IC0-1
フロンティア・オブ・コミュニケーション [2]
新しい想像力のインターフェイスヘ
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B ニュー・パーセプション・セオリー
我々の感覚地図が書き換えられようとしている。それはもはやこれまでの人間の座標から派生してくるマップではなく、同時性、共存性という概念から湧きでてくる時間や空間も含めてすべてが一体化しているような場を転写したマップなのだ。
註:本文中の❺〜❻は、註のゴシック部分と相互に参照し合う関係にある《サブ・ダイアローグ》。
3.身体感覚地図の書き換え
藤幡 最近、自然保護協会の人に時々遊んでもらうんですけれども、アザラシとか見にいくわけですよ。1キロぐらい先にいるんだけど、僕らが双眼鏡で見ていると、何が見えるんですかって、いろいろな人が来る。で「覗いてご覧」って双眼鏡見せると見えないわけ、眠ってるアザラシだからね。僕らは前もって写真で見たり、動物園でゼニガタアザラシとか学習してるから、「あ〜っいるいる!」ってすぐわかる。つまり情報というものが、その人の持っているバックグラウンドによって変わってしまうわけですね。そういうことは日常にものすごくあるはずじゃないですか。
これまでの話でいえば、まずメタファーが理解できなければ全然だめになってしまうわけですね。例えばマウスを動かすとき、こういうふうに動かすとこういうふうに動きますよということが理解できないと操作ができない。なんかそういうことが問題になってきているということです。アザラシが見えないといっても、網膜には見えてるわけでしょう。アザラシが見えるというのがどういうことかといえば、その後ろ側にあるインプリントされたものが前もってあるかないかで変わってしまう。
武邑 インプリントということで言うと、外部的な感覚情報というのは、かなりの部分がとりあえず社会共同体の規範のなかに適応するということになってるらしい。
だから視覚はとりあえず、2.0以上は必要がない。眼鏡をかければ、1.0くらいはクリアーして、交通規則も守れて車も運転できる。精度的な違いが存在している、例えば自然だと、その自然が持ってるモティヴェイションで感覚器官が適応してくるということですね。だから都市、一概にはいえないにしても、ずっと東京に生息していると、大体全てがそこに適応してくるわけです。別の場所に生息すると、僕らはその場所にどういうかたちで適応してゆくのか。
見えなかった目が本当に見えてくるのか、という問題も含めてね。感覚を考えてゆくと、外部的な感覚器官というのは、環境適応に異常に依存している。逆に深部感覚だとか、内部的に合成される感覚情報は、非常にパーソナルで、その人が属している合意上のリアリティに依存しているわけです。例えば僕らみたいにちょっとそういう世界といったものを抱え持って、概念として、ある種興味の対象がクロスするような、ある種のリアリティと感覚が適応している。
藤幡 自然保護というのが、非常に面白いと思ったのは、つまり見えないところでみんな悪いことをやっているからなんです。さきほど言っていた、見える見えないという問題が意外と身近なところで、実はすごく大きな問題だと思ったわけです。例えば飛行機がサンフランシスコまで飛んでいるとか、そういうことって見えないですよね。毎日飛んでいる飛行機の、一機が使う酸素の量は、四国の人口が一年間に吸う酸素の量と同じなんですよ。言葉で聞いただけでも驚くけれど、その部分というのは具体的に見えないわけです。四国の人口50万人分の酸素がなくなるということは見えない。やはりこれは見えないことに対する戦いなんだと思ったら、エコロジーの問題がすごく面白くなった。
武邑 アメリカでCGのヴィジュアライゼーションで「スモッグ」というのがあるんです。それでロサンゼルスのスモッグがどのように実際流れていくのかを視覚化してみたんですね。そうしたら、圧倒的に関係のない南カリフォルニアの、車なんかほとんどないようなところに、風の影響で全部対流していくわけです。そのためにビヴァリーヒルズに住んでる人間が一番救われている。ということは、サイエンティフィック・ヴィジュアライゼーション※などの、データ・ヴィジュアライゼーションと言っているものは、ある意味で見えなかったものが見えてきた、というふうに言えるんじゃないかと思いますね。
