IC65-2
コミュニケーションの思想
バベルの塔からバベルの図書館へ
[掲載日:]
コミュニケーションの思想とは、おそらくそのまま思想史の全域に重なっている。なぜなら、人類 の歴史そのものがディス/コミュニケーションの歴史にほかならないからだ[★01]。ここでは、二つの問題に焦点をあてて考えてみたい。
★01 松岡正剛編『情報の歴史――象形文字から人工知能まで(増補版)』NTT出版、1996年/Harold A.Innis.Empire and Communications.1950:Rowman &Littlefield,2007/末田清子+福田浩子『コミュニケーション学――その展望と視点』松柏社、2003年。
コミュニケーション
交通と通信の手段がそれを支えるテクノロジーと手を携えて急速に発展した20世紀以降、わたしたちは互いにコミュニケーションをとる多様な手段を手にしてきた。ことに20世紀の終わりから21世紀にかけて進行中のインターネットと携带電話の普及は、それらの装置を手にしうる人びとに対してそれ以前には考えられなかったほど多くのコミュニケーションの機会を提供している。それだけに「コミュニケーション」という言葉の意味は、ことさら考えるまでもない自明のものに思えるかもしれない。
だが、ただ2人の人間のあいだで行なわれている対話でさえ、実際のところ、そこでなにが生じているのかを記述し、理解することはけっしてたやすいことではない[★02]。ましてやコミュニケーションを行なう人間の、無意識を含む精神の構造は、ようやく解明の端緒についたところだ。
★02 前田泰樹+水川善文+岡田光弘編『エスノメソドロジ――人びとの実践から学ぶ』新曜社、2007年、第6、7章。
では、改めてコミュニケーションとはなにか。まずは、言葉の意味を簡単に確認しておこう。既存の用法をいったん脇に置いて、「コミュニケーション(communication)」という概念の射程を最大限にとってみる。この語はラテン語のcommunicareに由来しており、日本語に翻訳すれば「共通のものにする」「分かち合う」という意味を担っている。
現代語としても辞書には、人間どうしの伝達やその各種手段や機関のほか、生物どうしのやりとり、病気の伝染、熱の伝導、力の伝動、火の燃え移り、聖餐にあずかるといった、必ずしも人間だけに限らない事物にかかわる意味が載っている。
語の輪郭をはっきりさせるために、派生語も見てみよう。本誌に冠されたinter-communicationは「通信」「往来」「交換」、mass-communicationは「大衆伝達」、ex-communicationは「破門」「除名」「放逐」である(図1)。

- (図1)
さらにincommunicationやmiscommunicationといったコミュニケーションの不可能性や失敗を意味する語に加え、discommunicationという和製英語もある[★03]。
★03 John Durham Peters. Speaking into the Air: A History of the Idea of Communication. University of Chicago Press, 1999.
こうした語義を鑑みると、そこには「複数の主体や固体のあいだをなにかが移動し、状態や事物を共有する/しない」という意味が通底していることが垣間見える。
なにかとなにかのあいだを物質が移動すること。一見、非物質的に感じられる人間精神 のコミュニケーションでさえも、音声や文書や映像といった物質を媒介とすることで、そして通常は物質の媒介によってのみ達成されている営為だ。
この点について、マルクスとエンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』(1845-46)で提示した「交通(Verkehr)」という概念を念頭に置きなおしたい。鶴見俊輔が、その交通論(コミュニケーション論)を批判的に検討するなかで要約したマルクスとエンゲルスの図式自体は、いまもなお有効であると思われる。つまり、人間の精神作用は言語の交通に条件づけられており、その言語の交通は社会的交通、ひいては物質的交通に条件づけられているという見立てである(図2)[★04]。

- (図2)
