IC8-23

保存と復元

伝統、その継承と方法をめぐって

[掲載日:]

文化財保存の理念と方法的差異

磯崎 昭和41年に国立劇場ができてからずっとですから、28年になりますが、木戸さんがこれまでやっていらしたことは、それまでの日本では誰もやっていなかったユニークなことだと思います。今日はその辺のことを中心にして、話をお聞きしたいと思います。最初に国立劇場に関わられたのは、どういう経緯ですか?

木戸 国立劇場を作ることは、閣議決定で決まったんですが、そのとき現在の文化庁、かつての文化財保護委員会に、設立のための調査費用として僅か200万円にも足りないような予算がついたんです。その予算で卒業早々最初に採用されたのが、私です。そういう仕事をしたいと思っておりましたから、網を張っていたわけですが、以来ずっと今日まで。

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木戸敏郎 撮影=大高隆

磯崎 そうすると、ダイレクトに国立劇場に入ったわけですね。国立劇場というからには国の劇場で、基本的には伝統的な演劇を上演するという形で組み立てられているわけですが、最初からそういうところに関心を持っていらしたのですか?

木戸 当時の社会通念と今のそれとはかなり違っていると思いますが、昭和25年に文化財保護法ができました。これは法隆寺が火事で焼けて、それで考え直さなければいけないということで制定されたのです。したがって、文化財保護法というのは「物」を保存しなければいけないということに終始して、有形文化財を保存するということばかりを考えてできたのです。これはまあいいとして、昭和25年頃は終戦直後ですから世の中が滅茶苦茶で、いろいろな物がどんどんボロボロになっていく時期でしたから、とにかく解釈を加えないで現状を保存しようと。その考え方を敷衍して、昭和29年に無形文化財にも適用したんです。国立劇場はそうした中で、意欲的に伝統芸能を保存しようということで作ったわけです。

磯崎 歌舞伎を例に挙げるなら、商業演劇として上演されているもの以外を復元してやるとか、あるいは全く新しい解釈を加えて上演するという試みが、ある時期から国立劇場でなされ始めましたよね。

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磯崎新 撮影=大高隆

木戸 劇場ができた最初の頃、古典をやっていくうちに、これは少しおかしいぞ、ということに気がついてきたわけです。どういうことかというと、有形文化財なら、たとえばお茶碗を桐の箱にしまって蔵の中に10年置いて、その後取り出しても元と同じ状態で出てきます。ところが、無形文化財というものは、踊り一つをとっても、ある人が得意としているレパートリーが、10年後に、果していい状態にあるかということです。というのは、人間ですから体型は変わるわけで、太る人もいれば足腰が弱くなる人もいる。気持ちも変わる。かつての状態と同じではなくなる。あるいは代替わりによってもまた違ってくる。そのように無形文化財というものは、常に再生していくという宿命にある。音楽も同じで、音という物理現象はすぐに消滅してしまうからその都度再生しなければ存在しない。物質の場合には、一度作ったものは壊さないかぎり存在しつづける。そこで、有形文化財を保存することと、無形文化財を保存することの間には、方法的に違いがあるということに気がついてきたわけです。

それから、伝統とは何か、伝統のエッセンスとは何か、あるいは今われわれが伝統と言っているものの中で失っているものは何か、ということを考え、例えば失われた曲を復曲させたり、もともとの理念に則った新しい作品を作ったり、ということを試みるようになってきたわけです。

磯崎 その際、復元という考え方、あるいは創造的にそれを継承するという立場のどちらが主になるのか。これは古建築の保存と復元と、再生という問題とまったく同じことですが……。

木戸 この点については、劇場の中でも、この世界全体でも、われわれの間でははっきり決まった見解というのはないのです。

私自身の意見ははっきりしています。保守的な人たちは、昔からあるものをその通り繰り返すのが、伝統であると言っています。それが主流です。私はエッセンスを抜き取って、理念を伝承していくべきであり、そしてその様相は時代とともに変わっていくべきである、と考えています。ただ、このようなやり方にはいろいろと批判があり、私も随分非難されているんです。でも、非難している人たちに、それならどうやって継承していけばいいのかと問うと、その答えは何もない。たとえば古建築の場合、修理、修復という言葉を使うわけですが、これは非常に漠然としています。英語で言った方が判りがいい。コンサヴェーションという方法と、レストレーションという方法があるわけです。コンサヴェーションというのは、ぼろぼろに風化しないように保存しようということ、レストレーションというのは、欠落している部分を新しい材料で補っていくことです。西洋の場合は言葉が違うものですから、対処の仕方も違って、これはコンサヴェーションで、あれはレストレーションでいこうとなる。日本の場合には、古建築を修理するときでも、その辺がわりと曖昧なのではないかと思います。

磯崎 たとえば法隆寺の場合、金堂には鬼瓦が載っています。ところが解体修理をしていくと、金堂の上には鴟尾が載っていたはずだという説が出てきました。

木戸 発掘したら鴟尾の破片が出たんですね。

磯崎 だけど記録にはもう、鴟尾がないわけです。そうすると、載せるべきだという人と、いやそれはやりすぎだという人がいる。鴟尾も、一応破片はあるけれど、最終的にどういう形をとっていたか判らない。それを強引に復元してよいのか、という議論もあって、いつも結論は出ない。似たようなことは、無形文化財には無数にあるんでしょうね。

木戸 そうです。ただその場合、われわれが伝統だと思っていたものが明治以降、あるいは戦後のものであったりするんです。歌舞伎にしても、明治以前の江戸歌舞伎がどういうものであったかは判らないから復元しようとしても、これはできない。台本は残っていますが、どのように演じたか判らないわけです。江戸時代の劇場は小さいから、今のやり方では、寸法が合わない。たとえば、この音楽を演奏している間に舞台を移動するといっても今とは条件が違います。だから、明治以降、西洋建築の工法で作られた、間口の広い大きな商業劇場で演じてきたものしか現在は判っていない。そうすると、江戸歌舞伎を復元するといっても、結局は創作になるのです。

伊勢神宮——明治100年の変容

磯崎 建築の場合、復元・保存の問題で典型的なのが伊勢神宮です。伊勢神宮というのは、これまであったものをそっくり横に再度建てるというものです。それを20年ごとに繰り返してきた。ところが現在の伊勢神宮から6回前、明治2年の遷宮の時の記録写真を見ると、内宮はレイアウトが全然違うのです。たとえば、現在中央には本殿があり、その後ろに宝殿という宝物殿があります。それが明治の遷宮時には一直線に横に並んでいた。その次から後ろに押し下げて、現在はいま言ったような配列になっている。これは大変な違いなわけです。

木戸 屋根の勾配が変わったなどという程度のものではないわけですね。

磯崎 ええ。それから本殿の前に差掛があるのですが、この差掛は現在では完全に固定して、建物の一部になってしまっています。でも明治時代にはそんな差掛は無い。仮設の差掛を、式の時に濡れると困るということで臨時に作ったと思うんですが、次に作った時には恒久的なものになっている。そして、その部分は今、蝶番で組み立てた跡が全部見えるようになって、もはや解体したりする必要がないわけですから、飾り金具になっている。それほどに、たった100年の間に変わってしまっている。しかも飾り金具みたいなものが、昭和初期の頃には、どんどん増えて、伊勢神宮でありながら、きんきらきんにしている。戦後に、これはおかしいということで、それらを大分剥いでいるんですが、これも理由なしで剥いでいる。理由なしに付けたものを理由なしに剥いでいるから、どこまでが本物なのか判らない。それを確かめていくと、原形が何であったか、ということさえ不明なのです。そうなると、どこが起源でどこが始源なのか、その区別があるとしてもそのどちらも判らない。オリジンも判らなければビギニングもはっきりしない。

