IC0-1

フロンティア・オブ・コミュニケーション [1]

新しい想像力のインターフェイスヘ

[掲載日:]

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A コミュニケーション・インターフェイスの変容

我々のコミュニケーションを成立させてきたインターフェイスが今や大きく変容しようとしている。それは、ひと言でいえば外にあったインターフェイスが内面化しているということではないだろうか。そしてそのことによって我々の内部そのものがリデザインされつつあるのではないだろうか。

註:本文中の❶〜❾は、註のゴシック部分と相互に参照し合う関係にある《サブ・ダイアローグ》。

1.未来ヴィジョンとマインド・リフレクター

武邑 このあいだ、伊藤さんとヴァーチュアル・リアリティ(以下VR)を巡る現状を話し合った時、VRはメディア・テクノロジーの全体系と不可分に関連している問題だと認識しました。電子画像世界に知覚上の合成技術を使って参入できるシステムだけがVRの問題ではないということを中心に、メディアの全域で、今何が起こっているのかということを整理してみようということでした。

※ヴァーチュアル・リアリティ
ヴァーチュアル・エンヴァイロンメント・システム(仮想環境システム)によって生まれるオルタナティヴな電子身体系における特殊な現実感。NASAのエイムズ研究所などを中心に開発が進んでおり、われわれが生きるこの現実のなかに、もうひとつの現実を登場させることが可能になっている。

あと、シミュレーションの問題にしても、何故、アーティフィシャル・リアリティからVRかというと、基本的に初めに現実があって、それをいかに世界のモデルとして複写できるかという発想があったのが、今はどちらかというと現実が倒立していて、シミュレーションの方が逆に現実に先行している部分がある。コンピュータ上のシミュレーション・リアリティを現実に変換するというか、現実に奪還していくという作業領域がかなり大きな問題になっているのではないかと思うのですが。

※アーティフィシャル・リアリティ
映像をひとつの世界とみなし、人の動きをリアルタイムにその映像に反映させることで得られる現実感をいう。コネティカット大学のM.クルーガーのヴィデオ・スペース・システム(1985年)では、人の影を映像に映しだし、人の動きにあわせて、像が仮想物体(映像の中の物体)を動かすことができるようになっている。マン=マシン・インターフェイスのモデルとして研究されている。

伊藤 それはリアリティの転位の問題とか、人間の想像力の問題とダイレクトに結びついてくる。これまでの未来に対してのイメージと、今の時代の未来イメージというのは位相が異なってきて、現在においては、現実を基盤に未来イメージが発想されるのではなく、逆にコンピュータ内環境から現実にキックバックしてくるものが、われわれにとって未来ヴィジョンになっているのではないかという思いが強い。

数年前に武邑さんと対談したことがあり、その時は未来イメージというのはもう終わってしまったのではないかということを話しましたね。僕らはもう未来に対してのヴィジョンを描けなくなっているのではないかということだったと思う。それが、このあいだ会った時に、未来イメージが全く別の位相から現実に跳ね返ってくるというような話がでたわけです。
僕にとっては、そのことは人間の本質的なイマジネーションの問題とも重なってくるし、藤幡さんがやっているデジタル・スカルプチャー、コンピュータ内で作った平面的なかたちを現実の中で立体として返してくる作業とも、ある意味で重なっていると思う。コミュニケーションが晒されている今の状況は、こうしたところからも入っていけるのではないか。

フロンティア・オブ・コミュニケーションの画像
デジタル・スカルプチャー

※デジタル・スカルプチャー
コンピュータ・データを直接現実の三次元データに置き換えて作られた立体オブジェ。最初は数値制御の工作機械によって素材を直接に削りだしてゆく物理的な方法が用いられていたが、やがて藤幡正樹は紫外線を当てると硬化するという液体樹脂を使う方法に切り変えてゆく。インダストリアル・デザインの分野で今後このシステムが盛んに使用されてゆくだろうといわれる。(作品=藤幡正樹)

武邑 最近、質量とか、パースペクティヴとか、スケールの問題を考えていて面白いことに気づいたんです。例えば、芸術系の教育はほとんどテキストなんかないのに、化学や医学とかのサイエンスは、かなりはっきりとしたテキストがある。1950年に医学生の6年間のテキストの総重量の平均値を出したら10キロだったという記録がある。1985年に再計測したら、なんと1トンになっていた。1990年には、それがまた10キロに戻った。この5年間に何が起きたかというと、大きな質量的変換が起きて、物質的根拠のないデータベースに変換されたということですね。

今まで、新しく発見された化学物質などの検索をしようとすると大変な作業だったのです。例えばアメリカに、80年代の半ばに成立したケミカル・アブストラクト・サービスというのがあって、そこで当時、7兆7千億字の文献データと750万件の化学物質のデータをデータベースの中に入れてしまった。何トンという物質的根拠を持った情報が、データベース化されたことによって、1950年の総重量だった10キロに戻った。この10キロは何かというと、僕らが今の電子情報社会の中で、紙というか、グーテンベルク以来の物質的根拠を持った記号というマテリアルのミニマムの総量なんです。

それは、デジタルビット時代の芸術ではないですが、1936年にヴァルター・ベンヤミンがいみじくも今日的状況を予測した複製情報環境の問題、ある意味での数量的スケールの巨大な変換がものすごい勢いで起こっているということなんですね。例えば、デジタルからオプティックへといったときも、僕らの身体的スケールで捕捉できるような距離感だとか、重さだとか、質量的な問題や時間の問題も、一挙にとんでもないところにまでいってしまっている。そこが僕にとっては大きな問題なんです。