※サイエンティフィック・ヴイジュアライゼーション
本文中の「スモッグ」の例と同様に、人間の目では見えなかったり、接近不可能な物体や現象を、CGやテレプレゼンスの技術によってヴィジュアル化することにより、その実体や影響力を計測すること。
藤幡 だからあれもそういう意味で面白く使うと、強烈なツールになると思うんですけどね。
武邑 例えば内燃機関のいわゆるエンジンの燃焼効率にしても、車では動力に伝達する力として、30%しか使っていないわけですね。それは巨大な無駄の中で成立している一種の欲望装置なわけです。車の場合残りの70%を何とかしようなどという事は今まで考えてこなかった。それが燃焼効率のヴィジュアライゼーションを見ることが可能になって、圧倒的に消えていくものがわかるわけですよ。
藤幡 大体エンジンが熱くなるから、熱になって逃げているけどね(笑)。見えない領域ですよね。
伊藤 さっきの共同体や集合としての感覚や知覚ということで言うと、東京にいると全然見えなかったものでも、他の場所では見えてしまうことがありますよね。バリなんか行くと、その土地の人たちはしょっちゅうレアクという夜霊を見ると言うんですよね。僕らには絶対見えないわけ、そんなもの。でも、ある程度環境に自分を適応させていくと、フッとそういうものが見えてくる瞬間がある。もしかしたら幻視かもしれないけれど、ある共同体にいる人たちがみんな同じように見ているのに、僕にはその場にいてもある時期は全然見えなかったのが、見えてくるという瞬間があって、すごく面白いなと思うんですね。僕らが見るということは、向こうにあった情報が缶詰かなんかに入ってきて僕らに伝わって、それを受けとめるというような、そういうコミュニケーションの単純なメタファーで僕らは考えていると思うのですが、それとは全然違ったモデルが必要とされるのではないか。
それから我々が感覚するとか感じるということを考えると、センサーとはもともと感覚するということのほかに、排除するという意味の方がはるかに大きいと思うんですよね。この帯域しか僕らは感じることができないのだけれど、本当は別の幅で流れているものはいっぱいある。それは視覚レヴェルのことだけを言っても、例えば、X線でも僕らは何にも感知してないのに実際に存在している幅というか、バンドはいっぱいある。そういう問題はやはりコミュニケーションの問題としてもう一回捉え直してゆく視点は必要だと思う。
武邑 概して僕らは共通の基盤で、コミュニケーションというのを今までネットワークで考えてき過ぎたということがあると思うんですよ。共通の情報で、共通の基盤で、なんとかそこにみんなが適応してきた。ところが、今伊藤さんが言ったように排除されていたり、排除しきれないものに対して、実は何らそういう意味でのインターフェイスがなかった。僕ら自身例えばどこまで本当に見ているか聞いているか、感じているかということの中で、逆に言えば、そんなことの帯域なんて必要ではないくらいに一本化したネットワークの情報システムの中に制度があらかじめ存在してたということ、それが、すごく大きな問題になってきつつあるような気がするんです。❺
その制度的な現実、だからある共同体、ある一定のサークルやある概念を共有できるような合意上のリアリティに属している人間たちにとっては、それは別な次元でのリアリティをシェアできる世界だったと思うんです。
❺パーソナル・コンピュータによる多彩なネットワークシステムやそのマルチメディア化と言った指標が、膨大な情報生態系を生み出し、NETM(new electronic technology television)と総称するTV、放送衛星、ハイヴィジョン、ヴィデオディスク、CD、CATV、INS、データベースなどを含めた情報システムが80年代における社会、文化の側面に大きな影響を与えてきたことは、周知の事実である。
