IC6-5

人工生命のヴィジョンと可能性

コンピュータ・サイエンスのニューパラダイム

[掲載日:]

生命の起源、情報の起源

西垣――佐倉さんと私はいろいろな現代のテーマに関してはかなり共振している部分が多いのではないかと思います。つまり、考え方は近いんですよね。しかし対談というのはあまりぴったり同じでもおもしろくないし、特に今日のテーマのA-Lifeについては多分ズレがあるかもしれない。それで二人の対話の間にうなりのようなものが生じればおもしろいなと思っているのです。

まず最初に私から情報の起源と生命の起源に関して、あるいは情報の定義といったことから話を始めてみたいと思います。

基本的にいうと「情報」というのは少量の物質あるいはエネルギーの変化が――それは普通の場合「コード」なのですが――ある価値や目的のために大量の物質やエネルギーの変化を引き起こすというときに存在する。言い換えると、そういうときに初めて、その少量の物質=エネルギーが一種の情報であったというふうに認められると思うんです。そしてある「価値」のために物質=エネルギーの変化があるわけですから、その価値は何なのかというと、だいたい「生物」の存在価値と結びつけられることになる。だから、私は「情報の起源イコール生命の起源」だとしていいと思います。

ただ、なかにはおもしろい意見もある。例えば『選択なしの進化』を書いた遺伝学者のリマ=デ=ファリア[★01]はかなり過激なことを言っているんです。私は必ずしも賛成しないのですが、彼は、要するに無機物と有機物をみなひっくるめて一種の階層構造として捉えている。素粒子から分子、有機物の巨大分子、生物という連続した階層ですね。各レベルは一つひとつ繋がっていて、そういうミクロなレベルにおいても進化してきたというわけですね。そうすると生物の発生と共に情報が生まれたという考え方が成り立ちにくくなる。

佐倉――それ以前からあったということですね。

西垣――そうです。これは生命の起源という難しい問題とも関係するんですが、形態の類似性ということに彼は着目するわけですよね。例えば干潟の割れ目と葉脈と昆虫の羽の翅脈、そういうものが互いに似ているということを重要視する。自然界は基本パターンみたいなものを踏襲していくという考え方でしょう。そうすると生命よりもっとベーシックなレベルでなんらかの情報流があるのではないかということになるのかもしれない。まあ、これはルネッサンス以前の時代の「類似したものが互いに照応する」という思想を思い起こさせるような感じもしますし、生物は形態だけでは論じられないと思いますが……。私が情報に関して一つ大事だと思うのは、情報というのは自己言及的構造をもっているということです。認知の場合もそうなんですが、過去を蓄えながら、その過去の蓄積に基づいてまた新しく自己言及的に情報コードの意味を解釈していく。世界の意味解釈というのはそういう歴史性を負っているわけでしょう。情報というものの非常に大事なポイントの一つはそういうところで、そのあたりを考えるとやはり、生命が情報を生み出し、情報を蓄積するという言い方もできる。一種の記憶としてコードを蓄積し、さらにそれに基づいて次のコードを理解解釈し、コードを役立ててエネルギーを変換する。そしてまた、自分でも新しくコードを作りあげて周囲に向けて発していく。そういう円環的な構造が情報というもののとても大事なポイントではないかなという気がするんです。それを考えると「情報の起源ニアリーイコール生命の起源」としても、当たらずといえども遠からずでしょう。

佐倉――そのとおりだと思いますね。リマ=デ=ファリアの説は、少なくとも、選択過程の扱いに関しては間違いだと思います。彼の理論は広い意味で言うと、柴谷篤弘さんなんかと同じ構造主義生物学で、翻訳をしていたのが池田清彦さんですから、あのへんの流れになると思います。構造主義生物学者の人たちがおもしろいのは、ある意味で物理帝国主義なんですね。現在の進化論とか生物学の理論は物理法則みたいにどこでも通じる普遍的な見方ではない、生物だけにしか適用できない、それは、歴史的なものの見方であって、物質の法則から演繹的に出てくるものではないと言って批判するわけです。30年位前だと物理帝国主義というのは保守派の代名詞みたいな感じだったのが、今は逆転しているような気もします。生物学と物理学がところを変えたという気がするんですけれどね。かえって生物学のほうが保守本流みたいな感じです。

西垣――構造主義というのは二つの面があって、一つは共時的な構造に基づいて物事を、ある意味では数理モデルのようなかたちで普遍的に解釈していく。けれどももう一つはやはり、価値そのものを相対化していくというところがあると思うんですね。だから、今の支配的な価値観というものを常にずらしながら世界を捉えていくダイナミズムみたいなものも別な面としてあったと思うんですよ。例えば言語学に関しても、ソシュールはアナグラムに熱中して、いわゆる構造からずれていくダイナミズムをいろいろ考えていたと思うんです。だが、その後の人たちは、数理的な関係に物事を帰着させることばかりをやっていった。そういう偏向が現代言語学のなかにあるような気がするのですが。

佐倉――生物学の場合には、構造主義のパラダイム自体が固まっていないし、主張も個々人バラバラなので、必ずしも全員がずれの部分のダイナミズムを意識していないということはないと思います。でも僕は、そもそも構造主義が言語学でのように大きなパラダイムとして生物学のなかに定着するかは疑問なんですけど。

生命の起源と情報に関する話ですが、西垣さんのおっしゃることはよくわかったんですけれど、やっぱり生物というのはその基本に拡大再生産というのがあるわけですよね。子供をたくさん残して、種が多様になっていく。つまり、情報の種類が少しずつ増えていって、遺伝的に蓄えられていく。生命というのは、そういう歴史を引きずっているわけですから、まさにおっしゃるところの、連関的な自己言及的な過去の蓄積に根ざしているなという気がしたんです。そこで気になるのは、もともと生命といえども物質と境界があったわけで、やはり生命なしには情報は存在しえない。

西垣――だからこそ情報という概念が生まれざるをえなかったというふうな立論もできるわけですよ。いくら生物でももちろん物質から成り立っている。けれどもそこで意味解釈の歴史性をもつ情報というものを入れないと、生物というものの本質が語れないというふうにも言えると思うんですね。そうでなければ、生物も基本的には物理法則ですべてを記述することができるはずだ。

佐倉――今日のテーマであるA-Lifeの考え方は、むしろ情報こそが生命の本質だというふうにみる見方だと思うんです。その点で僕はA-Lifeは買いなんですね。情報や計算といえばAIが連想されますけど、何でいきなり、コンピュータができるやいなや、あんな性能の低いもので人間の「知能」なんていう複雑な現象を実現化しようとしたのか、不思議でしょうがないんです。A-Lifeはボトム・アップで、昆虫レベル、あるいは生命の起源から攻めていこうという方法ですから、遅ればせながら正攻法じゃないかと思うんですが。この間、慶応大学の安西祐一郎さんに初めてお会いした時に、AIが冬の時代とか言われていますがどうですかと申しあげましたら、いや、そんなことはありませんと(笑)。それは一つのステップであって、今までやったことの経験というか、うまくいかなかったことを糧にしてこれからさらに研究を続けていく段階なのではないか、今までだって関係性とか自律分散を知らなかったわけではないのだ、というようなことをおっしゃっていました。

論理的言語へのオマージュ、AI

西垣――AIを研究している人の中には諦めきれない人もいるでしょう。ただ、はっきり言って、いわゆる「強いAI」というものに対して一般人がもっていた夢はつぶれたと言わざるをえない。例えばコンピュータとチャットするという、いわばコンピュータに日常会話能力をうえつけるといった研究が一時さかんでしたね。いろいろ知見が得られたことは確かでしょうが、今はあまり行なわれていない。

佐倉――そのへんは限界があるから方針転換、ということですか。

西垣――そうですよ。コンピュータとチャットする、機械のなかに感情みたいなものを再現するというようなことはそう簡単にはできないでしょう。一見同じというならワイゼンバウムの例のイライザ[★02]で十分ですよ。