★04 「理念、表象、意識、の生産は、当初は直接に、人間たちの物質的活動や物質的交通、現実的な生活の言語に編み込まれている。表象することや思考すること、つまり人間たちの精神的交通は、ここではまだ、彼らの物質的な関わり合いの直接的な流出として現われる。一民族の政治、法律、道徳、宗教、形而上学、等々の言語に表わされるような、精神的生産についても同様である。人間たちの表象や理念等の生産者は、人間たちである。ただし、自分たちの生産諸力の一定の発展によって、またそれに照応する交通の一定の発展――交通の最上層にまで及ぶ発展――によって条件づけられている、現実の行動している人間たちである」(マルクス+エンゲルス『新編輯版ドイツ・イデオロギー』廣松渉編訳、小林昌人補訳、岩波文庫、2002年、邦訳29-30頁)。鶴見俊輔「マルクス主義のコミュニケーション論」1957年(MB見俊輔集3記号論集」筑摩書房、1992年所収)も参照。
また、先に見た言葉の意味に含まれていたように、コミュニケーションを広くとらえれば、そこにはヒューマン・コミュニケーションのみならず、この宇宙全体(世界全体)に生じるあらゆる物質的交通が含まれていると考えられる。ヘッケルは、主体とそれをとりまく環境(他の主体も含む)との関係の総体を探究する学問を「エコロジー(Ökologie)」と名づけた。この主体を無機物に拡張すれば、ヘッケルの言うエコロジーは総合的なコミュニケーションの学であろう。
そこには、無機物どうしの関係、生物どうしの関係、生物と環境の関係が含まれており、人間どうし、人間と環境、人間と動物、人間と機械のコミュニケーションはその一部をなしているはずだ。それは、アレクサンダー・フォン・フンボルトを最後の例として、学問の分業専門化のなかで失われてゆく森羅万象の相互関係・相互交通を一望せんとする博物学的な視点とも深くかかわりをもっている[★05]。
★05 拙稿「エコロジーがわかるキーワード65」『Inter Communication』63号、2008年。
さて、いささか大風呂敷になってしまったが、いったんは上述のようにコミュニケーションのマトリクスを想像のうちでのべ広げておき、以下では人間のスケールにおけるコミュニケーションの思想を中心に検討してみよう。二つの「バベル」が、現代のコミュニケーションの中核にある[★06]。
★06 コミュニケーションの思想のヴァリエーションについては、註01に挙げた『コミュニケーション学』のほか、以下を参照されたい。田村紀雄『コミュニケーション――理論・教育・社会計画』柏書房、1999年/吉見俊哉『メディア文化論――ディアを学ぶ人のための15話』有斐閣アルマ、2004年/佐藤卓己『現代メディア史』岩波テキストブックス、1998年/E.M.Rogers./History of Communication Study. Free Press, 1994/ルーマン『ポストヒューマンの人間論』村上淳一訳、東京大学出版会、2007年。
バベルの塔――ディスコミュニケーション

- リヴィウス・クレイル《バベルの塔》
数千のオーダーで存在すると言われる自然言語は、コミュニケーションの重要な要素であると同時に、見方によってはコミュニケーションを阻害する要因でもある。諸言語がひしめく「バベルの塔」的な状況に対して、この言語の「乱れ」をどうにかして統一しようという「普遍言語」や人工言語(国際言語/国際補助言語)の試みが歴史上さまざまに考案されてきた[★07]。
★07 ジェイムズ・ノウルソン『英仏普遍言語計画――デカルト、ライプニッツにはじまる』浜口稔沢、工作舎、1993年/ウンベルト・エーコ『完全言語の探求』上村忠男+廣石正和訳、平凡社、1995年/ジョン・ノイバウアー『アルス・コンビナトリア――象徴主義と記号論理学』原研二沢、ありな書房、1999年/高山宏『メデューサの知――アリス狩り3』青土社、1987年。
だが、これらの構想はいずれも完遂されることなく、目下のところわたしたちは相変わらずバベルの呪いを解けぬまま、複数の言語を用いている[★08]。
★08 「全世界にはひとつの言語、ひとつのことばしかなかった。……かれらは言った。市邑と塔とを建設しよう。塔の頂を天に届かせよう。そしてわれら名をなし、地の表に散り散りになることをまぬがれよう。……主はおおせられた。見よ、民はひとつ、用いることばもひとつである。かれらはことを開始した。もはやかれらが思うことをなすのを妨げることはできないであろう。いまわたしは地上に降りて、かれらのことばを乱し、互いの会話が通じなくしてしまおう」(「創世記」第11章)。
