IC5-16

パラダイスを求めて

想像力の博物館

[掲載日:]

風水というシステム

荒俣 磯崎さんの建築作品を見ていて面白いなと思ったのは、素材と建て方の相関関係ということなんです。それで今日は、最近僕が関心を持っている風水——つまり古代中国で研究された、地気が建築や人間に及ぼすさまざまな作用ですね——と磯崎さんの作品がどんな関係にあるのか、あるいはそもそも、磯崎さんを始めとして建築家は例えば風水についてどんなふうに考えているのか、そんなところからおはなしをお伺いできればと思います。

僕が、こんなことを言うのも実は、磯崎さんの「東京都庁舍コンペ案」を風水で眺めてたんですね。そしたら、全要素を兼ね備えていたのは磯崎さんの作品だけなんです。それで、これはきっと知っていらっしゃるに違いないと思ったんですが。

磯崎 実は僕も今日は風水を主題にしてもらおうと思って来たんです。僕が、荒俣さんの『帝都物語』を評価する理由は、この小説が風水に基づいているからなんです。とても関心を持って読んだという記憶があります。ただ、都庁舎のコンペ案ではそこまで考えてもいなかった。あれは偶然で、風水でそこまで説明できるとわかってなるほどと思いましたね。だから僕は誰かに、建築における風水的評価基準というのを作ってもらえるとありがたい。外国をまわって仕事をする時もふくめて一番困るのは、何を建築の手掛かりにするかということです。こういうとき、風水というのは、ああこれはよくできている、としばしば思いますね。

荒俣 やはり、そうですか。

磯崎 ただ、意外に日本では資料が少ないですね。『朝鮮の風水』という、戦争中に調査したものをきちんとした整理した本を読んだに過ぎないのですが、他に資料が全然見つからない。

荒俣 多分、少なくとも日本本土では、伝統的に見て風水を認識してやっていたところはなかったと思いますね。唯一あるのは沖縄で、資料もかなり残っています。首里城もそうですし、石垣島辺りまで行きますと、村自身が風水で決められている例がある。あそこは、台風とか津波が多いので風水師がものすごく活躍したらしくて、村をつくった、街をつくったという公共レベルの仕事は随分記録に残っています。それに風水が入ってきたのが16世紀頃ですから、まだその記憶が残っている。ただし、沖縄に行ってよくわかったんですが、風水というのは概念上のもので、風水師の言う通りにつくった村はほとんど全滅しておりました。これは非常に明快で、台風か、津波か、あるいは流行病が蔓延したかして、誰も住めないとか、廃村になってしまった。

磯崎 それは沖縄で生み出された理論じゃなくて、中国からの輸入理論だからそういう事件が起こったと?

荒俣 多分、当時の沖縄にしても、人が住んでいたところは風の向きが良い所なんです。大体古い港はみなそうですし、御嶽(ウタキ)という神社にしても、台風が来ると全部吹っ飛ばされますから、風が来ないところというのが建立の前提になっているわけです。そして、村落はその周りにありますから、そういう所であれば全滅はしなかったはずですね。ただ、風水を琉球王府が入れた時に、たまたま侵入してきた薩摩藩に占領され、人頭税のような税金を支払わなければならなくなって、それまでの自給自足的な生活ができなくなってしまったわけです。それで、本土と同じように住宅地とか農耕地をたくさん作る。言ってみれば近代化するわけです。

磯崎 地域開発計画というわけだ。

荒俣 そうですね。そのために人間を周辺の島々から徴発して開発村を無理やり作ったわけですが、そのシステム作りを、琉球王府は昔の日本と同様、文化を中国から取り入れていましたから、清の学者に命じ、引き受けたのが風水師なんです。これはよく考えてみると、潰れるという要素を最初から持っていた開発計画ですね。なぜかと言えば、石垣島とか開発の遅れていたところに人を住まわせるわけですから、津波とか台風とか疫病、そしてマラリアで、だいたい30年おきに半分くらいの人間がいなくなるんです。その度ごとにどこか外から人間を入れて、風水師がまた来て、どうもここは具合が悪いから場所を変えなさい、ということで転々とする。それでも全部駄目になってしまった。

そうすると、風水というシステムは、エコロジーに則していて自然の流れをうまく使った方法論のように考えられていますが、どうもそうではない。どうやって住めないところに無理にでも住もうかということを前提にしたとき、風水師というのは意味があった。もともと住むのにいい場所というのは風水師が探さなくても、誰でもわかっていたわけですからね。そういう意味で、風水師には人工の造営物の総合プロデューサーみたいなところがあった。彼らは村をつくるのに、まず松の木を植えるんです。というのは松の木ならば、杉の木と反対に乾燥した土地に植えて一番良く育つ。痩せた土地で良く付いて成長も早い。また、針葉樹である松葉は、広葉樹と違って腐っても肥料にならないけれども、どんどん積もって水を溜める保水の役目を果たす。だから、一番最初に土地に水をうまく溜めるために松を植えるわけです。そしてその松林がある程度水を含むようになったら、次に椎の木を植える。これは広葉樹だから葉を落として養分になり、下生えもどんどん出てくる。しかもドングリみたいなものを落とすから、これが家畜の飼料になってさらに食料となる。彼らの開発計画を辿ってみると、このように何段階かを経ているということがわかった。ある意味では、バビロンの吊り宮でないですが、風水はどうしようもない土地に段階的に都市をつくっていくための大きなテクノロジーだったようですね。沖縄のケースを見ていると、ただ中途半端だったから運悪くほとんど全滅しているという状態だと思うんですけれども。

都市計画と風水

磯崎 今から10年位前に、香港で建築の国際コンペがありまして、その審査員として呼ばれて行ったことがあったんです。香港には丘がたくさんありますね、その丘の頂上に建物を何軒かつくる「香港ピーク」といわれた国際的にも非常に注目されたコンペでしたが、応募要綱の中に風水の専門家がひとつの項目を書いていた。要するに香港の島にある尾根、それを龍の骨に見立てるべきであると言うんです。そのコメントが、龍に合わせて計画すればここはまるくおさまる、というようなものだったから建築家はみんな混乱しちゃった。中国と日本の建築家が、本当に建物を龍の格好にした案を出してきたんですが、まあこれはあまりにも、タイガーバーム・ガーデンの二番煎じだからということで落としました。結局、入賞したのは風水なんてことを全く知らないザハ・ハディドという建築家で、ロシア構成主義を自分の方法にしようとしてこのコンペに応募したデビュー作〔The Peak Leisure Club〕だったわけです。日本でも最近では東京や札幌でレストランなどをデザインしていますが、彼女の案を、言わば僕がひっぱり出して一等にした。実際のところ、風水とはなんの関係もなかったんですけど、よくよく考えてみたら、彼女は縦に並ぶべき建物を横にして、さらにそれを空中に浮かせて何段かにした。つまり、まったく今までのやり方をひっくり返してしまったわけです。審査にあたってはまあ、いろいろ揉めたんですが、これは面白いということで僕は強く推して当選して、結局それが彼女のデビュー作みたいな格好になった。それはやはり考えてみたら、地形の雰囲気と合うわけです。

