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YMO再生とクラフトワーク

The YMO Reunion Movement and Kraftwerk

[掲載日:]

1993年の6月、テクノ・ポップのスタイルを形成したふたつのユニット、クラフトワークとイエロー・マジック・オーケストラ(以下 YMO)が、たて続けにコンサートを行なった。前者はオーストリアのリンツで開催された「アルス・エレクトロニカ 93」でのゲストとして、後者は東京ドームでの「再生」コンサートでのことである。「アルス」の取材のために渡欧していたわたしは、残念ながらYMOのコンサートを体験することはできなかった。しかし結果的に言えば、ライヴで体験されたクラフトワークと、帰国してから集中的に収拾した情報群のなかで、ある「環境」として把握されたYMOという対照性は、両者の本質に迫るうえできわめて重要なものと考えられる。

1969年、当時ロンドンのセント・マーティン美術学校の学生だったギルバートとジョージは、自分たちを生きた彫刻だと宣言することによって、彼ら自身が彫刻作品となった。この作品《歌う彫刻》は、ギルバートとジョージのふたりが、みずからの顔を金色に塗り、どこでもあるありきたりのスーツ姿で、ひとりはステッキ、もうひとりは手袋を手に、6分のあいだ、人形のように機械的な動きを繰り返すというものだった。

みずから彫刻となることによって同時に彫刻家にもなったギルバートとジョージは、この作品の理解につながる「彫刻家の鉄則」を発表している。70年代のロック・ミュージックの核心を先取りするものとして、リチャード・ハミルトンによるポップ・アートの定義と並んで、そこにはきわめて示唆に富んだ内容がある。

  1. つねにスマートに着こなし、磨き上げられ、ゆったりとした親しみのある上品さ、そして完璧に自制を保つこと。

  2. 世間があなたを信頼し、その特権への配慮を怠らないように仕向けること。

  3. 評価についての議論や批評をまったく気にせず、尊敬される落ち着きを失わないこと。

  4. 創造主がまだ彫り続けられていることを忘れず、しばらくは台を離れないこと。

(ローズリー・ゴールドバーグ『パフォーマンス』[中原佑介訳、リブロポート]所収)

クラフトワークが、ブルックナーハウスに詰めかけたオーディエンスを前に繰り広げたテクノ・ポップの芸術は、まさにギルバートとジョージによる「彫刻家の鉄則」をかたく厳守するものだったといってよい。テクノの盟主としての自信と品格、沈着冷静なステージ管理、それまでのロック・ステージのイメージ(激しい感情発露、狂おしい叫び、野生的なアクション等々)を根本的にくつがえすことになったロボットのような機械的アクション……そのすべてに、70年代のロック・ミュージックのフィールドにその理想的環境を見いだした「生きた彫刻」の姿を見ることができるのである。

ギルバートとジョージによって提示されたメッセージでもっとも有名なもののひとつに、「芸術とともにあること、それがわれわれの願いのすべてだ」というものがある。この言葉によって彼らは、一年365日、一日24時間にわたって、年中無休の彫刻作品となることを試み、月並みな言い方になるが、そうすることによってそれまでの誰よりも徹底的に、生活と芸術を不可分のものとしてみせたのである。

生活と芸術が不可分のものとなること――それをギルバートとジョージのあとを受けるようにして極限まで突き詰めたのも、やはり70年代のロック・ミュージシャンだった。70年代初頭の英国で、主にアート・スクールの出身者を中心にして全盛をきわめたグラム・ロックがその典型的な例だろう。アンディ・ウォーホルについて歌ったデイヴィッド・ボウイ、リチャード・ハミルトンの生徒だったブライアン・フェリー、そしてマーク・ボランやスパークスといった面々は、ステージの上においても、私生活においても、ほとんど区別することのできない衝撃を見るものに与え続けた。

その狂おしいまでの化粧と衣装への埋没において、彼らの多くは自然と男女の垣根を取り払うかのような行動と風貌に変身していった。アンディ・ウォーホルに見いだされたロック歌手ルー・リードは、70年代初頭にはトランスセクシュアルでロボットのように無表情なイメージを加速するさなかに、デイヴィッド・ボウイをプロデューサーにむかえて『トランスフォーマー』(1973)と題されるアルバムを発表した。