情報環境学が提唱され、電波や通信ネットによる多彩な情報系と人間社会の関係を制御する情報サイバネティクス論が稼働したのも、旧来の機械と人間といった図式に加え、電子情報と人間という物的環境のほかに、情報環境が世界のリアリティという局面を支えてきたからに他ならない。これは従来の地理的空間に対する情報空間の優位を認知させるものであったし、こうした情報環境(information environment)が、モノやエネルギー以上に有力な資源構造となり、情報価値の生産を中心とした社会システムが高度情報化社会と呼ばれ、その中で情報インフラストラクチャーの整備などが重要視されてきたといえる。このような80年代に予備的にインストゥールされた電子メディア環境の内実が、シミュレーションや下層情報という概念を飛躍的に浸透させてきたことも重要な側面であるのだ。
──武邑光裕「脳化と仮想都市」(『速度都市TOKYO,90J〔都市デザイン研究所〕)
藤幡 シェアしているんですよね。
武邑 僕らは余りにも一般化して均質化されたシェアード・リアリティ※に非常に帰属してしまったが故に、パーソナルでコンセンシャルでオルタナティヴでミラクルなリアリティに対して、ある種それ自体も排除してきたという気はする。
※シェアード・リアリティ
複数化されたリアリティをインターフェイスしたり、インタープリテーションすることで、一元的なリアリティを複数化の中で同所共存(コインシデンス)化する。一方、コンセンシャル(合意上の)現実とは、予見的な概念やイメージ等を意味し、現実をはるかに先取りするシミュレーション・リアリティの共有イメージとなる。
藤幡 はずしてしまった方がシンプルになるからね。
武邑 すごく専制主義的なある種の制度が、メディアと知覚をめぐって長年存在してきたような気がする。
伊藤 さきほどの共同体や社会の知覚とか感覚とも関係してくると思いますが、武邑さんがよく言うメディア・テクノロジーと感覚地図の内部環境と外部環境というのはどういうことですか。
武邑 僕らがとりあえず外部感覚といっているものは、外化された社会の環境系と非常にパラレルに変容していく。つまり、外界と適応可能な状況へと、どんどん変容していってしまう。これを定常的に定位することは難しい。だから、内部的に合成され、エディットされるわけです。それはどういう範囲でエディットされるかというと、例えば、人間の感覚基盤は体表面だけではなくて、実は人間の内部にまで影響を与えている。触覚というひとつの単位を、足の裏と力、手のひらとか、そういう単位で考えるのではなくて、もっと複合的な地図として、内部的な感覚の合成地図のようなものを考える必要があるのではないか。それが本来的に情報と身体との大きな関係体系ではないかと思うんです。そういう意味です。今までは非常に技術的な意味で、インティメイトだとか、扱いやすいとか、それは当然プログラムなどと深く関わっていたけれど、そこでいかにプログラムをコントロールできるか、しやすいかというパラメータしかなかった。しかし、社会とか、文化を含んだインターフェイスという要素もすごく大きい。だからむしろ技術インターフェイスの初期段階から、それが及ぼしていく社会的文化的要因を、そのインターフェイスの中に含み込む必要があるだろうということです。
伊藤 意識的、無意識的に人間が行なってきたことを、もう一回新しいフレームの中で再検証していくようなことですよね。今まで、僕らは認知科学や生体工学を理解しているとか、心理学をわかっているとか、平板で分離したかたちで研究が進んでいたけれど、そうではないかたちで、まさにマルチメディア化して理解していくとか、そういう学問の構造の問題ともすごく関わってくると思う。これは常に関係性をベースにしているから、あらゆるものとリンクしていく。
現実問題として、メディアのアウトサイドの情報と、人間の中に形成されている内部情報みたいなものをクロスさせて、実際に研究している例はかなりあるんですか。