※ヴァルター・ペンヤミン
1892年ベルリン生まれ。第二次大戦後、ベルリンで『新しい天使』という名の雑誌の刊行を企画するが実現しなかった。言語というテクノロジーを用いて、世界の配列をゆるがし、一瞬の光芒のうちに感知される真理をつむぎだしていった。1940年没す。

伊藤 ぼくらに見えないところで、そうした超加速度的な変容が行なわれているという感じが強くありますね。見られたり、確認できたりする変容でないだけに余計に恐ろしい。集積化された見えない技術の速度というのが、われわれのまわりを取り囲んでいる。

それで思い出したんですけど、ベンヤミンの『一方通行路」の中に「プラネタリウム」※2という小文があって、そこでベンヤミンは技術なるものにおいて、人類はこれまでの民族や家族といった集合体や組織とは全く違った新しい触れ合いを、どこか別の存在に向けて持つような新しい肉体が組織されているという神秘的な言い方をしています。

※『一方通行路」
ヴァルター・ペンヤミン『一方通行路』(山本雅昭.幅健志訳/晶文社)

※2「プラネタリウム」
「人類は速度なるものによって、人類の内部に向う、予測のつかぬ旅への準備をしている。そこで昔、病気の者たちを高原や南の海岸で癒したようなリズムに出会うのである。遊園地はサナトリウムの前身なのだ。真にコズミックな体験による戦慄は、ぼくらが普通『自然』と呼びならわしている、あのちっぼけな自然のかけらなどとは関係がない。

技術についての考え方が、ベンヤミンは特殊だったと思いますが、具体的な例として彼が持ちだしたのは速度体験だった。速度体験ということを思い出すだけで、われわれは技術というものによって新しい肉体が組織されていることがわかると。彼には、技術が人間の中に生み出す特殊な体験や感覚がこれまでのスケールやバースペクティヴや物性を全く変えてしまうだろうという強い認識がある。そして、人類は速度によって時間の内部に向かう、あるいは時間を全く別のものに変えてしまうような予測のつかない旅に出ている、旅の準備をしているんだという言い方をしている。それが有名な「複製技術時代の芸術」へつながってゆくわけです。

※『複製技術時代の芸術』
ヴァルター・ベンヤミンの代表作(1936年)。正確には、「芸術作品が技術的に複製可能な時代における芸術」というタイトルである。「いま、ここに」しかないという芸術作品特有の一回性が失われてゆく時代にどう対応してゆくかが論じられている。

このことはとても重要なことのように思う。例えばベンヤミンは映画や写真というテクノロジーについて強調していますが、そのなかで新しいイメージ・テクノロジーができると、物質は全く新しい構造を露わにしてくると言っている。これは高速度撮影でも顕微鏡写真でもいいわけですが、こうしたことによってこれまでの「意識に浸透された空間」の代わりに「無意識に浸透された空間」が現われてくるんだと。そしてこのことは彼にとって従来の自然概念が決定的な変化を被っていることのしるしなわけです。

最近よく言うんですけれど、テクノロジーによって、われわれの住むこの空間自体が一種の透明な乗り物になってしまったようなところがあると思うんです。そしてその乗り物が自由に速度を変えられて、様々な界面へ入ってゆくことができる。❶


4. われわれの外側にあると思われてきたものが、実際にはわれわれの内側に存在していたり、または、その逆であったりすること。また、目に見えない緊密なネットワークがわれわれのまわりに張り巡らされて、なにが真の意味でリアルかがわからなくなりつつあるということ。そうしたことによって、これまでとは異なる、さらに高度なメディア・テクノロジーの「鋳型」(記号系)が必要とされるようになってきたのである。

5. その予兆と思われるものは、すでに、さまざまなかたちで登場していたに違いない。だが、多くの埸合、それらは既成のシステムのなかに組みこまれてきてしまったのである。システムにとって異分子だったそれらは、かえってシステムを活性化させ、強化してきたのである。だが、いまやさまざまな領域で大きな混乱が起こっている。われわれは、明らかに、従来のシステムでは支えきれない事態に入ろうとしているのである。

6. われわれが巻き込まれる混乱は、まず第一に、われわれをとりまく環境の「非物質化」というかたちで表わされることになるだろう。

──植島啓司「仮想環境システム」(『哲学の冒険/ゼロ・ヴィットの世界』[岩波書店])

20世紀の技術とか機械に対する考え方は、今までどうしても自然の制御というかたちで捉えられてきたけれども、そうではなくて、既にその初めから技術とか機械を、人間の知られざる欲望や願望を満足させるとか、潜在的な可能性を示すとか、あるい.は非合理の深い鉱脈とか水脈を探査するためのもの、という風に捉えてゆく流れが出てきているのではないかと思うんです。

僕は、たぶん、今の新しいコンピュータ・カルチャーというのは、新しい技術とか機械の位相において、テクノロジーをプリズムのかたちに再組織化しながら、新しいヴィジョンを表明してゆくような方向性に向かい始めているのではないかと考えているわけです。

藤幡 いま言っていたプリズムというのは、アルゴリズムということではないんですか?今までの美術史は全部どこに何を塗ってあるかというデータでしかなくなってしまう。データではなくて、プログラムだったり、そのプログラムを組織するためのアルゴリズムの部分が問題なのではないかと思うんです。

