IC18-4

アートの未来とデータベース

[掲載日:]

博物館とデータベース

データベース、つまり「データの基地(ベース)」という考え方と、ミュージアムにものを収蔵する(アーカイヴ)という発想とは少し違うのではないでしょうか。ライブラリーとかアーカイヴは最初に建物などのフィジカルな場所があって、そこにものを集めることから始まったように思うんです。「いいもの持ってるんだよ、俺」みたいなところから(笑)。データベースについて言いますと、以前沖縄の米軍にいた人の話を聞いたことがあるんですが、彼はそこでアジア各国の放送を傍受して、それらを全てテキスト化してアメリカに送るという仕事をしていたらしいんです。本国へ送られたデータは、日本や韓国や台湾などそれぞれの国がある事件について何を言っているのか分類や検索ができるよう加工されて、政策の判断材料に使われたりするんだろうけれど、傍受している人は放送の内容をそのままテキストにしているだけで、それが何に使われるかは分からない。だからデータベースのもともとの意図は価値があろうがなかろうがなにもかも集めるということだと思うんですよね。ボストン美術館にもモースが日本から持ち帰ったものがたくさんあります。煙草屋さんの看板とか、もう日本にはないものが山ほどあるんですが、今の日本に残っていないということは、当時の日本人にとってそれは別に興味の対象じゃなかったからですよね。けれども、モースにとっては興味の対象だった。博物館というのは最初は珍品集めから始まったもので、お金持ちの人たちが、例えばエジプトに派遣した探検隊が持ち帰ったものを見せびらかしていたんですが、つまらないものでも100年経つと価値が出るというのは、たぶん後に発見されたことだと思うんです。ともかく全部しまっておいて、後で出すと驚くものが出てくるという。日本の博物館にはそういう発想がないから、どこかですでに値段の上がったものを買ってきて、何とか体裁つけようとしている。100年間置いておいたら価値が出るから、今流れているテレビ放送を毎日全部とっておくという博物館やりましょうよと提案したこともあったのですが、全然理解されませんでした。それを100年ためおいたら、世界中の人が見に来ますよ。

テクノロジーとイマジネーション

机に投影された本のページをめくることのできる《Beyond Pages》という作品では最初、世界のあらゆる現象がその中にあって、しかもインタラクトできて、そういうかたちで世界をINDEX化すれば面白いかなと思っていました。でもやっているうちに、この形式の中に何もかもが入るわけじゃないっていうことに気付いてきた。例えば「運転」という項目が右側のページにあって、左側のページで自動車のドライヴィングのシミュレーションができるとか。それで、ペンを動かすとハンドルが動いて車も走るとか、やろうと思えばつくれるんですが、それがこの作品の中でやりたいことかと言うと、これは明らかに違うなと思ったわけです。では一体何がやりたいのかいうと、それはすごく薄いはざま(アンフラマンス)にあるんですよね。例えば葉っぱに触ったりする感覚のような、今までの手法では再現不可能だったものです。詩も物語も映画も音楽も、あらゆる表現ジャンルが取りこぼしてきたようなことができるんじゃないかなという気がしました。例えば、池があってチャポンと音がする。ただ、水の音が面白くて再現しているわけではなくて、イマジネーションが大事だっていうことを言いたいんです。今のコンピュータ・テクノロジーの進化というのは、人工知能に代表されると思うけれど、ある程度インテリジェント化されてくると、あれこれ考えなくなってしまいますよね。つまり知能とは何かとディスカッションしたりして、人工知能を研究しているときはいいんです。ポケベルとか携帯電話や自動車にしても同じで、つくるプロセスではさまざまな革新があるんですが、一旦できた後は社会や文化に対する弊害が出てくる。それに対して、相手の立場から見たらどう見えるかをイメージして「これはやってはいけないな」などと思うところから倫理が始まっているわけですが、こういうことが見えなくなるんですよね。人間のイマジネーションの力をどんどん劣化させていると思うんですよ。