武邑 ファーネスのところの、ワシントン大学のアドヴァンスト・ヒューマン・リサーチ・ラボというところくらいですね。そこは4種類くらいの感覚のデータベースを考えている。例えばマッキントッシュのソフトで発売されましたから一般的になっていると思いますが、ダンスCAD※1のような人間の動作情報のデータベース。あるいは生理学的な情報。そして、感覚の範囲を限定した、聴覚なら可聴範囲のデータベースですね。その研究では、どのような情報が合成されて人間に情感を与えるのかといったことや、感動のデザインといったことがなされているわけですね。さらに、エンターテインメント・テクノロジーと言われているようなマシンとか技術以前の要素、従来はひとりのエンターテイナー、いわばソフトウェアだったわけだけれど、それを定量化できないかということ。それから情感データベース※2とか、創感、想像性の感覚をつくりだすというもの、さらに今のタクティクルというか、フォース・フィードバック※3などですね。
※ダンスCAD
人間の動作情報をデータベースとしたアニメーション情報。複数の人間動作を軸に、各々のキャラクターの動きを制御できるため、CGキャラクター・アニメーションの分野で注目を集めている。
※2 情感データベース
マルチメディアに対応したマルチ・センソリーな感覚情報パラメータ。近年、感覚情報の計量やシミュレーションのPDS(パブリック・ドメイン)が入手できるようになり、メディア・デザインにおけるヒューマン・ファクターや感覚・情緒データの新たな導入ニーズに応じ、深部感覚設計や感応評価などを実現するためのデータ慨念となっている。
※3 フォース・フィードバック
仮想環境内の物体を手に触れて感じることのできるシステム。
藤幡 武邑さんがおっしゃったみたいに、人間にはビット数が少ないにもかかわらず、その間を埋めるイマジネーションの力が本来備わっている。それが人間なんだと思うけど、お互いの関係性はこちら側が勝手につくっているわけではないから、その場合、読み取られ方が多重になる。だから、芸術作品は人によって受け取り方が違うとか言っているわけだけれども、その時に、受け取る側のセンサー、あるいは、センサーどうしをつなぐイマジネーションの力みたいなものを、どうやってトレーニングするか、こちらの方に僕は興味がある。エンターテインメント指向でずーっといくと、すごく鈍感な人間に対して、情報ではなくてエンハンスメント、情報のアルゴリズム、組み合わせ方といったことを、どんどんやらなくてはならなくなる。
武邑 第五世代のコンピュータ後に、今年発足した感性理解のためのコンピュータ開発というのが通産省にあります。今、ポジトロンCT※の研究はすごく進化していて、脳内の外界からの反応をリアルタイムでマッピングして、データベースを作っている。例えば、被験者に長期にわたって、あらゆる外界情報を導入することで、その人間の感覚地図をマッピングしてしまうというデーターベースを作っているわけです。それによって、どういうことがわかっていくのかということに興味がある。例えばCTスキャンとか、今までの脳波といった平板な二次元的な情報を三次元化していくことによって、これからどういうことがわかっていくかというのは、今までは聖域の問題だったと思う。60年代にそういうアプローチが多少あって、それが遺産として残ってここまで来たけれど、ここ2、30年は非常に停滞していたんですね。現在ポジトロンCTでやっているようなことは、表にほとんどでないんです。やはり、聖域への探査ということに対して、倫理的コードが存在していて表には出ない。しかし、あれがある程度立体的に蓄積されてくると、こうしたデータベースの試みがあるパースペクティヴを生み出すだろうと思います。
※ポジトロンCT
CTスキャンやトモロジーの分野において開発されたリアルタイム・マシン。脳内の諸機能をリアルタイムで分析、画像表示が可能。これによって外部の刺激による脳内地図の解析や脳機能の活動領野などが可視化されることになった。