データというのはいくらでも改変が可能で、プログラムさえあれば同じプログラムでいろいろなことができる。そういう捉え方で過去を見ると面白い。極端な言い方をすれば、ピカソのプログラムで見るとプログラムがひとつしかないじゃないか、要するに彼は同じプログラムに違うパラメータを入れつつ一生同じようなヴァリエーションの作品を作っていたみたいな捉え方ができるわけですよ。

それはコンピュータと出会うことで、そういうことを感じているわけだけれども、そうするとこれから僕がものを作ろうとするときの意識の持ち方とかが違ってくる。コンピュータは、プログラムによってアイディアを言語化しないといけない。なぜならアルゴリズムを言語化したものがプログラムなのだから。言語化するという作業はミラーです。言語はかなり抽象的なものを扱える。プログラムというのは、そういう抽象的なものを組み替えたり、編集したり、構成したりするための言語なんですね

しかし、本来のプログラムはもっと直接的で具体的で、AのものをつかんでBのところへ持って行けというのがプログラムだった。しかし、「持って行く」というのは、例えばロボットが持って行くのは本当に持って行くが、ロボットがなくてもプログラムは成立する。コンピュータの中でシミュレーションして、持って行くという作業を仮想的にやらせればいいとすると、「持って行く」という概念がそこに生まれる。その実体のない概念だけで物事を組み合わせると、全く実体のない概念が定義できてしまう。

コンピュータの言語は、もともと僕たちがこうやって使っているヴァーバル(口語的)な言語とは違うと思う。僕たちが作りだしたプログラムというものが勝手に一人歩きし始めたときに、今までデータとしての美術しかなかったものが、いきなりアルゴリズミックに見えてしまう

極端な言い方をすると、美術を見るという意味では、ある程度訓練が必要ですね。本当に感動できる時というのは、こちら側にも準備が必要です。ということは、天才が天才のことをわかりあえる時というのは、アルゴリズミックなレヴェルだったと思う。優れた美術批評というのは、作った作家が言語化できないものを言語化するということです。アルゴリズミックなレヴェルで言語化できているから、読む人が理解できるものになるわけです。だから、わりと限られた人しか読み取れなかった部分というのが、コンピュータが入ってくることで、非常に明快になっていくのではないかと思う。

僕が大学に入ったころには、美術とか芸術というのは、感性とか、センスとかで、いくら修練してもダメな奴はダメですよって切られてしまった。しかし必ずしもそうではないんです。感性といっていた言葉の中に、非常にロジカルなというか、明快にアルゴリズミックに語れる部分がまだあるのではないかと考えてしまう。

だから、プログラミング言語というコンピュータ・サイエンティストが最良の方法だと思って作ってきたものが、今度はこちら側の現実に、新しい局面を見せつけてきてくれている時期なのではないかと、そんな気がしますけれどもね。

伊藤 それが藤幡さんのいうアルゴリズミック・ビューティということの基本的な考えですよね。

※アルゴリズミック・ビューティ
ごく一般的にある現象が美しいということと、その背後にあるであろうアルゴリズムそのものが美しいということは意味が違う。美しいアルゴリズムによって作られた結果が必ずしも美しいとは限らない。

目の前にみえる現象を越えたところにアルゴリズミックなレヴェルでの美が潜んでいる場合があるということである。がしかし、それは普通不明快な言い方でしか語れてきていないのではないか?「感性」や「センス」といった用語によって一つの特異な修練や天性の才能としてその能力はかたづけられて来たのだ。

コンピュータ内へ何事かをインプリメントしようとする時には、その小物に対してそれを形作っているアルゴリズムを抽出してみる必要がある。現象をその成り立ちへと分解する必要があるのだ。樹木や珊瑚がどうやって成長してきたのであろうか?と見るように絵画もまた見られなくてはならない。

目の前に提示された事物をコンピュータによって再現するための手続きを思い起こしてみることによってそのものの成り立ちの一端を新しいやり方で捉えることができるかもしれない。そういった思考のステージのことを私(=藤幡)は「アルゴリズミック・ビューティ」と呼んでみたのだ。

ひとつ聞きたいのですが、僕がよく疑問に思うのは、例えばコンピュータはインターフェイスになって、何か別の世界とコンタクトしているのかということです。藤幡さんが言うところのマインド・リフレクター、心を反射させる装置としてのコンピュータというのは、もともと自分の中にあって隠れたものと対応するのか、そうではなくて、コンピュータがインターフェイスになって違うものとコンタクトできるのか、いかがでしょう。

※マインド・リフレクター
「たしかに今まで、カムや歯車のような物理的なものをコントロールすることでも何とかやれて来ていたことを、〈コンピュータ〉にやらせることによって、開発のスビードは上がり、管理は楽になるのだが、こんなことのためだけに使われて来たというこの〈機械〉の哀れな状態を抜けだして、今やっとこの〈機械〉が人間の〈心のリフレクター〉として機能する可能性がでてきたのだ。ある結果のためだけに、〈コンピュータ〉に作業をやらせる、のではなしに〈コンピュータ〉にやらせながら、こちら側でそれを見ながらかってに考えさせられているような関係がうまれつつある。それは人間の物理的機能の一部が拡大した単純な道具達のひとつとしての役割から、やっと考えるための〈場所〉を提供するものになりつつあるということなのだ。」
藤幡正樹「心のリフレクター」(『へるめす』第27号)

