IC52-4

スーザン・ソンタグの語らない声を聞きたかった

[掲載日:]

[追悼 スーザン・ソンタグ1933-2004]


 あの頃、といっても60年代末、すべてがラディカルに突っ走っていた。そのとき「ラディカルな意志」をかかげた「反解釈」、つまり啓蒙なんて知らないよ、という強い意志の持ち主があらわれたとすれば、当然ながら注目の的になる。その人が、「キャンプについてのノート」を書いた。さっそく英文をみても私にはほとんど理解できない。何しろアンダーグラウンドで、妙な素振りをしながらひそひそ話しているようなことばかりで、アカデミックな教科書の英語が通用するわけがない。高橋康也さんの訳でやっと意味が通ずることになったが、この奇妙に反政治的にみえる一種の趣味の羅列が、じつはもっとも政治的な意志にもとづいたものなのだとは、後になって、日本の茶道に頻出する「好み」について考えるようになってはじめて了解できた。切腹や斬首に追いこまれた茶人たちにとって、「好み」とはそのままラディカルな意志だった、命をかける程の思想だった、と考えるようになって、私はあらためてキャンプについて想いを馳せた。スーザン・ソンタグとは生前何度も話す機会がありながら、キャンプ=「好み」について遂に語らなかったのが、心残り。何しろ本人がキャンプなんて昔のことで、もう忘れちまったなんていうので、私のほうが気おくれしてしまったのかも知れないけど、忘れちまった、などということがすなわちキャンプなのだ、ともう一度気がついてみる。何というわかりの悪さだ。

 「好み」はもともと解釈を拒絶している。説明もできない。茶人がいったこと、やったこと、えらんだこと、それがひとりの人から発しているので、統御されていると思うのは大間違いで、ほとんど支離滅裂である。だけどそれを集合化された無意識と思いこみ、茶道のみならずあらゆる芸道へと体系化してしまった「道」という便利な手段を東洋人は知っていた。それにたいして、キャンプはおそらく視線[まなざし]そのものをいおうとしていたのではないか。

 とすればスーザンが『写真論』に至るのも無理はない(〈On Photography〉に論がつけられてちゃんとした意図が伝達されたのかどうか。私は疑問のままにしておきたい)。説明することのできない視線[まなざし]をとりだす。これはスーザンが書いた小説の仕掛けにもあてはまる。語るに落ちることのない小説なんてめったにお目にかからない。だけど小説を書くことに誘惑されるのもわからなくもない。ラディカルでありつづけるのはくたびれる。そんなとき嫌いではない小説と付き合う気分になるだろう。ス—ザンの小説からそんな気分が読みとれる。反解釈というわけにはいかない。「好み」にしぼりこむには長すぎる。「まなざし」を大册にひきのばすのは、ちょっときつい。

 ヴェトナムで反対側の視線にもとづいて記録映画をつくる。ボスニア・ヘルツェゴビナで停電のまま自主制作の『ゴドーを待ちながら』を上演する。政治的文脈のなかで非政治的に振る舞う。解釈を拒絶しているようにみえて、その政治的メッセージはあまりにわかりやすかった。そうはいってもこんなパフォ—マンスがない限り、雑多な情報がとび交うなかでは、私たちに遠い国での、きびしい、それこそ命がけのキャンプ=「好み」の存在は伝達されなかったというべきだろう。文字通りの政治の場にでるのを好まない私にとって、スーザンのそんな行動はいつも賞賛されていいと考えつづけてきた。

 10年程前に私はひとりだけで水俣メモリアルの国際コンペの審査を受け持つことになってしまった。共同でやることになっていた石牟礼道子さんがあまりに近くにいすぎるという理由で辞退されたためである。そこで丁度来日される予定になっていることを聞きこんだ私は、スーザン・ソンタグにその審査の立会人になっていただくことをお願いし、快諾をいただいた。きびしい政治判断が必要だと私は感じていた。そんな場面においてたじろぐことのない正確な判断が聞けるのは世界中さがしても彼女だけだと私は考えた。段取りもでき来日された。ところが私は流感にかかって、一週間程、声がでない日がつづいたため、審査が延期となり、かけがえのない目撃者を失ってしまった。その次はシンポジウムの壇上でお目にかかったが、それが9・11の後だったので、リアルな政治の話になった。勿論聴衆も激しい言葉を期待していた。いまとなっては、水俣で、彼女の内側の声が聞けなかったこと、政治的な場での非政治的な語り口がいかに作動するか、それが聞けなかったことがかえすがえすも残念である。

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