伊藤 感動を与える情報とか、感情を変える情報とか言うんですけど、それはある人間がどういう価値体系、意味体系に取り込まれて、その中で自分を動かしているのかということによって、大きく違ってくる。そうすると、前に言ったヒューマン・ソシアル・インターフェイスとかヒューマン・カルチュラル・インターフェイスという関係が大事になってくる。人間が、ある価値体系とか、文化とか、社会の中にどういう形で参入しているかを精密に測定して、それを情緒とか、情動とかいう視点を設定して、そこに変化をもたらしていく特別な情報はいったい何なのかということを考えてゆく。何をその人が一番崇高なものとしているかわからないけれども、愛なら愛という体系をくずしていくものは何なのかとか、意識のレヴェルを変化させていく大きな要素というのは、人間に常にあるわけですが、それを制御していくことができるものは何なのかというふうに考えてゆく。それはまさに聖域ですが、実際にそういうことは昔からみんなやってきて、意識のレヴェルが一定の人は狂気にいたるでしょう。振れがないと人間は生きられない。近代社会は意識のレヴェルの変化をすごく抑えて、そういう場をないものにしようと進んできた世界だと思う。でもそれが行き詰まった。それがないと人間はだめなんだとみんなが感じ始めている。ある人は宗教とか精神医学にいくかもしれないけれども、人間の意識をラディカルに変えていくシステムが、これからそういうパーセプションとかセンサーへのアプローチの中で生み出されてゆくような気がする。
4.音の世界とシンクロニシティ
武邑 音の文化とか、文字の文化に対する新しい見方も出てきていますよね。やはり、英語がロジカルにもセンシティヴにも完成されたからではないかと思うんです。あのくらい完成されると、言語が世界をあるいは未来を規定していくというような思考が適応してくるのでしょうか。英語は今、そういうスタンスになっているような気がするんです。
藤幡 この間フィリップ・ケオ※が来て、ずっと話をしたんですが、結局行き着いてしまった最後の場所が、旧約聖書だと「最初に言葉ありき」で、日本の古事記だと力オスで始まるでしょう、もう全然これは話にならないんです。言葉で会話している限り、これはもう全然かみ合わない。ケオの立場は根本的に、言葉にならないものはないという立場ですね。その超越的な存在としては神のような立場になってしまって。日本の神は、もっと中間領域というか、むしろカオスを司っているような存在でしょう。わからない、絶対言葉にならない領域を司っている。
※フィリップ・ケオ
1952年パリ生まれ。現在、INA(国立視聴覚研究所)研究員。1981年にモンテカルロ国際新映像フォーラム・IMAGINAを創立、シンクロ映像を扱ったヨーロッパ最大のイヴェントに仕立てあげる。著書に『メタクス/媒介芸術論』『シュミレーション賛美/言語生活から映像合成へ」などがある。
伊藤 さきほども言及しましたが、最近翻訳されたウォルター・オング※の『声の文化と文字の文化』のなかで、声の文化と文字の文化の間には、大きな断絶があるという指摘がある。その後、印刷文化があって、今みたいな電子的な文化があって、という流れがあるんですけれど、でも一番大きな差異というのは声から文字へゆくときの、要するに音の空間、口承伝承の持っていた、ある種の緻密なアニマリティのような、一種の動物的な空間といったものが、文字化されることによって一挙に失われてしまった。で、電子的な世界が二次的なオーラリティの文化を徐々に形成しつつある……、というスタンスなんですね。オングというのは、マクルーハン※2にもすごく影響を与えた人で、もともとは宗教学者なんですよ。それからメディア論に移った特異な人なんですが、声・文字・印刷・電子というのがようやく見えてきたのは、電子が浸透してはじめてであり、そのことによって差異が見えてきていると言うんです。言葉というのは口から話されるもので、音として響いて、それゆえ、ある力やパルスによって発せられる。文字文化に深く侵されている人間は、言葉はまず第一に声であり、出来事であり、力やパルスによって生み出されているということを忘れてしまっているわけです。われわれも含めて、こうした文字文化によって意識を構造化されてきた人間というのは、どうしても、言葉をある平面上に投げだされたもののように考えてしまう。