IC65-16
可能なるネット・リテラシー
[掲載日:]
メディアは現実を写し取るカーボン紙でもなければ、人のメッセージを忠実に運んでくれる転送機でもない。ハサミや車などの普通の道具であれば「操作すること」に重きがおかれるが、メディアはコミュニケーションを取り扱うがゆえに、「操作すること」とは別に、コンテンツやテクストの表現・受容との関わり方自体も問われる。であるからこそ、個別メディアの不透過性に着目しつつ、その背後にある戦略を観測しながら、「賢い受容」を実現すべし。このような基本了解の下、これまで幾度となく「メディア・リテラシー」の研鑽が推奨されてきた。
それら警句にどれほどの実効性が伴っていたかはさておき、「メディア・リテラシー」という言葉で問われてきたのは単なる方法論ではなく、ある種の思想であった。その思想とは、「透明なものは存在しない」というものだ。例えばメディアの「偏向報道」(不透明性)が批判されるとき、そこでは「偏りのない報道」(透明な報道)が暗に想定される。だが「偏り」を観測するためには、「真実」(透明)の準拠枠を必要とせざるを得ない。「メディア・リテラシー」という言葉では、「メディアが覆い隠している事実」を希求するのではなく、そのような「偏りのない報道」への希求こそがメディアの物質性を覆い隠していることを見抜くことが期待される。
卑近な例で言えば、例えば「マスゴミ」を批判しながらも「マスゴミ批判をするマスコミ」の言説自体には喝采を送ること。「マスコミの退廃」を唱えることで「あるべきマスコミ」への期待を温存すること。このような「自作自演図式」を温存しておきながら、批判側にたつことによって延々と正当性を供給し続けるということ。しかもその行為自体が「メディア・リテラシー」の名の下で再生産されていること。このような一連の反復について、メディア論者は苦言を呈さずにはいられないというわけだ。
仮に「メディア・リテラシー」がこのような思想を必須条件とし、ウェブ時代には万人にそれが求められているとするならば、それが定着することは端的にありえない。理由は一言、要求レベル高すぎ! まったく修行僧じゃないんだし、そんな「お高いもの」を要求したって無理に決まってる。「メディア・リテラシー」が「賢い受容」を実現するものである以上、「可能なるもの」でなければなりません。
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当然ながら、「メディア・リテラシー」に何を・どの程度〈期待〉するかは、社会状況や制度、情報環境などに応じて異なってくる。それは「ネット・リテラシー」についても同様だ。例えばインターネット黎明期であれば、サイバースペースの住民はコア・ユーザーの集団であり、住民の多くに対して一定のリテラシーを――少なくとも今よりは――〈期待〉することができただろう。自らハードを組み立て、「初心者」を嗤い、ネット・ジャーゴンが飛び交い、「ネチケット」の共有が議題にあがるように、成員を限定していたがゆえに、ゆるやかに「精神」の共有を行なうことができた。
しかし、現在ウェブに望まれているのはあくまで「カンタンなこと」だ。2006年、「Web 2.0」というスローガンで溢れ、「一億総表現社会」「一億総ブロガー状態」が叫ばれていた。そこでは「誰もがケータイもインターネットも使う社会」に対する希望が語られており、業界的な歓迎ムードが掲げられていたが、そこで暗に主張されていたのは「個人にリテラシーを期待しないですむ」ということだった。
ブログやSNSも、煩雑な作業や前提知識は不要であり、更新と「つながり」の平易さが売り文句の「サービス」だった。もともとケータイやネット自体も、「中年」「老人」向けには「カンタン」を強調し(例えば高倉健〔富士通、1994-99〕や小林桂樹〔ツーカー、2005〕の出演CM)、「親」「保護者」向けには「安心」を強調してきた(例えば紺野美沙子〔ドコモ、2007〕の出演CM)。多くのユーザーにとっては、ネットやケータイは「カンタン」でなくてはならない。だからこそ、ネットやケータイがコミュニケーションのトラブルを生じさせるのであれば、それに対して「最低限のリテラシー」ですむようにキャリアに「要求」するのは、ある意味では当然の流れかもしれない。
しかし、それが「親の愛」として語られているのは、いかにも「カンタン」すぎではある。2008年に流れた、NTTドコモのCM「父のカサ」(監督:市川準)なんかが、まさにそれだ。
父(吹越満)「もしも君に嫌われても、僕は君を守りたい」
帰宅途中に雨に降られ、バス停で雨宿りしている娘(杉さやか)。そこに傘を持った父が迎えにくる。
父 「おっ」
娘 「お父さん……」ナレーター ドコモでは、出会い系サイトなどにつながらない「アクセス制限サービス」を行なっています。
テロップ 有害サイトなどをシャットアウトするアクセス制限サービス(無料)/iモード対応のすべての機種でご利用になれます。
父 「一緒の傘でいいのか?」
持ってきた傘を渡そうとするが、照れくさそうに父と一緒の傘に入る娘。娘が雨に濡れないように、肩を並ベながら家路に向かう親子。
