IC65-2

コミュニケーションの思想

バベルの塔からバベルの図書館へ

[掲載日:]

コミュニケーションの思想とは、おそらくそのまま思想史の全域に重なっている。なぜなら、人類 の歴史そのものがディス/コミュニケーションの歴史にほかならないからだ[★01]。ここでは、二つの問題に焦点をあてて考えてみたい。

★01 松岡正剛編『情報の歴史――象形文字から人工知能まで(増補版)』NTT出版、1996年/Harold A.Innis.Empire and Communications.1950:Rowman &Littlefield,2007/末田清子+福田浩子『コミュニケーション学――その展望と視点』松柏社、2003年。

コミュニケーション

交通と通信の手段がそれを支えるテクノロジーと手を携えて急速に発展した20世紀以降、わたしたちは互いにコミュニケーションをとる多様な手段を手にしてきた。ことに20世紀の終わりから21世紀にかけて進行中のインターネットと携带電話の普及は、それらの装置を手にしうる人びとに対してそれ以前には考えられなかったほど多くのコミュニケーションの機会を提供している。それだけに「コミュニケーション」という言葉の意味は、ことさら考えるまでもない自明のものに思えるかもしれない。

だが、ただ2人の人間のあいだで行なわれている対話でさえ、実際のところ、そこでなにが生じているのかを記述し、理解することはけっしてたやすいことではない[★02]。ましてやコミュニケーションを行なう人間の、無意識を含む精神の構造は、ようやく解明の端緒についたところだ。

★02 前田泰樹+水川善文+岡田光弘編『エスノメソドロジ――人びとの実践から学ぶ』新曜社、2007年、第6、7章。

では、改めてコミュニケーションとはなにか。まずは、言葉の意味を簡単に確認しておこう。既存の用法をいったん脇に置いて、「コミュニケーション(communication)」という概念の射程を最大限にとってみる。この語はラテン語のcommunicareに由来しており、日本語に翻訳すれば「共通のものにする」「分かち合う」という意味を担っている。

現代語としても辞書には、人間どうしの伝達やその各種手段や機関のほか、生物どうしのやりとり、病気の伝染、熱の伝導、力の伝動、火の燃え移り、聖餐にあずかるといった、必ずしも人間だけに限らない事物にかかわる意味が載っている。

語の輪郭をはっきりさせるために、派生語も見てみよう。本誌に冠されたinter-communicationは「通信」「往来」「交換」、mass-communicationは「大衆伝達」、ex-communicationは「破門」「除名」「放逐」である(図1)

コミュニケーションの思想の画像
(図1)

さらにincommunicationやmiscommunicationといったコミュニケーションの不可能性や失敗を意味する語に加え、discommunicationという和製英語もある[★03]

★03 John Durham Peters. Speaking into the Air: A History of the Idea of Communication. University of Chicago Press, 1999.

こうした語義を鑑みると、そこには「複数の主体や固体のあいだをなにかが移動し、状態や事物を共有する/しない」という意味が通底していることが垣間見える。

なにかとなにかのあいだを物質が移動すること。一見、非物質的に感じられる人間精神 のコミュニケーションでさえも、音声や文書や映像といった物質を媒介とすることで、そして通常は物質の媒介によってのみ達成されている営為だ。

この点について、マルクスとエンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』(1845-46)で提示した「交通(Verkehr)」という概念を念頭に置きなおしたい。鶴見俊輔が、その交通論(コミュニケーション論)を批判的に検討するなかで要約したマルクスとエンゲルスの図式自体は、いまもなお有効であると思われる。つまり、人間の精神作用は言語の交通に条件づけられており、その言語の交通は社会的交通、ひいては物質的交通に条件づけられているという見立てである(図2)[★04]

コミュニケーションの思想の画像
(図2)