これをどう見るか。伊勢神宮は持統天皇時代、7世紀の終わり頃に第1回目の建造が行なわれ、現在まで約1300年、同じものが建てられてきたと言われています。しかし、全く違うものがあの当時にはあったのではないかという推定ができる。にもかかわらず誰もそれを証明できない。20年ごとに建て替えたという伊勢神宮でさえそうなのですから、無形文化財ということになったら、もう大変なことでしょうね。

木戸 伊勢神宮のお供えにはトマトやレタス、ピーマンという西洋野菜があったので、これはどういうことかと聞いたところ、お供えものに一つのルールがあるということでした。お供えは、日本で採れている今が旬の、最高の海の物と山の物と決められているそうです。だから、西洋野菜でも構わないという。その辺は飾りにはなっていないのです。飾りではないから形式ではない。ある寺院では供物が見事な有職の様式を整えていましたが、近くで見るとレストランの見本と同じような蝋製になっていました。つまり伊勢神宮の伝統を、姿か、それとも理念で捉えるのか、ということがある。神殿を建て替えるときには、白衣を着用しなければならないのですが、白衣でさえあればジーパンのような作業着でも構わなくて、それで作業をやっていますね。

磯崎 僕も遷宮の直前に入れてもらったのですが、「白装束で」ということでした。おっしゃるように白装束といっても簡単で、ただ衣服の色が白ければいいんです。白のズック、股引きみたいな材質の白い上着、ズボンももちろん白、それだけで入れてくれる。でも、それでなければ駄目なんです。

木戸 白は清浄だという理念がある。でも刀鍛冶が写真を撮影する時のような妙に仰々しい恰好はしない。工具も、電気工具を使ったり、新しいものをどんどん取り入れている。

同じ問題は国立劇場にもあるわけです。日本人の体位が向上し、背が高くなり足が長くなる。そういう人たちが日本舞踊を踊る場合には、当然動きが違う。長い手足を、持て余している人がいるわけです。そうなると、踊り自体が変わってくる。

磯崎 外人が踊るような感じになってしまう。

芸の解釈、芸の創造 六代目菊五郎の舞台

木戸 そうなのです。舞踊はもともと日本人の体型に合わせて、内へ内へとこもるようにできていますでしょう。それを、現在の外人のような体つきの若い人が踊ると、まことに変なものになってくる。そうなった場合には踊りも自ずと変質するか、あるいは滅びる。滅ぼさないようにするためには、何を残し何を変えてもいいか、という問題がある。これがわれわれにとっていちばん厄介な問題になるわけです。変だと思っても先生に教わったとおりに踊ればいいという人と、分析して何ができるかということを考えるべきだという人がいる。名人といわれた六代目菊五郎という人は、今の若い人とは逆に背が高くなく肥満体でしたが、あまり姿の良くない体でうまくやれる方法を工夫した。そこに六代目の工夫があり、型があるわけです。

磯崎 歌右衛門でもそういう話を聞きますね。あの方は生まれつき足が悪くて、それを考えた上で、自分の型を作った。

木戸 六代目の場合には、いま挙がった成駒屋ほどにはハンディはなかったのですが、それにしてもあまり恰好のいい体型ではなかった。それをどのようにして、いい姿に見せるかという演出の工夫がたくさんある。型破りなことをやっているわけです。たとえば「勧進帳」の義経が得意だったのですが、落ち目の義経のしょぼんとして寂しい感じを出すのに、アンナ・パヴロワのバレエ「瀕死の白鳥」を見て思いついた見事な座り方をしたんです。舞台では大口という袴を履いていますから、足元は見えない。それで事前に足の指を曲げて、バレエのトゥの形で立ったまましばらくいて、そのまますうっと座る。そうすると、うちしおれて意気消沈しているように見えるんです。

磯崎 その座り方は、もう型になっているわけですか。

木戸 六代目の型になっていました。現在、勘九郎は上手にやるんですが、できない人はぎくしゃくしながら座っている。

磯崎 常に、新しいものが判らない形で入り込んでいるということですね。その型は、一代限りにはならず、継承されていくのですか。

木戸 これが歌舞伎の面白いところだと思うのですが、自分の師匠がやったことは、すべて伝えていこうとするんですね。前衛芸術なら、先に誰かがやったことは絶対真似しようとしないでしょう。ですからその人だけで終わってしまうことが多い。ただ、そうやって伝えていくうちに、もともとの理念が判らなくなって、形骸だけを伝えていくことにもなります。

一例を挙げると、「吃又」という芝居があります。歌舞伎の舞台には約束ごとがありまして、真ん中に屋体が、上手つまり右側には付屋体がある。これには障子が入っていて、開け閉めして中の様子は見せるけれど、この付屋体から地舞台には直接下りてこない。必ず真ん中の屋体へきて、それから地舞台へ下りる。それから歌舞伎にはもう一つ約束ごとがあって、手に持って芝居をするものは本物の小道具を使う。ところが状況を示すものは、絵で描いておく。例えば箪笥があるとすると、引出しの中をかき回すような演技をする場合には本物を置く。その家は部屋に箪笥を置いておくほどの経済状態であるということが判ればいい場合は、壁に絵で描いた箪笥にするわけです。それは芝居には使わないものだということを表わしている。このルールはきちんと守られてきたはずなんですが、六代目は「吃りの又平」をやった時はこの約束事を破った。「吃りの又平」は絵描きの芝居ですが、部屋には演技に使いもしない絵絹などが下手のほうにごちゃごちゃと置いてある。なぜこんな物を置いているかというと、上手の付屋台の障子の下に、本来あってはいけない靴脱ぎのような台を置いていることに気付かれないために、観客の視線をそらせるおとりなんです。吃りの又平の師匠は、又平を励ますために、わざと逆の言い方でののしる。それをまに受けて絵描きになることを断念した又平は自殺を決意して、この世の名残りに側にあった石の手水鉢に自分の肖像を描き残すことになりますが、入魂の技は石を透して裏側に抜けるほどの名作になる。実は師匠は口ではののしったものの、内心は心配で付屋台の障子の隙間から外の様子をうかがっていた。名作ができたことを知った師匠は喜びの余りあっという間に飛び出してきて、又平の側で「できた!」と言って喜ぶ。この時、歌舞伎本来の方法で付屋台から本屋台へ行き、本屋台から地舞台へ降りていたのでは緊張感が抜けてしまう。そこで、本来はやってはいけない付屋台から直接地舞台へ飛び出すことをするために、付屋台の障子の下に靴脱ぎのような台を用意しておいた。六代目菊五郎らしい工夫です。このやり方は今も使われていますが、みんなのそのそのそのそ出てきて、スピードが遅いんです。これでは全く意味がない。それともう一つ、その場面で又平が絵を描く時に、鐘が一つ鳴る。芝居には、「本釣り」という半鐘があるんですが、この半鐘は一日に一回しか打ってはいけない。つまり主役の役者の、ここぞという見せ場の時にがーんと打つ。だから非常に格が高いものなのです。そのほかの、入相の鐘やお寺の鐘は銅鑼で間に合わせる。「吃又」では、絵を描こうとする時に一つがーんと打つことになっているのですが、芸の力があまり充分でないと、一つじゃなくて二つくらい欲しくなる。だから舞台稽古を見ていると、「もう一発ちょうだい」とか、どうかすると三つぐらい打ったりしている。本釣りはがーんと一発だけ打つと、そこでぴたっと止まって、その後の下座の音楽がどんどん溜まって、一杯になっていくような印象を受けるんです。ところが何発も打つと、それが流れていくような気がするんです。そのために密度が堆積しなくなってくる。一杯溜まっていった密度が、「できた!」というので、堰を切ったように流れ出て、観客まで嬉しくなるという、このコンセプトを理解しないで、ただ型の通りに、それもやりやすいようにやっていくものですから、結局形骸化する。その形骸化した状態を残すベきなのか、六代目が解釈した考え方を今の立場で解釈し直すべきなのか、という問題があるわけです。