オングはこうした言葉を「翼をもがれた言葉」というふうに呼んでいます。言葉が活動や行為ではなくて、死んでしまっているというわけです。さらに視覚に基づいた文字文化は「分離」するのに対して、声の文化は「合体」させるという。見ている者は、見ている対象の外側に、その対象からある距離をもって位置づけられているのに対し、音は聞く者のまわりをとりまき、聞く者は音のなかに浸りきってしまう。文字文化は切り離すのに、声の文化は統合し、中心化し、内部を作りだしてしまうわけです。我々はもはや想像できないわけですが、無文字文化における聴覚情報環境というのはすごいわけですよ。よくマジカル・パルスとか言いますけれど、まさに多義的な音の粒子がマッスになって押し寄せてくるような圧倒的な経験が彼らにはたくさんあったと思いますね。
※ウォルター・J・オング
1912年アメリカ生まれ。イエズス会士となった後、哲学、神学、英語学を学ぶ。セントルイス大学名誉教授。古典学、英語学を専攻し、ベーコンやデカルトに影響を与えたラムス研究の第一人者。マクルーハンにも多大な影響を与えている。代表作『声の文化と文字の文化』(藤原書店)は日本では1991年に出版された。
※2マーシャル・マクルーハン
カナダ生まれ。現代文明論、メデイア論。1951年に、最初のメディア論『機械の花嫁』を刊行して以来、この分野における先駆的存在として多大な影響を与えている。1980年没す。代表的な著書は『グーテンベルクの銀河系』(1962)や『メディアの理解』(1964)。
武邑 そう、音というのはすごいですよね。視覚が88%だとかいっているけれども、音には負けてしまう。だから、例えば、ルーカスのスカイウォーカー・サウンド※あたりがやっていることは過剰に音をブロックして、本来は相殺されてしまう音だけれども、ものすごく明確にポジショニングして、それを合成する。ほんとうはリアルにその現場にいたら、相殺されて絶対に聞こえない音も出している。基本的には、圧倒的に映像より情報量が多い。こちらの側で合成するということを前提としているから、圧倒的に情報量が多くなるわけですね。ホロフォニクス※2もすごい増幅装置だと思います。あれは人間が聴いている音を忠実に位相再現したということではなくて、ものすごくエフェクトをかけているでしよう。
※スカイウォーカー・サウンド
ルーカス・フィルム社の映画効果音作成チーム。シンクラビアや電子音響シミュレーション技術によって、映像の持つリアリティ以上の「効果的なリアリティ」を音合成のレヴェルで実現するブロジェクト。最近では、映画だけでなく、JPL(ジェット推進研究所)のパブリック・ドメイン・データである火星地表面のCGフライト・シミュレーションに、火星を飛行する飛昇体が発する音源を作成し、現実ではありえない想定上の音情報までを作成した。
※2ホロフォニクス
1970年代後半、アルゼンチン生まれのヒューゴ・ズッカレリによって開発された三次元立体音響システム。これまでのバイノーラル録音では達成できなかった究極の立体音響システムとして、現在では録音精度においては、圧倒的な深部情報有し、そのシステムの全貌は公開されていない。
アーヘン工科大学のクラウス・ゲニュイット※が作っているサウンドボールというものがあって、これは数学的な解析なのだけれども、普通のラインの音をボールにしてしまうんです。かたちというような領域ではまだ見えないけれど、音を相殺して消すとか入れるとかいうかたちにしたいと言っているわけです。CDなどをラインで入れて、パソコンに入れて、マウスかなにかで三次元にグルグルやる。そうすると、ビューンと三次元で位相化する。それは面白かった。全体的な音の三次元の位相の中で座っている人間に、いかに音を伝達させるかという技術からサウンドボールはきているわけです。彼は基本的にはメルセデスのノイズ測定をやっていた。アーヘン工科大学というのは、音響学ではドイツの中で一番と言われていて、メルセデスの中のノイズをどう軽減していくか、あるいはノイズをどう入れるかという技術をやっていた人です。音のシグナルはものすごく重要です。電気自動車が危ないというのも、音がでないからで、今のような道路システムで、電気自動車がバンバン走っていたら絶対に交通事故が増える。だから、これも遅延技術が入っていて、完璧に音を消してしまうことはできるけれど、最低限どこまで入れるかということを測定している。