荒俣 パリは19世紀の改造でできたものがベースにありますが、中近東のように極端に妙なものがピッとできて、あるいはエッフェル塔なんかもそうかもしれませんが、その段階で土地の中に妙なものを同化させるという力が都市にはありますね。田舎だと多分なかなか同化しないんだろうけれども、妙なものを次々につくって、違和感のあるものをつくるのに、それをだんだん同化していく力というのがありますね。僕はどうも、あれが風水の一番の力なのではないかという感じがしているんです。

先の石垣島の場合と同様、中国で風水をやっている場所もものすごく狭くて条件が悪いところところなんです。香港もそう。福建省にしても、年中海賊がいるので、海岸周辺はまともに住めないというような場所です。それから浙江省も、言ってみれば洪水が年中あるようなところです。それぞれ条件の悪いところでなんとかうまく住めるようにしようというのは、都市の技術に治水と土木があるとすれば、その土木の技術ではないかと思います。それまでの日本の都市づくりの基本パターンというのは、治水が多かったですよね。川の流れさえなんとかなってしまえば、後はその上に何を建てようとそんなに変わりはなかった。現に畿内なんかは、流れている川の配置が現在とは全く違っている。奈良や京都の川というのは大和朝廷ができた頃からみると全く違っていますよね。だいたい、大坂城の辺りには淀川なんて来ていなかった。関東の方でいうと、利根川だって今のと全然流れが違いますよね。もっとカーブさせてこちらの方へ流れさせようという計画があったとおりです。つまり、治水というのがとても重要な要素になっている。治水の文化がずっとあり、これがまあ、古代の中国と日本の基本的な戦略だったとすると、風水というのはそれをベースにしているんです。だいたい宋とか、下手をすると明の時代に設定されたものですね。治水で生活できる場所というのは川の流域だから、大体豊かな場所ですよね。そこはきっと、みんなが繁栄したんだろうけれど、それ以外の痩せた土地になんとか住まなければいけなくなった。風水はそのために出てきた方法論じゃないかという感じがしています。

エッフェル塔みたいなものが建ってしまっても、あるときに風水師が「あれは火の山だ」というふうに言ってしまえば、普通の山と同じ意味になってきて、「あれは木火土金水でいうと火の徳を持ったもので、火徳である」というふうに、どんどん読み換える技術というのがある。都市をうまくつくり上げたのは極東ではそういうことではないか。朝鮮にしても基本的にそう。あそこも年中王城の位置を変えている。江戸なんかも、そういう点では随分つくりにくかった場所なのではないかという感じもしますね。現に水死人がごろごろいたところだから。

磯崎 12世紀頃にできた『作庭記』という、造園のいわば技術書があります。日本の造園の本というのは全部それに帰っていくというくらい重要なものです。それを読んでいますと、いかにも風水を読んできたようなことが頭にある。要するに、京都平野では加茂川からずっと伏流水が流れている。これをどういうふうに捕まえて、中国風の曲水の庭をつくるか。それを表現しようとして寝殿造の庭になり、それこそ龍頭鷁首の池をつくる。それが釣殿の方に流れて行く。そういう寝殿造のパターンがあって、斜めに水が流れて敷地を横切ります。これはつまり、京都の加茂川の伏流水の流れと大体あっているんです。

荒俣 ほとんど水脈占いに近い。

磯崎 そうして、伏流水を取り出しながら、たとえば寝殿造の配置というのを考えていく。だから、中国のようなシンメトリーがない。斜めに流れるから、配置が崩れていくわけです。それで釣殿が出てくるというように、配置のバランスが変わっていく。これは庭からきているんですね。それはある意味で風水が、自然の流れと絡んでいるのかもしれない。やはりどこか頭に、風水的な考えがあったんじゃないかという気がするんです。

荒俣 おっしゃるとおり風水をずっと見ていると、最初にベリーベストの条件にぴったりの土地というのが決まってしまっている。

磯崎 先にみんなが取っちゃっている。

荒俣 それでどうしようかと考えたときに、普通は東西南北、四神相応ということで東の方には龍、西の方は虎、北の方は玄武がいて高い山がある、南の方は水がある、こんなところはそうあちこちにないんです。仕方がないので、今度は方位をやめて右、左になって、右に山があればいい、入口の前に水があればいいという形になっていく。入口が実際には北を向いていても、とりあえず水があればまあいいことにしようと、応用がどんどん広がっていく。次々そうなっていくので、都市のつくりがある意味でカオスに近づいてくる。ですから、自然のエネルギーの勢いとか、直線を意識した丹下健三さんの建築は、南北軸のしっかりした古代日本の作り方としてはよかった。でも今は、だんだんそうもいかなくなってきていて、このぐじゃぐじゃになっていく過程で風水の力が非常に重要視されてきていると思うんです。だから、そういうごちゃごちゃしている場所のいろいろなつくり方を眺めることによって、建物や都市の計画のパターンというものが、案外見えてくるかもしれないという感じはしているんです。

磯崎 そういう視点で都市計画をもういっぺん見直すべきですね。今までの、近代都市計画というものが、これはバロック以来と言われていますが、基本的に啓蒙主義の時代に組み立てられた理論を、そのままずっと全世界に応用して、一種のコロニアリゼーションをやったようなものですからね。そのパターンを受け取った都市が、とくに極東などではそうですが、「そうは言われても合いません」ということで、どんどん変形していくわけじゃありませんか。これが香港や東京なんかのごちゃごちゃを、逆に産みだしてきているような気がします。それでは、発想を裏からひっくり返していけば、というふうには思うんですが、さてそのためになにを手掛かりにしたらいいか、ということが一番難しいんですね。

レイ・ライン

磯崎 インターナショナルな近代建築の世界に、風水なんていう妙なものが考え方としてあるということを知るきっかけになったのは、おそらく先ほどの「香港ピーク」の建築コンペだと思うんですが、ちょうどその頃、あるドイツ人の研究論文を手にいれたんです。この人はどういう人かというと、地球上のいろいろな街の縁起の悪い家──あそこは幽霊が出るとか、死人が出るとか、祟りの家ですね、そういうものが各処に必ずある。それはなぜかということを研究した人です。彼に言わせると地球の地表には地磁気のネットワークがあり、そのネットワークがコンピュータグラフィクスで碁盤の目のようなトポグラフィックになっていて、ところどころぐじゃぐじゃっと揺れたようになったところがある。そこは、スムースな地磁気の分布じゃなくて妙に集中したところだと。地下水が流れているとか大きな岩の塊があるとかいう特殊な条件で、突然地磁気が狂ってくるらしいんですが、こういうところに家が建っていて、たとえばベッドルームの真下だったりすると必ず病気になるというんです。頭がおかしくなって首を吊るとか、代々異変が起こるのは、地磁気のせいだということを実証しようとしている人なんですね。