古代楽器のコンサヴェーションとレストレーション

磯崎 無形なものの継承という問題のほかに、すでに死に絶えたもの、滅びてなくなったものを、いろいろな資料を研究しながら元に戻し、再現するということを木戸さんは試みてこられたのですが、このアイデアの背景には、どのような考えがあったのでしょうか。

木戸 一般的には、滅びるべくして滅びたのだから、現在残っているものが一番いいのだという考え方がある。他方、それは価値観の違いで、ある時期に消えたものでも現代の価値観で見ると非常に興味深いものがあることがあるという考え方もあります。たとえば西欧の楽器は、噪音を除いて楽音を取り出すようにするということ、それから音を大きくするという方向に向かって改良されてきた。ところがそのために捨ててきたものが、いっぱいあるわけです。しかし、現代音楽の考え方の中に「ミュージック・セリエル」と言って、音の中の、高低や音価のほかに音勢、音質、音量、音色なども音の要素として均等に評価しようという考え方が出てきた。それを回復するために古い楽器を復元しようということなんです。ヨーロッパには古代の楽器が保存されていないので、仕方なくフルートを吹きながら声を出してみたり、キーを吹いてみたりしているのですが、東洋の楽器にはそういうものがまだ残っている。さらに古代楽器では一層顕著なはずで、私が試みたのは、正倉院に保存されていた楽器の、その構造が確認できたものの復元です。復元した時に困ったことは、「これは天平の響きと思っていいですか」と言われたことですね。言えるのは、古代の音の概念とはこういうものなのだ、ということまでなのです。

磯崎 先日、スペインのガルシア地方のサンチアゴ・デ・コンポステラという街に行ったんです。ここは中世以来、ヨーロッパ中の巡礼がたどり着く最後の教会がある、スペインの北西の端にある街です。シャルトルの大聖堂、ケルンの大聖堂などは巡礼のコースの目標にもなっているのですが、それらは本当は中継点で、最後の目的地はサンチアゴ・デ・コンポステラの教会なんだそうです。聖ヤコブという聖人の聖地ですが、その教会にはロマネスクのとてもきれいなファサードがある。この前にはバロックのごついファサードもあるのですが、そのロマネスクのファサードの入口のアーチに、楽器を持った楽士像がずっと並んでいる。ちょうど日本の鳳凰堂の楽器を持った天女のような像で、「天上の音楽」という発想なんでしょう、その中心にはもちろんキリストの像があり、手の跡もある。巡礼がここにたどり着いて、その手の跡に触れると一生の願いがかなう、そういう聖地です。その街に美術館があって、そのポータルのアーチの楽士像が持っている楽器を復元して展示しているのです。それは中世の楽器ですが、われわれが知っているルネサンス以降の楽器とは全然違う形をしたものが、たくさんあります。今そこでは中世の音楽を復元しレコードにもしている。楽器は入口の彫像を資料として復元されたわけなんですが、それが本当に音色としても同じものが出ているかどうかということは、もちろん判らないにしても、少なくとも実際に演奏できる楽器として再現されている。木戸さんの考えた、日本の楽器の復元の方法は、どの辺に着眼したのですか。

木戸 正倉院には「箜篌(くご)」というハープのような楽器があるんです。ハープの仲間には、ミュージカル・ボーという弓型のもの、アングル・ハープといってL字型になった所にまたがらせて弦を張るもの、それからフレーム・ハープといって強固な枠のなかに弦を張るものなどがある。現在の洋楽でいう普通のハープは、フレーム・ハープで、箜篌はアングル・ハープです。

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左より:フレーム・ハープ、ミュージカル・ボー、アングル・ハープ

磯崎 箜篌は弓型になっているのですか?

木戸 腕木のほぞが無鳴胴ほぞに挿入されてL字型になっていて斜めに弦を張るんですが、このほぞが弱くて弦が張れない。1本の弦をだいたい3キロから5キログラムの力で引っ張らないと、音が出る状態にならない。それが全部で23本あるわけですから、弦を張ることは不可能なんです。だからこの楽器は音の出ない楽器だと言われていた。ところが、L字型の一番外の端に支柱を立てると、三角形のフレーム・ハープになってしまいますが、そのままの相似形一番内側の腕の付け根の方に支柱を立てると丈夫になり、そしてアングル・ハープになる。どの本にもそんなことは書いてないし、発表された遺品の写真にもないけれど、ここに支柱があったはずだという想定で、正倉院へ行って説明したんです。正倉院の学芸員も興味を持って実物に触って調べてみると、明らかに支柱を渡したと考えられるところに金槌かなにかで叩いたような跡があってくぼんでいる。

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左より:復元された箜篌、復元される以前の漆箜篌(正倉院宝物)、復元された箜篌の構造および名称(冨金原靖)〈国立劇場第3回「楽」と「曲」『箜篌』〉パンフレットより

磯崎 弦を張るときにそこへ挟むんですね。

木戸 正倉院には、用途不明のいろいろなパーツがあるものですから、台帳をめくりながら、あれはどうだろう、これはどうだろうと幾つか出して調べてもらったら、ちょうどぴったりの部品があったんです。それには珍しい毛彫りの模様が彫ってあるのですが、それはどこにでもあるという模様ではないからこれはもう間違いないとベテランの学芸員が言うんですね。それが箜篌の腕木の先端の骨に彫られた模様と一致していた。その後、中国の陝西省博物館にある壁画に描かれた箜篌にも想定していたところに支柱が立っていた。あるいは、ケルンのインド博物館にある箜篌の絵にもやはり支柱が描かれている。そのような古い絵画からも証明されたわけですが、最初は力学的に、こうでなければあり得ないと考えてやったところ、確かにそうなっているんです。人間の考えは同じようなところに落ちつくもので、これは正倉院の筝でも同じです。もともとは板を張り合わせて細長い箱にした。現在の琴は、大きな桐の木をくり抜いて丸木舟のようにして作っていますが、正倉院の唐琴は箱のように作ってあるんです。今は失われてないのですが、その真ん中に背骨があったんです。なぜそうなっていたと判るのかといえば、ばらばらになって部品に欠けた状態のままで残っているものがあったからです。部品に残っている欠き取った跡や接着してあった痕跡から推理します。

磯崎 正倉院では、そういうのを分解したまま保存しているのですか?