《Beyond Pages》では、僕は世界のINDEX化ではなくて、むしろまだ残されているイマジネーションの余地みたいなものを考えてみたいと思いました。この作品を実際に体験した後で、家の木を見直してみるとか、スイッチをつけ直してみるとか、リンゴを味わって食べてみるとかいうことが起こったら面白いなと思っているんです。この作品では、従来のメディアの手法では、とりこぼされてきた、INDEX化が不可能な、すごくきわどい微妙な線を狙っているんだっていうことが最近になって改めて分かってきました。

デジタル時代の作品の「価値」

20世紀を振り返ってみると、アートは売り買いの対象でした。つまり資本主義とアートの接点を見つけることが社会的なひとつの目標でもあったわけです。それを成功させたのはニューヨークです。要するに紙ペラの株券がゼロになったり500倍になったりするっていうのを体験している人たちが、同じ感覚で美術を扱った。ヨーロッパで全然評価されていない前衛芸術をたくさん買ってきて、ニューヨークで美術館を建てて並べただけで、その値段が20倍、100倍になったわけです。デュシャンやピカソも、まずニューヨークが買ってくれた。彼らは美術の愛好家じゃないですよ。歴史と伝説をつくるところから含めてやるんですから。キース・ヘリングなどは、もう絶好のネタですよね。当然、弊害も出ていて、象徴的だったのは、ロサンゼルスのある画廊で開かれた日本人作家の展覧会のオープニングの話を聞いておどろきました。まず案内状が送られてくる。そこには「あなたはギャラリーがオープンする午後6時より前に来ていい」と書かれている。一般オープニングは6時で、その前に来てくださいという、内覧会のようなものですよね。それで6時前に画廊へ行くと、「今ここでこの絵を買ってくれたら、あなたがギャラリーを出る9時までに値段を倍にする」と言われるんです。3時間所有するだけで、自分の資金が倍になって返ってくるという、それは完全に株券ですよね。いつか破産するんじゃないかと思いますが、それでも結局、最後には国が買い上げているから破産しないんでしょう。ある画商も「最後は国に買わせるんだよ!」って言っていました。だから20世紀の美術は、資本主義とアートの価値観とをどのように結び付けるかというところで、大発明があったんだと思います。敬意を表わすべきものがあったときに、それをいかに行なうか。それをお金でやろうというのが資本主義です。その前の時代では、例えば町の人がお金を出し合って、共有物としての教会を建てたりしてきたわけです。ただ今の商業主義のすごく巧妙なところは、最後は税金でみんなのものにするわけで、そこまでのゲームなんです。

デジタル・テクノロジーによって、オリジナルと同じクオリティのものを複製できる時代には、今までの著作権の管理方法はもう通用しないと思っています。まだその結論は見えていないんですが、いかに作られた作品に対する敬意を作家に伝えるかという方法を見つけなければならない。そのために考えられるひとつの方法として「共有物としての“もの”」をつくらないと無理だと思います。そういう意味でもう一度、教会を建てるというようなことがいいと僕は思っています。〈Global Clock〉projectというのは、千人なら千人の参加者が自分のサーバーに明るさのセンサーを設置して、その情報で時計を作ろうというものですが、それ以外にもセンサーの情報は自由に使うことができます。このあいだ坂本龍一と、そこで集められたデータを使って音楽をつくったら面白いという話をしていました。地球が明るくなったり暗くなったりするのに合わせて音楽が鳴るようにしようというアイデアですが、それは一人では絶対にできないものなんです。

アートの未来とデータベースの画像
〈Global Clock〉project(1995〜)企画:藤幡正樹

コラボレーションすることで、ある一つの価値を共有することができると思っています。それでもおかしな話があって、例えばセンサーのユニットが最初の30個は手作りで、31個目からは工場に発注したものだとすると、最初の30個がすごい高い値段で取引されるようになったらどうしようとか言っているんですが(笑)。