荒俣 偉い人がいますね。弟子になりたいな。

磯崎 これは案外、風水的な発想と近いのではないかという気がしたんです。

荒俣 気と地磁気の違いだけですものね。

磯崎 そう言えば、日本のコックリさんにあたるものも、ヨーロッパでは多いですね。

荒俣 ダウジングですね。

磯崎 井戸を探すときにそうやって探すでしょう。あれは完全に地磁気の変化が地下水の流れと重なっているというパターンを探して、それを井戸を掘るのに利用したのだろうと思っているんです。東洋で言えば風水師的な井戸掘りのテクニックだろうと思います。それから、ケルト族というのがいますね、彼らが初期につくった教会があるんです。教会のアルター、祭壇の置かれる位置を探す方法というのが、要するにコックリさんのような方法で、具体的には知りませんが、まず東を背にした位置を決める。そうするとあとは自動的に教会のプランが決まる。これもなにか土地の持っているエネルギーみたいなものを探して、そこへ行くとただありがたいだけじゃなくて、もっとありがたくなる。そういうことはあったんじゃないかな。

荒俣 偶然なんですが、実は今年1月にサンノゼにヴァーチュアル・リアリティ見物というのに行ったんです。そこで、『インターコミュニケーション』にも書いているスコット・フィッシャーに偶然会っていろいろな話をしたんです。なかなか面白い人で、最初は立体視とか立体カメラみたないものを作っていたんですが、現在はヴァーチュアル・リアリティをやっているので、もともとあなたは何が好きだったのかと聞いたら、易だというんですね。さらに最近ではレイ・ラインに非常に関心があると。レイ・ラインというのは、19世紀末かあるいは20世紀初めに、ワトキンズという人が発見した、まさに磯崎さんが今おっしゃった教会の建築プランに関するケルトの風水ですね。あるときちょっと小高い山の上に登って辺りを見回していたワトキンズが、何本もの道路と、その道筋に沿ってできている見慣れた地形を、少し違う見方しようとして、とびとびにある教会とかマウンドをつなげてみたら、見事に碁盤の目になった。これはどういうことだろうと、古いケルト時代の建物をいろいろと調べてみると、祭壇のような聖なる場所は、どこまで行っても同じ方角にあって、一本の目に見えない道になっている。それはなにか不思議な地磁気のようなものと合致して、道ができたらしいと。その道筋の上に聖なるものをいろいろ配置して巡礼路にしていたのだろうというんです。彼はそれに、レイ・ラインという名前をつけた。最近では、聖なるエネルギーのレイアウト・ラインで、その上にいろいろなものが乗っているということを言いだした。例のミステリーサークルもこのレイ・ラインの上に乗っかっているという話もあります。ですから、これはまさにケルトの風水なんです。ほそぼそと研究されていたのが、ヨーロッパでも風水がこの10年位でブームになりまして、そういうものなら俺達のところにもあるぞということで、一気に浮上してきた。今ではアメリカやイギリスの人たちがたいへん関心を持っているんだそうです。フイッシャーはそのレイ・ラインが大好きだという。ワトキンズはその聖なる場所に関心を持ったんですが、今のドイツ人は邪悪な場所はどこかというわけですから逆です。そうすると邪悪なレイ・ラインと聖なるレイ・ラインとをうまくネットワークさせると、いろいろなものができるのではないか。そういう地球の枠取りみたいなものにフイッシャーはたいへん関心があると言ってました。

これは半分オフレコの話なんですが、実は、日本には地球防衛軍というのがあるんです。まだ隊員がいなくて防衛のしようがないけれども、その隊長を僕がやっているんです(笑)。あるとき、有名なオカルトや幻想文学を書いている作家に呼ばれまして、何の用事かと思ったら、「私はいま、コンピュータで大量に護符をつくっている」と。「なんのためにつくっているんですか?」と言うと、「地球にはいろいろ悪い場所があるということがわかった。そこにみんな護符を置きたい」。「悪い場所はどうやって探したんですか?」と聞くと、「世界地図の上で、振り子で占うと、邪悪な線が通っているそれぞれの場所で振り子が動く。どこで振り子が動くか全部チェックしているが、それをやると次々といろいろな場所で動くから、これは大変な作業になる。私は老齢でとても全部護符を置いて回れないから、お前やれ」と言うんです。「護符はコンピュータで次々とプリントアウトするから、幽霊の出る家とか呪われた家のそれぞれに護符を貼って、世界の悪いところを全部巡礼して回れば地球防衛になる。私は護符を作るから、貼るほうはお前がやりなさい」というふうに言われているんです。

磯崎 世界巡礼をやらないといけませんね(笑)。

荒俣 ええ、あちこち貼らなければいけないことになっているんですが、なにせ忙しくて……(笑)。

磯崎 その時の波動は、外から来るのではなくて中から湧き出てくる?

荒俣 中からいろいろ湧き出てくる邪悪な波動があってそれが磁気を狂わせているらしいんです。その波動を産みだしているのが人間の文明で、文明があちこち地球の聖なる場所を侵しているから、地球の自己防衛として人間の活動を抑えようとして、聖なるレイ・ラインの逆をあちこちに産みだしている。その証拠に、風紀が乱れるのは、だいたい人間の活動がピークになっている、ベルリンだとかミュンヘンだとか東京といったところで、そういうところには基本的に悪いレイ・ラインが通っているからみな抑えなさいという任務を、実は与えられています。

磯崎 さしあたり、東京ではどれくらい貼らなければいけないんですか(笑)。

荒俣 東京が一番危ないと言われていますから、そうとう貼らなければならないと思います。それこそ新宿辺りが一番象徴的です。磯崎さんの建築案について、風水占いの基準から見たときに私が非常に感じたのは、新宿というのはまさにシンボルで、丹下さんが建てた都庁舎がなんとなくここ10年位の東京を占っているのではないかということです。いま東京にはいろいろな問題がありますよね。そういう問題とわれわれの生活のスタイルというのはかなりオーバーラップしていて、現実に東京が下り坂になっているというのを、われわれはわかるんじゃないかという気がとてもしたんです。そうしたら、驚いたことにバブルが崩壊して、ウォーター・フロントが結構危なくなっているという状況を見ると、今こそウォーター・フロント計画も、護符を貼る問題も含めて風水的に見直さないと駄目なんじゃないかという感じがしているんです。