もちろん、あれよりはずっと複雑にはなっているんですけれど。いずれにしろ一部のAI学者はあまりにナイーブにコンピュータの言語能力というものを過信してきた。

とはいえ、AIは失敗したのか失敗しなかったのかという二分法めいた設問は、あまりに問題を単純化しすぎているということになるのではないかと(笑)。私はAIのオプティミズムに関してはかなり批判的な立場をずっととってきました。これは今でもそうです。ただ工学的にはAIはいわゆる高度な言語情報処理の可能性を開いたわけです。それまで計算機械だったコンピュータを、一種の言語機械の領域に踏み込んで、もう一段階有用なものに変えていこうという工学的な努力は高く評価できる。これからもそういうアプリケーションは発展していくと思います。例えば、知識ベースにしても、今の研究者は、10年前のようにのっぺりしたフラットな知識ベースはあまり考えていないんです。さまざまに構造化して、多層レベルに分けたり、メタな構造を付加しようとしている。ロボットなんかが従来のロボットより非常にフレキシブルに、緊急事態にも適応できるようになったという事実はやはりありますよ。だから実用的=工学的には今後ともAIは発展していくだろうと思います。また一方、機械で心を作るとか、そういうラディカルな試みとしては問題はもっともっと深くて大きいんだということが実感としてわかったという成果はあるんじゃないですかね。

佐倉――研究者としても、本当にあんなところまで考えていたわけではないのかもしれないですしね。研究資金を取ったり、宣伝の打ち上げのために人工知能みたいなことをばーんと言ってしまったみたいな。

西垣――それについて先日、『アステイオン』7月号で「ユダヤ文化と次世代コンピュータ」いう論文を書いたりもしたんですが、私は西洋の人たちのなかには言葉の体系というものに対する信仰、あるいは論理的な言語、普遍的な言語に対するオマージュが深く根付いていると思う。だから、真面目に言語機械のもっている深い魅力にとらわれていた人はいたにちがいない。以前から私が言ってきていることですが、ルネッサンス、あるいはもっと古代からあるんですけれど、一種の深い、アルケーというかね、精神の奥底にある西洋的な思考法の原型に気づくことが大切なんじゃないですか。普遍的な言語を自分の生きるベースにし、それを一つのメカニックとして作りあげていくことは可能なんだという信念がやっぱりあったと思う。一方、日本の場合、海外でトピックスになると、お祭りさわぎをして、何でもわりとイージーに取り込んでしまうというきらいはありますね。

佐倉――逆にいうと、そういう言語体系、論理では扱えない部分が、人間の知識の内部構造で結構大きいということが顕在化してきたということでしょうね。

西垣――そうだと思います。ハイデガーとか、実存哲学の人たちのさまざまな言説がテクニカルなレベルではっきり裏づけられたという点は大きいと思います。私自身にとっても、現象学以来の哲学的な思索とテクノロジーがAI研究で結びついて、生命に対する態度や言語に対する考え方、あるいは情報というものの意味がだんだんわかってきたという経験は非常に意義がありました。

佐倉――ただ、西洋人が全員そういうふうに考えたわけではないでしょう。当初から、学習とかニューラル・ネットワークをやっている人たちもいるようでが。

西垣――マッカロックとピッツが作ったニューラル・ネットワーク・モデル[★03]はかなり古いですね。彼らはサイバネティクスの創生期の人ですから、40年代からウィーナーなんかと一緒にやっていたはずです。

佐倉――マッカロックはもともと神経生理学の人ですよね。

西垣――ええ。マッカロックは神経生理学者で、ピッツは数学が得意な人だった。

佐倉――マッカーシー[★04]がそういう一派を叩きつぶしたという話も聞きましたが。

西垣――マッカーシーというのは論理主義者なんですよね。今でも彼は日常生活における「常識」を、いわゆる非単調推論というロジカルなモデルで扱えると信じている。ニューラル・ネットワークは記号論理機械というよりむしろ試行錯誤的な学習機械ですから、それでマッカーシーが反対したんだと思います。そういう意味ではフォン・ノイマンというのも論理主義者であって、やはり形式的な計算によって世界はわかるという人ですね。一方、ウィーナーは神経系の通信みたいなことをやってましたから、マッカロックやピッツとのつながりもある。さらに、今の脈絡で話をつづけると、フォン・ノイマンが追求した形式論理が、ライフ・ゲームやセルラー・オートマトンになり、だんだんコンピュータの能力が増してきて、やがてウィーナーが研究していた神経系で作ったネットワークに接近してきた。そういうものとしてA-Lifeを位置づけるとわかりやすいかもしれない。

佐倉――僕は、哲学的にもウィーナー的な部分を取り入れているのがA-Lifeだと思います。 A-Lifeのキーワードで言えば、自律分散とか並行処理というのは、ただ単にノイマン的なものが技術的に進んでウィーナーのほうに近づいたというだけではないんじゃないか。両方の流れを引いて融合させる部分というのがあるんじゃないか。そこが、僕がA-Lifeを買い、だと思っているところですね。AIはマッカーシーに典型的なトップ・ダウンあるいは、フォン・ノイマンの形式的にやっていく方法が主流だったわけですが、それだけではうまくいかないというところで、ウィーナー的な並列的・ネットワーク的見方が必要になってきたのではないか、それを最初から取り入れているのがA-Lifeだと思うんですが。

生命の神秘へのオマージュ、A-Life

西垣――私はA-Lifeというものの本質は何なのかといろいろ考えていたんですけれど、AIが言語に対するオマージュだとすると、A-Lifeは生命の魅力、生命の美しさ、生命の神秘というものに対する20世紀的な表現の一つだと思うんです。つまり、われわれはいろんなかたちで、お祈りしたり、ダンスをしたり、小説を書いたり、詩を書いたりしますが、その一つの表現形式としてA-Lifeはあるという気がするんです。ある意味で芸術と言っていいのかもしれない。例えばCG作家の河口洋一郎なんかが、A-LifeにインスパイアされたCGを作っていますけれども、ああいう人たちを見ていると、自然の神秘とか生命の不思議ということに感動してそれをコンピュータの上で作ってみたという感じですね。そこがA-Lifeの一番大事なところであって、そこをわれわれは間違えてはいけないと思う。

佐倉――間違えていけないというのはどういうふうに?

西垣――このへんでだんだんうなりが生じてくるかもしれない(笑)。つまりA-Lifeによって、生物や世界をすべて理解できる――今はできなくてもやがて理解できるようになるという思い込みのことですよ。A-Lifeの世界ではクリストファー・ラングトンが教祖、カリスマですよね。彼を見ていると典型的にそういう思い込みにはまっている。最初にライフ・ゲームをやっていて啓示を受けるという神秘体験があり、その後はハンググライダーで死にかけ、臨死体験で復活。その後はすべての知を吸収して、やがてA-Lifeを創造。これはもう、古代や中世の聖人の足跡そのものですよ。これを思うと、ユダヤ=キリスト教的な文化がいかに根深く影を落としているかがわかる。

別にそれが悪いと言っているわけではないんですが、やはり新種のハイテク教とでもいうべきものであることは認識すべきでしょう。たぶん、20世紀末から21世紀にそれなりに蔓延するだろうと思います。この『インターコミュニケーション』誌もある意味ではハイテク教の雑誌だからハイテク信者が読んでいる(笑)。もちろん、ハイテク信者も知的な眼差しはもたなければいけない。だからハイテク教という一種の宗教の領域に踏み込みながらも、そこに知性を持ち込んで知的に分析しながらやっていこうという領域はあると思います。この雑誌なんかもそれをやっているんじゃないかなと思うわけです。

それでは科学としてのA-Lifeに、肯定すべき部分がないだろうかと言えば、私はA-Lifeとカオス理論との結びつきに一番期待したいわけです。これは複雑系と関係してくるけれど、カオス理論をいかに豊かなものとしてふくらませていくかということですね。ラングトンなどもAIとA-Lifeの違いについてルールの有無を指摘していますね。AIはルールに基づいてやっている、ニューラル・ネットワークですら、ある意味で一種のパターン認識のためのルールを求めている。しかし、A-Lifeでは、多層的なグローバル・ネットワークのなかで、エマージェント(創発的)な思ってもみなかったことが起きてくると言っている。確かに創発性は生命というものの本質的な部分であって、脳の認知機構とか、生体の構造のなかには、ベーシックな構造としてカオス的なモデルで記述できる部分がかなりあると思います。これはヴァレラやマトゥラーナのオートポイエーシス[★05]とも重なりますね。

