスなのか区別はつきにくい。しかし、ゲノムになれば、これはヒト、これはトリとはっきりしている。そのDNAが機能を持っていようがいまいが、ゲノムという総体の一部としてみれば、その帰属は明らかである。すでによく知られているように、多細胞生物のゲノムでは、機能のはっきりしない部分の割合は非常に高い。ヒトで95パーセントを越え、イモリやカエルでは99パーセントを越える。では、そこは何でもよいか、そうではない。単なる繰り返しに過ぎないような部分でも、ヒトに特有なヌクレオチド配列を持っている。恐らくゲノムという全体の構造を支えるものとしての意味がそこにはあると考えざるを得ない。ゲノムに見られるある種の構造を探る、それが新しいトリックを探る具体的体系になるに違いない。
ところで、ゲノムを探ることによって見えてくることが期待できる「構造」は静的なものではない。ゲノムは、でき上がったものだけでなく、その由来を考えた時、面白さが浮き彫りになる。当然のことながら、ゲノムは、一つ一つが独立にできたものではない。進化の過程で、35億年という長い時間をかけてできてきたものだ。トリもブタもヒトも……地球上のすべての生物が同じ長さの歴史を背景にし、お互いに関係を持ちながらでき上がってきたのである。そこで考えられるのが、恐らく、あらゆるゲノム生成のプロセスになにか共通性があるのではないかということだ。たとえば、先ほど例にあげた意味のない繰り返しはヒトだけではなくマウスにも存在する。しかもそのヌクレオチド配列は、ヒトのものとは違っている。これは、ゲノム生成には繰り返し配列が入り込むようなプロセスがあるらしいことを予測させる。ヒトはどのようにしてヒトになりマウスはどのようにしてマウスになるのか。さまざまな生物のゲノムの分析を続け、その生成のプロセスに隠されているトリックを探りあてたところでもう一度「情報」という切り口を生かしたら面白かろう。今はそんな期待の時である。
(なかむらけいこ・生命科学)