★04 「理念、表象、意識、の生産は、当初は直接に、人間たちの物質的活動や物質的交通、現実的な生活の言語に編み込まれている。表象することや思考すること、つまり人間たちの精神的交通は、ここではまだ、彼らの物質的な関わり合いの直接的な流出として現われる。一民族の政治、法律、道徳、宗教、形而上学、等々の言語に表わされるような、精神的生産についても同様である。人間たちの表象や理念等の生産者は、人間たちである。ただし、自分たちの生産諸力の一定の発展によって、またそれに照応する交通の一定の発展――交通の最上層にまで及ぶ発展――によって条件づけられている、現実の行動している人間たちである」(マルクス+エンゲルス『新編輯版ドイツ・イデオロギー』廣松渉編訳、小林昌人補訳、岩波文庫、2002年、邦訳29-30頁)。鶴見俊輔「マルクス主義のコミュニケーション論」1957年(MB見俊輔集3記号論集」筑摩書房、1992年所収)も参照。

また、先に見た言葉の意味に含まれていたように、コミュニケーションを広くとらえれば、そこにはヒューマン・コミュニケーションのみならず、この宇宙全体(世界全体)に生じるあらゆる物質的交通が含まれていると考えられる。ヘッケルは、主体とそれをとりまく環境(他の主体も含む)との関係の総体を探究する学問を「エコロジー(Ökologie)」と名づけた。この主体を無機物に拡張すれば、ヘッケルの言うエコロジーは総合的なコミュニケーションの学であろう。

そこには、無機物どうしの関係、生物どうしの関係、生物と環境の関係が含まれており、人間どうし、人間と環境、人間と動物、人間と機械のコミュニケーションはその一部をなしているはずだ。それは、アレクサンダー・フォン・フンボルトを最後の例として、学問の分業専門化のなかで失われてゆく森羅万象の相互関係・相互交通を一望せんとする博物学的な視点とも深くかかわりをもっている[★05]

★05 拙稿「エコロジーがわかるキーワード65」『Inter Communication』63号、2008年。

さて、いささか大風呂敷になってしまったが、いったんは上述のようにコミュニケーションのマトリクスを想像のうちでのべ広げておき、以下では人間のスケールにおけるコミュニケーションの思想を中心に検討してみよう。二つの「バベル」が、現代のコミュニケーションの中核にある[★06]

★06 コミュニケーションの思想のヴァリエーションについては、註01に挙げた『コミュニケーション学』のほか、以下を参照されたい。田村紀雄『コミュニケーション――理論・教育・社会計画』柏書房、1999年/吉見俊哉『メディア文化論――ディアを学ぶ人のための15話』有斐閣アルマ、2004年/佐藤卓己『現代メディア史』岩波テキストブックス、1998年/E.M.Rogers./History of Communication Study. Free Press, 1994/ルーマン『ポストヒューマンの人間論』村上淳一訳、東京大学出版会、2007年。

バベルの塔――ディスコミュニケーション

コミュニケーションの思想の画像
リヴィウス・クレイル《バベルの塔》

数千のオーダーで存在すると言われる自然言語は、コミュニケーションの重要な要素であると同時に、見方によってはコミュニケーションを阻害する要因でもある。諸言語がひしめく「バベルの塔」的な状況に対して、この言語の「乱れ」をどうにかして統一しようという「普遍言語」や人工言語(国際言語/国際補助言語)の試みが歴史上さまざまに考案されてきた[★07]

★07 ジェイムズ・ノウルソン『英仏普遍言語計画――デカルト、ライプニッツにはじまる』浜口稔沢、工作舎、1993年/ウンベルト・エーコ『完全言語の探求』上村忠男+廣石正和訳、平凡社、1995年/ジョン・ノイバウアー『アルス・コンビナトリア――象徴主義と記号論理学』原研二沢、ありな書房、1999年/高山宏『メデューサの知――アリス狩り3』青土社、1987年。

だが、これらの構想はいずれも完遂されることなく、目下のところわたしたちは相変わらずバベルの呪いを解けぬまま、複数の言語を用いている[★08]

★08  「全世界にはひとつの言語、ひとつのことばしかなかった。……かれらは言った。市邑と塔とを建設しよう。塔の頂を天に届かせよう。そしてわれら名をなし、地の表に散り散りになることをまぬがれよう。……主はおおせられた。見よ、民はひとつ、用いることばもひとつである。かれらはことを開始した。もはやかれらが思うことをなすのを妨げることはできないであろう。いまわたしは地上に降りて、かれらのことばを乱し、互いの会話が通じなくしてしまおう」(「創世記」第11章)。