結局「もの」しかビジネスにならない、これは絶対的な原理だと思います。「もの」ではないものをいかにお金に変えるかというのが資本主義の考え方であって、それはやはりアイデアの「競争」ですよね。〈GlobalClock〉projectは、なんとかそうした考え方から逃走しようと思っています。そういうつくったものを売り買いすることとアートの価値観とは、本来別だと思うんですよね。作品をいいと思う気持ち、自分も欲しいと思う気持ちと金銭とは本来別ですよね。生活の話は別にしましょう。アイデアというものは、本質的にタダで、ある状況に置かれた人なら誰でも思い浮かぶものだと思うんですよ。アイデアを金にすると言いますが、それもやっぱりいったんは「もの」に変えなくてはお金にならないんですよね。それを実現してみせてしまうことが本当のスゴさですよね。

コンテンツよりリンクが重要

インターネットでは、まずHTMLの考え方が面白いと思います。HTMLは最初、テキストしか対象にしていませんでしたが、自分のテキストと他の研究者のテキストとにリンクを張って、相互にネットワークを介して自由に行き来できるようにしようという考え方です。もともとは、テッド・ネルソンが言っていたザナドゥのハイパーリンク、ハイパーテキストのネットワーク版とでも言うべきものです。だから自分が書いているテキストは自分だけのものではなく、他者のテキストとの関わり合いによって成り立っていることになります。これもテッド・ネルソンが言ったことですが、ある1冊の本はそれだけで成立するものではなくて、引用があったり、著者の知らないところでも他と暗黙の裡につながっている部分があるわけですよね。つまり1冊の本は世界とつながっているはずだという……

Mosaicを見たときに、「あぁ、要するにインターネットってこれだったのか!」と思いました。実は世界中がデータベースだったということですね。データベースの最終的な欲望というのは世界そのものをデータベース化したいということですよね。でも逆に、世界そのものがデータベースだったと言えるわけです。どういうことかというと、データベースを考えるにはデータ・プールとリンクの二つが必要だけれど、別にデータをプールしなくても世界そのものがあるわけだから、リンクを張るだけでよかったということです。では、リンクはどうしたら張れるのか。今みたいにメディアが進歩していない時代には、人と会うことがリンクを張ることだから、世界中を旅行している人は世界のことに詳しくて、どこにいったら何があるかとか、一般の人よりも多いリンクを張っていたわけです。それはつまり人的ネットワークということですよね。いまでも人的なネットワークがまず重要で、インターネットでは、それがある程度まで電子化できるということです。インターネットでは直接会ったことがない人でも相当なレベルのやりとりができますよね。ネット・サーフと言っているのは、要するにデータ・プールにリンクを張っているということでしょう。マイ・フェイヴァリット・リンクスというのもそうです。例えば『InterCommunication』の中のうろ覚えの文章について調べようとしたら、何号のどこに書いてあったかなんて自分で探すより編集部に聞いた方がずっと早いじゃないですか(笑)。だから、すぐ答が返ってくるようなネットワークをつくることが重要で、ある意味ではコンテンツよりリンクのほうが大事なわけです。

データベースとしてのインターネットの可能性

Yahoo!以来、サーチエンジンの数がすごく増えていて、例えばAltaVistaのように、あるホームページにはどこからリンクが張られているかまで分かったり、それぞれの特徴も違っています。それから、インターネットというのはWWWだけではなくて、e-mailから始まって、PINGのように相手のマシンが生きているか死んでいるかを調べるようなものまでありますし、プロトコルもTCP/IPだけではない。そうすると、今のMosaicやNetscapeなどと違った考え方で動く──それはブラウザではないかもしれませんが──全く新しいものが出てくる可能性があります。それをデザインするのが一番面白いはずなんですけどね。

学校中の全員にe-mailでアンケートを出すことだってできるわけです。昔だったらまず全員にアンケートを配るだけで大変ですよね。もちろんメールの返事が戻ってきたものしか見れないのですが、少なくとも、だいたいどれくらいの人がメールを読んでいるかということや、そういう設問に興味を持っているかどうかは分かります。あるいは、世界中にサーチをかけて、自分が必要としているメール・アドレスを集めまくることも可能です。すると、自分が情報を送りたい人のメール・アドレスを独自に調べられるうえに、メールアカウントだけでイエローページのビジネスができるわけです。