※クラウス・ゲニュイット
アーヘン工科大学の音響工学研究者から、三次元立体音響制御技術の開発を基盤とするへッド・アコースティック社の代表となる。「アーヘナー・コプフ」(アーヘンの頭)と俗称するダミーヘッド録音技術の権威でもある。
藤幡 救急車なんかはどこを走っているかわからない。
武邑 ゲニュイットがつくった、工事現場の騒音の中で、声だけを取り出す技術が電話のテクノロジーなどに使われているんです。
あと、最初のウォークマンをつくった人がイタリアにいて、それは外部の音と内部の音を簡単にスイッチングできるものでした。その次につくる予定だったのはシースルーの音だった。つまり、イヤフォンで聴いているのだけれども、シースルーで外部の音も、調整してどこまで入れられるかというミクスチャーの技術でした。でもそれはつくっても売れないわけです。ただHMDでもシースルーは重要になってきている。やはり、車の場合、一番有効なのは、フロントガラスをヘッドアップ・ディスプレイにしてしまって、そこのガラス面に記号を照射してインストラクションするもの……。
藤幡 あとスピードメーターにしても、そこにでればいい。
武邑 それはシミュレーションのレヴェルではできていますね。だから、車みたいなコックピット環境のところでは、すごく大きなエフェクトが起きてくると思う。
電子もいってみれば、フィールドとパルスみたいな世界ですね。僕らは、文字や言語、言語もまだ音声的な世界であったとして、逆にいえば距離感やスケールとしてどこまでの音を聞くことができたのかということとかね。今、都市というシチュエーションのなかだと、フィールドの臨界点が身体的にまったく見えていないでしょう。例えば都市を離れて、ものすごく広いフラットな所にいったら、1キロ先の人間の声も聞けたりする。ところが、僕らの音にかかわる知覚情報のセンシングとか、スキャン能力というのは、実は空間的な領域だけではどこまで実際に聞こえるのかが自覚できないわけです。これ自体がものすごく大きな制度だと思うんです。❻ 例えばイルカなんていうのは、1万マイル離れていても、どのように時間軸や空間軸を伝達していくのかが解らないにしても、とりあえず、僕らからするとまったく失われてしまっているようなコミュニケーションの構造体を持っているわけで、僕らもどこかにそういうのを持っていたりするんじゃないかと……。
❻伊藤 リリーはイルカのロボットと同次元に考えていて、イルカのコミュニケーションというのは新しいテクノロジーによるコミュニケーション・ネットワークの基本的なメカニズムと同様なものだと考えているんです。イルカというのは超音波で交信しますが、それは大気中のあらゆる情報とランダムアクセスしていけるようなニューメディア的なシステムを脳のメカニズムとして持っていると言えるのではないかということです。生物体の機械を全く同じものとして考えていくやり方ですね。それが彼のやっているコンピュータをイルカとのコミュニケーションの中に介在させていくやり方の信念のようなものになっていると思います。そして、それは我々自身の生物学的なコンピュータとみなしてゆく考え方でもある。
──伊藤俊治+武邑光裕「ドラッグが開く脳の未来」([Wave]1988年、No.23)
伊藤 だから僕がイルカや鯨をモデルにしたいのはそういう点なんです。彼らはいつも周り、流体と同義なわけですよね。いつも音で状態把握をし、遠くで起こったことをいつも自分の身体でじかにパルスとして感知する。物質を対象として知覚するということがまったく意味をなさないわけ。かたちを認識するとか対象を感知するのは彼らにとって意味をなさないので、感覚そのものとかコミュニケーションがまったく別の次元にある。視覚や言葉ではなくて、強力なパルスでコミュニケーションを行ない、耳で見ることさえやってのける。それがいつも水中だから、海という全体系との直接的なつながりを失うことはなくて、世界を即時性の原理によって動いているものとしてとらえている。深遠広大な情報生態系を持っているということができるかもしれない。それは時空を形骸化してしまう。そのことが今の状況とすごく近いと思う。