木戸 そうです。ばらばらなままで保存してくれているからこそ助かるんです。先ほど磯崎さんの伊勢神宮の明治2年遷宮の修理の話を聞いて、面白いなと思ったのですが、正倉院でも明治時代の修理というのは目茶滅茶で、かなり勝手なことをやっています。有名な「五弦琵琶」というのがあります。あれはほとんど空想の産物のようなところがあるんですよ。たとえば海老尾と言って、棹の上端に反った部分がある。本来あれは無かったんです。後から付けたものだということが、正倉院の中の記録にも書いてあります。薩摩琵琶のように棹を上にして、立てて弾くと考えたから海老尾を付けたんです。本当は棹を横にして持って頭を下げて胴を抱え込んで、演奏者は立って演奏するんです。中国の絵画資料を見ても、全部そうなっています。抱え込んで頭を下げて弾くものに、あのようなものを付ける必要はないんです。それからブリッジが五つ付いていますが、一番下の一つは明治時代に勝手に付けたんですね。ですから私が復元したものは、正倉院にあるものとは違った形になっています。

箜篌もそのようにして作りました。1本の腕木に締められている23本の弦は、一種の運命共同体で、ある弦はきつく締めて、別の弦はテンションを緩くするというわけにはいかない。握り鋏みたいなもので、1本の腕木が弦に引っ張られて戻ろうとする力によってテンションが掛かるわけです。短い弦が高い音ですが、高い音は細い弦が鳴りやすい。長い弦は低い音ですが、低い音は太い弦の方が鳴りやすい。そうすると、1本の腕木によって引っ張られる各弦のテンションは、短い弦は強く引っ張られ長い弦は緩んだ状態になるということは、音の高低という秩序とは別に、音の強弱という別の情報が出てくるわけです。これは、たとえば『梁塵秘抄』を見ると、「水調子」と書いてある。水の調子です。水をたらいに入れて揺すると、ぼちゃんぼちゃんといった音がしますね。あの音に似ているということで、緩い弦をぶよんぶよんと弾く音を水に譬えるんです。これは、かなり腕のいい演奏家でないとできないんです。下手がやったのでは、間が抜けてしまう。もう亡くなってしまいましたが、鶴澤寛治という文楽の三味線の方は、明らかに「ざまあ見やがれ」と言わんばかりに弦をぶらぶらにして、いい演奏をした。「水調子」というものは文献でだけ知っていたわけですが、箜篌をやるとそれが現われてくるんです。そういういろいろな情報量を持っている。だから古代楽器を復元すれば、概念的には、古代の音を復元できるということです。

磯崎 そういう明治時代初期の復元の考え方というのは、ヨーロッパの楽器が入り、その構造の影響でそうなったんですか。それともそれ以前の、江戸期にある程度限定された構造になった楽器に対する発想が、復元に影響したのですか。

木戸 おそらく、そのどちらでもないと思います。つまり、何も知らないんです。復元を指導したのは、元薩摩藩士の町田久成という人で、初代の帝室博物館の館長になった人です。江戸時代末にすでにイギリスに留学しているかなりのインテリですが、明治政府に文化行政を任された。この人がウィーンの万国博覧会に出品するにあたって、法隆寺などをいろいろ調べ、日本の国威発揚というか、まあ自慢したかったんでしょう。そのために綺麗に、仰々しく立派なものにしようということで、いろいろなものを付加したわけです。

磯崎 そうすると博覧会用なのですか?

木戸 実際に万国博には行かなかったのですが、そういう心持ちを引き継いで修復しようとしている。これは宮内庁の雅楽の人から聞いたんですが、愉快というか滅茶苦茶なことをしたものだと思いますが、修理ができた琵琶類を明治天皇のところへ持っていき、御前演奏をするんです。明治天皇は琵琶が好きだった。その時弾いたのは、太政官雅楽局の楽人で、今の雅楽の琵琶と同じように力を入れ、アルペジオで弾いた。その結果、五弦琵琶に傷をつけてしまったんです。傷があることは、『正倉院の楽器」(日本経済新聞社刊)という本にも書いてあるんです。でもそれは、天平時代についた傷ではなくて、明治時代の傷です。だから、あれで天平時代の雅楽の弾き方を研究しようとしても駄目なのです。このように、かなり勝手に作って鳴らす、そんなことまでやったんです。その後、森鷗外が帝室博物館館長になります。あの人は、非常に科学的な人ですから、鷗外以降、楽器などの修理ではそういうことをしない。物をコンサヴェーションするけれども、レストレーションしない方向になっていきます。それまでは、本物について過剰なレストレーションをしてしまい、物を損なってしまった。箜篌や筝は破損がひどすぎてレストレーションをしてないから、音楽資料としては非常にいい状態で残っているわけです。接着した面の跡がそのまま残っていたり、あるいは中の様子が判る状態です。

磯崎 そういう意味では、建築についても状況は全く同じで、たとえ断片が残っていても、それを元へ戻すときの間違いも起こるし、一種のプリコンセプション、こうあったのではないかという別な理屈のイメージに拠ってしまい、かえって間違った結果になるんですね。桂離宮にしても、昭和に完全にばらばらにして、その挙げ句もう一度組み立て直したのですが、最後に、汚れていた襖や壁紙まで、昔の断片を参考にして作り直した。それまでは日に焼けていますから、くすんでいた。それが作り直したせいで、ぱあっと鮮やかに見えてしまう。これは奥州の光堂(ひかりどう)も全く同じで、今はもうきんきらきんで昭和元禄みたいだと悪口を言わる光堂になっているわけですが、考えてみればでき上がった当時は同じように金箔張りで、ぴかぴかだったはずなんです。修復後の桂離宮を見ると、前に見ていた桂と全く違って見えてくる。「桂は渋くて飾りもなくて」というのでは全然ない。もっと華やかで、あでやかなものなんです。「いや、桂の感覚は日光東照宮のそれに近いんだ」と言う人が建築家でもいたのですが、そんなことは誰も信用しなかった。しかし桂離宮が建てられた時代は東照宮と全く同じですから、不思議はないんです。それくらいの鮮やかさが現実にある。もちろん桂離宮の古書院の解体で議論になったのは、あそこの部材には現在のステインのように、表面に少し墨を塗って白木ではなくし、少し渋くしている。それは最初からやっている。そういうことは判るのですが、特に新御殿の後水尾上皇が行幸するからというので作った部分は、非常に派手なデザインででき上がっていて、実際桂離宮でイメージされるものとは全然違っている。復元した挙げ句にイメージが変わり、そのために議論も変わってくる。伊勢神宮で驚いたのは、新しくできたものと古いものとでは、20年間でこんなにも違うものになるのかということです。

木戸 あれは20年ごとに建て替えるから、運のいい人は2回立ち会える。建物が20年持つことはもちろん、行事にしてもだいたい前にやったことを覚えていられる。そういうこともあって、遷宮を20年ごとにしたと思うんです。ところが束帯は本来なら植物染めであったはずが、現在はそれができなくて化学染料です。このことで問題になるのは、植物染料というのはたんなる力ラーではなく、あれは健康に役立つ薬だということです。たとえば、「赤糸緘しの鎧」の赤にしても、薬草の茜で染めた赤です。戦場を駆けめぐるときに病気をしては困るから。

磯崎 赤糸緘しになるわけですね。

木戸 そう。ところが明治時代に御岳神社の赤糸緘しの鎧を修理したときに化学染料を使った。そうするとコンセプトが違ってきます。もちろん実際に着るわけではないから構わないけれど、なにを継承して保存していくのかという点で問題は残る。

伝統と現代の交通 方法としての「ポイエティック」

磯崎 それをどうするかという問題があるわけですね。そこで。木戸さんが国立劇場で毎年シリーズでやってこられた、現代の作曲家と古典楽器あるいは古典的な音楽とを組み合わせた企画についてうかがいたいと思います。そもそも、現代音楽の作曲家は、およそそういう伝統と絶縁したところから出発している。にもかかわらず、彼らをそこへ登用して古典的な楽器と組み合わせるという企画は、どういう意図から出発しているのですか。