藤幡 違うものとコンタクトできるのではないと思います。僕は、必ずしも、自分の持っているサイズをコンピュータが超えるとは思っていないんです。そう思いたいけれど。例えば、プログラミングをしてうまく動かない、いろいろ調べていくとつまらないミスだったりする。そのミスというのは、要するに自分が悪い。コンピュータとつき合っていると、僕のダメな場所ばかり見せつけられるという感じがあるんですね。だから、自分自身の中を探索しているようなところがあるわけで、でも、その中に僕のコピーが入っているかというとちょっと違う。

伊藤 ウォルター・オングというメディア論の学者が、コンピュータ言語はヒトの言語に似ているが、無意識から生じずに、意識から直接生じるという点で、ヒトの言語とはまったく異質なものである、という指摘をしていますが、今の話は関係があるかもしれない。コンピュータ言語はあらかじめ、意識的に規則を決めてから用いるが、ヒトの言語は、規則は無意識のうちに用いられ、その実際の口ぶり、身ぶりから抽象されるといっている

藤幡 このあいだ、物理学者のオット一・レスラーがカオスとインターフェイスの話をしていたけれども、彼の言っていることはものすごくわかりやすかった。もともと言葉も何もなければ、意識は完璧にカオティックな状態なんだと。そこに突然稲妻が走る。稲妻が走ったとたんに、稲妻の向こう側とこちら側に内側と外側の関係が生まれる。つまり、意識の中で外界と自分自身の区別もないような状態であるところへ、パッとインスピレーションが生まれて、これは俺ではないんだ、あいつは俺ではないんだというようなことで、内側と外側が生まれるという話があった

※オットー・レスラー
1940年ベルリン生まれチューピンゲン大学物理化学・理論化学協会の教授。1976年には、単純な微分方程式に存在する純々のカオスに関するコンピュータ・ムーヴィーを制作またデヴィッド・フィルケンシュタインとエンドフィジックス(内物理学)を提唱している

コンピュータがなぜ面白いかというと、内側にもまた内側があるというか、自分自身の状態を知るためには外側から見た自分を見ないといけない。つまりコンピュータは外側から見た自分の状態を自分の内側にモデル化するための道具として面白いわけですね。


エレクトロニクスの時代においては、観測者と対象の間の「インターフェイス」が、人為的に操作されるようになる。よく知られているように、バースペクティブ(=遠近法)は完全に客観的なものではない。それは「観測者=客体的」なのだ。もしだれかが観測者となるなら、世界を歪めることは避けられない。そうした現象の総称として用いられるのが、「虹現象」という言葉である。虹は(古い迷信で虹のふもとにあるといわれる金の壺とはちがって)、写真におさめることができる。けれども虹の立体写真を撮ることはできない。とくに充分な立体効果を獲得するため、力メラを大きく離しておいた場合にはそうだ。対象の非=対象的な(ただ観測者=客体的であるような)性質が浮き彫りにされる。

同じような性質を備えた仮想現実を設置することが、現在、重要な課題となっている。それはいわば相互作用的なだまし絵といえよう。フランクフルトではタッチ・スクリーンとタッチ・フロアが設置されているが、観測者と環境のあいだでなされる親密な結合は、恐ろしくもありかつまた開放的でもあるような体験として彼(あるいは彼女)を捉えるのだ。

関放されるのは精神である。それがなんであろうとも、ひとたび関心を向けられたものに対し、精神はその類似物となりうる(アナクサゴラス)。荘子の混沌とアナクシマンドロスの全体、アナクサゴラスのカオスが初期の例である。裂け目(Shu-hu)こそ、ここで問題となっている、インターフェイスなのである。このトゲだらけの樹皮を裂くためには、血を流すことを覚悟しなければならない。しかしこのようにして――稲妻をのぞきこむことによって――のみ、分裂に先立つ(外の)世界、精神の世界の混沌状態をかいま見ることができるのだ。

──オットー・レスラー&ピーター・ヴァイベル「現実の二つのレベル――内と外」(キャノン・アート・ラボ・シンポジウム「デジタルアートの未来」テキストより)

伊藤 いわば入れ子構造になってしまうわけですね。稲妻と言いましたが、それはほとんど言語作用と同じで、言語が発声されたり、言語が文字化されたりする時に裂け目ができて、それを僕らは現実として認識するんだけれども、そうしたらそこしか僕らは考えなくなってしまう。もちろん言語化することによって自分の中に返ってくるものはあるけれども、ここに裂け目ができて、世界そのものは認識できなくなってしまうんだと思う。

藤幡 だからインターフェイスの問題だと思うけど、WIMP型(Window、Icon、Mouse、Pointer)のコンピュータに比べて古いコンピュータは、テキストを使ったコマンドラインでしかインターフェイスができなかったのが、最近、ヴィジュアルになったということもオットーが言っていたことの中にあった思う。

伊藤 稲妻が生まれる前の状態というのは何なのかといつも考えるんです。ある種の見えないものに対して、僕らはどうやってアクセスしていったらいいのか。

このあいだ、ネイティヴ・アメリカンの音楽家が来ていて、一番大切なことは言語化しないんだ、言語化しないことによって伝えることがものすごく大切なんだと言っていましたが、僕が疑問に思うのは、確かにモデルを作ったり、稲妻をつくったり、裂け目を作ったりするのはコンピュータで出来て、これにもすごく魅惑されてしまうけれども、その世界を超えた世界は何なのかということを常に思ってしまう。