磯崎 村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の中に「やみくろ」というのが出て来ます。地下に来てなにか真っ黒なものに取り憑かれるというのですが、あれはどうも新宿の真下ではないかと、ずっと思っていたんです。だとすると建物を超高層にすると、本当はあまり合わないのじゃないかと。まあ、無関係ですけれどね。それでコンペの応募のレポートに、「やみくろ」の住んでいる新宿は、というようなことは書いたんです。真面目な(?)コンペであるべきものに「やみくろ」なんて書いてあったから、不真面目な奴だという評価がうまれたかも知れませんが、実際は理由にならないような理由で違反をしたといって排除されました。その後、社会党の都議会議員で、議事堂をチタン張りの球に押し込むなど不真面目だから指名料を払うなと質問した方がいたのには驚きましたね。これはこっちの死活にかかわることでしたから。風水で評価されるものは、おかしくなった東京に住むとまったく理解できなくなる。

荒俣 磯崎さんの作品はやっぱりちょっと他のものとは違うんですね。さきほどの「香港ピーク」の話と同じで、他のはなにか上へ伸びようというパターンなのに磯崎さんのものだけが違うコンセプトで、なるほどあれは「やみくろ」がベースにあったわけですね。

磯崎 いや、あれは下にいるからね、これをなんとか押さえなくちゃいけない。それはまあ、冗談を含めての話ですがなんとなくそういう話が気になってはいました。

風水師と建築家

磯崎 ただ、僕はあのコンペ以来、東京都とは全く縁が切れたんですよ。ああいう不真面目なことをやる建築家は、東京都ではいらないということでしょう、以来東京都からは声が掛からない。それならもう破れかぶれで、田舎に行ってやるか、よそへ行ってやるかということで、東京を冷やかに見ているわけです(笑)。だから東京が壊滅するなら面白いなという、高見の見物で来ているんです。でもなにか面白い機会があれば、計画をするべきなんですがね(笑)。

荒俣 風水には直接なじまないかもしれませんが、あちこちに行って建築を見ると一番不思議なのは、建築家がそれぞれのオーダーに従っていろんな建物を街々につくり、その街の外側の雰囲気というものも出来上がっていきますけれど、極端な話、ほとんどの有名な建築家が建てたものは、最終的に人間が住まないようなものをつくっていますね。なにかそんな印象を受けて、それをモニュメントと言うか廃墟と言うかはわかりませんが、人間がその中でどうやって住んで、どうやって活動を行なうかということについての想定というのはどの位やっているんですか?たとえば都庁の場合だと、ここに何とか課が入って、これとこれがつながればこういうふうになるだろうな、ということはほとんど考えないんですか?

磯崎 少なくとも建築家の場合には、これだけの部屋をこういう機構が欲しているという、それをプログラムと言いますが、このプログラムを自動的に定義していく。新都庁舎の場合にはなぜかしら最初から超高層にしたいんだという希望があって、それは東京で一番高いものになる、そういう暗黙の意向がどうもあったと思います。実は僕は昔丹下さんのところにいたときに、いろいろ調査して分析したことがあるんです。僕がそのプログラムを分析すると、都庁は超高層に一番向かない機構なんです。もっと横にネットワークを組めばいい。コンピュータが入れば特にそうなんです。本当はだから、ネットワークが相互にランダムに連絡がつくことだとか、そういういくつかの特徴を、あの巨大機構とはいえ持っているんです。それを一本にして、この上下軸の狭いところにぎゅうぎゅうひしめき合っていくわけですね。

荒俣 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」みたいなことになりますね。

磯崎 僕の場合は、エレベーターの数を減らして分散して、むしろ横に動くほうがいいんだ、というのが基本的な発想だったんです。ですからある意味で、都庁は将来を考えるならば機構の空間をこういうふうに変えなさい、という提案でもあったんですね。

荒俣 それに対しての反応は、どうだったんですか。

磯崎 だから駄目だった。

荒俣 ああそうなのか、そこを言ったら駄目よという、中まで踏み込んだ……

磯崎 不届きだっ、てなもんですよ。いらぬおせっかいというか、そういう感じだろうと思います。

荒俣 そうすると、建築家の領分というのは、逆にいうとそこまで踏み込むとタブーに触れるというところがありますか。

磯崎 これはね、建築家にとっては大きな問題で、要するに建築家というのは単純に業者である、言う通りに形をつくって差し上げます、といってへりくだっていれば、まあ問題は起こらない。ところが建築家というのは「私がものをつくるときには文化的なものも組み立てられていく。そういうことに責任を持つものだから、それに対しての自分の意志を建築のデザインの中に反映させたい、いやするべきである」というように言うとね、「業者のブンザイでもっての外だ」というような発想になるらしい。建築家を決定するときには、インタヴューに応じたりもしますが、そういうときに僕はついつい言い過ぎてしまうんです。それで「お前そんなことでは駄目だ」というので外されてしまうんですね。

荒俣 そうすると、やはり風水師というのは偉い。建築家よりもランクは全然上ですね。風水師は外側だけじゃなくて、机をどこに置いて、この課は隣に置けというように、中のレイアウトに対しての提言もちゃんとできますからね。

磯崎 要するに、空間を含めて全部の機構をデザインしているわけですものね。

荒俣 日本になぜ風水師がいなかったかというと、その辺の文化状況に根ざしていて、「とんでもない奴だ、机の置き方まで指示するな」というのがあったのかもしれない。

磯崎 それはやはり、近代になってからだけじゃなくて、そういうお上の発想というのは、日本にはもっと前からあったかもしれませんね。建築家というのは、昔でいえば大工の棟梁です。大棟梁の家系なんていうのがありますが、社会的立場を見ていると、これはほんとに大名家お出入りの大工といったシステムで成り立っているんです。それが明治になって、建築家というものが本当に成立したのかどうか。建築家が持っている、これは要するに業者じゃなくてプロフェッションですね。プロフェッションというのは、社会的責任を持てる個人というのがバックにあって成り立つ。弁護士とか医者とか、外国なら建築家もその中にはいっているわけです。そういうような広い意味での責任を持つプロフェッションだ、というように認められていない。いまだに建築士です。

荒俣 恐ろしいものですね。やっぱり磯崎さんは風水師にお成りにならなければいけません(笑)。面白いのは、風水師はおっしゃるようにまさにリヴィング・プロデューサーで、いかに楽しく暮らすかということの一部として、建物というのが考えられているわけですね。ところが日本の建築家というのは、唯一、意向を受けてそれを組み立てていくだけという、言ってみれば、下請けというのもなんですが、何らかのレイアウトされたものを実現させるレベルの人だということになります。

磯崎 長い期間に、そういうレベルに限定しちゃったわけですね。ちょっと自己卑下していった傾向が実際にはあると思います。

荒俣 でも、われわれが建築家、特に磯崎さんなんかを見ていると、フリーメーソンの親玉じゃないかと思うようなところがあるんですがね。普段はいろいろなことをおっしゃっていますが、本当は物凄い力があって、この人の首を縦に振らせないと東京の計画もできないみたいな感じがありますよね。