ただ、オートポイエーシスのなかには、一つの俯瞰的な眼差しからすべてを記述することはできないんだという非常に重要なテーゼがあって、そこのところでA-Lifeとは食い違ってくる部分がある。とはいえ、A-Lifeがヴァレラの理論などをある程度入れながら、生命だとかコンピュータについて考えていくという姿勢は評価できると思います。さらに私がA-Lifeに期待する点は、進化や地球環境の研究というものに、それなりにいろいろな示唆を与えることができるのではないかということです。例えば、絶滅動物について、あるいは砂漠化するサハラについて、どうしてそのような生態の変化が起こるのか」――『シムアース』のようなマクロなゲームでシミュレーションをするのではなく、もっとリファインしたかたちで、ありえたかもしれない進化についての一種の物語を語ってくれるなら有難い。

佐倉――AIが言語に対するオマージュだったのに対して、A-Lifeは生命の神秘に対するオマージュとしての20世紀末的な表現の一つではないかというのはまさにその通りですね。

ロゴス偏重できた科学が、ほころびかけてきたというのが、20世紀後半にいろいろな分野で噴出してきた現象だと思うんです。そしてその次の新しいニューパラダイムがあるかというと、まだない。ラングトンの経歴を初めて見たときに、西垣さんが今おっしゃったように、なんてあぶないやつなんだろうという気がしたんだけれど、カプラのようなニューエイジ・サイエンスと比べると、ラングトンの理論に はニューサイエンスより使える部分がかなりあるし、ある意味ではオールドファッションのサイエンスを少し拡張する可能性があるという気がするんです。ひょっとしたらうたかたのように10年とか20年で消えていくものかもしれないけれど、僕は深い一つの流れ、うねりとして見ることができるのではないかと思います。結局、システム論の一つであることは明らかであると思うんです。これまで生物をシステム論的にみる見方はあまりなかったわけです。少なくとも、あまり陽の当たる部分にはなかった。そうした新しい部分がA-Lifeにはあるわけですよね。

生命シミュレーションの有効性

西垣――リマ=デ=ファリアのような変わったことを言う人物が登場することも含めて、進化という現象には本当にまだ謎がいっぱいあるような気がするんです。私自身はネオダーウィニズムというか、オーソドックスな理論を一応支持する立場をとっているつもりなんですが、わからない点も多い。例えば、カッコウが、縞のある卵を産む鳥の巣に托卵をするとしますよね。最初はうまくいくけれど、托卵された方はカッコウの卵に縞がないのでだんだん排除するようになる。そうすると、やがてカッコウは縞のある卵を産み出すわけです。けれどもDNAコードのランダムな突然変異で、縞のある卵が出てくるというのは、普通に考えれば、統計的にあまりにも確率が小さい。この現象を説明するのにランダムというモデルを仮定してしまうと難しいんです。ランダムにDNAコードが変化してたまたま縞がある卵を産むカッコウが生き残っていたんだというのは、お話としてはできますが少々無理があるような気がします。むしろ、ランダムというよりいろいろなメタレベルの変異パターンがあるという方がわかりやすい。

山火事が起きるとバッタの体色が緑から黒になるというのも同じです。黒いバッタが偶然産まれて山火事のときにたまたま生き残ったとはちょっと考えにくい。山火事がわりと頻繁に繰り返されてきたために、場合に応じてバッタは緑と黒という体色を出す遺伝機構をもつのではないか。あるいはカッコウの遺伝機構のなかに場合に応じて縞の卵を産むとか、そういうメタな変異の仕組みがあるのかもしれない。こんなのは私の単なる思いつきで、何の根拠もないんですけれど、ようするに進化のモデルのなかに、もう少し精緻なものを組み込むことによっていろんなことがわかってくるかもしれない。そのあたりもシミュレーションでやってみればおもしろいですよね。外界の認知機構と遺伝機構の間をまったくカットしてしまって、単にラマルキズムは間違いだというのは単純すぎるような気がするんです。確かに獲得形質は必ずしも遺伝しないけれど、もうちょっとリファインされた理論が出てくる余地があるんじゃないでしょうかね。

佐倉――今おっしゃったのは変異に関するお話だと思うんですけれど、基本的に突然変異、遺伝的変異がどのように供給されるのかというのはまったくわかっていない状況なんですよね。だから、今のネオダーウィニズムというのはそれがランダムに確率的に起こるとすればこういうふうになりますよ、という話になるわけです。でも、だからといって、その上のメタレベルの制約について全然考慮していないわけではない。カッコウの話にしても、地域によって違うわけです。水玉模様の卵の鳥に托卵するカッコウは水玉模様の卵を産むし、同じカッコウでも縞模様のところに托卵するやつは縞模様の卵を産むし、茶色いやつに托卵するやつは茶色の卵を産むしということで、イギリスのデイヴィースという人が精力的に研究していますが、あれはすごくおもしろい話ですね。そのメタレベルでの変異のパターンを構造主義生物学を名乗る人たちは深層構造という言い方をしていて、そういう意味では、構造主義生物学者の柴谷さんとか池田さんが言っているのは、あながちまずい批判ではない。でもそれはダーウィン進化論と矛盾する話ではないと思うんです。変異のパターンがどういうふうに供給されるかということについてダーウィン進化論は何も言ってないわけで、ある変異があるメタレベルでの制約のもとで、存在したら、その後適応していくやつが生きていくという話ですから。

変異の後の話はよくわかっている。適応と選択の関係はダーウィンが言って、遺伝の話はメンデルが言ったし、ワトソン=クリックがDNAの二重らせん構造を発見したりなどでいろいろ物語はわかっている。ただ変異がどういうふうに供給されるか、ここは全然わかっていない。変異の部分がいちばんおもしろいというのはまさにそうなんです。でも、制約がないなどということは、誰も言ってませんよ。

西垣――ああそうか。ランダムに変異するとは必ずしも言えないということですね。

佐倉――そうですね。

西垣――ランダムというのは数学的に一様分布という明確な構造をもっていますからね。

佐倉――もちろん制約はありますから、ピンクになったり赤になったりすることはないわけです。バッタも緑か茶色か黒かという話ですね。

西垣――今認められているネオダーウィニズムというものに付け加わるというかたちで理論が進むということでしょうか。

佐倉――変異の部分の実験というのはなかなかしにくいようですね。よく引用される例では、大腸菌にある一定の方向をもった突然変異だけがよく出るというのがあります。乳酸かなんかで培養すると、乳酸を消化する酵素をたくさんもつような突然変異がぱかぱかと出てくるというんです。もし本当にそういうことが頻繁にあるとすると、これはダーウィン進化論と抵触する話ですね。突然変異が一定の方向をもって出てくるという話になると、それはラマルキズムに近い感じになってくる。しかし、この大腸菌もよくみると、そういうやつだけ生き残っているのかもしれない。あるいは、実験の統計がいい加減だとか、いろんな話があってまだ確定した話ではないんですが、そういう意味でも変異論というのは非常におもしろいし、一つは分子生物学の方で遺伝子のメカニズムがわかってきて、そちらから攻められるようになってきたというのと、もう一つはシミュレーション、これはA-Lifeですね。その意味でも、「リアル生物」では扱いにくい話を「実験」できるというところで、A-Lifeに注目、しているわけですね。

西垣――私自身は有機体の抽象シミュレーションということ自体は大変おもしろいと思っているんですね。しかし、従来のアカデミックな厳密科学の枠組みのなかで何か結論をみちびこうとすると、わりと大変じゃないかなという気はしているんです。どういう意味かというと、従来の厳密科学は、キチンと再現性のある法則をみつけようという話だからです。そうなると対象が複雑ですから、なかなか難しい。厳密科学の枠組みのなかでのコンピュータ・シミュレーションとは、基本的にモンテカルロ・シミュレーション[★06]です。

モンテカルロ・シミュレーションの一番簡単な例は、ご存知のように、複雑な形をした図形の面積を求めるものですよね。形が複雑なので、面積は簡単には計算できない。そうすると、上から砂を一粒ずつぱらぱらと落とす。それで砂が図形のなかに入ったかどうか判定する。そうやって落とす砂の数を増やしていくと、図形のなかにたまたま入った砂の累計から求めた近似値がだんだん求める面積に近づいてくる。つまりモンテカルロ・シミュレーションは統計的な「大数の法則」に基づいているわけです。繰り返しによって観測値が求める値に近づいていく、これがシミュレーションの大原則なんです。

ところが、現実の複雑なシステムの挙動をコンピュータでシミュレートしようとするとなかなか求める値に収束しない。つまりごく簡単なシミュレーションでも、恐ろしく長時間にわたって実行しないと、統計的な実験から求める値を正確に推定することはできないんです。