言語の差異を超えるための次善の、現実的な策は通訳/翻訳である。翻訳は、その営為の性格上、複数の言語における意味の関係を問い詰めるため、ともすると形式の分析にとどまりがちなコミュニケーション理論に対して、意味内容の観点から示唆するところが大きい(図3)[★09]

コミュニケーションの思想の画像
(図3)

★09 「個別的な諸言語には達せられるものではなく、諸言語が互いに補完しあうもろもろの志向(Intention)の総体によってのみ到達しうるものであり、それがすなわち、〈純粋言語(die reine Sprache)〉なのである」(ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」『ベンヤミン・コレクション〈2〉』浅井健二編訳、ちくま学芸文庫、1996年、397頁)。また、アントワーヌ・ベルマン『他者という試練――ロマン主義ドイツの文化と翻訳』藤田省一訳、みすず書房、2008年も参照。

また、国家においては、教育制度の整備とともに「国語」の統制が試みられてきた。日本では明治期に漢字廃止をも視野に入れた「国語改良」が盛んに議論されたが、その後数次にわたって実施された漢字制限は現在の書字に影響を与えている。教育を通じて、一定のプロトコルにのっとったコミュニケーションのできる国民を育てることは、社会建設の重要な一翼を担う政治的イシューでもある[★10]

★10 『日本語の歴史』全7巻、平凡社ライブラリー、2006-2008年/ベネディクト・アンダーソン『定本想像の共同体——ナショナリズムの起源と流行』白石隆+白石さや訳、書籍工房早山、2007年。

バベルの問題は、学問においても生じている。かつて学問は哲学を根とする一本の樹として、それでもまだ全体の枝ぶりが見てとれた。だが、時代が下るにつれて分業専門化による細分化が発達し、まさにバベルの塔と化している。

ところで、仮に「普遍言語」が普及してバベルの呪いが解けたとき、コミュニケーションを阻害する要因はなくなるのだろうか。たしかに言語のちがいは大きな要因ではあるものの、同じ言語を用いていても、わたしたちは四六時中コミュニケーションに失敗している。言ってしまえばそこには、言語のちがいとは別に、個々の人びとの経験と記憶のちがいが横たわっているからだ。一方で、認知科学や脳科学が明かしつつあるように、わたしたちは身体の生物学的・神経科学的構造の点で共通性を備えている。だが他方では、個々の経験の来歴はそれぞれに一回起的な出来事の累積であるため、その経験そのものを直接共有することはできない[★12]

★12 山本貴光+吉川浩満『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』朝日出版社、2004年、最終章。

あるいは、仮に創作の世界において描かれる透明なコミュニケーションが可能になったとしても、相手の意思を知ることと、それに共感することは当然のことながら別のことだ[★13]

★13 たとえば、ヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』(1987年)の冒頭部分/筒井康隆『家族八景』(1975年)など。これらの作品では、他者の精神が言語として直接読み取られている。

人びとの欲望や利害や信条が衝突するなかで、さまざまな戦争や紛争や靜いは後を絶たず、むしろこのディスコミュニケーションの状態こそが、人間にとっての常態ではないかと思われるほどだ[★14]

★14 植島啓司+伊藤俊治『ディスコミュニケーション』リプロポート、1988年/伊藤俊治+武邑光裕+藤幡正樹「フロンティア・オブ・コミュニケーション」『Intercommunication』0号、1992年/ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ドゥルーズの思想』田村毅訳、大修館書店、1980年。

情報工学から現われたコミュニケーションの理論は、コミュニケーションのメカニズムの側面に光をあてた。これを踏まえたうえで、むしろノイズにまみれ、コミュニケーションに失敗し、挫折する場面こそが、コミュニケーションの思想の糧となるだろう。それは、常にすでに或る時間と場所に限定され、限られた生の時間のなかで知覚と記憶と意識を駆使しながら、欲望と感情と無意識に衝き動かされる人間的条件を顧みることであるはずだ。

バベルの図書館

インターネットとウェブの普及にともなって、従来の書物や音楽や映画やパソコン通信とは比較にならない量の情報がネットワーク上を行き交うようになった。もはや、検索サイトがなかった時代に、どのようにネット上のリソースにアクセスしていたのか思い出せないほどだ。情報を発信する主体も、大学組織や研究所のみならず、個人や企業や政府といった諸団体に及び、個人的な日記のようなものから政府機関の公式文書の類、あるいは映像や音楽やソフトウェアに至るまで多種多様な内容のデータが送受信されている。すでに活版印刷が普及した時代に、多すぎる書物が問題視されていたが、知や情報を共有するこのしくみによって、すでに数百億のウェブ・ページが作成されており、この事態に拍車をかけている[★15]

