IC61-20

霧の中で

坂本龍一+高谷史郎とウィリアム・フォーサイス

[掲載日:]

それは《LIFE》から始まった。《LIFE》? 坂本龍一が1999年に作曲したオペラである。20世紀の歴史を総括する(それも20世紀の音楽史を総括しながら)、そして戦争と革命の歴史を超え共生系のヴィジョンを開示するという、これはきわめて壮大な試みだった。私はこの作品のコンセプト・デザイナーを務めたのでニュートラルな立場にないことを明らかにしたうえで言うのだが、《LIFE》は紛れもない傑作、おそらくはそのスケールと密度ゆえに容易に理解されず未だ十分に評価されていない傑作である。しかし、これほど大規模な作品となると、簡単に再演することができない。さらに言えば、「リニアな歴史からノン・リニアな共生系へ」というストーリーをあまりにリニアに語ってしまっている、あまりにスタティックな構成をもつ作品として、あまりにはっきりと目に見え耳に聴こえるかたちで舞台にかけてしまっている、という本質的な問題がある。そういう圧倒的な舞台作品をつくりあげる類い稀な能力をもちながらも、坂本龍一はそうした問題を意識しないでいられるコンヴェンショナリストではなかったのである。こうして、《LIFE》のヴィジュアル面を主に担った高谷史郎とともに、《LIFE》をディコンストラクトし、もっと軽やかで開かれたかたちに組み替えるプロジェクトが始まった。その見事な成果が、去る3月10日に山口情報芸術センター(YCAM)で公開されたインスタレーション《LIFE―fluid, invisible, inaudible...》である。

まず特筆すべきは、インスタレーションとしての新しさだろう。大きな暗いスペースに1200mm×1200mmのアクリルの水槽3×3個が吊られている。各々の水槽には8個の超音波発振機がとりつけられ、コンピュータ制御によって霧を発生させる。空に浮かぶ雲のように刻々と姿を変えるその霧と水の上に、上方から映像が投影されるというわけだ。ディスプレイやスクリーンの平面性に制約されてきたヴィデオ・アートの限界がやすやすと突破され、映像は時にはクリアに、しかし時には不透明な厚みをもって立ち現われる――とくに霜柱のようにゆらめく文字の絶妙な感触。観客は、空の雲を飽かず眺めるように、そうした映像を飽かず眺めるのである。さらに、各々の水槽の両脇に吊られたスピーカーから降り注ぐ音響がまた素晴らしい。映像と同じく、音響の素材もおおむねオペラ《LIFE》から採られているのだが、坂本龍一は大胆にもオペラのもっていたテーマ上あるいは形式上のリニアなコンティニュイティを完全に無視し、「人の声」や「動物の声」、「水に関係すること」や「風に関係すること」、「打つこと」や「擦ること」といったカテゴリーに分類し直して提示する。やや低めの音量に設定された、きわめてニュートラルな特性をもつスピーカーから、それらの音響の断片が、一見アト・ランダムに、しかしきわめて精密に加工されて降り注ぎ、あれほど熱く盛り上がったオペラとはまったく対照的な、どこまでもクールな音響空間を作り出すのである。こうした3×3組の映像と音響は、時に同期し、時に分散しながら、ストーリーのないオペラを演じ続ける。観客は、その下を自由に動き回りながら、雨のように降り注ぐ映像と音響に身をさらし、さらには、流動的で目にも見えず耳にも聴こえない何か――いわば生命の気配のようなものを感じ取ることになるだろう。

オペラ《LIFE》という巨大なモニュメントを築き上げた坂本龍一+高谷史郎は、こうして自分たちの作品を完全にディコンストラクトし組み替えることにより、それに新たな生命を与えることに成功した。それはいわば「NEW LIFE」=「VITA NOVA」(新生)――20世紀最後のモニュメントの破片を21世紀に散種する試みなのである。急いで強調しておくが、それはオペラ《LIFE》が乗り越えられたという意味ではない。オペラ《LIFE》は前代未聞のモニュメントとして揺るぎなく聳え続けている。だが、その傍らにあって、一見ささやかなインスタレーションとも見える《LIFE―fluid, invisible, inaudible...》は、オペラ《LIFE》があまりに圧倒的な構成と可視性・可聴性ゆえにほとんど消し去ってしまった微妙な生命の気配のようなもの――それはじつはオペラ《LIFE》のテーマであった共生の鍵そのものだ――を、観客にそっと感知させてくれるのだ。いずれをとっても画期的なこの二つの作品の間に、われわれは理想的な相補性を見ることができるだろう。