佐倉――シミュレーションでやるとなかなか収束しない。

西垣――なぜそんなことを言うのかというと、私は昔からコンピュータを使っていろいろなシステムのシミュレーションをやってきたからですよ。普通、現実のシステムはとても複雑なので、解析的に解けない。仕方なくコンピュータ・シミュレーションでシステムの挙動をしらべるわけです。ところがシミュレーションでは、本当に正確な値を求めているのかどうかよくわからなくて随分悩みました。厳密科学の枠組みのなかで、統計的なシミュレーションによって客観性のあるデータを出すというのは本当に難しいんです。特に進化とか、相手が複雑な生物環境システムの場合、極めて難しいと思います。例えば、ある状況の下ではこういう生物は絶滅するという理論をシミュレーションで検証しようとするのは実に大変なんじゃないかな。まあ、何にもわからないよりはいいということもあるし、それなりに一つのストーリーをコンピュータ・システムが語ってくれるわけですから、まったく意味がないとは思いませんが。

あえて言えば、A-Lifeのコンピュータ・シミュレーションの結果からすぐに厳密科学の枠組みのなかで成り立つんだという断定だけはしてもらいたくない。シミュレーションというのは単に一つのめどなんです。有機体の抽象的な性質を取り出してそれをコンピュータ上でシミュレートするというA-Lifeの試みは、今まで誰もやっていなかったから十分価値はあると思いますよ。でも、そういうシミュレーションにまつわる一種の不透明性という問題は、生物のシミュレーションでももっとクローズアップされたほうがいい。もし私が科学者として厳密にA-Lifeの研究をやるとすると、非常に大変な忍耐と努力を覚悟しますね。納得のいく結果を得るためには一種の名人芸が必要となるでしょう。こういうパラメータでこういうシミュレーションをやれば、かなり当たるというようなね。長い間の経験を積み重ねて、それで実際当たるかどうかということを、繰り返し試しながら自分でモデルをうまく作っていって、結果に影響が大きそうなところは厳密に組み込んで、小さそうなところはラフにやるとか。なぜかというと、あまり厳密に全部シミュレートするプログラムを作ってしまうと、シミュレーション時の繰り返し数がどうしても少なくなって誤差が大きくなる。だからまずいわけです。一種のテクニックが必要なんです。

佐倉――遺伝的アルゴリズム(ジェネティック・アルゴリズム=GA)なんかをやっている人の話だと、絶滅だとか具体的な話ではないんですけれど、生き物らしく動くかどうかというのにもパラメータ・チューニングの泥沼で(笑)、名人芸で、職人芸で、「パラメータを決める遺伝的アルゴリズムが欲しい」なんて冗談で言っているらしいですね。10回とか20回とかやってみて、1回そういうのが一つ出るかどうかという感じで、パラメータ・チューニングが非常に大変だという話はよく聞きます。

シミュレーションで科学が構築できるか、というの重要な問題ですね。僕は、できると思うんですが……。この間経済学者の西山賢一さんの友人の、田中辰雄さんという若い方に聞いた話ですが、どういうときに保護貿易が得で、どういうときに自由貿易がいいかという比較を、解析的には解けないので、シミュレーションでやって、とてもおもしろい結果が出て発表したんですけれど、皆からボロクソ言われる。これはシミュレーションではないかと。

そういう結果が出るように初めからパラメータをそろえてやったんだろうと誰も信用しないし、納得してくれないというようなことを言っていました。彼は今の経済学界が保守的でいけないんだという言い方だったんですけれど、生物学でも同じことで、A-Lifeの話をすると、一つの反応はそんなのはモンテカルロ・シミュレーションと同じではないか、シミュレーションでそんなのは昔からやっていることだというのがあります。例えば進化とか生態学でこういうA-Lifeみたいなことをやると、これは解析的には解けないんですか、解けないんだったらただのシミュレーションで、お話ですね、という反応が必ずありますね。それも何か僕はずるいなと思うんだけれど、今、名人芸とおっしゃったけれども、どれだけお客さんというか聴衆が納得するかみたいなところがありますよね。シミュレーションでも、みんながうなるような結果が出ればパチパチと拍手して、トム・レイがやったティエラ[★07]なんて単純なシステムから複雑なダイナミズムが出たっていうんで、まさにそうだと思うんです。

そうするとみんなシミュレーションでも出た、出た、スゴイ、スゴイという感じになる。シミュレーションの限界というのはあると思うんですけれど、逆に言うと、解析的に解けるのを待ってたら、いつになっても進まないという部分はありますよね。

西垣――その通りです。生態系などはとても解析的になんて扱えませんよ。確かにドーキンスのバイオモルフ[★08]にしても、生物の形態がいかに出てくるのかという想像力に関して、よいサジェスチョンを与える。生命というものがどう誕生してきたのかということはなかなかわからないわけですけれども、それを詩的に語るのと解析的に分析するのと、コンピュータ・シミュレーションでやるのとどれが一番えらいということはあまりなくて、皆それなりにおもしろいんじゃないかと思うんですけれども。

佐倉――とするとですね、西垣さんがおしゃった批判は、それはさほどAL〔ALIFE〕の批判になっていないような気がするんですけど。

西垣――厳密なサイエンスとしてみると生物のシミュレーションはなかなか難しいということはさっき言いましたよね。対象が複雑ですからね。もっとはっきり言うと、A-Lifeが芸術だというのは古いタイプの科学者に対しては批判になるわけです。厳密科学たりえないということですね。

佐倉――それは逆に言うと、厳密科学がケツの穴が小さいんじゃないかな(笑)、という見方もできますよね。

A-Lifeの工学、コンピュータ・サイエンスへのインパクト

西垣――もちろん、そうも言えます。逆に言うと、従来の厳密科学は狭い土俵を守っているわけで、そういうところからはA-Lifeははみ出さざるをえないかもしれない。でもそれは必ずしも悪いことばかりではない。厳密科学が絶対というわけではないんです。実際、すでにおもしろいものは現われてきていますよ。例えばロドニー・ブルックスの昆虫ロボット。あるいは多賀厳太郎の非線形振動論に基づくロボット。A-Lifeから今までなかった動きをするロボットが出てきたり、さまざまな楽しみはありますね。

ただし、もう一つ別の問題もある。私の専門のコンピュータ・サイエンスで、A-Lifeによってメジャーな進歩や新しいアプリケーション分野が期待できるかというと非常に疑問だと言わざるをえない。ここが私のA-Lifeに対する最大の批判点の一つです。私のまわりには、AIのあとA-Lifeだと騒ぎまわっている人がたくさんいる。彼らに言わせるとAIの挫折は最初から人間の知能という超複雑なものを再現しようとしたからであって、ベーシックな生物のレベルから追っていくと、やがてコンピュータのなかにすごいものができるというわけです。またか、と思いますよ。

そういうA-Life派はジョン・ホランドの有名なジェネティック・アルゴリズムを礼賛する。まあ考え方としてはおもしろいのですが、あれだけではソフトウェアの問題が解決するとはとても思えない。GAがジェット・タービンの設計に使われているという噂を聞いたことがあるんですね。でもそれは単に一つのトピックにすぎない。ニューラル・ネットワークでオペレーションズ・リサーチの巡回セールスマン問題をうまくできたのと同じです。それ自体は興味深いことだし評価するけれど、ニューラル・ネットワークが従来型コンピュータにかわるメジャーな情報技術として発展していくかというのは、またぜんぜん違う話です。ニューラル・ネットワークの主な応用分野はパターン認識に限られる。あれで銀行のオンライン・システムが置き換えられるわけではないでしょう。抜本的なコンピュータの技術進歩というのは、もっと別の話なんです。

佐倉――今のお話で遺伝的アルゴリズムに対するご批判があったのですけれど、あれはA-Lifeの方から言うと、あくまでも一つの手法であって、工学的には最適化のための手法として使われるのでしょうけれども、A-Lifeの場合は必ずしも最適化ということだけではなくて、プログラムを進化をさせるための一つの方法にすぎないんですね。最適化で必ずしもうまくいかない問題があると、それは工学分野では困るんでしょうけれど、A-Lifeの方から言えば進化はいつも最適にならないことがありますよということの例になるわけです。