★15 たとえば、ライプニッツ「諸学問を進展させるための格率」、ヴィーコ『学問の方法』を参照。彼らは多すぎる書物がもたらす無秩序を問題視している。

こうした現状の延長上でひとつの思考実験を行なってみよう。仮に、インターネット上にビット化できるあらゆるデータ/情報が存在するとしたら、ネットを介したわたしたちのコミュニケーションはどうなるだろうか。そう、これはかつてボルヘスが「バベルの図書館」に描いた状況を拡張したものだ[★16]

コミュニケーションの思想の画像
エリック・デマジエール《バベルの図書館》

★16 「広大な図書館に、おなじ本は二冊ない。彼はこの反論の余地のない前提から、図書館は全体的なもので、その書棚は二十数個の記号のあらゆる可能な組み合わせ――その数はきわめて厖大であるが無限ではない――を、換言すれば、あらゆる言語で表現可能なもののいっさいをふくんでいると推論した。いっさいとは、未来の詳細な歴史、熾天使らの自伝、図書館の信頼すべきカタログ、何千何万もの虚偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の証明、真実のカタログの虚偽性の証明、バシリデスのグノーシス派の福音書、この福音書の注解、この福音書の注解の注解、あなたの死の真実の記述、それぞれの本のあらゆる者語への翻訳、それぞれの本のあらゆる本のなかへの挿入、などである」(ボルヘス「バベルの図書館」『伝奇集』鼓直訳、岩波書店、1993年、108-109頁)。

バベルの図書館をディジタルで生成することは、理屈のうえではさほど難しいことではない。物理的な記憶領域の確保がネックだが、プログラム自体は単純である。 (1)作業に必要なメモリを確保し、(2)定められた長さのビット列(0と1が並んだデータ)がとりうるすべての組み合わせを生成する、(3)以上の生成されたデータを、必要に応じて(a)テキスト、(b)画像、(c)音、(d)映像、(e)プログラムとして扱い、出力する[★17]

★17 Georges J. Soirblue, The Expanded Library of Babel science, technology and art, Erewhon Press, 2001.

ひとつのデータに一定の上限を設けるかぎり、「その数はきわめて膨大であるが無限ではない」。そこには、あなたが明日書くブログのエントリーやその各国語への翻訳版もあれば、パレスチナ問題の行方を報じるニュース、過去に描かれた/描かれなかったあらゆる絵画、これから撮られる写真や映画、現在どこかのゲーム会社が開発中かもしれないゲーム・ソフトのコード、そうしたものへのコメント、などが含まれている。ディジタル・データで表現しうるすべてがすでに生成されているとしたら、つまりインターネットが、拡張されたバベルの図書館になった暁には、なにが生じるだろうか[★18]

★18 拙稿「物質と記憶のラプソーデイン――知のネットワークを組み替える」『言語社会』第2号、一橋大学大学院言語社会研究科紀要、2008年。

もちろん、これから自分が書こうとするメールの文面がそのアーカイヴにすでにあろうがなかろうが、これまで同様、必要に応じて人はメールを書くにちがいない。しかし他方で、人はいま以上に検索に血道を上げるのではないか。そのとき問題になるのは、はたして人間にとって意味のあるデータを、どのようにマイニングするかである。ダダの詩やシュルレアリスムの自動筆記のごときものばかりでなく、ごく当たり前に意味の通じるデータをいかにして特定できるか。そのためには、意味論的な情報解析がいま以上に必要であり、そこでの検索者にはむしろ検索のための問いを発する能力、そうした問いのもとでデータを編集する能力が重要になるだろう[★19]