ちなみに、この二つの作品の間をつなぐリンクとして、坂本龍一+高谷史郎が2005年に京都の法然院で行ったシークレット・ライヴのことに触れておきたい。東山の山腹にある寺の書院を両側の庭と池に向かって開け放ち、縁側に映像スクリーンを設置して行なわれたこのライヴは、ししおどしの音や蛙の声をも含み込み、いわばそれらと対話するようなかたちで展開された(実際、蛙がある種の周波数の音に反応することがわかったので、坂本龍一は文字どおり蛙のコーラスを指揮してもいたと言ってよい)。日本庭園に音響と映像の庭園を重ねる試みとも言えるだろう。この「庭園プロジェクト」は日本に限らず世界各地で長期的に展開される予定であり、京都でも何度かロケーション・ハンティングが行なわれた。たとえば大徳寺真珠庵の茶室「庭玉軒」の暗がりに座して微妙な光のニュアンスを味わいながら篠突く雨の音に耳を傾けたことは、同行した私にとっても忘れがたい体験である。ここ数年に積み重ねられたそれらの体験がインスタレーション《LIFE》に見事に反映されていることは疑いを容れない。ただし、そこに単純な日本回帰を見るべきではないだろう。考えてみれば、ロマン派を偽装してオペラや映画の音楽を完璧に作曲してのける坂本龍一は、もともとジョン・ケージやナム・ジュン・パイクに決定的な影響を受けたアーティストだった。そのケージが大きなインスピレーションを得た源泉のひとつが、日本庭園――たとえば龍安寺の石庭だったのだ。そのケージ的なヴィジョンを、たまたま日本のアーティストである坂本龍一が別のかたちで実現してみせた。その意味で、またその意味でのみ、インスタレーション《LIFE》を一種の日本庭園と見ることもできるだろう。そう、空中に吊られたこの庭園を眺めながら、私はゲオルゲ=シェーンベルクの「架空庭園の書」(Das Buch der hängenden Gärten)というタイトルを思い出してもいた(「空中庭園」というのが普通「屋上庭園」でしかないとすれば、インスタレーション《LIFE》こそまさに「架空庭園」ではないか)。あるいは、庭園というテーマを離れてさらに連想ゲームを続けるなら、何度も言うとおり雲(ノン・リニアな現象の典型)を主要なイメージとするインスタレーション《LIFE》を、ウィリアム・フォーサイスの近年の傑作である《Clouds (after Cranach)》(《雲[クラナッハ風の]》)にならって、《Clouds (after Debussy)》(《雲[ドビュッシー風の]》)と呼びたい気もする……。

いずれにせよ、インスタレーション《LIFE》は坂本龍一+高谷史郎にとってオペラ《LIFE》からほぼ、8年ぶりの画期的な一歩であると同時に、これまで意欲的な作品を次々に制作あるいは展示してきたYCAMにとっても大きな一歩となった。たとえば、YCAMで制作され初演された注目すべき作品のひとつに池田亮司の《C41》があるのだが、0/1にこだわりつつ離散無限を超え実無限の(不可能な)提示という「崇高 the sublime」の悦楽jouissanceに向かって突き進む池田亮司と、有限な世界の中でのゆらぎや多様性の「美 the beautiful」(いわば「雲の美学」)の快楽plaisirにこだわる高谷史郎――ダムタイプで《OR》をはじめとするコラボレーションを積み重ねてきたこの二人のアーティストの対比がはっきりしてきたというのも、興味深い収穫と言えるだろう(むろん、モダニズムは、18世紀の「美」と「崇高」のあと、19世紀に「リアルなもの」が出現して初めて成立するので、たとえば《C41》の『ニューヨーク・タイムズ』一面を高速でスキャンするシークエンスや《LIFE》の戦争映像が断続するシークエンスがそういう次元に達し得ているかどうかというのはまた別の問題だが)。坂本龍一にひきつけて言っても、彼の近年のコラボレーションの相手であるカールステン・ニコライとクリスチャン・フェネスのうち、カールステン・ニコライの大規模なインスタレーションである《Syn Chron》――複雑な結晶構造の表面に白色レーザーで音響と同期したパターンが投影され、それを外からも内からも眺めることができるというもの――も、やはり日本ではYCAMだけで展示されたのだった。他方、坂本龍一+クリスチャン・フェネスの『cendre』(RZCM-45525)がちょうどリリースされたところで、「oto」や「aware」(本居宣長が「もののあはれ」ではなく「もののあはれを知ること」が重要だと言っているが、「aware」が英語でaware[ness]に通じるというのは不思議な偶然だ)といった曲名からも感じられるようにこれまたある意味で日本的な美学に通ずるところのある作品なのだが、《LIFE》で引用されたジャック・デリダの「Feu la cendre」(「火ここになき灰」)から取られたアルバム・タイトルからすると美しすぎると思えるほどのその音響空間は、(Clouds(after Debussy))(《雲[ドビュッシー風の]》)ならぬ《Sea(after Debussy))(《海[ドビュッシー風の]》)といった趣きで、カールステン・ニコライの数学的・結晶的ロマンティシズムとフェネスの感覚的・流体的ロマンティシズム(「アルプス」[ブルーノ・タウト]とヴェニス?)を対比してみるのも面白いだろうと思わせる。ともあれ、オペラ《LIFE》が大阪城ホールと武道館(東京)で上演されたのに対し、インスタレーション《LIFE》がYCAMで制作・公開されて世界各地に旅していくだろう、このあたりにもいかにも21世紀的なアートの現在を見てとることができるだろう(むろん、インスタレーション《LIFE》は東京でもぜひ公開されるべきであり、ICCでさらにヴァージョン・アップできるとすれば理想的だと思うのだが)。