言語の差異を超えるための次善の、現実的な策は通訳/翻訳である。翻訳は、その営為の性格上、複数の言語における意味の関係を問い詰めるため、ともすると形式の分析にとどまりがちなコミュニケーション理論に対して、意味内容の観点から示唆するところが大きい(図3)[★09]。

- (図3)
★09 「個別的な諸言語には達せられるものではなく、諸言語が互いに補完しあうもろもろの志向(Intention)の総体によってのみ到達しうるものであり、それがすなわち、〈純粋言語(die reine Sprache)〉なのである」(ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」『ベンヤミン・コレクション〈2〉』浅井健二編訳、ちくま学芸文庫、1996年、397頁)。また、アントワーヌ・ベルマン『他者という試練――ロマン主義ドイツの文化と翻訳』藤田省一訳、みすず書房、2008年も参照。
また、国家においては、教育制度の整備とともに「国語」の統制が試みられてきた。日本では明治期に漢字廃止をも視野に入れた「国語改良」が盛んに議論されたが、その後数次にわたって実施された漢字制限は現在の書字に影響を与えている。教育を通じて、一定のプロトコルにのっとったコミュニケーションのできる国民を育てることは、社会建設の重要な一翼を担う政治的イシューでもある[★10]。
★10 『日本語の歴史』全7巻、平凡社ライブラリー、2006-2008年/ベネディクト・アンダーソン『定本想像の共同体——ナショナリズムの起源と流行』白石隆+白石さや訳、書籍工房早山、2007年。
バベルの問題は、学問においても生じている。かつて学問は哲学を根とする一本の樹として、それでもまだ全体の枝ぶりが見てとれた。だが、時代が下るにつれて分業専門化による細分化が発達し、まさにバベルの塔と化している。
ところで、仮に「普遍言語」が普及してバベルの呪いが解けたとき、コミュニケーションを阻害する要因はなくなるのだろうか。たしかに言語のちがいは大きな要因ではあるものの、同じ言語を用いていても、わたしたちは四六時中コミュニケーションに失敗している。言ってしまえばそこには、言語のちがいとは別に、個々の人びとの経験と記憶のちがいが横たわっているからだ。一方で、認知科学や脳科学が明かしつつあるように、わたしたちは身体の生物学的・神経科学的構造の点で共通性を備えている。だが他方では、個々の経験の来歴はそれぞれに一回起的な出来事の累積であるため、その経験そのものを直接共有することはできない[★12]。
★12 山本貴光+吉川浩満『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』朝日出版社、2004年、最終章。
あるいは、仮に創作の世界において描かれる透明なコミュニケーションが可能になったとしても、相手の意思を知ることと、それに共感することは当然のことながら別のことだ[★13]。
★13 たとえば、ヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』(1987年)の冒頭部分/筒井康隆『家族八景』(1975年)など。これらの作品では、他者の精神が言語として直接読み取られている。
人びとの欲望や利害や信条が衝突するなかで、さまざまな戦争や紛争や靜いは後を絶たず、むしろこのディスコミュニケーションの状態こそが、人間にとっての常態ではないかと思われるほどだ[★14]。
★14 植島啓司+伊藤俊治『ディスコミュニケーション』リプロポート、1988年/伊藤俊治+武邑光裕+藤幡正樹「フロンティア・オブ・コミュニケーション」『Intercommunication』0号、1992年/ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ドゥルーズの思想』田村毅訳、大修館書店、1980年。
情報工学から現われたコミュニケーションの理論は、コミュニケーションのメカニズムの側面に光をあてた。これを踏まえたうえで、むしろノイズにまみれ、コミュニケーションに失敗し、挫折する場面こそが、コミュニケーションの思想の糧となるだろう。それは、常にすでに或る時間と場所に限定され、限られた生の時間のなかで知覚と記憶と意識を駆使しながら、欲望と感情と無意識に衝き動かされる人間的条件を顧みることであるはずだ。
バベルの図書館