僕らは常にトランジットというか、通過したり、交流したりしていくことによって成立していく存在だと思っていたら、ジャロン・ラニアーは、VRが大切なのは、VRではない空間へ抜け出た時の瞬間で、その時に初めて知覚できる世界の厚みとか、幅とか、奥行きとかが、自分の中に返ってきた時であると、大切なのはそこから抜けでた一瞬のことなんだというような意味のことを話していました。もちろんコンピュータ内世界の問題はすごく大切だけれども、それをもうちょっと違う形で考えていけるような状況が必要なのではないかと思います。やはり、僕らがそういう視点をうまく定位できないがゆえに、すごく錯綜してもがいているのではないかという気がします。

※ジャロン・ラニアー
アーティフィシャル・リアリティの研究のために、データ・スーツ、データ・グローブを開発し、商品化したVPL社の創業者。

このことに関連して言えば、例えば植島啓司は「隠されたシステム」※2という言葉で、コミュニケーションに関する本質的なことを書いています。つまりある種の物事のやりとりの背後には、いつもそれを支える約束ごとのシステムというのが隠されている。でもそれはあまりにも当たり前すぎて、普通は意識されることはない。コンピュータはこのことをもう一度、全部洗い直さなくてはならないと。

※植島啓司
1947年生まれ。関西大学教授専攻は宗教学だが、コミュニケーションやメディアの本質に関する最も先鋭的な研究を行なっている。著書に『男が女になる病気』(朝日出版社)、『分裂病者のダンスバーテイ』(リブロボート)

※2「隠されたシステム」(G-4)
「われわれは、コミュニケーション回路に生じる企みとか不均衡とかいったものを、無意識のうちに別の回路に取り込んで処理しているそれもあまりに自然におこなわれているので、ふだんはあまり気がつかないのだが、なにかの拍子で回路が閉鎖されたり、別の回路との結びつきが切断されたりすると、一挙に大混乱に陥ってしまうことになるそして、さらに始末が悪いことには、それが表面から見えにくいということである」

コミュニケーション・システムというのは、それがどういうものであれ、それ自身、きわめて限定されたものであるわけです。さきほどの裂け目の問題ともからんできますが、植島は、それを「ナイフによって世界に刻み込まれた一種の亀裂」なのだと言っています。そしてわれわれはコミュニケーションそのものが、ひとつの矛盾だということを根本で受けとめておかなくてはならない

こうしたことから彼は、「ディスコミュニケーション」という問題設定を出してくるわけです。このタームには、従来のわれわれの思考のプログラミングの回路を破壊してゆくという方向性がはらまれています。そのことによって多様性の高いシステムや多義的なイマジネーションの回路が生まれてくるだろうということですね。新しいコミュニケーションのインターフェイスが必要なわけです。

※ディスコミュニケーション
「もともとの発想は、基本的に伝達が不可能であるということを強調しておきたいんです。根本的に伝達行為が成立し切れない。だから不均衡な状況が生まれてくる……」(植島啓司・伊藤俊治『ディスコミュニケーション』〔リブロポート〕)

藤幡 別の言葉でいうと、さっきはモデルをシミュレーションすることができるという話だったけれども、そうではなくてインターフェイスを作ることが、既にモデルを作ることになるわけですね。だから、全部がインターフェイスの問題だという気が最近しているんです。アルゴリズム云々の問題ではなくて、最初に触れる部分、その奥にデータやプログラムやアルゴリズムがあるんだけれども、その一番最初に触れる外面的な部分が全部であるような気がしている

言菜にしてもそうです。インターフェイスの方法を定義するだけで成立してしまうというか、その世界を見せることができる。インターフェイスだけつくったら全部できたことになってしまうのではないか。❸
例えば、VRのグッズがありますね。あのグッズがあるからVRという言葉が流行った。VRという概念そのものはもっと前からありますね。やはりあのグッズ、あのインターフェイスのスタイルでもう終わっているような気がする。


藤幡 例えばピカソの認識のアルゴリズムをコンピュータ内に植えこんで、どんな写真をコンピュータの中にいれても、それがピカソの絵になるような道具を作るということではないか。そこまで究極的な道具というのが、コンピュータを使うと作れるのではないか。だからコンピュータを使ったアートを考えていくと、究極的にはコンビュータを作ることになってしまうわけですね。つまりちょっと矛盾しているんだけれども、結局モノを作ることになってしまう。

高橋 さっきの話でいうと、山はタダだけれど、映像にしたらお金になるというわけでしょう。それで、そのピカソの絵を作る場合、ピカソの絵は山にあたるわけ?完全に自然物になっているわけかな?