さて、唐突な牽強付会と見えるかもしれないが、ここでやはり霧を使ったもうひとつの興味深いインスタレーションについて触れておこう。東京の「21_21 design sight」で公開されたウィリアム・フォーサイスの《Additive Inverse》である。

「21_21 design sight」は、三宅一生のイニシアティヴと安藤忠雄の設計により東京ミッドタウンにオープンした新たなデザイン文化の拠点である。三宅一生が一枚の布から服を作り上げるように、一枚の鉄板を折り曲げることで屋根をつくるという安藤忠雄のコンセプトは、シンプルだがシャープな建築に結実していると言っていいだろう(入り口を入った奥の正面にある横長のスリットのような窓のガラスが一枚ものだというあたりにもそのこだわりを見て取れる)。この建物のオープニングにあたって、三宅一生は旧知のウィリアム・フォーサイスにインスタレーションの制作を依頼したのである。

フランクフルト・バレエ団を率いてバレエやダンスにまったく新しい次元を切り開いたフォーサイスは、現在ではザ・フォーサイス・カンパニーという以前よりやや小規模なカンパニーとともに活発な活動を続けている。フランクフルト市と対立してオペラ座から追い出された? コンヴェンショナルな見方では、そう言うこともできるかもしれない。だが、フォーサイスはあくまでも前向きだ。大規模なカンパニーで巨額の予算を使って《Impressing the tzar》や《Eidos: Telos》といった圧倒的なパフォーマンスを制作することができた、それは素晴らしいことだったには違いない。だが、そうした方向でやりたいことをある程度やってしまったいま、自分はもっと身軽になって、もっと実験的なことをやってみたいのだ……。久しぶりに再会したフォーサイスは、そのことを「モラル・エコノミー」という言葉を独特の用法で使って語ってくれもした。巨額の予算を使って舞台作品をつくるとなると、入場料も高額になる。高額の入場料を払った観客は、大規模なスペクタクルに圧倒されるというほとんどマゾヒスティックな体験をあえて求めるようになり、その欲望は作り手の側にも歪みをもたらさずにはいない(聞き手の私が補足するなら後期資本主義の「スペクタクルの社会」の病理というわけだ)。そうした構造から離れ、小規模でも自由度の高いクリエーションに向かうことこそ、真の「モラル・エコノミー」ではないか。私が坂本龍一+高谷史郎のインスタレーション《LIFE》のことを話すと、フォーサイスは、旧知の友人たちの新作を見に行く時間がないことを嘆きながら、そこにも同じ方向を見て取った。「巨大なシアターでコンサートを開くことのできる坂本龍一のようなスターが、今は小規模で身軽な方向に向かう。私もまた、小規模で身軽な方向に向かう。いま世界中のアートの最前線で起こっているのは、そういうことじゃないのかな」。