★19 赤木昭夫『反情報論』岩波書店、2006年。

また仮にそうした検索エンジンが開発されたとしても、手に入れたデータの妥当性をどのように検証するかという問題が待っている(妥当性が問題とならない創作物を探す場合はこの限りではない)。たとえば、ある数学の問題の証明について、すべてが存在するアーカイヴからは真逆の結論を含む、さまざまなヴァリエーションの結論が示されるだろう。ありすぎる情報から、妥当なものを選び出す手間は、思考のエコノミーの観点から見た場合、見合うものになるだろうか。ボルヘスは、人が自ら考え、経験するより先に、それが書かれているはずの書物をあてどもなく探し、やがて狂気の淵に沈んでゆく書物の煉獄を描き出していた。

来たるべきコミュニケーションの思想のために

コミュニケーションを挫折させるもの(バベルの塔)、ありすぎるコミュニケーションの材料(バベルの図書館)。19世紀末から20世紀を通じて、映画、ラジオ、テレビ、コンピュータの発明・普及とともに進接したマス・コミュニケーション理論やメディア論は、こうした二つのバベルについてなにを語っているだろうか。たとえば、そのような問題意識を念頭に、コミュニケーションについてめぐらされてきた思想の痕跡をたどってみるとき、そこで想定されている人間はいささかものわかりがよすぎるかもしれない。膨大な情報にまみれ、絶えずディスコミュニケーションから出発しながら問いを立て、地図を描き、そのつどの折衝に臨み、相互の知を組み替え更新する、そんなディス/コミュニケーションの思想をどのように鍛えることができるだろうか。

コミュニケーションの思想

人間のコミュニケーションについて、その範囲と対応する思想の関係をプロットしてみた。

コミュニケーションの思想の画像

この図は本来、時間軸に沿って古代から現在に至る諸学の流れをプロットした円柱形の三次元モデルの一断面である。ここには簡素化した状態で掲載しているが、諸学はさらに専門領域を細分化し、相互に複雑に連環しあっている。

「コミュニケーションの思想」関連作品年表

ここは、20世紀のコミュニケーション理論を中心に、関連文献をピックアップした。また、広くコミュニケーションの条件について論じた著作も入れてある。文献案内としては不十分なものだが、コミュニケーションの思想をたどる手がかりとして、必要に応じて手を加えながら利用していただければ幸いだ。年表の作成にあたっては、本文で言及した文献のほか、本年表に挙げた各作品を参照した。

書物•コミュニケーションモデル

1845

マルクス+エンゲルス『ドイツ•イデオロギー』

1867

マルクス『資本論』

1872

ダーウィン『人及び動物の表現について』

1879

シュライヤー「ヴォラビュク」(哲学的言語)を提案
福沢諭吉『民情一新』
フレーゲ『概念記法』

1883

ロビダ『20世紀』

1887

ザメンホフ『国際語』(エスペラントを提案)
テンニース『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』

1890

タルド『模倣の法則』

1893

デュルケーム『社会分業論』

1895

ル・ボン『群衆心理』

1899

松本君平『新聞学』

1900

フロイト『夢解釈』
ヴント『民族心理学』(-1920)
ディルタイ『解釈学の成立』

1901

タルド『世論と群衆』
クテュラ+レオー「国際的補助言語を採択するための委員会」設立

1902

クーリー『人問性と社会秩序』

1903

ペアノ「インテルリングア」(人工言語)を提案

1904

パーク『群衆と公衆』

1907

ボーフロン「イド」(エスペラントの後継)を提案
クテュラ+レオー『新しい国際語』

1908

ロス『社会心理学』
マクドゥーガル『社会心理学入門』

1909

クーリー『社会組織論』

1910

ヴェーバー|新聞の社会学提唱

1913

ワトソン『行動主義者からみた心理学』

1915

杉村楚人冠(廣太郎)『最近新聞紙学』

1916

ソシュール『一般書語学講義』

1918

クーリー『社会過程論』
ラッセル『論理的原子論の哲学』講義
シュペングラー『西洋の没落』(第1巻18年、第2巻22年)

1922

リップマン『世論』
小野秀雄『日本新聞発達史』
カッシーラー『シンボル形式の哲学』(-1929)
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』