今のところ使われ方は、確かにジェット・エンジンのタービンやパイプラインでうまくいったらいいだろうなという感じなんですけれど。

一つ僕は素人なんで気になるのは、さっき西垣さんがおっしゃったように、GAでこれはいいとやったとしますよね。それで本当にうまくいくかかどうかというのは、巡回セールスマンの問題ならどうでもいいけれど、ジェット・タービンだったらそれを使って飛行機が落っこちたとするとえらいことだろうし、そのへんのセーフティチェックというのはもちろん何回もやるんだと思うけれど、規模が大きくなればなるほど問題かなという気はします。

それからコンピュータ・サイエンスへのインパクトが小さいというのは、西垣さんがおっしゃるのだからその通りなんでしょうけれど、例えばAIだったら何かインパクトがあったのか、ということはお聞きしたい。

西垣――AIのインパクトとしては、実用的にはある程度ありましたよ、エキスパート・システムとかね。

佐倉――A-Life的な発想でいうと、ジョン・コーザなんかのやっている遺伝的プログラミング[★09]という、ツリー状のプログラムの枝ごとぱこっと変えちゃって、遺伝的アルゴリズムと同じようものなんですけれど、それを枝ごと変えてしまう。

それでいいプログラムを作るというようなのはやっているみたいですけれど。どれくらい実効があるのかわかりませんけれど。

西垣――AIと比べてA-Lifeの工学的インパクトが大きいか小さいかというのは、A-Lifeのなかで実用的なアプリケーションがまだあんまり発達していないのでまだ断定は難しいんですよね。ただ、一つ言えることは、ニューラル・ネットワーク、あれも一時はAIを置き換えると大げさに言っていた人がいたんです。ある意味ではA-Lifeはニューラル・ネットワークをもっとリファインしたかたちですよね。方向としては、確かにAIの記号処理よりもっと深い部分までシミュレートしようとしているわけです。ただA-Lifeによって、人間に匹敵する超高級マシンを作るという夢があるとすると、これはAIにくらべてもさらに勝算がないような気がしますがね。

佐倉――それを目指している人は、そんなに多くはないような気もするんですけれど。

西垣――そうかな。ラングトンはそれを目指しているんじゃないかな。

佐倉――そうですね(笑)。ラングトンは講演の最後に必ずそういう話をして、100年か1000年か5000年かわからないけれど、地質学的には今はもう一瞬で、まさに人工生命は誕生すると。やがてそれはすごい速度で進化して、人を乗っ取るのか、人と共生関係になるのか、あるいは融合するのかという話は必ずするんですけれどね。あとモラヴェックも電脳生物ということで、人間がコンピュータのなかに入っちゃうみたいな話をしてますけれども。ただ、その場合もA-Lifeのパラダイムから言うと、人間がそれを目標にして作ったのではなくて、進化したらそれらの生物が勝手に進化していくわけですから、ということに話としてはなるんじゃないでしょうか。そういうのを人工的に育種家的に選抜してやっていくんでしょうかね。

西垣――コンピュータ・サイエンスあるいはエンジニアリングというのはやはり役に立つことをやりたいんです。やりたいというより、そういう役に立つものでないと結局お金がこないし、そうしないと市場性がないし、結局発展しないということになる。だからA-Lifeというのはそういう工学の分野ではなくて、むしろさっきから言っているように芸術的な分野に向かったほうがいいんではないか、という気がしていますね。

もし生物進化のサイエンスに役立てようというなら、佐倉さんも書かれていたけれど、遺伝子型と表現型の話が問題ですね。トム・レイのティエラにしても、全体が遺伝子型にかぎった話でしょ。表現型はないですよね。

佐倉――ないっていうか、区別がない。

西垣――進化していくということはひとまずDNAの遺伝子型が進化していくということだけど、それだけじゃない。個体が発生して個体と環境とのインタラクションがあって、その結果を反映したDNAが子孫に伝わっていく。DNAですべてが決まるのではなく、環境条件に大きく左右される。ところがティエラでは逆にDNA絶対主義に戻ってしまっているでしょう。いまのネオダーウィニズムがせっかくDNA絶対主義を排除して、「そうではない、DNAは一つの条件を与えているだけで環境との相互作用によって進化していくのだ」と言っていたのに、どうしてまた昔のDNA絶対主義に戻ってしまうのか――これはちょっと残念ですね。

佐倉――それは純粋にハードの制約じゃないですか。速いマシンでバーッと超並列でやればできるわけですから。

西垣――そこがさっきから言っているA-Lifeのアキレス腱なんですよ。生命を発生させるでしょう。表現型まで入れるとものすごく複雑なことが起こる。DNAというのは情報を凝縮したシステムだから、発生の時点で非常に沢山のパラメータを入れないとシミュレートできない。そして発生した個体同士が生体環境の世界で殺しあったり、子供をつくったり相互作用をするわけですね。これは複雑すぎてシミュレーション不可能です。原理的にできないとは言えないけれど、技術的に不可能だということですね。天文学的な組み合わせがある。その問題が、さっき私が言ったサイエンスとしてのA-Lifeの難しさです。

佐倉――ラリー・イェガーの《ポリワールド》は一部そういうところで発生をやっているし、あとNECの北野宏明さんなんかも発生のことを考えていますよ。それは純粋にハードの制約ではないんですか。

西垣――動物だって認知活動をやっているわけですから、それもシミュレートしなきやならないでしょう。だから私が言っているのは全面的にだめと断定しているのではなくて、厳密科学の枠組みのなかで結果を立証するのは名人芸なしにはほとんど不可能に近いという意味ですよ。もちろん、うまいモデル化をすればけっこう本質的なところを取り出せるかもしれないけれども……。

ただし、A-Lifeのポイントがアートという方向だということには別の意義がある。つまり逆にいうと、アートとサイエンスをオーバーラップさせ、サイエンティストも含めて想像力を刺激するものを作りあげるという試みです。案外それがガチガチの厳密科学の牙城を揺さぶるものに成長するかもしれない。

佐倉――そういう意味で言えば、A-Lifeは工学的にこんなにすごいよといって、バーンとお金がつくというようなプロジェクトにならないほうがおもしろい部分が生きてくるのではないかという気がするんですね。本当にエンジニアとか工学の一分野として通産省の大プロジェクトなんかになると、工学屋さんがバーッときて芽が潰されてしまうような感じがする。これは噂ですが、アメリカでは国防総省がA-Lifeにお金を出していて、ミツバチくらいの大きさの昆虫ロボットの戦闘機を作るというプロジェクトがあるとかないとか聞きましたが、それは倫理的な問題も含めてあまり感心できない。

西垣――コントロールということから考えると、AIもかなり危険なんです。AI以前のコンピュータのプログラムは、かなり予測可能な領域で動くけれど、AIは予測不能な部分が多いでしょう。軍事利用のAIにはだから反対があった。A-Lifeのように創発的な動きをする対象というのはコントロールがきかない。そういうものが巨大技術としてウワーッと動きだしたときにどうなるか、という恐れはありますよね。

佐倉――ドレクスラーがナノテクノロジーの本のなかで、ナノテクノロジーの一番の恐れとして暴走の問題を取り上げてます。ハムかなんかを作るアセンブラがハムばっかりボコボコ作り出したら、どうなるかと(笑)。あっという間に、地球上がハムで埋めつくされる、と。でも彼は技術万能的な考え方だから、セーフティチェックはすごく簡単だとは言っていますけれどもね。

A-Lifeは人間のサブ種か、自律した生命体か

西垣――私は軽薄な技術オプティミストを批判することが自分の天与の使命であると考えています(笑)。それは単なるペシミズムではなくて、技術自体をある程度知っている人間として、彼ら技術オプティミストと議論しながら進んでいくことが大事だというだけですよ。AIだって私は何も否定的に言っているのではなくて、建設的批判なんです。

このこととも関連しますが、フランケンシュタイン・コンプレックスの問題、つまり「生命は作れるのか」というのはおもしろい問題ではないでしょうか。例えば、ファーマーとベリン[★10]などは、コンピュータ・ウイルスも一つの生命ではないかという考え方ですよね。

これについて私は疑問がある。確かにコンピュータ・ウイルスも生命のもつ自己維持だとか複製とか進化といったいくつかの抽象的な特性をみたしているかもしれない。でもそういう抽象的な特性を取り出してシミュレーションをやっても、やっぱり生命を作っているとは言えないんじゃないかという気がするんです。