木戸 伝統というものの中には、理念もあれば歴史的な様相という側面もあるわけです。つまり、一つの形而上学なり、あるいは音としての自然倍音といった理念があると同時に、いかにも平安朝らしいおおどかさや貴族らしいといった階級的な様相もある。その中から理念だけを抽出して、歴史的な様相をまず外して考えてみようということです。言い換えれば、一つの基礎概念というものを確認していかなければいけない。これには音楽に対する基礎概念もあり、音楽の周辺にあるメタ・ランゲージのような基礎概念もある。そのように、何にでも応用可能な基礎概念をつかまえておいて、これを、ある一つの事例、たとえば、国立劇場という劇場に当てはめてみる。そうした場合、それぞれ一つの個ですからそこだけの特色がある。磯崎さんと一緒に仕事をした「日月屏風一双」は、大劇場と小劇場が一緒に並んでいるという国立劇場の特徴を屏風一双に見立てたところから始まっていて、一双の屏風という発想から日月へ結び付け、そこからメタファーやミトメニーによって、いろいろに意味が横すべりしていく。国立劇場の場所の一つの偶然によって、基礎概念がある突然変異を起こす。その結果、一種の「獲得形質」ができてくる。これがまた、次の創造にあたっては基礎概念として働く。伝統というのはこのように進化していくのではないか。そういう背景があって、様々な試みを10年ほどやったわけです。そうしたら、最近面白いことに、ヨーロッパ、特にフランスで「ポイエティック」という考え方が出てきた。これは「ポイエーシス」というギリシア語からきている。

磯崎 詩論、日本語で言うと制作論ということになりますか。

木戸 フランスでは音楽に対してこれまで作品を分析する「アナリーゼ」ばかりやっていました。しかし、作品というのは創造活動の結果であって、これをいくら分析しても駄目だと。そうではなくて、創造する過程を問題にしなければならないということから、「ポイエティック(制作論)」という考え方が出てきたんです。まず音楽理論や楽器などの基礎概念があり、そこにベートーヴェンという才能とヴァルトシュタインだとか、ラズモフスキ一というスポンサーがいて、それらの人たちの要望とか様々な偶然が重なって、一つのピアノ・ソナタや弦楽四重奏ができる。そしてベートーヴェンが開発した技法は獲得形質として次のポイエティーに継承されていくこの過程を問題にする。つまり芸術にとって大事なことは、でき上がった作品ではなくて、それを創ってゆく過程が大事なのであって、その理念と基礎概念をしっかりとつかんでおけば、それをある場所に当てはめた場合に、いろいろと展開できるということなんです。私の方法はフランスのそれとかなり重なる部分があると思います。

磯崎 よく、西欧と日本を比較した場合に、ヨーロッパでいう理念というようなものに相当するものを日本の中から抽出するのは元来無理ではないかと言う人がいますね。いま木戸さんが理念という形でおっしゃった、あるいはその時代の基礎概念というようなものは、今日から見たある時代の解釈という面もありますね。その解釈に基づいて、その理念が作られる。逆にその理念によって構築されていくわけですね。それができ上がっていくと、先ほどおっしゃったような一種の制作論というかポイエーシスの論理へとつながっていく。ヨーロッパの場合には正確に意識されたのはおそらく啓蒙主義の時代以降だろうと思いますけれども、しばしばそれが言われているわけです。少なくともそういうものが出てくるプロセスがある。ところが日本の場合には、そういう部分がもともと欠落していたのではないか。そして、大げさに言うと、単純に理念なしに技法だけがコピーされ続けてきたのではないか。伝承というのは、つまり技法の丸写しを肉体的に覚えていくに過ぎない。ヨーロッパと日本ではそういう違いがあるにもかかわらず木戸さんは、日本にもポイエティックの理論を適用しようと考えていらっしゃる。それは木戸さんの個人的な理解というか信念なのか、それともすでに一般化できるような考え方になっているのでしょうか。

リズムと「間」 日本と西洋の時間感覚

木戸 今の段階では、個人的な考えです。ただ、それに共鳴してくださる方は大勢います。たとえば、音楽というものは時間の芸術だとわれわれは皆思っているわけです。音は今も昔も物理現象であって、音波はすぐ消えるから、音楽は演奏し、また演奏しという経過があって成立する。だから音楽は時間の芸術である。われわれは今そう考えていますよね。ところが、日本に時計ができたのは、いちばん古いのは、天智天皇の頃に作った飛鳥時代の「漏刻」という水時計です。この水時計以前には日本には空間があるだけで時刻というような観念は無く、時間というものの存在は曖昧だった。だから音楽は、時間の芸術ではなくて空間の芸術だったんです。

今でも宮内庁や京都の古い神社でもやっている御神楽は、いろいろの楽器や声が一つずつ同じ旋律を演奏するということを延々と繰り返すわけです。最初に神楽笛がある旋律を吹く。次に「篳篥(ひちりき)」が来て同じ旋律を吹く。次に「和琴」が出てきて同じことをやる。それから本歌が出てきて歌を歌う。それから末歌が出てきて歌を歌う。本歌も末歌も同じ歌を歌うんです。

磯崎 今で言う、ミニマル・ミュージックと似たようなものですね。

木戸 そうですね。ただミニマル・ミュージックと違うところは、演奏の結果として、たとえばカラー印刷をしているようなものだということです。この空間には時間がないから音は消滅しない。つまり、笛の音はその空間に残っている。そこへ篳篥の音を重ねる、琴を重ねる、本歌を重ねる、末歌を重ねる。こうして、最初に黄色を刷り、次に赤を刷り青を刷り、最後に墨を刷るという印刷の過程と同じようなことを、音楽でやるんです。したがってこれは、刻々と音の密度を高めていく緊張の連続のはずなんです。ところが音楽が時間の芸術だと思っている今の人が聴いてみると、同じことばかりを繰り返しているようにしか思えない。そういう基礎概念が理解できていないと、御神楽は判らない。

あるいは、日本人にとっては時間は「間」であるということ、空間も「間」だし、時間も「間」ですね。水時計というのは、量で計ります。ヨーロッパは日時計ですから、影が動く。日本の場合は時間を物理量で計り、西洋の場合は数字列なんです。そこで面白いと思うのは、ジョン・ケージの音楽です。これを日本の打楽器奏者が演奏した場合とヨーロッパ人がやるジョン・ケージとでは違うんです。もちろん楽譜のとおりにやっていて、妙な自己流の解釈を加えているわけではないのですが、日本人がやると「間」になり、向こうの人がやると数字列になる。

磯崎 ジョン・ケージ自身は、どちらを好んだんですか。

木戸 どちらでしょうねえ(笑)。

磯崎 まあ彼のことだから、僕が個人的に推定するに、日本に来ると「ああ、日本はよかった」と言うかもしれない。ヨーロッパに行けば、「これもあり得る」と言うんでしょうがね。

木戸 上野の奏楽堂で、ジョン・ケージの遺作を世界初演でやったことがあるんです。ハンガリーの演奏家の非常にいい演奏でしたが、明らかにリズムでやっていたんです。山口恭範さんたちがやると、その通りにやっているんだけど、やはり「間」として処理される。この辺は非常に面白い。