1923

藤原勘治『新聞紙と社会文化の建設』
ブーバー『我と汝』
ベンヤミン「翻訳者の使命」(執筆は21年)
オグデン+リチャーズ『意味の意味』

1924

バラージュ『視覚的人間』
オールボート『社会心理学』

1925

リップマン『幻の公衆』
モース『贈与論』

1927

ラスウェル『世界大戦における宣伝技術』
ハイデガー『存在と時間』

1928

イェスペルセン『ノヴィアル』(人工言語)提案
カルナップ『世界の論理的構築』

1929

バフチン『マルクス主義と百語哲学』
バフチン『ドストエフスキーの創作の諸問題』
オグデン『実践批評』

1930

オルテガ『大衆の反逆』
オグデン「ベーシック•イングリッシュ」提案
リーヴィス『大衆文明と少数者文化』

1932

『Scrutiny』創刊(英文芸批評誌)(-1953)
ハックスリー『すばらしい新世界』

1933

長谷川如是閑『新聞文学』
タルスキ『形式言語における真理概念』

1934

ミード『精神•自我•社会』
ユクスキュル『生物から見た世界』

1935

マンハイム『変革期における人間と社会』
ドーブ『宣伝心理学』
オルポート+キャントリル『ラジオの心理学』

1936

ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』
リーヴィス『再評価』
長谷川如是閑「ラジオ文化の根本問題」
中井正一「委員会の論理」

1937

『Public Opinion Quarterly』創刊(-1999)
ブルーマー『社会心理学』
パーソンズ『社会的行為の構造』

1939

マーシャル「マス•コミュニケーション」造語

1940

キャントリル『火星からの侵入』
ラザースフェルト『ラジオと印刷物』

1941

フロム『自由からの逃走』

1942

ラザースフェルト+スタントン『ラジオ研究1941』

1944

ラザースフェルド他『ピープルズ•チョイス』

1946

マートン『大衆説得』

1947

ホルクハイマー+アドルノ『啓蒙の弁証法』
クラカウアー『カリガリからヒトラーへ』
小野秀雄『新聞原論』

1948

ラスウェル|5W1Hのモデル
ウィーナー『サイバネティックス』
エリオット『文化の定義のためのノート』

1949

シャノン+ウイーバ『コミュニケーションの数学的理論』(48年発表)
ホグベン『コミュニケーションの歴史』
オーウェル『1984』

1950

ホワイト|ゲートキーパー•モデル
アドルノ他『権威主義的パーソナリティ』
リースマン『孤独な群衆』
イニス『帝国とコミュニケーション』

1951

ベイトソン+ロイシュ『コミュニケーション』
ミルズ『ホワイト•カラー』

1953

ニューカム|ABXモデル
ワインライヒ『言語間の接触』
アイヴィンス『ヴィジュアル•コミュニケーションの歴史』
ウィトゲンシュタイン『哲学探究』

1954

シュラムほか『マスコミュニケーション過程と効果』

1955

カッツ+ラザースフェルト『パーソナル・インフルエンス』

1956

ガーブナー|一般コミュニケーション・モデル
郷見俊輔『コミュニケーション史上のアメリカ』

1957

『Journalism Quarterly』『概念モデル』特集
ホガート『読み書き能力の効用』

1958

オング『ラムス主義』
ウィリアムズ『文化と社会』
オルダス・ハックスリー『すばらしい新世界再訪』

1959

スノウ「二つの文化と科学革命」講演

1960

クラッパー『マス・コミュニケーションの効果』
バーロ|S-M-C-Rモデル
ヤーコブソン『言語学と詩学』
フロイデンタール|リンコス(人工言語)
カネッティ『群衆と権力』
ガダマー『真理と方法』
リクール『悪の象徴論』

1961

ウィリアムズ『長い革命』

1962

マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』
ウイリアムズ『コミュニケーション』
ハバーマス『公共性の構造転換』
レヴィ=ストロース『野生の思考』
オースティン『言語と行為』
クーン『科学革命の構造』

1963

マレッケ『マス・コミュニケーション心理学』
ゴフマン『集まりの構造』
ハヴロック『プラトン序説』

1964

マクルーハン『メディア論』
マルクーゼ『一次元的人間』
ルロワ=グーラン『身振りと言葉』(1964-65)