武邑 僕はそれがシンクロニシティ※という言葉でとりあえず言われている、時間軸に規定されている概念、空間系を時間系で規定していくというその概念に依存していくかぎり、ジョン・C・リリー※2の言っている、共時とは違う同時、もしくは時間や空間も含めて全てがフイールドの中で一体化している同所共存という概念に近いものだと思いますね。僕らはA地点とかB地点とかの断絶を、隔絶された距離とか時間として考えているけれども、そのかぎりにおいては共時性とかいう概念に頼らざるを得なかったわけです。しかし同所共存という概念がでてくると、今のリニアなメディアの構造をもう一回再編成しないとむずかしい。
※シンクロニシティ
意味のある同時生起(コインシデンス)、意味を持つかのように結び合わされた偶然のパターン。シンクロニシティは、これまでわたしたちが信じ込んできた時間と因果関係という概念を越えて、自然がくりひろげる広大なパターン、すべての事物を結びつける秘められたダンス、内的宇宙と外的宇宙のあいだに宙吊りになった鏡をかいまみせてくれる。
※2ジョン・C・リリー
1915年生まれ。アメリカの科学者。1960年代に外部刺激を遮断し、脳や内部感覚の情報を探査する目的で「隔離タンク」を開発。「アルタード・ステーツ(変性意識状態)」を実現するためLSDと併用した。映画『アルタード・ステーツ』のモデルともなった。1970年代以降は、イルカとのコミュニケーションやイルカの言語解析にコンピュータを導入。地球規模のコミュニケーションやテクノロジーを応用する情報エコロジーを提唱。映画『イルカの日』のモデルとなった。
伊藤 ひとつの場所から何かずるずるずるずる絶え間なく何か沸きでてくるという印象がある。あるでしょう、何となく(笑)。音の多層性とか積層性とか、内臓秩序などと関係があると思うんだけれど。それが世界観を作り始めているから、なんか密集して全てのものが緻密にあるという。
武邑 それは、モルフィック・レゾナンス※ですね。共鳴のかたちってありますよね。例えば鼠の迷路実験をロンドンでやって、同じことを別の鼠でモスクワでやると、一度やったことは学習が伝わるんですね。
※モルフィック・レゾナンス(共鳴する形)
コインシデンス(同所共存)とパラレルな連関を持つ概念。ウィリアム・バロウズがカットアップ実験やサブリミナル・ステージにおける「インターゾーン」を感覚的に言語化する際に用いた言葉。「ここで起こることは、どこにでも起こる」。因に、デヴィッド・クローネンバーグの『ネイキッド・ランチ』は、モルフィック・レゾナンスとインターゾーンをめぐるバロウズ世界を初めて視覚化した作品である。
藤幡 人間にもそういう能力はある筈なんですね。ずーっと一緒にヨガをやっていてパリに行ってしまった子がいるんだけれど、毎週金曜日に瞑想して、コインシデンスできちゃう(笑)。エネルギーが送れて、ハッピーになれちゃう。通信情報なんかいらない。なんか宇宙全体の、神がかってきちゃうからいやだな(笑)。
伊藤 僕がすごく面白いと思ったのは、テレパシーの起こる条件は自分にとって非常に危機的な状況、人間にとって日常の感覚のゾーンから外れた、枠組みから外れた時なんですね。そのときテレパスっていうのが起こりやすくなる。
武邑 電話でいうと、キャッチホンというのができて初めてわかったんだけど、電話がかかってくると、必ずキャッチホンでも入ってくる。これはなんなんだろうって、今、真剣に悩んでいる状態(笑)。
藤幡 電話ってかかりだすと、立て続けになったりするよね、やっぱり。
武邑 もう、キャッチホンを音を変えて、三重、四重にしたい。一定の時間のなかにどれくらいの共時性が起こるのか。確かに現実の制度的な時間の流れっていうか、お昼があったり、そういうものとも絡んでいるんだろうけれど、とても不思議ですよね。