外来文化受容の三重構造

磯崎 建築物や美術品ならば先ほど言った保存でいいわけですが、音楽などの場合には、伝承という要素が絡んでくる。その伝承の仕方ということになると、お茶でも、カンナのかけ方も含めて大工の技術でも同じことですが、日本の伝承は、型を覚えさせることに集中しますよね。武道のやり方も同じことで、一定のレベルまではそれでいくんですが、免許皆伝とか名人というようになるには、ちょっと論理化できない部分がある。つまり、口にしてはいけない部分が出てくる。これは建築の書でも、「ほかに口伝あり」とかいって書かれていなくてその部分は推定する以外にしようがない。核心はそちらにあって、先生が弟子に実地に教えているんでしょうが、おそらく書かれたものは盗まれる可能性もあるものだから、そこそこのことしか書いていない。要するに、みんな「ほかに口伝あり」でもって片づけられる。そうするとほとんどの芸能の伝承の仕方は、非論理的な過程で代々伝達される以外に方法がなかったのではないか、それが日本のやり方ではないかという気がするんです。だとすると、その言葉にしない部分に、その人の個性であるとか考え方、あるいは解釈という、ありとあらゆる別な要素がいくらでも入り込む余地はある。先程の六代目菊五郎のような創造的な型が生み出される余地が、もしかするとそういう部分にあるのかもしれない。たとえば国立劇場にしても、無形文化財については、かなりそういうことを考えなければいけない立場ですよね。歌舞伎にしても文楽にしても、雅楽舞楽でも、形式そのものの中にさえそういったはっきりしない部分を含んでいると思います。そこの部分を、どういうふうに取り出していけばいいのか。一定の所から闇に包まれて判らなくなってしまうという事態に対してどう考えるべきなのか。僕にとっては、その辺りの兼ね合いがいちばん興味深いところです。われわれから見ると、なにかジャングルのようにも見える。昔を探ってみても、先行きがどうかを見越すのははっきりしない。継承の仕方なり復元の仕方を、どの辺に位置づけるかというか、あるいは価値を生み出すための根拠をどこに置いたらいいか。ここにいつも問題は行き着くような気がするんですよ。先ほどの正倉院の楽器の復元というのは、元にあった物がばらばらに解体されていた。それをどう組み立てるか、誰も判らなかったものをロジカルに組み合わせるとこうなるということで、非常にうまく考えられたものですよね。ところが無形ということになると、どう始末を付けて手掛かりを求めていったらいいのか。

木戸 それが、いちばん難しいところですね。話がちょっと逸れるかもしれませんが、鎌倉時代の大原の魚山声明の話なんですが、ここで、古流と新流という二つの派が分かれて、非常な軋轢を生じた。古流には、淨心という声のいい坊さんが中心にいて、新流の方には、声の悪い堪智という人がいた。声の悪い堪智はその代わり頭がよかったか論が立つかして、声明を自分がやりやすい、時流に合った方向へ変えていったんです。かなり有名な事件だったらしくて、この二つがやっさもっさやったことが、当時の文献にもちょっと書いてあります。結果的には、伝統を残そうとした古流の方が消えてなくなってしまった。今の天台声明の系統というのは、新流の系統なんですが、つまり、頑固にがんばっていても、世の中に受け入れられなければ残らないということが歴史上にある。

磯崎 それは節回しとかだけじゃなくて、歌唱法なんかの問題ですか?

木戸 ある音をちょっと動かすんです。それによって音階ががらっと変わってくる。鎌倉時代の当時の人に馴染みやすいように、堪智は変えたらしいんです。それはいけないということで、淨心はがんばったんですね。同じようなことは、中国から入ってきた唐楽にもあります。これはどうも、日本人には馴染めなかったらしいんです。特に音階が馴染めなかった。それが今の雅楽になって、いくつかの音を変えて日本人にも馴染むようになった。その代わりに大事なものはちゃんと残しているんです。つまり、いくつか音は変えたけれども、調性は残しておいた。唐楽とそれ以前からあった日本の御神楽のようなものの違いは、先ほどの時間のコントロールの問題もそうですが、調性のある無しなんですね。御神楽には、音階はあっても調性はない。何調ということがない。謡曲でもそうです。上音、中音、下音といって、その人の出せる高い声が上音で、低い声が下音である。ところが声の高さには個人差があるから、ある人にとっては上音でも、他の人には中音であることもある。それでも構わない。絶対音高というものにこだわらなくて、音階だけがある。これが日本の音楽なんです。ところが唐から入ってきた唐楽は、絶対音高があるんです。したがって、何調、何調と区別がある。今でもあります。

磯崎 それはヨーロッパの音楽に近いんですか。

木戸 近い。やはり計算されたものから出てきているんですね。これを日本は失わなかったんですが、その代わりに、ある音階の中のある音をちょっと動かすことによって、日本人の好みに合うように変えていったんです。だから基本的な体質は変えないで、ちょっと顔つきを変えたということですね。これはうまいことをやったと思うんですよ。元も子もなくすような変更はしなかった。今でもそれは進行しているんですね。たとえば、「ああ玉杯に花うけて」という歌は、もともとは長調で書かれた曲なんだけれど、今の人がいい加減に歌うとたいてい短調になる。これは日本人は歴史的に短調が好きなんですよ。

磯崎 日本語に合っているんですか。

木戸 それは判りませんが、なぜかみんな短調になるんです。陰音階という言い方もありますが、唐楽を現代まで千年かけて伝えてくる過程にどういう変化が起こったかというと、陰旋法的になってきたんですよ。しかし、旋法とか音階とかはきちんと失わないで残してきた。一方、御神楽のような固有の音楽が、外来音楽からどういう影響を受けてきたかというと、旋法を持たず、その代わりに、音色として外来楽器で使えそうな物は取り入れたんです。その辺はまことに節操がなくて、外来楽器でも篳篥という、雅楽の中ではあまり格の高くない楽器を、声とよく合うということで御神楽で使っているんですね。

磯崎 これは、伊勢神宮のような日本的な建築のあり方と、法隆寺のようなお寺の建築の関係と非常によく似ていますね。伊勢がどこまで独自なものか議論は残るにしても、中国経由で渡来した寺院建築のテクニックをかなり利用しているところはあります。むろん、選択的に利用してはいるんですが、基本的には昔のイメージで建てていく。たとえば長持ちしないことを知りながら、掘立柱であることは変えない。ところが、その逆に、今度は渡来したお寺の方を変えるということもある。建築でいう和様になっていく。だいたいが曲線が多かったものが直線になっていくし、組み方が複雑だったものは単純化する。そういうのがいくつかあって、日本に馴染むものは残すけれども、馴染まないやつはどんどん減らしてしまうんですね。お寺の方もそういう形で変わっていって、最終的にある時代まで行き着くと和様になってしまう。なにかこう、妙な仕組みに日本はなっているんですね。

木戸 二重構造になっているわけですね。明治以降それに今度は西洋が入ってきて、三重構造になる。

国立劇場の枠を超えて

磯崎 そういう三重構造の極みが、国立劇場での前衛音楽家と舞楽の組み合わせというシリーズだと思うんです。結局今までに何人ぐらいの作曲家が登場しましたかね。最初はシュトックハウゼン?