1965

ガルトング+ルージー|選択ゲート
キーピング・モデル
ネルソン|ハイパーテキスト

1966

ホール『隠れた次元』
フーコー『言葉と物』
バンヴェニスト『一般言語学の諸問題Ⅰ』
ラカン『エクリ』

1967

ダンス|らせん状モデル
ガーフィンケル『エスノメソドロジー研究』
ドゥボール『スペクタクルの社会』
デリダ『グラマトロジーについて』

1968

ベッカー|モザイク・モデル

1969

サール『言語行為』
セール『コミュニケーション』
フーコー『知の考古学』
ドゥルーズ『意味の論理学』

1970

バーンランド|トランスアクション・モデル

1972

ベイトソン『精神の生態学』

1973

『講座現代の社会のコミュニケーション』第1巻
ギアーツ『文化の解釈学』
稲見俊輔「コミュニケーション史へのおぼえがき」

1974

ウィリアムズ『テレヴィジョン――技術と文化形式』
ノエル=ノイマン|沈黙の螺旋モデル
バンヴェニスト『一般言語学の諸問題Ⅱ』

1975

ノウルソン『英仏普遍言語計画』

1976

リーチ『文化とコミュニケーション』
川田順造『無文字社会の歴史』

1977

ウィリス『ハマータウンの野郎ども』
ドゥルーズ+パルネ『ドゥルーズの思想』

1978

サイード『オリエンタリズム』
渡邊守章『仮面と身体』

1979

アイゼンステイン『印刷機――文化変容の一作用因』
へブディジ『サブカルチャー』
ベイトソン『精神と自然』
『メディア・社会・文化』誌創刊
リオタール『ポストモダンの条件』

1980

モーレイ『ネーションワイト.・オーディエンス』
ホール「エンコーディンシデコーディング」
サール「心・脳・プログラム」

1981

マクウェール+ウインダール『コミュニケーション・モデルズ』
ハバーマス『コミュニケーション行為の理論』

1982

オング『声の文化と文字の文化』
ホブソン『クロスロード』
ブルデュー『話すということ』

1983

アンダーソン『想像の共同体』

1984

ワトソン+ヒル『コミュニケーション・メディア研究事典』

1985

アング『ウォッチング・ダラス』
キットラー『書き取りシステム』
シャルチエ編『書物から読書へ』
メロウィッツ『場所感覚の喪失』

1986

キットラー『グラモフオン・フィルム・タイプライター』
ロジャーズ『コミュニケーションの科学』
ハヴロック『書を学ぶミューズ』
モーレー『ファミリー・テレビジョン』
ルーマン『エコロジーのコミュニケーション』

1987

フィスク『テレビジョン・カルチャー』

1988

鶴見俊輔+粉川哲夫編『コミュニケーション事典』
スビヴァク『サバルタンは語ることができるか』
ギアーツ『文化の読み方/書き方』
木村敏『あいだ』

1989

グライス『論理と会話』
フクヤマ「歴史の終わり?」

1990

ポスター『情報様式論』
イングリス『メディアの理論』

1991

ドゥブレ『一般メディオロジー講義』
ボルター『ライティング・スペース』
中島梓『コミュニケーション不全症候群』

1992

サックス『会話についての講義録』

1993

ボルツ『グーテンベルク銀河系の終焉』
エーコ『完全言語の探求』
松山歳『うわさの遠近法』
ラインゴールド『バーチャル・コミュニティ』

1995

大澤真幸『電子メディア論』

1996

フルッサー『テクノコードの誕生』
ハッチントン『文明の衝突』

1997

ソーカル+プリクモン『「知」の欺瞞』

1998

ポール・ヴィリリオ『情報化爆弾』

1999

レッシグ『CODE』

2000

池田謙一『コミュニケーション』
ネグリ+ハート『帝国』

2001

東浩紀『動物化するボストモダン』

2002

フクヤマ『人間の終わり』

2004

北田暁大『〈意味〉への抗い』

2005

ガザニガ『脳のなかの倫理』(脳情報の新たな活用)
金子務『オルデンバーグ』(17世紀の学問における情報革命)

2006

赤木昭夫『反情報論』

2007

シェグロフ『シークエンスの組織』
原宏之『言語態分析』
遠藤克彦『コミュニケーションの哲学』
斎藤環『メディアは存在しない』
岡崎乾二郎編著『芸術の設計』
鈴木謙介『ウェブ社会の思想』
荻上チキ『ウェブ炎上』

2008

パーク+プーリー編『メデイアとコミュニケーション研究の歴史』

山本貴光

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