磯崎 そういう力があればいいんですけれど。逆に日本では、虚にしていくことに徹した方が力が集まる。そちらを僕は考えているのです。金だとか権力とか、所有とか一切そういう物量になるものを排除してしまうべきじゃないか、そしてその「虚の引力」を考えるべきではないのかと妄想したりしますが、これほど非現実的なものもないかも知れません。

パラダイス・ロストと「想像力博物館」

荒俣 今のトレンドでは、都市に自然を戻そうということで、ネイチャーという言葉が合言葉になっていて、公園では緑をたくさん増やすとか家の中にも植木鉢を置いたりとか、要するにダミーの自然をなるべく取り込もうという方向がありますよね。それによって、なにか折り合いをつけようというか、バランスを取ろうという、最近のトレンドは皆そうですよね。

磯崎 ヨーロッパでもそうです。それをやると、緑の党からの批判も減るとかね。

荒俣 いろいろな政治的理由もある。でもそれが、あたかもエコロジックな生活スタイルだというふうに喧伝されていますよね。よく考えてみると、一番手っとり早いのは、そういう自然も生えないような場所に人間が住むのがやはり本当にエコロジックなものなのではないかという感じもしています。そういう意味では古代にはセヴン・ワンダーズというのがあって、これは随分参考になる要素がいろいろあると思うんです。都市のつくり方のお手本みたいなのがあって、まず墓をつくり、次にメッセージやコミュニケーションのための灯台を、さらに庭や神殿をつくる。それから大きなリクリエーションの場所と市場をつくる。この七つの要素は、ある意味では都市の一番重要な要素を押さえている感じがするんです。あれで面白いのは、たとえば北ヨーロッパや日本みたいに自然が豊かではなくて、言ってみれば砂漠の真っ只中とか、そんなところに都市をつくっているわけですね。

そうすると、意外に都市づくりの一番の基本線というのは、さっきの風水みたいに、自然のないところにいかに生活しうるかということの実験であるべきじゃないかという感じもしてくるんです。その延長上でいうと、たとえば宇宙に行って、月のようなところに人工空間をうまくつくって、その中に人間を住まわせる。ある意味では、ダミーの自然をここに何気なく置いて、なんとなくそれでバランスを取ろうというような中途半端なことはやらないで、むしろ、なにもないという条件で、そちらの方向で建築学と風水学なりが手を握れば、もうちょっと違う展開が出てくるのかなという感じもしています。

磯崎 それはね、風水というのがある意味では技術、あるいは技術体系と言ったらいいかな──だけどその前に、風水を成立させたある種の宇宙観が既にあるわけですね。われわれ人類が庭園を産みだそうとしたときの基本コンセプトというのはなにかと考えると、結局それぞれの時代のパラダイスなんですね。パラダイス概念があって、それを地上に実現するために、古代のバビロンの空中庭園が出てくる。だからローマのハドリアヌスの庭園もまさに、彼のイメージした宇宙としての地中海の集約だし、各時代ずっとそういうようにその時代の宇宙観が反映している。日本の庭は明らかに、中国とかインドのパラダイスの概念をそっくりそのまま移そうとしたものです。今日の問題は、パラダイスの概念を僕らは失っているということです。失楽園(パラダイス・ロスト)の状態にきてしまったがゆえに、計画の手掛かりがない。そうすると、仮に風水というものを組み立てようとしたときに、伝統的な風水がそれなりに役に立っていることもあるでしょうが、やはり新しい都市、新しい場所にこれを組み立てるには、われわれの生活とパラダイスとしての世界をイメージできないと、体系が生まれないと思う。そのパラダイス・ロストの時代に、どうやってわれわれの中で生活や世界を組み立てられるだろうか、というのが僕の中の一番の関心というか課題のような気もしているんです。われわれ建築家は、そのパラダイスを失わせていくという、それに悪のりしてこれまでやってきた傾向がありますから、もうそろそろこの辺で、再構築しないといけないなと、深刻に思っているんですよ。もし、そういう需要が考えられたら、荒俣さんの言う「想像力博物館」が、新しいパラダイスの構築に役に立つだろうかと。そこの部分が非常に僕の関心のあるところなんですよ。

荒俣 いやあ、遠く回ってとうとうここへ話がきましたね(笑)。磯崎さんがおっしゃった通り、確かにわれわれにはパラダイスがない。われわれが「想像力博物館」をやりたかった理由は、パラダイスまではさすがに考えていなかったけれど、要するに気分が良くなったり、悪くなったりする喜怒哀楽を外部環境でコントロールする方法はないかな、というのが発想の一番のスタートなんです。というのは、たとえばアートを考えてみても、美術館に行きますと、向こうの方が語りかけてくるものをこちらで受け取るというようなコミュニケーションのものがわりとないわけです。ゴッホの《ひまわり》の絵を眺める場合でも、ゴッホはどういう人でというような付帯要素を全部付け加えないと、その絵を解釈できない。そういう見方がずっと伝統的にあって、それは今でもそうなんですね。しかし、よく考えてみると、ぱっと見たときに「あ、これは楽しいな」とか「気分がいいな」というようなレベルのものをもう少しうまく抽出して、それをわれわれの側に直接反映するような、絵のコントロールなり展示というものがあれば、パラダイスとは言いませんが、ある空間に入ると非常に気分が良くなり、ある空間に入ると非常にセクシーになり、別の空間に入ると気持ちが悪くなり、というようなものができるのではないか、。

今、ヴァーチュアル・リアリティが非常に力を得てきていますね。ヴァーチュアルな空間の中に人間をえんやこらと入れて押し込めたり、あるいはその中へ入ってもらう、没入型の空間を目指しているわけです。ゲームなんかは最たる例で、やっているうちにわれわれはその空間の中に入ってしまう。要するにこっちから向こうへぱっと飛び込む。建築も基本的にはそういうところがあって、容れ物をつくったからあんた入りなさい、幸せになれますよということでしょう。この方法はこれまでずっとあったんだけれども多分、ここに足りないものがあると思うんです。つまり、こっちが、たとえばいい気分になりたいと思ったときに、こちらで選択できる仕掛けのようなものですね。ここへ入るとこういう気分になるというのではなくて、こういうふうになりたいなというときに、ウルトラマンみたいなもので、向こうから来てくれるようなものが欲しい。そうすると、容物に入ると気分が良くなり、気分が良くなりたいなというときにそれが向こうからきてくれる。二重に管理できるようになると、多分それはパラダイスへの第一歩なんじゃないか。パラダイスは単に気分がいいだけじゃなくて、気分が悪いほうもあるはずですがね。

磯崎 たぶん、両方兼ね備えているんでしょうね。

荒俣 そうすると、建築やヴァーチュアル・リアリティは、その一方をやってくれるはずなんです。中に入ればなんとかなるよと。もうひとつはわれわれが欲しいときになにかを呼び出す。そちらの方で一体なにがあるかというと、それはわれわれの想像力だと思います。建築的にいうと、まだ設計図の段階で、そういうものによって、われわれの意識や環境のコントロールができるんじゃないか。そうすると一番簡単なのは、われわれが目で眺めているものに対していろいろなアプローチができるということです。黄色い丸が出てくれば危ない、ピンクの丸ならなにか面白いことがでてくるというようなレベルから始まって、いろいろな映像を呼び出すことによってわれわれはさまざまな体験をすることができる。そういうものがあればいいな、と思ったんです。