木戸 20人くらい。一番最初は黛敏郎さんですね。それから武満徹さん、シュトックハウゼンですね。その後は一柳慧さん。それから石井眞木さん。まあ一柳さんだけでも、もう10回くらい登場していますね。細川俊夫さんも菅野由弘さんも、今は活動をしていますが、菅野さんなんかは、芸大の学生のときから、ここで活動しているんです。

磯崎 僕は、そのうちの細川俊夫さんと一柳慧さんのときに、お付き合いをさせてもらっているんですね。細川さんのはもう、突拍子もなく面白い曲だった。僕は葬式自動車まで舞台に載せようとして、ずいぶん迷惑をかけたりした(笑)。

木戸 ケニー・シャープのペイントしたキャディラックも載せて、基本的な理念はきちんとしたからね。僕も、あの仕事をしながら、「いやあ、細川さんも磯崎さんも、どっちもやってくれるじゃないか」って思ってね、嬉しかったですよ(笑)。

保存と復元の画像
国立劇場公演《伶楽の楽器と聲明の声のための「東京1985」》(1985)より
「ケニー・シャーフのキャデラックと霊柩車」 磯崎新による舞台構成

磯崎 一番面白かったのは、ああいう素っ頓狂なアイデアを国立劇場が受け取ってくれたということですね。具体的には、1985年の東京で起こっている、あらゆるものが紛れ込んでよろしいというコンセプトが細川さんの中にあったわけですね。実際問題として、声明の節回しがいつの間にか第九になっていたりするわけだから(笑)。僕は東京中のあらゆる車のついた動くものを舞台に載せようとした。その間に、古い装束を着た楽士さんたちが立って演奏をする。そういう無茶苦茶な組み合わせでやったんですが、あまり違和感はなかったですね。

木戸 そうとう過激なコンセプトなのに、非常によくできていましたね。舞台というのはよく事故があったりするので縁起をかつぐでしょう。だから磯崎さんの霊柩車は縁起が悪いと……。

磯崎 それでまず断られそうになった。

木戸 それで、前もって神主さんを頼んでおいてね、終わったあとでお祓いをやったんです。そうしたらね、国の施設が神道に関与してはいけないということで、また問題になった(笑)。

磯崎 そこまでは気がつかなかったな(笑)。

木戸 その後も、そんな調子で三幕四幕がありました(笑)。

磯崎 そういう通念とずれた企画をやっていく可能性というのは、もしかするとまったく時代が飛び離れた音楽である、声明や舞楽であるからこそできるということなんですかね。

木戸 時代を飛び抜けているために、係累がないというか手垢がついていないというか。ともかく、今の慣習から離れていますから、わりとやり易いでしょうね。それから、これは幸運な偶然なんですが、あの頃の状況や現代音楽の動向が私が進めていた音楽運動に非常に接近していたということもあったと思います。それで現代音楽の作曲家が、ちょいと隣へ乗り移ることができたわけですね。それに対して雅楽や声明の演奏家たちがそんなに拒否反応を起こさなかった。

磯崎 声明を歌っているうちにいつの間にか第九になってしまう。それなのに、みなさん歌うんですねえ。面白いですね。そういうのは、僕は付き合っていて驚きましたよ。

木戸 一柳慧さんだったでしょうか。ケージの《連歌》という曲をやったことがあるんですが、非常にうまくいったんです。終わったあとで、一柳さんが、あれがうまくいった原因は、雅楽とか声明のお坊さんたちが主体になってやって、いわゆるクラシック音楽の演奏家がいなかったからじゃないか、と言うんです。クラシックの考え方でいくと、どうしてもケージの音楽概念に対する反発があるようなんですね。そういう人たちがいなかったから、《連歌》が、ケージのコンセプトに非常に忠実に演奏できたとおっしゃるわけです。

磯崎 京都でやったのも《連歌》でしたか? あの時には、西洋の楽器を使ったような気がするんですが。

木戸 それは《龍安寺》です。まず国立劇場でやったのですが、《龍安寺》では本当はオーボエを使うのですが、それを篳篥でやったんです。そのとき打楽器をやったのが山口恭範さんで、彼は非常にいい演奏をした。ニューヨークへ行ったときも山口さんがやって、ケージからとても喜ばれた。京都のときは、山口さんが都合がつかなくて別の人に変わったんです。篳篥などはそのまま元のメンバーだったんですが、打楽器だけがほかの人に変わってやった。そうすると違った演奏になった。

磯崎 出発点は国立劇場で、古い楽器の復元から始めて、それをちょうど端と端を結び付けるようにして現代音楽と組み合わせた試みをプロデュースしてこられた。これから国立劇場という枠を越えてそうした試みを考えようとしていますよね。さらに日本やヨーロッパの伝統音楽だけではなく、アジアの音楽を含み込んだり、現代と古典という枠も取り払ったスケールで、いろんなプロデュースを構想されていますが、今後どのような方向を文化イベントに持たせようとしているのですか?

木戸 私がこれまでやってきたことについて、「伝統を冒涜する行為でとうてい許しておくわけにはゆかない」というような猛烈な非難が、これまでも伝統音楽の学者の中にありました。無形文化財を歴史的様相と一緒にコンサヴェーイションできると考えているんですね。こういう人たちは社会的にはそれほど大きな存在ではありませんが、文化庁や国立劇場には強い影響力を持っているんです。たびたびの抗議に、結局国立劇場も彼らの言い分を容れて、一昨年、私がこれまで推進してきた音楽運動は打ち切られてしまいました。私は今も国立劇場の職員ですが、ステージからは閉め出されています。しかし、私が進めてきた音楽運動に対する社会的要求は高いんです。国立劇場の打ち切りに憤慨した人たちが奔走して国立劇場以外に発表の場が提供されるようになったことはとても有難いことです。昨年から国立劇場の外に場を移してこの音楽運動を続けています。国立劇場は日本の伝統にこだわるナショナリズムの場ですが、この枠の外へ出るとさらに高い視点と広い眺望を持って仕事をすることができるというメリットもある。私が今考えているのは、アジアの伝統的な音楽概念、あるいはもっと広げて哲学的な理念、そういうものが現在どのように役に立つかということをやってみたいんです。

磯崎 それは現代音楽に対してですか?

木戸 現代音楽がアジアの理念を語り始めるためにも、あるいはアジアの音楽が世界に向かって現代の発言をするためにも。そのためにも、先ほどの手法を適用しようと思うんです。去年の11月1日に、浜離宮朝日ホールが開場一周年記念をやりまして、その時の記念行事を私がプロデュースしたんですが、この11月1日という日に歴史上に何があったか、ということから発想しました。昔は旧暦で約1カ月おくれですから10月1日で当りをつけました。すると永保3(1083)年旧暦10月1日に白河天皇勅願の法勝寺(ほうしょうじ)の塔が完成して落慶法要が行なわれていた。法勝寺は京都岡崎の動物園とその北側の住宅地一体の広大な地域に伽藍を構えて、南大門・塔・金堂・講堂・薬師堂・北大門が一直線上に並んで、それらの堂塔はすべて南面して建てられていましたから、これを供養した舞楽法会は塔の前で北向きに高舞台を設営して北に向かって演じています。塔は池の中島に建っていましたから左方と右方の管方〔かんがた〕(演奏家)は島の左右(東西)に浮かべた龍頭(りゅうとう)・鷁首(げきしゅ)の舟の上で奏楽しています。そこで、歴史を引用する手筈に、浜離宮朝日ホールの中に法勝寺と同じ条件を整えました。東京という都市計画の制約をうけているホールの正面性とは別に、それとずれた状態でこのイベントのための南北に延びる正中線と、これに直角に交叉する東西の横軸を想定して、その交叉点に北に向かった高舞台、横軸の延長線上の東西に左右の管方を配置しました。こうすると場所が変わって歴史的様相(有職〔ゆうそく〕)が払拭されたことによって、逆に哲学的な理念(方位)がむき出しに現われてきました。南北は地球の地軸、東西は天体が運行する軌道です。この地球環境の秩序の中で舞楽法会は成り立っているわけです。これを浜離宮朝日ホールの中でやるとどうなるかというと、お客さんに斜めに背を向けてやらなければいけなくなる。結局それでやったんです。まあ全部というわけにはいきませんが、最初にやる挨拶のような出手というのだけを、それでやったんです。この異様さが異化作用をおこして、いまの東京の混沌を浮き彫りにしてしまいました。