藤幡 いや、いま言った話の場合には、ごく普通の山をそのシステムを通して見ると、ピカソの山になってしまう。ピカソの山として画面に映る。だから、ピカソのものの見方というものが、ピカソは死んでいるのに、その機械の中に生きているということになる。

──「テクノロジーとマス・イメージ」(討議/粉川哲夫、八束はじめ、伊藤俊治、高橋悠治、藤幡正樹、吉田喜重)(『講座|20世紀の芸術|8|現代芸術の焦点」〔岩波書店〕)

武邑 僕は、日本では、VRという言葉の概念は、当初の段階からものすごく大きな誤解があると思う。あれを即座に仮想という風に単純に置き換えてしまったことに、そもそも錯綜の要因があった。

もともとヴァーチュアルというのは、「実質的な」とか、一見するとそうではないが、事実上、実質上の現実だという意味です。だから、仮想的という言葉を使うんだったら、ボテンシャルとか、イマジナリーとか、そういう言葉で置き換えないと問題がでてくるわけです。確かに、コンピュータの仮想メモリーみたいな意味として日本語に置き換えていくとき、仮想的という言葉が選択されてきたけれども、本来的に言うと「実質的な現実」なんです。

藤幡 コンピュータの仮想記憶というのも、結局きちんと動く。

武邑 とりあえず仮に想起された現実ではなくて、ある意味では非常に実質的で、事実上の現実感、あるいは現実というところを含んでいるアイロニーだと考えないと、VRという言葉自体の持っているある種のアイロニカルな、アナロジカルな視点が捨象されてしまう。そういった意味からすると、旧来のマルチリアリティでもいいし、もっと踏み込んでいうとアンオフィシャル・リアリティでもいいわけです。

※アンオフィシャル・リアリティ
1990年、ハンブルクのハッカー集団「カオス・コンピュータ・クラブ」やアムステルダムの「アンチ・メディア・ムーヴメント」が主催する「ウェットウェア・シンポジウム」において、非公式に表明されたサイバー・スペース概念。VRのアプローチが即座に「現実」制度に回収されてしまうことへのクリティカル・ポイントとして、非公認の現実を制度的な現実への対抗性として組織化し,メディアのシステム支配を突き崩す具体的なサイバー・スペースを構築しようとするラディカルなアプローチである。

あと、空間だけの問題ではなくて、マルチタイム・リアリティとか、複数の時間を制御できる、コンピュータがわれわれとインディヴィデュアルに関われるとか、そういう意味での実質的で、事実上のリアリティという意味の方が強いような気がする。

※マルチタイム・リアリティ
TBD(タイム・ベースト・データ)を軸にしたマルチメディア環境の中で主張されている時間軸データの新しいアーキテクチャーである「Hy-Time」などと関連して、複数の時間軸を並列処理したり、二次元的に交差させることを可能とさせるロジスティクス。

二次元情報や二次元情報の統合処理はもちろん、X、Y、Z軸の空間概念とT軸(時間軸)とを自在に組み替えたりすることで、シミュレーション概念を圧倒的に拡張することが可能となる。複数の時間軸をもった複数の事象や物質を自在な「現実」へとシミュレートするため、いわば複数の「実時間」を共存させたり、編集したりすることができ、実世界においては「偶然」とされる要素を高度にチャンス・オペレートしうる。

だから、さきほどのコンピュータとの関係性でいうと、僕らも共犯関係のような気がする。つまり、藤幡さんが言ったマインド・リフレクターということで言うと、道具ではないけれども、マインドウェアとしての共犯性をすごく感じるわけです。一種の欲望の共犯関係みたいなものですね

しかし、僕らが欲望を導入しないとリフレクションが起きないということはあると思う。だから、コンピュータそのものにある種の欲望を擬人化してしまうのはちょっと難しいけれども、キックバックということ以前の中に、ひとつの共犯関係みたいなものがあるわけです。メディア全貌がそういう意味合いを持っている

藤幡  僕がマインド・リフレクターと言い出したきっかけは、今のコンピュータにはマインド・リフレクションをするような機能がなさ過ぎるということなんです。例えば、文章を書く時に原稿用紙に書いていたら、間違えて消してもそのイヴェントが全部残る。そうすると、それを後から見た時に書いた時のことを全部思い出すことがあります。そういうことがコンピュータの上では非常に起こりにくい。試行錯誤が見えないところがある。これではコンピュータはこれ以上伸びないなと思った

逆にマインド・リフレクションというのは何なんだろうと考えて、あらゆる過去の道具にはそういう機能があったのではないか。例えば、切れなくなった鋸を研いで使うみたいな部分があった。直接的に目に見えるやり方で物質と格闘しているから、その傷跡が残るわけですよ。そのリフレクションの機能をアナロジカルにコンピュータへどういう風に植え付けたらいいかということを本に書いてみようと思ったんです。だから、マインド・ミラーではない。

2.アウター・インターフェイスからインナー・インターフェイスへ

伊藤 こうやって考えてみるとコンピュータのインターフェイスというのは非常に平板ですね。武邑さんが言われているけれど、人間の内部のインフォメーションと人間を包み込んでいる文化的、社会的な環境のインフォメーションとか、そういったものに対してあまりコンピュータは入り込んでいなくて、それによって非常に均質なものになってしまった。しかし、逆に身体感覚とか、身体記憶とか、そういったものをコンピュータの中に含み込むことによって、もうちょっといろいろなことができるのかなという気がする

藤幡 それこそ、そのためのインターフェイスの設計というのが必要ですね。それは結果的にコンピュータそのものを変えることになるのかもしれない。そんなイメージだけはあります。もうキーボードやマウスみたいなものではないと思う。

武邑 このあいだ、改めてアイグラス・テレビを見てきたんです。まだプロトタイプでしたから、とりあえずまあこんなものかなという程度でしたが、ツルのところに0.7インチの液晶が入っていて、ぶ厚いんですがかけられるんです。目の前40センチ位にくっきりと映像が見えるわけです。左右に0.7インチのカラー液晶を入れて、ミラーで受けて網膜にダイレクトに映像を入れてしまう。