佐倉さんは『現代思想としての環境問題』のなかで、ガイア仮説つまり地球を生命体とみなす考え方には反対だと書かれていたと思います。地球を生命体とみても学問的に得られることは少ないと。この点では私もまったく同感なんです。一方、A-Lifeにも同じことが言えるのではないかと思うんですね。コンピュータ・ウイルスは複製もする、進化もする、自己維持もする、それは生命である要件をすべて満たしているではないかと彼らは言う。でもそのようなことをいくら言っても、やはり生命ではないと反論するのは簡単なんです。例えば、DNAとRNAの進化ネットワークに組み込まれるものだけを生命というふうに定義してしまえばいい。断っておくけれど、私は、DNAとRNAのネットワークだけが絶対だと考えているわけではないのです。ガイア仮説のラブロックも生命というのは曖昧なものだと言っていますよね。だからこそ、私は「生命を作れる」と軽々しく言うのはやめてもらいたい。ガイア仮説のように、地球を生命体とみなすことの意義は、学問的に正しいかどうかだけでなく、社会的にどういうインパクトをもつかという点もあるわけでしょう。エコロジー運動がさかんになったり、やっぱりわれわれは他の生物とともに生きているんだと連帯感が生まれたりね。A-Lifeは生命だなんて大ミエを切ることによる社会的なインパクトを考えると、私はやっぱり詭弁だと反論したい。

佐倉――それは意外な反応ですね。西垣さんは生命と情報はいわばコインの裏表だというような主張をされていたのではないかと思ってたのですが。

西垣――それはそうなんです。機械はもちろん人間の「延長された表現型」なんです。だからこそ――ここが大事なんですけれど――機械と生命をつなげるときには、連続の仕方が問題となるんです。私にはA-Lifeを生命とみなしたくないという一種の思考の美学があるんですよ。

佐倉――ロボットだったらどうですか。

西垣――生命とは、とりあえずDNAとRNAのネットワークに入るもので今のところいいんじゃないかと思うんです。だけど、われわれ人間は機械というものを自分たちの一種の延長表現型として、環境世界と関わっているという事実はある。だから機械がオープンなものとして、いわばわれわれと環境世界を結ぶメディアとして介在しているのはいいんです。ただし機械に自律的な生命体としての位置付けを与える必要はないのではないかと思うんです。そこが佐倉さんと私とでやや食いちがうところかな。

佐倉――生命はいわゆるウェットウェアの領域に限るということですか。

西垣――ウェットウェアに限るということではなくて、歴史性に注目すべきだということですよ。情報が自己言及的構造をもっていて、世界の意味解釈が歴史性を背負っていると初めに言いましたよね。生物はみな、太古からの時間の蓄積の上に生存している。だから私は生きる際の一回性を非常に大事にしたいと思っている。生命の歴史の流れに参加しているんだという意識が非常にあるんです。ただしそこに機械という延長表現型とともに参加しているんですね。機械というのは、そういう存在である。だからアリもアリ塚という延長表現型を作ったりして、生命の歴史の流れに参加している。佐倉さんの用語にしたがって、DNAとRNAのネットワークを時間軸に沿って展開したものをDNAメタネットワークと呼ぶなら、それこそが生命から織られるものですよ。A-Lifeが生命体であると考えるよりは、われわれは機械を一つの回路として、DNAメタネットワークのなかに参加していると考えるべきなのではないかと思うのです。

だから生命を作りたければ、その素材は、ウェットウェアでなくてもなんでもいいんです。無機物からでもいい。しかし、人間はおそらく工学的な意味での効率からいって、無機物から生命を作ったりしないで、すでに存在するDNAメタネットワークのなかにおける操作、つまり遺伝子操作の方向にいくと思うんですよ。今あるDNAメタネットワークの流れのなかに手を入れながら、まるでカイコに絹糸を作らせるように変換操作をやっていくわけです。つまり、私自身は、A-Lifeを一つの新生命とみなすというよりは、むしろA-Lifeという回路を通じて、生命、あるいはDNAメタネットワークというものにもっと深い探りを入れていくという立場にいたいわけです。

佐倉――いやあ、西垣さんからそういう反論が出てくるとは予期していなかったですね(笑)。でもそれは、生命に対するすごく人間中心的な考え方ですよね。例えば、もし他の星で地球のDNAメタネットワークとは関係のない生命体の宇宙人がいたとすると、それを果たして生命とは呼ばないのですか。

西垣――ウーン、宇宙人、それは予測をしてなかった(笑)。今のところ私は他の星のことについては考えていません。考えなければいけないのかもしれませんが(笑)。

佐倉――起源が違う別のメタネットワーク、それと交流するようなことがもしあったとき、今のお話だとどういうふうにわれわれは宇宙人を取り入れるのかということです。確かにA-Lifeも今はゲームみたいなもので、ライフと呼ぶのはおこがましいようなものだと思うんですけれど、新たなメタネットワークの端緒であるかもしれないんですよ。それをライフでないと言ってしまっていいのかどうかと……。

西垣――逆におうかがいしたいことは、A-Lifeのなかに、あたかも他の星にあるかのような進化系があったとして、それは一つの価値として保護しなければいけないということですか。ディープ・エコロジーの考え方をもっと敷衍して、その新しい進化系のなかの存在に生存の権利を与えるということなのか。電源を切ってしまうときに価値の問題は必ず出てくるわけですね。

佐倉――それは今後、ものすごく大きな問題になると思います。ラングトンが言っていることなんですけれど、人間は20世紀の後半に他の種を絶滅させるだけの技術をもった。おそらく21世紀の半ばくらいまでには、他の種を作り出す技術を人間はもっだろうと。

西垣――種というのは新たなブタとかそういうものですか。

佐倉――品種改良とかではなくて、まったくゼロから合成することができるんだということです。

西垣――コンピュータのなかにいるという話でなくて?

佐倉――自己複製するロボットでもいいんです。種の人為的な絶滅と創造と、どちらが倫理的に問題かというと、おそらく後者の方が大きな問題であろうと。

西垣――フランケンシュタインの話ですね。

佐倉――そことどうしても絡んでくる。

西垣――さっきからの繰り返しになるけれど、ラングトンも含めて彼ら西洋人はどうしても作りたいんですよ。造物主になりたいという深き欲望を強く感じる。向こうのすごい人はやっぱりそういうものが作れると思っているんだな。私は作りたくもないし作れないと思うから、新たな種という考え方はできない。あくまでも機械は人間のサブ種なんだと思う。人間が世界を認知した結果に基づいて機械を作っているわけでしょう。確かに、計算して予測するという古くさいシステム理論的パラダイムとは違って、A-Lifeは創発的なカオス的な振る舞いをしてはいる。そうは言ってもベースは人間ですからやっぱりサブ種なんじゃないのかな。

佐倉――人間のサブ種だとそんなに悪いことはしないからちょっと安心するところがありますね(笑)。せいぜい鉄腕アトムみたいなやつだろうかとか。でも、こういう含みをもたせておっしゃっているわけではないですよね、西垣さんは。人間の表現型というか分泌物であるということは、必ずしも人間の善悪と関係はない。

西垣――人間の善悪とは関係ないですね。ただ位置付けとして独立な種というふうに考える必要はないんじゃないかということです。

佐倉――機械は人間の分泌物だ、拡張された表現型であるというのは西垣さんのおっしゃる通りですけれど、アーティフィシャル・ライフと言ったとき、それは機械そのものではなくて、その機械のなかのプログラムとかロボットを動かしている情報の問題なのではないかと思うんです。

西垣――コンピュータだろうと算盤だろうと、物質構造ではなくて、情報構造が人間を通して作られたものだということですよ。例えばハエのような生物の情報構造は、われわれがいくら研究していってもやはりわからない部分がある。だけど、A-Lifeのわからなさはハエのわからなさとは違うでしょう。やはりA-Lifeは人間の関数であって、つまり人間の認知機構をいったんくぐり抜けた存在ですから。A-Lifeが人間の情報系と独立とはちょっと思えない。単に挙動が予測困難なだけですよ。

佐倉――エマージェンスした情報パターンとハエの場合のわからなさは違うということですが、これはかなり微妙な話ですね。結局、コンピュータにエマージェンスができるか、という批判はありますね。それは形式化に限界があるかという話につながると思うんです。

世界は結局、デジタル情報として理解できるか、という……。

西垣――基本的に機械というのは、「こうあるべきだ」という人間の当為に基づいた設計図のなかから出てくるものだと思います。創発性をもつA-Lifeだろうと何だろうと、コンピュータのプログラムは全部そうですよ。動作にランダム性があるものもいっぱいあるけれど、それはお膳立てを一生懸命やっているだけの話であって、機械というものは本質的に「こうあるべきだ」から発するものなんです。だから「人工物の科学」を語る人がいるんですけれど、気をつけないといけないと思います。人工物である機械という存在は、予測し制御するという人間の前頭葉の働きと本質的に関係していると思いますね。