インターネットとウェブの普及にともなって、従来の書物や音楽や映画やパソコン通信とは比較にならない量の情報がネットワーク上を行き交うようになった。もはや、検索サイトがなかった時代に、どのようにネット上のリソースにアクセスしていたのか思い出せないほどだ。情報を発信する主体も、大学組織や研究所のみならず、個人や企業や政府といった諸団体に及び、個人的な日記のようなものから政府機関の公式文書の類、あるいは映像や音楽やソフトウェアに至るまで多種多様な内容のデータが送受信されている。すでに活版印刷が普及した時代に、多すぎる書物が問題視されていたが、知や情報を共有するこのしくみによって、すでに数百億のウェブ・ページが作成されており、この事態に拍車をかけている[★15]。
★15 たとえば、ライプニッツ「諸学問を進展させるための格率」、ヴィーコ『学問の方法』を参照。彼らは多すぎる書物がもたらす無秩序を問題視している。
こうした現状の延長上でひとつの思考実験を行なってみよう。仮に、インターネット上にビット化できるあらゆるデータ/情報が存在するとしたら、ネットを介したわたしたちのコミュニケーションはどうなるだろうか。そう、これはかつてボルヘスが「バベルの図書館」に描いた状況を拡張したものだ[★16]。

- エリック・デマジエール《バベルの図書館》
★16 「広大な図書館に、おなじ本は二冊ない。彼はこの反論の余地のない前提から、図書館は全体的なもので、その書棚は二十数個の記号のあらゆる可能な組み合わせ――その数はきわめて厖大であるが無限ではない――を、換言すれば、あらゆる言語で表現可能なもののいっさいをふくんでいると推論した。いっさいとは、未来の詳細な歴史、熾天使らの自伝、図書館の信頼すべきカタログ、何千何万もの虚偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の証明、真実のカタログの虚偽性の証明、バシリデスのグノーシス派の福音書、この福音書の注解、この福音書の注解の注解、あなたの死の真実の記述、それぞれの本のあらゆる者語への翻訳、それぞれの本のあらゆる本のなかへの挿入、などである」(ボルヘス「バベルの図書館」『伝奇集』鼓直訳、岩波書店、1993年、108-109頁)。
バベルの図書館をディジタルで生成することは、理屈のうえではさほど難しいことではない。物理的な記憶領域の確保がネックだが、プログラム自体は単純である。 (1)作業に必要なメモリを確保し、(2)定められた長さのビット列(0と1が並んだデータ)がとりうるすべての組み合わせを生成する、(3)以上の生成されたデータを、必要に応じて(a)テキスト、(b)画像、(c)音、(d)映像、(e)プログラムとして扱い、出力する[★17]。
★17 Georges J. Soirblue, The Expanded Library of Babel science, technology and art, Erewhon Press, 2001.
ひとつのデータに一定の上限を設けるかぎり、「その数はきわめて膨大であるが無限ではない」。そこには、あなたが明日書くブログのエントリーやその各国語への翻訳版もあれば、パレスチナ問題の行方を報じるニュース、過去に描かれた/描かれなかったあらゆる絵画、これから撮られる写真や映画、現在どこかのゲーム会社が開発中かもしれないゲーム・ソフトのコード、そうしたものへのコメント、などが含まれている。ディジタル・データで表現しうるすべてがすでに生成されているとしたら、つまりインターネットが、拡張されたバベルの図書館になった暁には、なにが生じるだろうか[★18]。
★18 拙稿「物質と記憶のラプソーデイン――知のネットワークを組み替える」『言語社会』第2号、一橋大学大学院言語社会研究科紀要、2008年。
もちろん、これから自分が書こうとするメールの文面がそのアーカイヴにすでにあろうがなかろうが、これまで同様、必要に応じて人はメールを書くにちがいない。しかし他方で、人はいま以上に検索に血道を上げるのではないか。そのとき問題になるのは、はたして人間にとって意味のあるデータを、どのようにマイニングするかである。ダダの詩やシュルレアリスムの自動筆記のごときものばかりでなく、ごく当たり前に意味の通じるデータをいかにして特定できるか。そのためには、意味論的な情報解析がいま以上に必要であり、そこでの検索者にはむしろ検索のための問いを発する能力、そうした問いのもとでデータを編集する能力が重要になるだろう[★19]。
★19 赤木昭夫『反情報論』岩波書店、2006年。