※アイグラス・テレビ
サンフランシスコのレッドウッド・シティにあるハイテク・ベンチャー企業が試作したメガネ型の画像表示システム。従来の「プライヴェート・アイ」やヘッドアップ・ディスプレイに比べ、解像度、利便性の点で極めて革新的な要素技術の集積が認められる。メガネの左右折りたたみ支点に、現状では0.7インチのカラーLCDが2面設置され、その画像をメガネ中心部の2枚の高精度ミラーで受け、それが眼球内の無限遠点に焦点を結ぶという原理となっている。解像性は極めて高く、通常視野の中央部約1メートル以内に10インチ程度の画像がシースルーで現前化する。日本の極小LCD技術とアメリカのサイバーメディア技術との融合によって具体化した、このウェアラブル・ディスプレイは、今後0.3インチや0.1インチにまで縮小され、10万画素以上のクオリティへ進化するといわれている。

藤幡 ミラーが湾曲していて、焦点を結んじゃうわけですね。

武邑 それは、すごいですよ。くっきりとエンドクレジットまで見えますからね。技術はセイコーエプソンが提供しているのですが、パテントや仕組みを作ったのはアメリカのすごく小さなベンチャー企業です。ソニーと松下と、日本の何社かに対するファースト・オプションの保留期間になっていて、どこが買うかですよね。やろうと思えばすぐ商品化できるわけですよ。今度は液晶が0.5インチのものが出るみたいですから、もうほとんどナノテクノロジーの世界ですね。

※ナノテクノロジー
分子、原子レベルの工学。ナノメータによるスケールのテクノロジーの総称。

藤幡 小さい画面だから、解像度がないとスクリーンのドットが見えちゃいますよね。

武邑 0.7インチで4万画素ですから、解像度がすごく高いんですよ。ヴィデオ・ウォークマン程度の解像度はクリアしていますよ。しかもそれは透過性だから眼の前のリアルな実在とダブるわけですね。面白いのは、前を人が横切ったりしても見えるわけです。小さいパソコンであれば、キーボードとつなぐだけで、液晶ディスプレイの代わりになるかもしれないし、あとインフライト・エンターテインメントだとか、まあウォークマンの映像版ですよね。だから基本的にムーヴウェアの新しい展開が出てきている。

※インフライト・エンターテインメント
飛行機内での映画、ニュース映像、さらにはコンピューティング環境に、ウェアラブル・ディスプレイのニーズは高い。インフライトのみならず、パーソナル・コンピューテイング、ゲーム、ムーヴウェアとしてのTV電話、ホーム・エンターテインメントなど、アイグラス・テレビはある意味でポストCRTの本命であるとも考えられる。

藤幡 トラックボールとかマウスとかがついていれば、それでいいんだものね。

武邑 あと、例えばヘッドアップ・ディスプレイのリアルな世界とフロントガラスのその中間にナヴィゲーションを起こしてみて、100キロ位で走っていても安全にデータを表示するというようなことも可能ですね。例えば右に行けというように、サテライト情報とリアルタイムに結んで、ナヴィゲーションする。いちいち視覚で計器類を補足するとそれだけで案外大変でしよう。だからF1なんかで、ヘルメットに入れて使うかもしれないですね。ピットからの情報が全部文字情報で出てくる。

あとは、移動体通信。これと映像系をリンクして、歩きながらTV電話できるとか、歩きながら遠隔地の定点観測を可能にさせるということもできますね。だから身体は基本的にメディアであるとすると、既存のメディア・ネットワークは、ほとんど再編する必要があるし再編できてしまう。そのためには僕らの感覚情報系をもう少し解読してあげて、それをメディアと接続していく必要があると思います

このアイグラス・テレビは、目の中に無限遠点というフォーカスの必要のないエリアがあるのですが、このポイントが最近発見されたことによって初めて可能になったものなんですね。それは、われわれの身体の中に、新しいテクノロジーに対応する感覚情報の要素が固まっているとも言えるわけで、最近の音響学会でも自発参照音(リファレンス・トーン)というのが確認されています。そしてそれを今、人工合成しようというアプローチがある。それはもう完全にリモートセンシングのテクノロジーですね。

※リファレンス・トーン
ホロフォニクスの開発者ヒューズ・ズッカレリが主張する「自発参照音」。人間は単に音を一方的に伝達関数的に受容するのではなく、身体からある種の周波が空間に自発され、それが音源との間に干渉を生じさせる結果、私たちは音の空間位相を確認できるとするもの。

どういうことなのかと言いますと、われわれが普通の状態で聞くことのできる音の範囲は限られてます。僕らの自発参照音というのはどのくらいまで届いているかが少しずつわかってきたのですが、ある種のイヤホンをつけて非常に遠隔地まで伸ばしてみたとします。それを、5mくらいのエリアで100mくらいのところから出てきている音もつかまえてピックアップする。この5mを10mとか200m位飛ばして増幅してそれをピックアップしようとすると、しかも焦点距離を制御するような非常に微細な音を、あるポイントだけピックアップするということができるのです。

そうすると例えば、時速100キロで走りながら1キロ、2キロ先の生物反応をピックアップすることができる。戦車などに使うとそれはもうたいへんな軍事テクノロジーですね。例えば、通信技術を考えていく上でも、人間の側の情報のスキャンに、増幅したりするアプローチにどんどん関わってゆくだろうと思います。だから、メディアの解像度を上げていくだけではなくて、僕らの側のデヴァイスとして考えていく必要がある。