佐倉――では、そういったものを超えた機械は作れないということですか。僕は、A-Lifeをみて生命じゃないという人には、じゃあどういうのができたらあなたは生命だと思いますかと聞くんですけれども。例えば、トム・レイのティエラなんかはどうですか。

西垣――あれは相互作用によって進化していくモデルですよね。

佐倉――相互作用はあります。勝手に進化していくわけですから。池上高志さん[★11]や金子邦彦さん[★12]、クリスティアン・リンドグレンなんかも複雑な生態系のダイナミックスをやっています。
僕は基本的には、生命が生命たる所以は情報パターンにあるのであって、DNAとかRNAはたまたま地球の生命が採用した手段にすぎないと思うんです。だから、A-Lifeは新たな独自の生命系として認めてもいいんじゃないか、少なくともその萌芽になりつつあるだろうと考えているんです。自分で進化する能力を獲得しているわけですから。

西垣――生命が情報系だという意見には私も賛成なんですよ。でも、さっきから繰り返しているように、情報というのは過去の蓄積に基づいて意味解釈されるものです。それでティエラのなかの情報系も実は作者の情報系の歴史に基づいている。どうしても人間の世界のなかでの情報系になるんじゃないでしょうか。人間と無関係な情報系とはとても思えないんです。

佐倉——今のところは無関係とは言えないというか、100パーセント依存しているので、萌芽なんですけれど、やがてロボットのようになってバカバカと動き回るようになって勝手にやるようになったら、生命と言っていいんじゃないかなという気がするんです。まあ、確かに、自分で自分をプログラムできないと「生命」とは言えないというのは、その通りですけどね。

西洋人がクローズド・システムの神になりたいという話ですけど、日本でもカラクリ人形とか箱庭とかありますよね。ああいうのはどうなんですか。僕はカラクリは17、18世紀のヨーロッパの自動人形とかオートマトンと近い部分があるような気がするんです。

西垣――カラクリ人形は海外から入ってきたのではないですか。

佐倉――時計をフランシスコ・ザビエルが持って来たんですよ。それを改良して日本の暦に合わせた和時計を作り、その時計の技術を使ったものですね。

西垣――本人は、海外から入ってきたものを基にして、それでおもしろいものを作ってしまうわけですね。だからカラクリの思考とは西洋人が造物主になろうとする思考と違うと思うんですよ。すでに目の前にある和時計を使って何かもっとおもしろい時計が作れるのではないかと発展させたり、さらに精緻なものを作りあげるわけですね。非常にインタラクティヴに世界と関わっていく。例の日本人が得意な半導体なんかもそうなんですけれど、細かい改良というのは世界とインタラクティヴに関わっていこうという精神がないと絶対にできない。カラクリなんかもそういうものの一つではないかなという気がするんです。箱庭は可愛らしいものを作りたいという気持ちの表われであり、そこに一種の楽しさを感じる心の表われであり、世界との関わりから生まれた好奇心の延長上にあるものだと思います。小さいものの魅力なんです。日本人は盆栽とかヒナ飾りとか、小さいものに対する愛情があるんですね。

西洋人の造物主願望というのは、そういうことではなくて、ロジックなんですよね。数理的なロジックに基づいて世界が整然と動いているんだ、だからすごいロジックを作ってもっとうまく動かしてやろうという考え方。こういう意識と箱庭とはちょっと違うのではないですか。

佐倉――僕はカラクリは、人間の外に半分生命・半分人間みたいなものを作りたいという夢が、それこそ日本も西洋も普遍的にあったということの証拠だと思っているんですが。

西垣――カラクリ人形はロボットと同じではないかということですね。

佐倉――そうです。オートマトンの歴史は、西洋にはギリシャ時代から綿々とあるわけですけど。

西垣――もちろん日本人にそういう論理性がないわけではない。基本的には誰にでもあると思うんです。ただ、何もないフラットなところから数理的なロジックを組み立て、設計図を引いてものを作っていく、そういう歴史的=文化的な条件をわれわれは持っていないんじゃないか、ということなんです。逆に何か与えられたらそれを改良して、インタラクティヴに、累加的にものを作りあげていくことが習慣となってきた。

設計図のなかでは、透明なロジックが理想型として存在する。物質としての機械というのは、磨耗したり壊れたりするので設計図とは違う。私は機械を「理想的な設計図と現実や身体性を媒介する媒介物」だと位置づけています。そういう点はA-Lifeも同じではないか。ただA-Lifeというのはものすごくリファインされていて、思いがけないエマージェントな振舞いをするものが出てくるというところに価値を見出すのはわかりますがね。それでも「思いがけない」と思うこと自体がまず問題なんですよ。例えばドーキンスのバイオモルフで生物の形みたいなものが出てくると、ああこれはいいんだ、あっちはだめだ、と言っているわけです。どうしてもお釈迦様の手のなかにいる。別に悪いというのではなくて、その点は認識しておいたほうがいいと思います。

A-Lifeとモダニズム、オートポイエーシス

西垣――佐倉さんも批判していますが、ディープ・エコロジーにも、一種の欺瞞的なところがあると思うんですね。人間はある意味で、どうしても人間中心主義になるのですよ。ただ、そのときにいわゆるモダンな価値観オンリーというのはおかしいという点が大切なわけです。人間以外のものは潰していいんだ、あるいは徹底的に管理しようというね。A-Lifeは一見ポストモダンみたいなところもあるけれど、でもやっぱりリファインド・モダンだという感じがするんです。確かにとてもファインにはなっているんですよ。コンピュータ自体がファインでしょ、小さくなって高密度で難しいことができる。モダンというのは、戦艦大和みたいにでかくてガチャガチャうるさいというイメージがどうしてもあるんですね。もちろんそれはA-Lifeでは克服されているんですけれど、基本的な部分の構造はモダンという感じがする。私が考える本当のポストモダンというのは、「過去を切り捨てて、前へ向かって進歩していく」というモダンの単線的な思考を多様な観点から超克していくことなんですが、その点、やはりA-Lifeはリファインド・モダンではないか。

佐倉――僕は芯はけっこう保守的な人間なんです。それがA-Lifeをおもしろく感じるのはなぜか、自分でも不思議だったんですけれど、ひょっとしたら今の西垣さんのおっしゃったことが理由なのかもしれません。ポストモダンになりきれていないところが、ぼくの許容範囲なのかもれしない(笑)。さきほどオートポイエーシスの話が出ましたが、構造主義生物学でオートポイエーシスをやっている神戸大学の郡司ペギオ幸夫さん[★13]が、A-Lifeのパラダイムは古い、あれはシステム論の考え方から言うと1世代前の、せいぜい非平衡システムの話であって、オートポイエーシスのレベルに達していないと批判をされているのですが、おそらく西垣さんもそう考えていらっしゃるわけですね。

西垣――郡司さんのお書きになったものを読んでないのでなんとも言えませんが、オートポイエーシス理論の大事な点は、例えば、ハエが世界をどう見ているかというのは認知レベルの話で、このレベルの記述はハエの歴史性に依存している、というところです。このことと、例えばハエがピョンと向こうへ飛んでいったりする運動の物理的なレベルの話の記述とは分けなければいけないことになります。物理的な記述はある俯瞰的な視点からきちっと記述することができるが認知的記述はそうはいかない。オートポイエーシス理論はそういうフィロソフィーを語るわけで、特にマトゥラーナは、生物を語るときに俯瞰的な眼差しだけでは不十分だと警告した。私はこの考え方が生物の本質的なところをえぐり出しているとみています。ラングトンはオートポイエーシスも組み込んだようなことを言いますが、その一部だけを取り出して、今私が言った視点の複合性、複数性、非単一性は採用していないような気がする。さっきも少しふれたけれど、A-Lifeはやっぱり旧来の俯瞰的な眼差しというところから見ている。そのなかである一部分についてオートポイエーティックな動きを入れようと考えているだけじゃないかな。
もっともオートポイエーシス理論をサイエンスとしてどういうふうに発展させていくのかという話になるとよくわからない。