磯崎 それは、東洋の特に中国の、基本的なコスモロジーみたいなものとつながってきますね。

木戸 そういうものをイベントの中に活かしていきたいと思うんです。今年は京都の建都1200年にあたるので、京都会館でそのために舞楽法会を計画しているんですが、ちょうどあの真下に、尊勝寺というお寺があったんです。堀川天皇の勅願による、非常に立派な寺だったようですが、その落慶のときに、やはり舞楽法会が演られている。ところが今の京都会館は東向きになっている。第一ホールの舞台が東を向いているんです。

磯崎 観客は、東から西を向いているわけですね。

木戸 まったく昔のように再現するとすれば、観客に横を向いて演ることになる。でも今回はそれでやろうと思っているんです。

磯崎 僕が今度やっている舞台も、一応京都の軸に合わせてはいるんですが、どうがんばっても天子南面というわけにはいかなくて、大ホールに関しては真東を向いているんです。もう一つ、席数600くらいの小ホールもあるんですが、これは北。これは真北ではなくて地磁気の方位による磁北を舞台が向いている。ですから、南北というのを正確には使えないんです。なにか僕としては、そういうオリエンテーションと建物の位置関係とが必要なのではないかと思うんです。そのことを思いながら方向を探していったんですが、敷地の幅とか収まり具合があって、そういうことになった。

もともと、天子南面の南北軸という概念を、ヨーロッパの古典音楽の演奏の会場に持ち込もうという発想はなかったんですが、東西はきちんとやってあるんです。

木戸 磁気の北と本当のいわゆる北とは違うんですか。

磯崎 ええ、大分ずれているんです。正確には後で調べてみますが、十何度ずれています。

木戸 そうでしたか。私はそういう時に磁石を持っていくんですが、建物の中では近くにある鉄材の影響で判らなくなるので、外へ出て測って、図面の上で平行線を引いて北を求めているんです。

磯崎 それは磁方位でやっているということですね。地磁気というのは、その場その場で違うんです。もともと地球の地磁気の中心が、地理的な北極とはずれていて、さらに地形のなかに含まれているもっと様々な磁石の方向を変える原因があるんですよ。それは、この雑誌の5号での荒俣宏さんとの対談にも出てきたんですが、地下水とか岩石とかが下にあることでも違ってくる。それに合わせてうまく組み立てるのが、風水の本来の考え方ですよね。まあ、風水とか井戸探しというものは、「こっくりさん」みたいなものでやりますし、具体的なことは僕も詳しくは知りませんが、必ずしも北極星を見ているわけではないんですね。古代の中国なんかでの天子南面というのは、地軸の考え方で天子が北極星を背負っているという発想できてますから、あれは真北を向かせようとするんですね。東西軸というものも、日本ではかなり大きいスケールで考えていたと思うし、いろんな説によると、おそらく中国から南北の軸が入ってくる以前は、東西軸しかなかったのではないかということですね。太陽だけしかみていない。

木戸 そうそう。だから「東西、東西」とは言っても、「南北、南北」とは言わない(笑)。

磯崎 言うのは劇作家くらいですか、鶴屋南北と言って(笑)。風水のように、われわれが何かを読んだり発想したりするときの手掛かりのようなものは、一般的には消えてしまっているわけですが、そういうのを探していくというのは、それなりに非常に面白いし、今度はそれによって今まで忘れていたものに、新しい解釈の光を当てられるということだと思います。そこで、今後もっとも引っ掛かってくる問題というのは、少なくとも日本では1世紀半前から近代化が始まって、ヨーロッパの様々な文化がもろに入ってきて、芸術もその中で組み立てられている。かつ、在来の文化とまったく異質な、そういうものの中でわれわれの世代は教育を受けてきた。われわれが今持っている文明というのは、ヨーロッパで育った骨組みによってでき上がっている。その中で、日本古来の伝承されてきた芸能、芸術というものもあるわけですが、その関わり合いとその将来というものを、どういうふうにお考えになりますか。つねに日本の古代に戻ればいいという考えもある。本居宣長みたいな具合で、日本を日本の言葉で解釈して、日本で組み立てればいいという人もいるし、それに対して非常に批判的な人もいる。作曲家を取り上げてみても、たとえば武満さん、彼はそう言われるのが気に入らないと思いますが、非常に日本的な要素を使っていると外国では見られている。ところが本人は、「俺は西洋音楽を使っている。琵琶にしても尺八にしても、ヨーロッパ音楽での楽器の一つとして見ている」と言うわけです。外国から見ればそうでもないんだけど、それはそもそも音色からして違うということもある。そうかといって今度は、ケージが雅楽の楽器を使っても、それは日本的には見えないという人もいる。そういう、一種二重の構造がわれわれの中にもある。これをどういうふうに整理して組み立てていくかという問題がある。今後何をやっていくにせよ、必ずこの問題には突き当たるわけです。今回木戸さんにぜひ登場していただきたい思った理由の一つには、そういう極端なエッジの突き合わせを実際にやってこられたからでもあるんです。日本古来の楽器を復元することと、まったくルーツを異にする現代の西洋音楽で教育を受けた作曲家と音楽をプロデュースしていくこととの間には、二重三重に意味のあることだと思うんです。そういう中からお感じになったことを、率直にうかがいたかった。そういう二つの関係というのは、揉みくちゃになっていくのか、巧妙にバランスをとっていくのか、いろんな立場があると思うんです。今までやってこられて、どんな感じですか。木戸さんの場合には、ダイレクトに日本古代の楽器から、現代に向かっている感じなんですか?

木戸 古代楽器は現代に向かってメッセージを送っていると思います。古代の構造のとおりに復元した古代楽器からは自然倍音列や共鳴弦の原理などが現われてきて、明らかに古代の音の概念を記憶しています。いまの楽器よりもはるかに有機的で情報量が多い。いまの楽器は一時代前の価値観によって改良に改良が重ねられた園芸品種のようなものです。あるいは鴨を改良して家鴨にしたような。そうした一時代前の価値観が崩壊してそれに代わる新しい価値観を表わす楽器はまだ現われていない。新しい価値観は現代音楽の作曲家によって開発されつつあります。そこで、復元した古代楽器を彼らに提供して、もういっぺん原点に立ちかえって、楽器の原種から新しい価値観によって音楽をやりなおしてみようというのが、私が進めてきた「伶楽」という音楽運動です。新しい価値観で、古代楽器に則して、音を引き出す実験。楽器だけではありません。舞楽法会も理念の原点の学習で、決して回顧趣味ではありません。私は20世紀はもう終わっていると思います。21世紀はまだ始まっていない。世紀が改まるということは元旦を迎えるようなもので気持に一つの区切りをつけます。いま21世紀に向けて準備をしている段階です。そういう考えで今までのところはやってきましたね。

磯崎 それを具体的に、音楽、パフォーマンスというもののプロデュースの中に反映させてこられたわけですね。

木戸 たとえば古い作品でも、懐古趣味でそれに接すると骨董いじりになる。それを学習するつもりで見ると、基礎概念の確認になる。だからある物を見て、これは骨董品だという物は存在しないんであって、懐古趣味で見れば同じものが骨董品になり、基礎概念として学習すると、一つの資料となるんです。そこから抽象して手にした基礎概念というものを、現代のある特殊な事例の中に当てはめて、そうすることによってある作品ができると同時に、副産物として突然変異も起こる。その突然変異を拒否してはいけないと、僕は思うわけです。その集積が結局文化になっているということがあると思うんです。

磯崎 その中で、消え去っていくものは消える運命にあったから仕方ない、ということでしょうね。今の文化財保護行政というのは、何から何まで古ければ残すというところがありますからね。枝葉末節だけを見ていて大筋が見えていない。

[1994年1月17日、於赤坂プリンスホテル]

(いそざきあらた・建築家/きどとしろう・国立劇場演出室長、日本文化)

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