磯崎 具体的にいうと、たとえばそれはある種の参加型の、体験できる検索システムがあって、それを選ぶとストックされていた情報が混ぜ合わされたり掛け合わされたりして、今までのように単にブラウン管上に表示されるだけではなくて、身体を虚像の中へ入り込ませることができるような仕掛けということですね。

荒俣 そういう仕掛けをつくりたいんです。今の段階では、視覚、ヴィジュアル・メディアに限られていて、つまり薄い幕に映し出したもので、これは映像であろうが活字であろうが同じことで、二次元で提示する文化というものがずっと続いている。テレビにしたってそうですよね。それだけじゃやはり駄目なんで、ヴァーチュアル・リアリティのように中へ入っていくのではなく、欲しいものを自分の周りにつくりだす。そういうことができないかと思っているんです。

磯崎 そうすると、思ったときに横に美女が現れるわけですか。スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』みたいなものですね。

荒俣 その可能性はというと、現在われわれの世界に広まりつつあるヴィジュアル指向を変化させることによってできるんじゃないかと思い始めたんです。もちろんヴァーチュアル・リアリティがひとつのきっかけなんですが、やはりヴァーチュアル・リアリティは中へひっぱり込むかたちですからね。

ある空間に入っていって、温泉好きな日本人なら温泉まで行ってお湯に入って「ああ、気持ちがいい」というのがヴァーチュアル・リアリティ的ですが、そうではなくて、今ここにいるその空間に温泉が現われるようにするという仕掛けはなかったわけです。現実の温泉を再現することはむずかしいわけですが、その疑似体験をさせるような想像力空間をつくりたい、というのが基本的な発想なわけです。それと建物をつなぎあわせれば、ほぼ完璧なパラダイスへの第一歩ですね。その一番の基本型として、われわれに楽しいとか悲しいとかいうイメージを浮かばせてくれる、色とか形のデータベースをつくろうというところまでは行っているんですがね。

マルチな体験

磯崎 常識的に考えると、自然が自動的に生成してきた人間や樹木といった、リアルな「世界」というひとつの系列がありますね。今度は人間が自然に対して人工物というものをつくりだしてきた。さらに人間の頭脳から、観念として別の系をつくりだすというわけですね。これは、疑似体験かもしれませんが、違う種の出現みたいなものかもしれませんね。

荒俣 逆にいうと、新たな生物をつくりたいという場合、今までは遺伝子を操作するとか、あるものを変えていたわけですね。この場合には最初から完成品をつくりだす、ということをやりたいわけです。言ってみればクローンみたいなものですね。なぜそれが必要かというと、われわれの今の生活パターンは、だんだんリアルなオブジェから離れていきつつある。これはわれわれが、本や映画のようなものをつくりだしたときから、あるいはもっと先、アリストテレスから始まっているかもしれない。われわれ自身は、洞窟のイドラを見ているかもしれないわけです。イドラはイドラでいいじゃないか、イドラの中で楽しく暮らせる方法というのを開発できれば、たとえば地球の環境がまったくどうしようもなくなったときに、それとはまったく関係のない場所でひとつのパラダイスをつくることができる。そういう体系として、オリジナルの存在を措定しないオリジナリティをつくりたい。砂上楼閣という言葉がありましたが、砂上楼閣のままその中で生きられるような、それでいて絶対に崩れないようなものをつくる、その第一歩を築ければ面白い。そのことが想像力博物館の出発点です。

磯崎 ファウンデーション(根拠)とオリジン(初源)、このふたつがわれわれの近代の生活の中で、唯一価値を産むものだと思われているわけです。そのふたつをパーッと外してしまおう、それは昔の話ということにしようと。ということは、まったく今までの評価基準なり価値基準を切り捨てて、違うものに置き換えてやるということですね。ところで、そういうふうにして出現したものとどうやって付き合っていけばいいでしょう。

荒俣 付き合い方というのは、一番基本的な問題ですね。今まで、付き合い方の基本というのは、愛にしても友情にしても、所有という概念が大きかった。つまり、あなたと話しているときには、あなたの心の中に私がいくつかの部分を占めているとか。あるいは、家族の中で私はこの位置を占めている、社会の中ではこの位置を占めているというふうに。所有というのはおかしいかもしれないけれど、相手とのインタラクションがどれくらいあるかで、その所有の部分が大きければ大きいほど愛という名前になる。中ぐらいだと友情になって、どんどん離れれば敵対だし、まったく接点がなければ他人になる。そういう所有というものを中心にした、われわれの付き合い方というものが一気になくなる、必要なくなるということですね。自分が欲しいと思ったときには勝手につくることができ、いらなくなったらいつでも、はい、さようならができる。それは自分自身が全部所有することでもあり、まったく所有しないことでもある。そういうことになれば、われわれの付き合い方に対するスタンスも変わってくる。自分自身が自分自身と付き合えるようになる。これは多分、全ての人間が孤独であって、全ての人間が共につながっている。まさにライプニッツが言ったモナド論と同じようなことになると思うんです。それぞれの人間が自分の責任と自由においてつくりだした空間が、ぐっと引いたときにうまく共存しあえていれば、それは新しいパラダイスのひとつの要素になると感じています。

磯崎 想像力の出現を、また別の見方で考えると、それは欲望に支えられているわけです。ある意味で欲望の強さが、想像力の広さ、大きさにかなり関係してくる。そうすると確かに、想像力をそういう形で再編成して組み立てていって、それで新たな付き合い方を構成できたとした場合に、人間が個別に持っていた欲望はどうなるんでしょうね。欲望の強い奴の方が権力があるとか、そうはなりませんか。

荒俣 多分、レベルは随分違ってくると思うんですね。ただそれのひとつのキーワードは、マルチ・リンガルとかマルチ・メディアとか呼ばれている、マルチという概念だと思うんです。というのは、われわれは今まで統一的な行動をとるのが理性的だと思っていたわけです。さっきの付き合い方もそうですが、一方で好きと言っておきながら、一方では嫌いということはありえない。だから、あなたのこういうところは嫌いだけれど、こういうところは好きだから、結論としてはあなたを好きよ、というふうにもっていかないと理性的な付き合いではなかった。ところが今は、いろいろなものがマルチになってきているから、そういう統一感が次々とばらされていく。昔だったら、たとえば健康になろうというときに山登りを選んだとすれば、山に登って帰ってくることで観光もでき、体力も増え、征服感もあり、と「山登道」みたいになっていた。今だと、たとえば2時から3時までの間、妙な機械の上でパカパカ駆けて、それで山に登ったことのうちの体力を付けるという部分の効果を自分のものにする。その間にテレビの囲碁の時間も見たりして(笑)。