また仮にそうした検索エンジンが開発されたとしても、手に入れたデータの妥当性をどのように検証するかという問題が待っている(妥当性が問題とならない創作物を探す場合はこの限りではない)。たとえば、ある数学の問題の証明について、すべてが存在するアーカイヴからは真逆の結論を含む、さまざまなヴァリエーションの結論が示されるだろう。ありすぎる情報から、妥当なものを選び出す手間は、思考のエコノミーの観点から見た場合、見合うものになるだろうか。ボルヘスは、人が自ら考え、経験するより先に、それが書かれているはずの書物をあてどもなく探し、やがて狂気の淵に沈んでゆく書物の煉獄を描き出していた。
来たるべきコミュニケーションの思想のために
コミュニケーションを挫折させるもの(バベルの塔)、ありすぎるコミュニケーションの材料(バベルの図書館)。19世紀末から20世紀を通じて、映画、ラジオ、テレビ、コンピュータの発明・普及とともに進接したマス・コミュニケーション理論やメディア論は、こうした二つのバベルについてなにを語っているだろうか。たとえば、そのような問題意識を念頭に、コミュニケーションについてめぐらされてきた思想の痕跡をたどってみるとき、そこで想定されている人間はいささかものわかりがよすぎるかもしれない。膨大な情報にまみれ、絶えずディスコミュニケーションから出発しながら問いを立て、地図を描き、そのつどの折衝に臨み、相互の知を組み替え更新する、そんなディス/コミュニケーションの思想をどのように鍛えることができるだろうか。
コミュニケーションの思想
人間のコミュニケーションについて、その範囲と対応する思想の関係をプロットしてみた。
この図は本来、時間軸に沿って古代から現在に至る諸学の流れをプロットした円柱形の三次元モデルの一断面である。ここには簡素化した状態で掲載しているが、諸学はさらに専門領域を細分化し、相互に複雑に連環しあっている。
「コミュニケーションの思想」関連作品年表
ここは、20世紀のコミュニケーション理論を中心に、関連文献をピックアップした。また、広くコミュニケーションの条件について論じた著作も入れてある。文献案内としては不十分なものだが、コミュニケーションの思想をたどる手がかりとして、必要に応じて手を加えながら利用していただければ幸いだ。年表の作成にあたっては、本文で言及した文献のほか、本年表に挙げた各作品を参照した。
年 |
書物•コミュニケーションモデル |
|---|---|
1845 |
マルクス+エンゲルス『ドイツ•イデオロギー』 |
1867 |
マルクス『資本論』 |
1872 |
ダーウィン『人及び動物の表現について』 |
1879 |
シュライヤー「ヴォラビュク」(哲学的言語)を提案 |
1883 |
ロビダ『20世紀』 |
1887 |
ザメンホフ『国際語』(エスペラントを提案) |
1890 |
タルド『模倣の法則』 |
1893 |
デュルケーム『社会分業論』 |
1895 |
ル・ボン『群衆心理』 |
1899 |
松本君平『新聞学』 |
1900 |
フロイト『夢解釈』 |
1901 |
タルド『世論と群衆』 |
1902 |
クーリー『人問性と社会秩序』 |
1903 |
ペアノ「インテルリングア」(人工言語)を提案 |
1904 |
パーク『群衆と公衆』 |
1907 |
ボーフロン「イド」(エスペラントの後継)を提案 |
1908 |
ロス『社会心理学』 |
1909 |
クーリー『社会組織論』 |
1910 |
ヴェーバー|新聞の社会学提唱 |
1913 |
ワトソン『行動主義者からみた心理学』 |
1915 |
杉村楚人冠(廣太郎)『最近新聞紙学』 |
1916 |
ソシュール『一般書語学講義』 |
1918 |
クーリー『社会過程論』 |
1922 |
リップマン『世論』 |
1923 |
藤原勘治『新聞紙と社会文化の建設』 |
1924 |
バラージュ『視覚的人間』 |
1925 |
リップマン『幻の公衆』 |
1927 |
ラスウェル『世界大戦における宣伝技術』 |
1928 |
イェスペルセン『ノヴィアル』(人工言語)提案 |
1929 |
バフチン『マルクス主義と百語哲学』 |
1930 |
オルテガ『大衆の反逆』 |
1932 |
『Scrutiny』創刊(英文芸批評誌)(-1953) |
1933 |
長谷川如是閑『新聞文学』 |
1934 |
ミード『精神•自我•社会』 |
1935 |
マンハイム『変革期における人間と社会』 |
1936 |
ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』 |
1937 |
『Public Opinion Quarterly』創刊(-1999) |
1939 |
マーシャル「マス•コミュニケーション」造語 |
1940 |
キャントリル『火星からの侵入』 |
1941 |
フロム『自由からの逃走』 |
1942 |
ラザースフェルト+スタントン『ラジオ研究1941』 |
1944 |
ラザースフェルド他『ピープルズ•チョイス』 |
1946 |
マートン『大衆説得』 |
1947 |
ホルクハイマー+アドルノ『啓蒙の弁証法』 |
1948 |
ラスウェル|5W1Hのモデル |
1949 |
シャノン+ウイーバ『コミュニケーションの数学的理論』(48年発表) |
1950 |
ホワイト|ゲートキーパー•モデル |
1951 |
ベイトソン+ロイシュ『コミュニケーション』 |
1953 |
ニューカム|ABXモデル |
1954 |
シュラムほか『マスコミュニケーション過程と効果』 |
1955 |
カッツ+ラザースフェルト『パーソナル・インフルエンス』 |
1956 |
ガーブナー|一般コミュニケーション・モデル |
1957 |
『Journalism Quarterly』『概念モデル』特集 |
1958 |
オング『ラムス主義』 |
1959 |
スノウ「二つの文化と科学革命」講演 |
1960 |
クラッパー『マス・コミュニケーションの効果』 |
1961 |
ウィリアムズ『長い革命』 |
1962 |
マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』 |
1963 |
マレッケ『マス・コミュニケーション心理学』 |
1964 |
マクルーハン『メディア論』 |
1965 |
ガルトング+ルージー|選択ゲート |
1966 |
ホール『隠れた次元』 |
1967 |
ダンス|らせん状モデル |
1968 |
ベッカー|モザイク・モデル |
1969 |
サール『言語行為』 |
1970 |
バーンランド|トランスアクション・モデル |
1972 |
ベイトソン『精神の生態学』 |
1973 |
『講座現代の社会のコミュニケーション』第1巻 |
1974 |
ウィリアムズ『テレヴィジョン――技術と文化形式』 |
1975 |
ノウルソン『英仏普遍言語計画』 |
1976 |
リーチ『文化とコミュニケーション』 |
1977 |
ウィリス『ハマータウンの野郎ども』 |
1978 |
サイード『オリエンタリズム』 |
1979 |
アイゼンステイン『印刷機――文化変容の一作用因』 |
1980 |
モーレイ『ネーションワイト.・オーディエンス』 |
1981 |
マクウェール+ウインダール『コミュニケーション・モデルズ』 |
1982 |
オング『声の文化と文字の文化』 |
1983 |
アンダーソン『想像の共同体』 |
1984 |
ワトソン+ヒル『コミュニケーション・メディア研究事典』 |
1985 |
アング『ウォッチング・ダラス』 |
1986 |
キットラー『グラモフオン・フィルム・タイプライター』 |
1987 |
フィスク『テレビジョン・カルチャー』 |
1988 |
鶴見俊輔+粉川哲夫編『コミュニケーション事典』 |
1989 |
グライス『論理と会話』 |
1990 |
ポスター『情報様式論』 |
1991 |
ドゥブレ『一般メディオロジー講義』 |
1992 |
サックス『会話についての講義録』 |
1993 |
ボルツ『グーテンベルク銀河系の終焉』 |
1995 |
大澤真幸『電子メディア論』 |
1996 |
フルッサー『テクノコードの誕生』 |
1997 |
ソーカル+プリクモン『「知」の欺瞞』 |
1998 |
ポール・ヴィリリオ『情報化爆弾』 |
1999 |
レッシグ『CODE』 |
2000 |
池田謙一『コミュニケーション』 |
2001 |
東浩紀『動物化するボストモダン』 |
2002 |
フクヤマ『人間の終わり』 |
2004 |
北田暁大『〈意味〉への抗い』 |
2005 |
ガザニガ『脳のなかの倫理』(脳情報の新たな活用) |
2006 |
赤木昭夫『反情報論』 |
2007 |
シェグロフ『シークエンスの組織』 |
2008 |
パーク+プーリー編『メデイアとコミュニケーション研究の歴史』 |
山本貴光