興味深いのは、このリード2作目のソロ・アルバムが発表された翌年に、ルツェルンの美術館において、「トランスフォーマー」という展覧会が開催され、そこで標榜された「トランスフォーマー・アート」のコンセプトが、グラム・ロックと同様、伝統的な男女の役割を、あくまで外見のレベルから破壊してみせようとするものだったことである。ゴールドバーグによってこの模様は、次のように記録されている。

「小柄で太ったチューリヒの芸術家リュティは、長身でやせた美人のガール・フレンド、マノンの真似をして、厚化粧をし、頰を吸ってくぼませ、どう見ても男女の区別がつかないような一連のパフォーマンスを演じた。(中略)デュッセルドルフの美術家ジーヴェルディングとクラウスメッティッヒは、《モーター・カメラ》(1973年)において、“自己同一性の交換”を実現するために、ふたりとも薄気味悪いほどそっくりに見えるように衣服をつけ、化粧をして、一連の日常的な情景を演じた」(同前書)。

クラフトワークについて包括的に書かれたおそらくは世界で初めての研究書『Man, Machine and Music(人間、機械そして音楽)』において、著者のパスカル・バジーは、クラフトワークに対するギルバートとジョージからの影響を示唆したうえで、クラフトワークの固定メンバーであるラルフ・ヒュッタ一とフローリアン・シュナイダーのうち、今日におけるクラフトワークのイメージを最初に提示したのが、シュナイダーであったことを記している。

シュナイダーが中性的な風貌と時代遅れともとられかねないスーツ姿でわれわれの前に姿を現わしたのは、英国でグラム・ロックが一世を風靡していた1973年に発表されたクラフトワークの3枚目のアルバム『ラルフ&フローリアン』(ギルバートとジョージ!?)でのことであり、のちにクラフトワークが唇を赤く塗ったり、中性的なマネキン人形をステージに並べたりすることになることと考え合わせれば、彼らがグラム・ロックの影響下にそのヴィジュアル・イメージを形成していったことが予想できるのである。

クラフトワーク以降続々と現われたテクノ・ポップ系のアーティストたちは、いずれもこの文脈のなかで考えることができる。ディーヴォ、ゲイリー・ニューマン、ウルトラヴォックス、クラウス・ノミなどが有している特有のアクションと化粧および衣装は、60年代末にギルバートとジョージによって宣言された「芸術とともにあること」という願いを、当時普及し始めた簡易型電子楽器によるポップ・アートへと移しかえていったその結果なのであり、彼らが標榜したロボットないしアンドロイドのイメージは、現在のサイボーグ・フェミニズムの文脈に連なる通り、グラム・ロックが潜在的にはらんでいた可能性の原型としてとらえられるべきなのである。しかし、ギルバートとジョージによって提出された「彫刻家の鉄則」のうち、クラフトワークによってほかのどれにも増して強い意志で遵守されたのは、その4番目のものだろう。メンバーに若干の変更があるものの、リンツでのクラフトワークは、かつて日本公演を行なったさいとほとんど変わらない選曲と構成でパフォーマンスをこなしている。クラフトワークは、「彫刻家の鉄則」第4条を参照しつつ、「創造主がまだ彫り続けられていることを忘れず、しばらくは台を離れない」ことによって、自分たちのテクノ・ポップを、ある種の彫刻のように考えているかのようなのだ。具体的にはそれは、10年前とほとんど変わらない選曲、構成という、あまりといえばあまりな展開に示されている。

クラフトワークは、自分たちのテクノ・ポップを完成直前の彫刻、それも肝心の最後の仕上げに直面している場面での彫刻と考え、その場から席を立ってしまうことを慎重にためらっているのである。すなわち彼らは、その創造の過程がほとんど終了したにもかかわらず、注意深くまわりを見渡して、尊厳と誇りを湛えつつ、この立体造形物の最終確認を行なっているのではないだろうか。


クラフトワークのテクノ・ポップがある種の「生きた彫刻」なのだとしたら、YMOによるテクノ・ポップはそれとはまったく異なる質のものである。それは、彫刻に対してはある種の「環境」の提出として考えられる。

いかに「こわもて」を装おうとも、今回の「再生」に際してYMOが事前に用意した情報は、かなりの量にのぼる。ナン・ゴールディンによる写真集、バーバラ・クルーガーがデザインを担当した単行本、ジェニー・ホルツァーが参加したCDパッケージ、そしてウィリアム・S・バロウズ、ウィリアム・ギブソンのレコーディング参加、テレビドラマへのテーマ・ソングの提供……しかし、一見しては種々雑多で統一されたコンセプトの感じられない要素群が共存しうる環境の構成こそが、ある意味ではもっともYMO的なのであり、一見してあきらかなクラフトワークの「彫刻的」不変性に対して、もっと流動的で変化にとんだ、とらえどころのなさは、その魅力の一部ですらある。