父 ナレーション 「僕は君の親だから」
テロップ まもるために、できること。
テロップ お申込み・お問い合わせは/0120-XXX-XXXX
ナレーター ドコモです。テロップ 「出会い系サイト」に関わる事件の検索数のうち携帯電話を利用したサイトアクセスが全体の約96%を占めます。さらに被害者のうち18歳未満の未成年者の割合が約83%を占めています。〔CM画像は省略〕
(平成18年度、警視庁調べ)
〈雨のバス停で身動きがとれない娘〉が「出会い系サイト」へのアクセス可能性を(平たく言えば「エンコー」の隠喩を)、〈「嫌われても守りたい」と父が差し出す傘〉が「アクセス制限」を意味していることは言うまでもない。確かに「親」は、このCMのようにデジタル・デバイスを通じての「子ども」との接し方に戸惑っている。とはいえ、こない「カンタン」な方法を、こない「ドラマチック」に描かれても。実質は、「旧世代」が「技術に降参」(フィルタリング頼り)をし、チュートリアルを断念しているだけだというのに。
とはいえ、少なくともこのCMは、「父親の無力さ」を(慰撫的ではあれ)描いている点で誠実だし、「親世代からのチュートリアル」に対して、過度な〈期待〉をするのもまずい(無理だし)。個別の家庭で必要に応じてフィルタリングを導入すること自体は適切だし、「自己責任」だけではなく「社会的なケア」の需要も高まっている。
例えば1996年にアメリカで「通信品位法」が成立した際に発表された「サイバースペース独立宣言」では、ジョン・ペリー・バーローは「子ども」について次のように触れていた。
あなたたちは自分たち自身の子どもに脅えている。というのも、彼ら子どもが、あなたたちがいつまでたっても移民のままでいるこの世界の先住民だからだ。彼ら子どもを恐れるがゆえにあなたたちは、自分たち自身では卑怯にも真正面から引き受けられない親としての責務を、官僚たちに委ねるのだ。
(You are terrified of your own children, since they are natives in a world where you will always be immigrants. Because you fear them, you entrust your bureaucracies with the parental responsibilities you are too cowardly to confront yourselves. )
ネットに関する様々な規制が検討されている現在、未だこの「宣言」が持つアクチュアルさに同意しながらも、今問われなくてはならないのはその言葉の文脈だ。すなわちバーローの言葉で言えば、現在は当時と違って「immigrants」(=移民)が圧倒的に多く、「みんなのもの」(カンタン)であるとうたってきた以上、彼らの多くがいずれは「natives」(=先住民)になるために、サイバースペースは歓迎の用意をしなくてはならないということだ。
現在では「サイバー自生的秩序派」と「ローカル重視規制派」とのあいだでは、ネット規制の有無については意見が対立するが、「サイバー自生的秩序派」がこれまで「子ども」に優しかったかと言えば、必ずしもそうではないだろう。少なくとも日本においては、未成年だろうと炎上の対象にされ、「教えて君」には「半年ROMってろ」「ググレカス」という愛の鞭が、「ゆとり」「ぱど厨」「DQN」には嘲笑の眼差しが飛び、「釣り文化」によって「ウソをウソと見抜く」能力が要求されてきた。これって、「一億」に求めるのにしてはちょっと「ムズカシイ」ローカル・ルールだ(うちの母親はまだビデオ録画もできないのだ)。
自生的秩序を重視し、サイバースペースへの誤った関与を退けることを唱えるのであれば、「親としての責務を、官僚たちに委ねる」のではなく、ネット・ユーザーとしての自己と、サイバースペースに委ねることを促す必要がある。しかし、現在の「親世代」からのリテラシーの伝達は頼りなく、かといって「子ども」をサイバースペースにどんどん放り投げるのはちょっと「ムズカシイ」。そこで、「旧世代」が規制を唱えてサイバースペースをダメダメにする前に、「先行世代」(『InterCommunication』なんかを読んできた人は全員そうだよ)によるノウハウの伝授の他、「そこそこのリテラシーの要求ですむゾーン」の整備や、「チュートリアル機能の埋め込まれたシステム」を、サイバースペースの住人が自生的に用意するということが求められるだろう。
「世俗化」によってインターネットは、「一部の人のもの」ではなくなった。ネットやケータイが「新しいもの」ではなく「日常のもの」となった現在、仮に歓迎せずとも誰もがサイバースペースに移住してくる。適切な歓待が行なわれなければ、多くの人はサイバースペースに対して容赦なく「規制」を唱えるだろう。そこで「規制よりもリテラシーを」と唱えるのであれば、「可能なるネット・リテラシー」について考えると同時に、ネット・リテラシーへの〈期待〉を設計するところから始めなくてはならない。その役割を担うことが、現在「先行世代」に対して〈期待〉されているのだ。