霧の中での画像

近年のフォーサイスが舞台作品のみならずインスタレーション(純粋な、あるいは観客参加型の)にも力を入れているのは、そうした方向転換の結果にほかならない。昨年の彩の国さいたま芸術劇場での来日公演でも、《Clouds (after Cranach)》をはじめとする三つの舞台作品――小品ながらおそろしいほどシャープな切れ味を示し、徹底的にクールでありながら観客を唖然とさせずにはおかない――を並べたプログラムのほかに、《You made me a monster》という特異な「パフォーマンス=インスタレーション」を体験するプログラムが用意された。少人数の観客は、舞台上で複雑怪奇な模型の置かれたテーブルに導かれ、ボール紙のパーツを切り抜いて模型をさらに大きく複雑にしていくこと、やがて、その模型の影を紙にトレースすることを求められるのだが、じつはその模型は正しく組み立てれば人間の骨格の模型になるべきものだということがわかり、舞台を客席から切り離すスクリーンには、フォーサイスの亡き妻トレーシー゠ケイ・マイヤーが若くして癌で亡くなったときの様子を引用するのも憚られるほどダイレクトに綴った文章が投影される。そう、言ってみれば、《Eidos: Telos》で後妻のダナ・カスパーセンが前妻の骸骨を操作して見せた(!)ように、ここではわれわれが見知らぬ死者の「喪の作業」に巻き込まれ、しかも我知らず死者をモンスターに仕立て上げさせられる(さながら映画『エイリアン4』を思わせるかたちで)のである。そして、後半、モンスター役のダンサーたちは、テーブルの間を踊りながら徘徊し、模型の影をトレースした紙を集めて譜面台にのせると、体の触れ合いそうな至近距離で超絶的なダンスを踊って観客を戦慄させるだろう。完成度からいえば三つの舞台作品から成るプログラムには及ばないだろうし、いかに抽象化されているとはいえかくも生々しい個人の傷を作品化することにそもそも問題を感じなくもない。しかし、そうした留保を超えて、《You made me a monster》が昨年の来日公演でもっとも興味深いプログラムだったと思う人は多いのではないか。

「21_21 design sight」のための作品は、さらに、渦巻く霧の層の上に一連の文章が投影される純粋なインスタレーション作品として構想された。ところが、ドイツで準備した作品を東京の現場で組み立ててみると、環境の違いや技術的な違いから、思ったような効果が出ないことがわかったのである。フォーサイスがフォーサイスらしいのは、この窮地を逆手に取ってチャンスに変えてしまうところだ。そう、ジェネラル・リハーサルの後、初演の直前に作品全体を作り変えてしまうことも稀ではないコリオグラファーは、ここでも、インスタレーションの脇でダンサーが踊るというまったく新しい作品を生み出して見せたのである。細長い三角形の天窓から降り注ぐ白い自然光の中で、壁に糸を張って描かれた幾何学図形をグラフィック・スコアとして読み解きながら、中世フランドルの音楽をフラットに引き伸ばしたようなトム・ウィレムスの音楽(結果的に日本の雅楽のようにも響く)にのって、ダンサーが静かに踊り続ける。その傍らでは、濃密な白い霧の上に、円が投影される。「三宅一生が一本の糸、一枚の布から服をつくるように、安藤忠雄は一枚の鉄板を折り曲げて建物をつくった。そこにはいくつかの鋭角を含む見事な幾何学的構成がある。私としては、彼らへのオマージュとして、そういう幾何学的構成をダンスに置き換えてみようと思ったわけだ。他方、円というのは、あらゆる角度の微小線分が無限個集まった図形だろう? この二つの要素が対位法的に響き合う……。もちろん、ドイツで準備してきたのに日本で実現できなかった部分があるのは残念だけれど、それはまた別の機会に実現できるだろうし、私としてはこの素晴らしいセンターのオープニングに際してそれに応じたインスタレーション=パフォーマンスができたことのほうがよかったと思うね」。私も、そして三宅一生も、この大胆不敵なコリオグラファーの言葉に異論のあろうはずがなかった。

YCAMで公開された坂本龍一+高谷史郎のインスタレーション《LIFE - fluid, invisible, inaudible...》と、「21_21 design sight」で公開されたウィリアム・フォーサイスのインスタレーション=パフォーマンス《Additive Inverse》は、たまたま霧という共通点をもっているだけで、とくに関係はない、という見方もあるだろう。しかし、すでに見てきたように、高名なアーティストがそこで提示した小品は、内容においてのみならず、成り立ちや場所の選択にいたるまで、共通する点が多いように思う。繰り返すが、私は、坂本龍一やウィリアム・フォーサイスの圧倒的な大作を依然として高く評価するし、大劇場のライヴでいま一度それらに圧倒されたいという確かにマゾヒスティックな欲望を隠そうとも思わない。だが、21世紀のアートの行方をみきわめるsightをもとうと思ったら、そのような大作より、今回の二つのインスタレーションのような一見マージナルなsiteに注目すべきだろう。そこには、流動的で目にも見えず耳にも聴こえないかたちにおいてではあるが、21世紀のアートの形がヴァーチュアルに先取りされているのだから。


※YCAMでは、3月10日に坂本龍一+高谷史郎のライヴ、11日に私も加わってのアーティスト・トークが行なわれた。このレヴューは私が司会者・兼・聞き手を務めたアーティスト・トークの内容による部分を含む。[《LIFE - fluid, invisible, inaudible...》は2007年3月10日-5月28日、山口情報芸術センター(YCAM)にて、《Additive Inverse》は2007年4月7日-18日、21_21design sight にて公開された]

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