磯崎 いまの比喩は面白いね。フィットネス・センターへ行って、疑似的に健康を増進する。そうすると、いまのお話の全体の構造は、いわばメンタル・ヘルス・ジムみたいなものですね。要するに脳から生まれる知的な想像力みたいなものが、さまざまなかたちで接触して組み立てられて、やはり一種のトレーニングとしてその中に入る。

荒俣 ええ、まさにおっしゃるとおりなんです。そうやっていくとたとえば自分自身の統一感といいますか、一体感がどんどん崩れていく。自分は同時にこの人が好きで、かつ嫌い、という不思議な感情の中で生活することもできる。そういうふうになれば、所有権とか支配権とかいうものは、本人の統一感がなければなかなか意識して使えないと思うんです。たとえば自分が二カ所にいた場合に、それぞれに対している物を所有するということになれば、自分自身はそれぞれに対して半分の請求権しか生じない。そうやって、所有権や支配権の闘値がどんどん下がっていく。そうすると、さっきの磯崎さんの東京都庁案のように、横にどんどん広がっていろいろなネットワークが組みやすい、というのを人間に置き換えてやりたいんです。今まで統一感とかいってぐ一んと立っていた人間が、一番上の理性の支配下で愛したり嫌いになったりと、つねにどれか結論のついた統一された存在でなければいけなかった。そうではなくて、手は手で勝手に誰かを捕まえていてもいいわけですね。それで頭の中では全然違うことを考えていてもいい。そういうことがメディアの発達によってできるなら、われわれ自身の内部の環境も大いに変わってくる。われわれ自身がコンポーネント・ステレオのセンター・コンソールになって、一構成要素になる。それまではわれわれ自身が完成品だったけれども、ひとつのメディアということになってしまえば、われわれ自身をいろいろなところへアロケートすることで、自分の中のさまざまなものをマルチに使える。そして統一感を失う代償に、非常に幅広い活動を行なえるようになる。そうすると、理性的に動くということが、近代の都市づくりから哲学までを統一していたとすると、そこで行き詰まった以上、逆にばらばらになった自分のまま存在することで、いろいろな面で楽になるのではないか。人間関係にしても違うチャネルが出てくるのではないでしょうか。それを一番シンボリックな形でやろうとしているのが、モナリザをマニュピュレートしようという試みです。

磯崎 ああ、それはNHKの番組で拝見しました。

荒俣 あれをいじることによって、われわれの周りが自分たちの思うように変わっていく。今まではモナリザがあるからいらっしゃい、と言われて会場に入っていった。そうではなくて、今度は宇宙人のモナリザがいいなと言えば、絵の方がぱっと変わってくれてすぐに確認できる。そういうリアルタイム性がでてくると、われわれ自身の試行錯誤のペースがかなり早まるのではないかと思います。実際にものをつくって、その中に入ってみたら駄目だから直そうというのではなく、われわれの周りに想像力で考えだしたものは、プレハブのようにスクラップ・アンド・ビルドが簡単で、トレーニングとしてはもってこいだろう。その次の段階で、本当にちゃんとした建築学的なユートピアなりパラダイスが設定できればさらにいい。たとえば磯崎さんがお考えになっていることを、自由に頭の中でシミュレーションできる装置があればいいなということが一番大きい。

パラダイスを求めての画像
想像力博物館

想像力と世界の組み換え

磯崎 それが今や、技術的にもいろいろな意味で可能性がでてきつつあるのは面白いところです。それによってほとんどこれまでの価値基準を解体してしまう。ということはつまり、われわれの世界を組み立ててつないでいた、基本的な接着剤が全部溶けてばらばらになってしまう。そうすると、その時に人間どもは一体なにをやり始めるだろうか。とても予測はつかない。人間を過剰に自由にしてしまうようなものですからね。

荒俣 どっちみち人間というのはもうそろそろ駄目だとすると、それぐらいのことはやらないと(笑)。よく考えてみればわれわれ人間は、一度それをやってきたわけです。つまり、赤ちゃんの段階から成長するときにもうそれをやっている。理性の命令の下に、全身が統合されている世界観をつくっている。子供をひっぱり出さなくても、つい5000年位前に、言語と絵を描くというふたつの要素によって、ばらばらだった現実を統合してしまったわけです。

磯崎 それが「世界」というものですよね。

荒俣 この5000年間は、その接着剤でやってきた。ばらばらであったかつてに戻すためには、組み換えを少しずつおかしくしていけば、自然にばらけるんじゃないか。接着剤を切るということは、なかなか難しいですけれど。それこそ、脳のあちこちを外科手術で切り離さなければならない。その代わりにわれわれができることは、ソフトで組み換えることです。笑いながら泣くというような、組み換えをやることによって、間接的に今まであった接着剤の路線が崩れていくのではないか。それをやってみよう、というのがひとつの発想です。そうやってばらばらになったその後で、多分われわれの不思議なホメオスタシスは、また次のレベルでつなぎあわせられると思うんです。今度は理性が命令するのではないような形態の、なにかをつくりだすんじゃないか。そのひとつの要素は、ヴィジュアルじゃないかと思います。

磯崎 つまり、言語というシステムで組み立てられたものではなくて、イメージのようなものをエレメントにした体系、ということですか。

荒俣 脳が命令するのではなくて、いろいろな感覚のレベルで接着する方法ができればと思うんです。それで想像力博物館は、喜怒哀楽という四つのキーワードでやろうと思っているんです。

磯崎 たとえば古代インドのチャクラとか、アルトマンとプラーナのようなものは、硬化してしまった人間の理性を、自然というか宇宙の中に解消させていこうとして組み立てられた理論ですよね。それをハイパーリアルな世界として、ハイパーテクノロジーを使って表現しようとしていく感じなんですか。

荒俣 いつの時代にも、そうした場合にふたつの方向があると思うんです。自分の内側を変えていく方向と、外を変えていく方向です。星を見たければ、なんなら自分の頭を金槌で叩いて星を飛ばせて見てもいいし、実際の天体を望遠鏡のような光学機械で引き寄せてもいい。この自分の内部を変えるという方法は、人間は随分と今までにやってきている。それこそ、チャクラの方法とか気の方法とかいくらでもある。ただしこの方法には非常に個人差があって、忙しい人間にはなかなかできないし、欲望が多面にわたる人にはひとつにしぼり込むことが難しい。つまりできる人とできない人がいる。だから、高度なものでなくてもいいから、とりあえず誰もができるようなことを考えたいとすると、やはり外側を変えるのが一番手っとり早い。