佐倉――アーティフィシャル・ライフ以上に辛いという気はするんですけれどね。

西垣――ヴァレラなんかはどういうふうに展開していくつもりなのか、ご存知ですか。

佐倉――最近は免疫のことをやっているようですが、普通のサイエンスのパラダイムでやってもこういうことになるんじゃないかなという感じで、特にオートポイエーティックな感じはしない(笑)。ちょっとシステム的な匂いがするくらいで、オートポイエーシスのパラダイムが生かされたという印象はないですね。

西垣――マトゥラーナのオートポイエーシス理論のいいところは、生命というものとともに、世界が立ち上がるという視点を示すことができたんじゃないかということです。ハイデガーも似てはいるが、ハイデガーの「現存在(ダザイン)」は人間だけですから、動物は入らない。でも私はウマだって世界を解釈していると思うんです。ハイデガーは言語に基づいて議論しますから、人間だけが世界の不安を感じると言っている。人間特有の前頭葉の働きで未来を見透かすことができるから不安を感じるとも言えるけれど、われわれの不安のなかにはもっと情動的な部分があって、動物が何かに脅えたりする、そういう現象と深く関わっているんじゃないか。だからハイデガーの議論は、ちょっと人間中心すぎると思います。

佐倉――それはおもしろい話ですね。マトゥラーナはハイデガーを拡張したと言ったらいいですか。

西垣――拡張したというより、一部重なったということでしよう。例のテリー・ウィノグラード[★14]はハイデガーとマトゥラーナを一生懸命勉強して、AIを批判したわけです。

佐倉――話は飛びますが、A-Lifeというか「人工生命」という言葉について、あまりウケがよくないんですよね。「アーティフィシャル・ライフ2」のビデオ・プロシーディングスというのがあるんですが、1990年の第2回人工生命国際会議のさわりを、ラングトンがビデオに編集したもので、いろんな人が出てきて、自分の作品をビデオでチンタラ見せる上に、構成も画質も最悪なんですけれど。で、それを倫理学者たちの会で見せたら、これのどこが生命やねんという感じでブーイングの嵐(笑)。なかに一人、二人おもしろいという人はいたんですが、その先の問題について議論しようと思ってもコミュニケーションできないんです。

感覚的に陶酔できる人はよいけれど、そうでない人は、それこそいくらロゴスで言ってもだめ。ALに関してはそのへんの難しさは確かに感じますね。

西垣――私はもしかしたら日本人としては少し変わっていて、基本的なロゴスで世界のすべてが説明できるのではないかと考えてきたんですよ。だから若い頃は物理が好きだったんだけれども、そのうち物理だけで世の中が動いているんじゃないと思うようになったわけです。世の中は自然現象だけじゃなくて、社会、経済、戦争などいろいろあるでしょう。それでも大学生の頃はサイバネティクスとか行動科学とかシステム科学などで世界はなんとか理論的に記述できるのではないか、コントロールできるのではないかと漠然と考えていたんですね。数理的な構造みたいなもので、いろんな社会の動きが理解できるのではないかというわけです。政治などは非常に複雑でとてもコンピュータ・シミュレーションできるようなものではないのですが、その頃はシステム科学が万能のように言われた時代だった。そのあと出てきたのがAIなんです。AIというのはグローバルなシステム科学と違って、ローカルな記述の積み上げなんです。例えば、ユーゴスラビアの人たちはこれだけの規模の軍隊をもっていて、こういう生産活動をしている、といったいろんな状況を知識命題としてとにかくコンピュータのなかに記述していく。それは世界に対する一つのアプローチだったんですね。だからAIというのは、ある意味ではすごくおもしろい分野なんです。グローバルなモデルが破産したとき、世界がどう動くかは見当がつかない。けれども今、戦乱のユーゴにはどういう解決策があるのか。政治家の駆け引きみたいな解決策だけじゃなくて、コンピュータの能力を使った合理的な解決策も世界に対する一つの処し方でしょう。

私はそういうロジカルなアプローチをいろいろ試みたあげく、その限界に気づいたわけで、最初からシミュレーションが嫌いだというのでは全然ない。A-Lifeは私が昔好きだったパラダイムにやや近いような気がしますね。

佐倉――A-Lifeをやっている人たちが、そこまで大きなグローバルな普遍原理を目指しているかというと、必ずしもそうではないと思うんですけれど。やっぱりA-Lifeは、ローカルなルールでエマージェンスしていくという見方ですから、そんなにグローバルな性質はないと思うんですけど……。むしろ、グローバル・モデルが破産したあとの、ニュー・パラダイムなんじゃないかなあ。モダンの「あがき」かもしれないけれど。


★01 リマ=デ=ファリアAntonio Lima-de-Faria、1921年ポルトガル生まれ。リスボン大学生物学科卒。細胞遺伝学専攻。現在ルンド大学分子細胞遺伝学研究所名誉教授。『選択なしの進化』(池田清彦監訳、工作舎、1993)などの著作でネオダーウィニズム批判を展開。
★02 ワイゼンバウムのイライザ――MITのジョセフ・ワイゼンバウムが1965年に開発した精神分析の会話をシミュレートする対話プログラムが「イライザ(ELIZA)」。イライザは精神分析医の名前で、モニターを通じて「患者」と彼女は対話をする。後にワイゼンバウムはAIを批判する立場をとるようになった。ワイゼンバウムの著書には『コンピュータ・パワー』(秋葉忠利訳、サイマル出版会、1979)などがある。
★03 マッカロック、ピッツのモデル――1943年にW・マッカロックとW・ピッツが提唱したニューロンの情報処理モデル。現在もニューロ・ネットワークの基礎モデルとして使用されることが多い。
★04 マッカーシ――John McCarthy、1927年生まれ。人工知能という言葉を初めて使い、人工知能の父と言われるアメリカの計算機学者。最初の記号処理言語であるプログラム言語Lispの開発者でもある。著書に「人工知能になぜ哲学が必要か――フレーム問題の発端と展開」(P・ヘイズとの共著、松原仁訳、哲学書房、1990)などがある。
★05 オートポイエーシス――マトゥラーナ、ヴァレラによる生命理論。「オートポイエーシス」とは自己生成、自己生産の意味で使われている。神経システム、細胞、免疫システムなどの研究を通じて提唱されたこの理論は、生命システムの特徴として、自律性、自己組織性、自己境界性、自己孤立性をあげる。また、この理論を生物以外の社会システムなどに適用しようとする試みも行なわれている。
★06 モンテカルロ・シミュレーション――乱数発生のメカニズムを取り入れ、数学的な近似値を得る手法の一つ。モナコ公国のカジノで有名なモンテカルロにちなんでつけられたもの。1940年代頃から使用され、フォン・ノイマンが命名したと言われる。自然科学の実験、社会科学的な調査などにおいて、厳密な計算が困難な場合に用いられる。
★07 トム・レイのティエラ――佐倉統「自然の生命、人工の生命」、『InterCommunication』2号参照。トム・レイは、ティエラ(Tierra)と呼ばれるコンピュータ・プログラムにより、電脳空間に出現した生物同士を相互作用させて、自然選択のシミュレーションを行なわせることに成功した。
★08 ドーキンスのバイオモルフ――佐倉統「自然の生命、人工の生命」、『InterCommunication』2号参照。人間が自己にとって都合のよいように選択する人工選択の過程を再現したリチャード・ドーキンスのプログラム。最初は単純なY字型の図形が、人為的な選択と突然変異を繰り返すうち、実際の生物に似た複雑な表現型へと進化しうることを示した重要なシミュレーション。
★09 遺伝的プログラミング―——本誌36ページ、「クリス・ラングトン論文」参照。
★10 ファーマーとベリン――ファーマー&ベリン「人工生命とは何か?」、『InterCommunication』2号参照。
★11 池上高志――神戸大学大学院自然科学研究科(物質科学・分化講座)助手。非線型科学専攻。
★12 金子邦彦――東京大学教養学部助教授。米国ロスアラモス国立研究所非線型研究センター研究員などを経て現職。カオス理論専攻。
★13 郡司ペギオ幸夫――神戸大学教養学部助手。専攻は理論生物学。本誌106頁参照。
★14 テリー・ウィノグラード――Terry Winograd、1946年生まれ。スタンフォード大学教授。1972年にSHRDLUという自然言語理解システムを開発し、自然言語理解、知識表現、認知科学などの研究の発端となった。後にドレイファスらと並んで、AI批判の代表格となる。

(にしがき とおる・情報工学/さくら おさむ・進化生物学)

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