データベースとしてのインターネットについて言えば、電子化できているかいないかが大きなポイントです。特にコンピュータ関連は、情報のサーチがかなり早いですよ。例えば、ICの型番とかピンがどうなっているかというのは、昔はどこのメーカーでも分厚い数千円もするハンドブックを出していました。要するにエンジニアの人たちにとって、1枚基板を組むときにそれは絶対的に必要なものだったんです。しかし今は、それが全部ネットに載っていて、調べたければ、ピンの配列まで分かります。分厚い本も買わなくてすむわけで、大変便利になりました。

また、従来のようなデータベースを検索するには、登録されている情報のタグをつくった人の癖が分からないとダメで、タグのつけ方の傾向が分かると次々に検索できるのですが、そのためには相当使い込まなくてはならないという問題があります。やはりユーザーの能力が問われている。例えばこのあいだ〈Global Clock〉projectでエコー・キャンセラーのデジタル版を探していました。DSPチップが入っているらしいのですが、日本では売っているかどうかが分からなくて、インターネットでサーチをかけました。そういう商品は電話機のメーカーがつくっているんですが、「Telephone」だけで検索するとサイト名が大量に出てきてしまいます。結局そのときは、電話をかけるときに使われるフォーマットの「DTMF」というキーワードを「Telephone」と組み合わせて使って、出てきた中から見つけました。結局それは、何と、放送用の業務機器を作っているメーカーから出ていました。やはり検索するときには、自分の調べたいことがはっきりしていて、しかも他のものを排除して辿り着くようなスペシフィックな用語が分かれば早いんですよね。

テキストとヴィジュアル・ランゲージ

現在の問題としては、HTMLの中の画像データにどのようにタグつけるかということもあります。例えば、ビデオに映っている内容をどのように登録するかというと、「水と空と山が写っている」とか、全部テキストで入力するわけです。このやり方では画像を見た人が感じたところまでしか言語化されない。人間の歴史の中で言語というのは大きな意味があって、抽象化にとって重要なシステムであり、そう簡単に言語からは抜けられない。イメージで考えると簡単に言っても、イメージだけで考えていたら、人間は今のように進化しなかったと言われる。イメージを扱う場合、抽象化はどのように行なわれるかというと、それはアイコンとかマークとかロゴというもので集約するわけです。しかし、その抽象化されたマーク同士が言語と同じように文法やシンタックスをもって使われるかというと、そうではない。大きい方が偉くて小さい方が弱いという言い方とか、赤だと強くてグレーだと弱いとか、そういういろんな曖昧な意味性がまとわりついてくるから、複雑すぎて意味がストレートにならないんですよ。それは言語で考えているからかもしれませんが。

ヴィジュアル・ランゲージを研究している人たちもいるんですが、どうもそれはエスペラントと同じ状況になっている。言語の中の抽象的な一つの概念を一個のマークに置き換えただけじゃまずいんですよね。それでは言語的な思考の形態から抜け出ていないわけです。ファッションでも、いま一番流行っている最先端ファッションがあって、さらにもう一歩先を行くファッションがあり、そして反対にもう古臭くなっているものもありますよね。原宿を歩いていると、「あ、もうあの服ダサイ!」とか「あんなの今ごろ着てる」とか、例えばそういう読み取りですね。確かにそれは、言語的なコミュニケーションではない、明らかにヴィジュアル・ランゲージです。服装が違っているから渋谷のセンター街で殴られるとか、「ガン飛ばした」とか、そういうのは明らかに言語的な世界ではない。ただヴィジュアル・ランゲージというのは、すごくプリミティヴな、要するに原始社会とか未開の状態の話になってしまうんですよ。「ウー」とか「アー」とか、ものも言わずに殴るみたいな(笑)。「だから気に入らねーんだよ!」という感じになってしまう。そういうわけだから、やはりテキストが大事というのは絶対ゆるがないと主張する人が大勢いるわけです。「言語以外は何もいらない」とまで唱える人もいて困るんだけれども(笑)、なかなかそれに打ち勝つものがないんですよ。アメリカ映画なんかはヴィジュアル重視で、『E.T.』などを見ていると、誰が見ても宇宙船だと分かる物体が出てきて、ほとんど字幕がなくても、話が分かるくらいのスゴさがありますよね。あのハリウッドの制作手法は日本では絶対まねができないと思いますね。日本だとお皿みたいなものが映って「あっ、円盤だ!」というような台詞が入るとそれで済んでしまうわけですが、それはアメリカ映画では絶対に通用しない。どう見ても円盤みたいなものが登場して、視覚的に納得させる。僕はそれが日本映画とアメリカ映画の決定的な違いだと思います。