10年前ならば、そうした環境を可能にするのは、ほかでもない前代未聞の高度資本主義都市、東京だったし、事実YMO自身も、東京という都市に対する積極的な言及をさかんに行なっていた。しかし今回、YMOの活動環境を可能にしたのは、東京という特定の都市の力というよりは、むしろもっと仮想的な環境によるもののように思われる。建築家の磯崎新は、「『都市』は姿を消す」と題されたエッセイの末尾に、このことを考えるうえできわめて示唆に富んだ文章を書きつけている。

「『都市』は、国家や民族と同様に、有用性を喪失し、忘却される。
『都市』は、その姿さえ消すだろう。
あげくに、生物学的本能を電脳チップによって加速し拡張された奇妙な種が、地球上を疥癬類のように占拠する。
それは振動する粒子のかたちづくる流体で、海や雲に近い形状をもとう。
そうなると、これを『都市』と、とうてい呼ぶことはできまい」

この流体状の環境についていっそう展開する余裕はここにはない。しかし、YMOが、その結成時より、ホワイトでもなくブラックでもない「イエロー・マジック」によって提示してきたのは、クラフトワークのような「生きた彫刻」ではなく、むしろきわめて仮想的でナル・ヒューマンな「アンビエンス」であったように、あらためて感じられるのである。新作『テクノドン』は、そのタイトルとは対照的に、古典的なテクノ・ポップが醸しだす印象からはかけはなれたものであり、それは実際、「テクノ・ポップ」というよりは「アンビエント・ハウス」的に聞こえる。都市概念をもなしくずしにしてしまうこのアンビエンスについて、ここではすこし大胆に、それを「エキゾティシズム」の名で呼んでみたい。


YMO結成のコンセプトに多大な影響を与えたといわれるものに、マーティン・デニーの音楽がある。デニーは1910年前後に生まれたジャズ・ピアニストで、50年代のハワイでの仕事をきっかけに、ホノルルの醸しだすハイブリッドで人工的な異国情緒に強く惹かれ、その後「エキゾティック・サウンド」の巨匠として大成功をおさめた人物である。

このデニーの提供した傑作に、「クワイエット・ヴィレッジ」(作曲レス・バクスター)があるのだが、1969年に発表された『エキゾティック・ムーグ』においてこの曲はムーグ・シンセサイザーによってリメイクされ、当時としてはウォルター・カルロスの『スイッチト・オン・バッハ』に匹敵する電子音楽のポップ化を施されているのである(電子音楽といえば難解で観念的な雑音くらいにしか考えられていなかった時期のことだ。ちなみにクラフトワークはそうした電子音楽を別の局面〈=ダンス・ミュージック〉からポップ化することになる)。

YMOのサウンドの原型ともいえるこの「クワイエット・ヴィレッジ(シンセサイザー・ヴァージョン)」においてデニーは、みずからのとりつかれた「エキゾティシズム」に対する電子化を果たしたことになるわけだが、この「エキゾティシズム」自体が、ことの初めからきわめて仮想的で実体のないものだったのである。

ハリウッド映画という、それ自体きわめて非歴史的で仮想的な欲望装置のイメージをフィードバックすることによって成立した「ハワイ」は、南島に関するありとあらゆるイメージを集積することによって可能になった幻影としての「ジオラマ」である。アメリカ人、カナカ人、日本人、中国人が共存するホノルルの醸しだすいかがわしいパラダイスは、デニーの音楽においては三味線がつまびかれ、ドラが打ち鳴らされ、ガムランめいた打楽器が彩りをそえるきわめて人工的な環境として提示されている。

YMOはいま、かつてにもましてデニーのエキゾティシズムを色濃く継承し、さらにそれをいっそう今日的な形態に変形しようとしているように思われる。デニーのサウンドがかならずしもハワイに属する音楽ではなかったように、YMOのアンビエント・サウンドもまた、東京にもニューヨークにも所属することのない、世界のどこでもない場所で鳴らされている「エキゾティシズム」を、多少の不安感を湛えながら提示しているのだ。あるいはそれを、『テクノドン』に収められたメランコリックなナンバーにならって「ノスタルジア」と呼ぶこともできよう。

椹木野衣(さわらぎ・のい)
美術批評

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