磯崎 誰にでもできる、あるいは誰にでも応用できる、というところに博物館と称するゆえん、いわれがあるわけですね。

荒俣 まさにそうなんです。自分の中からやるとなると、「想像力道場」になってしまう。道場にするか博物館にするかの違いだったわけですが、僕としてはあえて博物館の方にした。自分自身が道場へ行くというのはなかなか大変ですから、博物館の方で「ああ、こんなものね」と疑似体験で当たりをつけたい。そこがポイントになっている。

欲望としての博物館

磯崎 話は非常に現実的になりますが、このNTTのインターコミュニケーション・センターというものは、荒俣さんが構想されている博物館の場としても役に立つと思われますが、どうですか。

荒俣 これは重要な問題ですね。普通の美術館の概念だと、置かれている画像とかそこに描かれたアートに価値を与えなければいけない。価値付けが与えられていなければ、美術館に置く意味がない。そうではなくて、価値がないものが置けるかどうかが勝負で、われわれが置こうとしているのは、全然無価値でもいいわけです。フェイクでも紛い物でも、とりあえず唯一必要なのは、特定の反応を引き起こす力を持つ形と色があればいい。われわれの中になにかをつくり上げる力を持っているか、われわれの思ったとおりにちょうど作用するようなものとして、それが存在すればいい。そういうものを集めて、展示できるスペースかどうかが一番大きな問題になりますね。これは磯崎さんがおっしゃるように、美術館の外側はつくるが、内側には口を出すなという、その内側の問題ですからね。

そういう美術館ができれば、偽物でも本物でも大量になにか出してくる。たとえば「ひまわり」が好きだなと思ったときに、パッケージにくっついてくる「ひまわり」から、ゴッホのひまわりまで全部出してくれる。自分に一番ふさわしい「ひまわり」を、ほとんどそれに付随する価値を度外視して、画像として並べて出してくれるような装置にできるかどうか。それこそ、ポルノで言えば、芸術と卑猥の接点が取り外せるかどうか、そういう画像の集め方ができるかどうかで、大分違ってきますね。

磯崎 良い悪い、基準に合う合わない、という判定ですね。それをやるかやらないかが重要な問題です。やはり、今までの美術館というのは、歴史的にみると、ひとつの趣味であるとか美意識であるとかの価値基準があって成立した。それを基にして集めたものを公開しているから、そこで集められた物はすでに権威づけられている。見せてやるぞ、ってな感じでね。

荒俣 そうなんです。見る者もその権威に合わせないと意味がない。

磯崎 それが、過去200年の美術館の歴史の全部だと思うんですね。そうすると、構想している博物館というのは「いやそうではない」と、選択の基準を全部外して、まったく融通無碍というかメロメロにして、それを探していく希望、欲望、意図だけが判定基準だということですね。

荒俣 欲望だけなんです。「もっとおいしい絵が欲しい」と思うと、次々に探せる。

磯崎 無限の欲望を可能にする集め方、見せ方であるわけですね。それは面白いですね。それは今までのミュージアムに対する概念と、まったく対立する、あるいは衝突が起こる部分だと思うね。

荒俣 まったく対極になってしまいますね。入ってきた人間がミュージアムを自由にするのであって、ミュージアムが入ってきた人間を操作するのではない。

磯崎 それが実現すると、内部はとことんアナーキーになるのか、非常に整然として見えるのか、あるいはニルヴァーナみたいになるか、それはわかりませんが、まあ、とんでもない、奇妙にみえる博物館になりそうですね。

ヴィジュアル・ベースの文化へ

荒俣 そのためには、われわれの世代だと嗜好だとか好みだとかは、大体テキスト・ベースなんですね。たとえば、「あなたはどういう人が好きか」と問われればまず、理性があってとか、言葉や概念で定義するわけです。若い世代ならば、髪がすらっと長くて、とか大体印象で言いますよね。そういうように印象で物事をやりとりできるようになると、テキスト・ベースでやるよりハンディが軽くなると思うんです。日本の場合だと、店に入って「コーヒーが欲しい」と言えば、わけがわからないなりに、コーヒーらしいものが出てくる。西洋だとそうはいかなくて、砂糖はいくつだとか、どの銘柄のコーヒーかとか、いろいろ聞いてきて、非常にテキスト・ベースで物事を選択させますね。そうではなくて、非常に日本的に「今日は暑いから、なにかすっとしたもの」と言うと、「はい、わかりました」で、「なにかすっとしたもの」が出てくる。そういうようなコミュニケーションのとれるトレーニングの場所としても考えられる。そうやって、テキスト・ベースの文化からヴィジュアル・ベースの文化へと少しずつ転換していく。そういうヴィジュアル・ベースの文化なら世界言語になり得る。ユニヴァーサルなものになりそうな感じがあります。

磯崎 そういうときに、われわれはどういう言葉をしゃべるだろうか。端末でキーを押すというような操作は共通でしょうが、その中で一人ひとりが喋ろうというときにはどうするでしょう、出てきた美女とは何語で話すんでしょうね。

荒俣 多分、美女を表わすような身振りとか、にっこり笑っているマークだとかになるんじゃないでしょうか。男ならまた別のというように、身振りなりアイコンのようなものを示し合うやりとりのかたちが出てくるのではないでしょうか。それが対機械とか、対イメージとのやりとりだけではなしに、対人間とのコミュニケーションにも反映してくるのではないでしょうか。禅問答に近づいてくるような感じがします。

磯崎 そうすると、今われわれがあまりにも支配されている言語の発生する以前の世界がイメージされてくるわけですね。しかもそれを言語が究極的に産みだした機械、コンピュータを介して実現する。

荒俣 皮肉なことに元へ戻ってしまう。それができると、ある意味でわれわれのパラダイムを突き詰めたところで、また元へ戻るという、今まで超右翼だったのが極端な左翼になってしまう程の変化が起きるだろうと思います。改宗を迫られた西洋人はものすごく悩んで自殺してしまったりする。ところが、日本人はわりとあっさり転向をやって、キリスト教でもなんでも自由がきく。気がつくと三つも宗教に入信しているなんてことになったりする。そんな感じが出るのではないかと思います。だから、西洋人には特に有効な方法ではないでしょうか。

磯崎 いやあ、厳しいかもしれない。彼らには案外適応性がないかもしれない。こうやって話をしていてだんだん感じてきたのは、脳の知覚レベルの判断機能は残しておいて、ロジックや言語構造を含めた論理的な部分を外して、身体だけでいかにコミュニケーションを含めた可能性があるかどうか、という点ですね。そこに行き着きそうな可能性がありますね。

荒俣 まさにそうですね。われわれは脳がなくて生きられるだろうか、楽しめるだろうかということになってくる。実は脳がなければ楽しめない可能性があるかもしれない。

磯崎 どうもそろそろ時間が近づいてきたようなんですが、本当にこういう話はやりだすと延々とつづきます。今日はどうもありがとうございました。

[1993年4月5日、於赤坂プリンスホテル]

磯崎新(いそざき・あらた)建築家
荒俣宏(あらまた・ひろし)翻訳家、博物学

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