以前、フランスのジャーナリストが日本のコマーシャルのことを調べたいと言うので、CMプランナーの佐藤雅彦さんを紹介したことがあるんです。それで、彼らと一緒に電通で佐藤さんのビデオを観ていると、基本的に反応する場所が違うんですよ。僕らがすごく面白いと思っても、彼らは全然反応しないというところがあるわけです。コマーシャルというもの自体、15秒という短い時間の中でかなり集約した情報を送らなくてはいけないから、言語的なレベルの抽象度が高くないとダメなんですよね。それは視覚的な情報量の多さと言ってもいい。「古池や──」と言われてパァーッと情景が浮かんだり、CMをチラッと観た途端に「あ、小学校の遠足だ! おやつだ!」というイメージが広がらない人には全く伝わらない。佐藤さんのコマーシャルで、「バザール・デ・ゴザール」というおさるのキャラクターも、マーグレット&H・A・レイ原作の『ひとまねこざる(Curious George)』という絵本を思いださせます。僕も子供のころに読んでいるし、うちの近所にいるアメリカ人のおじさんも子供のころ読んだと言っているから、それはインターナショナルなんですが、その絵本を読んでいない人と読んでいる人とではズレが起きてきます。おさるが一匹出てきたときに、そこからパァーッと「ひとまねこざる」のイメージに繋がる人と繋がらない人とがいるんですね。ヴィジュアル・ランゲージを考える際にはこうした問題も考えなくてはならない。トイレのマークなどのアイコンは、ああいうかたちで抽象化しているわけですが、それも結局はヴィジュアル・ランゲージとして流通するかどうかということなんです。そういうことで、今いろんな人がWebページのアイコンの統一をやろうと叫んでいます。先日もアスペンの国際デザイン会議で、ドイツのグラフィック・デザイナーの提案で、「ホームページに帰る」とか、「次のページへ行く」というときのマークを決めようという、世界中のデザイナーによるコンペがあったようです。

東京オリンピックのときに、グラフィック・デザイナーの勝見勝さんが水泳とか100メートル走や柔道などの競技のマークやトイレなどのインフォメーションを表わすマークを初めてつくりました。ほとんどギャラはもらわずに活動資金だけもらって、そして後から誰でもそれを好きに使ってよいということにしたんです。権利を主張しないというところが画期的でした。今でいうパブリック・ドメインですよね。そして、その後のオリンピックで流通するようになって、少しずつ変形されながらも、いまだに使われています。そうしたアイコンの表現というのはますます重要になると思います。一方で聖書や百科事典のようなテキストの歴史が連綿とあって、その流れでずっと来ているので、コンピュータは最初、テキストしか扱えなかったんですよね。その延長でデータベースはいまだにテキスト・ベースなんですが、もう一方のグラフィックによる言語や思考の抽象化の歴史はどこかで止まってしまっている。それがコンピュータが出てきた現代の状況においてすごく重要なファクターになると思います。

リンクとセンサー

現状の『InterCommunication』を全部テキストでインターネット上で公開するだけでも、それはすごいことですよ。そうすると知りたい単語を簡単にグレップ(grep=テキストファイルの中の特定の単語や表現を全体的に検索すること)できるんだもの。それで、何か特定のタグを付ったような検索エンジンなどはつけないほうがいいわけです。生のデータを公開して、自由にダウンロードしたり、もちろんそこに直接グレップをかけることもできる。僕は自分宛てのメールを全部とっていて、20000件くらい溜まっているんですが、それを全文検索で調べるだけでいろんなことが分かります。「誰かのメールに新しいヘッド・マウンテッド・ディスプレイのことが書いてあったな」と調べて、資料を送ってくれと頼んだりといったことを日常的にやっています。全文検索というのは、すごく意味あるんです。やはり、人それぞれいろんな検索の仕方があっていいと思うんですよ。だからサービスする側は、本当に全文、レアなデータなままで自由に扱えるようにしてあげるのが一番大事ではないかと思いますね。

データベースをつくるということは現実から情報を集めてきて並び変えるわけでしょう。その情報収集ということをセンサーに置き換えて考えてみると、センサーに当たる人間がいて、その人が集めてくるわけです。その際できるだけ判断を介在させないといっても、技術的にできるできないということもあるし、結局どこかで判断しているわけです。さらにデータベースを使うのが難しいのは、そのデータベースがどういう傾向かとか、こういう文字検索から入っていかないと辿り着かないとか、システムの中まで知っているかどうかで、うまく利用できるかどうかが変わってくるという問題があるからです。それは明らかにタグをつけている人の編集能力とかに関わってくる。つまりデータベースの問題ではなくて、最終的にはセンサーの問題ですよね。どうやってそこに辿り着くか、どういうセンサーがあればそれを感知できるかということが分かっていないと、知りたいものに辿り着けないということになる。世界そのものはすでにここにあるわけで、それが誰もエディットしていないレアなデータベースだとすれば、そこにどうやって辿り着くかというセンサーの問題だけになる。

先日、ある脳科学者が「脳というのは、それ自体がセンサーだ」と言っていたと聞いたのですが、これは「脳それ自体がセンサーだから、外側からいろんな道具を使って計測しても、脳のセンサーのほうが精度が高いから結局は計りきれない」という話を、多分具体的な、臨床的なレベルで発言されたのではないかと思います。僕たちは身体の外側と内側とのあいだをさまざまな感覚器官を通してインターフェイスしていますが、僕たちが世界だと思っているのは、僕たちのセンサーの能力によって認識しているものです。ここに身体の器官としてのインターフェイスの概念があると思っていました。そういう人間にそなわっていた器官としてのセンサーやインターフェイスがコンピュータによってどんどん外部に置き換えられていってるんです。例えば、テレビを「メディアの拡張」などと言うことによって、僕たちの視覚は世界中に張り巡らされたのだとマクルーハンは言っていたわけです。最近でも、インターネットの発展によってグローバリゼーションが進み、感覚器官と身体だけがとり残されているとか、言っていますね。要するにインターフェイス=界面がどんどん内側に入ってきているんだと思うんです。誰かのことを調べようとして、どこに本当のこの人がいるのかとさまざまな道具を使って身体を調べて中まで入っていくと最後にコンテンツがあると思っていたことが間違いで、脳そのものがセンサーだった。ずっと奥までセンサーで、全部がインターフェイスで、中味はなかったということですよね。多分その先は電話交換台みたいなものがあって、センサーの先が別のセンサーにつながっている。だからリンクしかないわけです。そうするとアイデンティティというのは、センサーの精度やリンクの傾向にしかないということになる。だからコンテンツと思っていたもの、アイデンティティと思っていたものは、どうも固定化した何か「もの」ではなく、そういう関係性でしか表現できないものだったんじゃないかという気がしています。ある切り取られた価値のようなものが一つのドメインの中に送られて存在するという考え方はすでに古くて、やはりニュートン=デカルト的な宇宙の延長だと思うんですね。それは百科事典のデジタル化みたいなイマジネーションでしかないんですよ。そうではなくて、世界そのものがレアなデータだとすると、そこにどういう関係性をきり結ぶかというようなことでしかその人のアイデンティティや価値というものは表現できないんだと思います。(談)

[1996年6月20日、慶応義塾大学湘南藤沢キャンパスにて]

藤幡正樹(ふじはた・まさき)
コンピュータ・アート

Recommend おすすめ記事