こうしたことを考え合わせると、視覚障害者、聴覚障害者に対する福音はたぶん5年以内にドラマチックに進化する気がします。視覚の場合は、たぶん後天的な視覚障害者に映像を与えるという技術はもうできていると思います。だからヴィム・ヴェンダースの映画『夢の涯てまでも』※2も、あながちおとぎ話ではない。

※ヴィム・ヴェンダース
1945年デュッセルドルフ生まれ。映画監督。 『都会のアリス』『まわり道』『さすらい』のロードムーヴィー三部作で知られる。1987年の『ベルリン天使の詩』でカンヌ映画祭監督賞を受賞。

※2『夢の涯てまでも』
1991年のヴィム・ヴェンダース監督作品。1999年を舞台に、人の脳に直接映像を伝達する装置が開発され、人々は夢の世界に溺れていく。夢の部分には、NHKが協力し「ハイヴィジョン」による映像処理が施されている。原題は“Until the End of the World”

伊藤 VRでもそうですよね。アイフォンをかぶってデータ・グローブ※2をつけるというかたちではないコンピュータ内環境への入り込み方を、もっと簡単に、もっと違うかたちで、あれよりはるかに飛べるやり方が可能ではないか。それがいろいろな状況の中で求められていくでしょうね。

※アイフォン
VPL社のジャロン・ラニアーによって製作されたヘッド・マウンテッド・ディスプレイ(HMD)。仮想世界と現実とをインターフェイスするための知覚デヴァイスとして、VRのメイン・アイコンとなった。現在では脱HMDの傾向が強く、身体環境とのフレキシブルなディスブレイ・システムが主流となりつつある。Eye-Phoneとは、目で聞く、目で視るといった視覚と聴覚のクロスフェードがアナロジーとして設定されている。

※2データ・グローブ
一見したところ普通のグローブだが、それには末端まで光ファイバー・ケーブルが組みこまれており、グローブをつけた人間の情報が、それを通じてコンピュータ本体に集積され、そのシミュレーションがディスプレイに投影される。

武邑 つい最近まで、メディアは人間の知覚・感覚の局所的な座標を拡張する――単一感覚の拡張ということでいうと、バラバラにではあるが、ミクロからマクロまでというスケールで拡張した、それをどこかで、人間の複合情報処理のように、同時多発的に感覚をフル稼動させて、瞬時に現実を認識するというような――そういう方向性へメディアがインテグレーションされていかなければいけないという考えを、一般的には持っていたわけです。これはマルチメディアとか、メディアフュージョンと言われているアプローチですね。

※メディアフュージョン
80年代の初め、ジャズとロックといった別種な音楽が出会い、「フュージョン」という新しい音楽のジャンルが生まれたように、複数の異種交配によって別種なメディアが登場することを「メディアフュージョン」と呼ぶ。ヴィデオ一体型テレビのような、単なる機能統合型の商品ではなく、デザインから機能まで、全く新たなものとして再生された「ニュータイプ」のものを呼ぶ。この概念は、今後の社会・文化動向を計測するうえで重要である。

しかし、マルチメディアやメディアフュージョンというメディアをインテグレーションして、人間とインティメイトな関係に向かおうというアプローチならいいのですが、人間の共感感覚的に情報を形成していく、僕ら側の情報の処理の仕方というのは、メディアがいくら局所的であって先鋭化しても、それをすんなりと複合化できてしまうわけです

逆にいえば、メディア・テクノロジーの進化によっても計量化できる領域では視覚と聴覚しか情報として成立しないにもかかわらず、実はその中に嗅覚や味覚や触覚を感じとってしまえる情報のフレキシビリティというのが、われわれの身体の中にあるんです。

メディアの速度とか解像度とかの進展に、人間は大きなディスタンスを感じているということが一方ではあるけれども、そのディスタンスを一挙に回収してしまう共感感覚がある。われわれの内部で感覚を複合的に合成しているわけです。時代のメディアとわれわれ自身が、ものすごく速い変換によって、一挙にシフトしてしまう。だから50年前のメディア・テクノロジーにおけるわれわれの側の感覚地図と、現代のメディア・テクノロジーにおける感覚地図とでは、決定的に違う部分があるのですね

伊藤 われわれ自身の理解を越えたわれわれ自身の能力とか想像力の問題ですね。特に、それは直接、嗅覚とか触覚とかのプリミティヴな身体感覚と結びついている。

武邑 例えば、80年代以降から、僕らの身体的な物質欲求として異常な消費量を持ってきたものにいわゆるメントールの刺激物があります。あれは頭のてっぺんから爪先まで、水虫の薬にまで入っているし、特にセクシュアルな領域だとか、喉とか皮膚、いわゆるビット数が少ないといわれている感覚に、ものすごく大きな影響を与えている。物質的根拠としてのスティミュレーション(刺激)ということでいうと、メントールに匹敵するマテリアルはない。

あれが何を意味しているかということはすごく興味深い問題で、いわゆるイメージウェアとしての情報が、記号にしても、テキストにしても、ヴィジュアルにしても、オーデイオにしても、感覚情報という単位で考えると、身体的消費量が増えたのは触覚領域なんです。

例えば、感覚に100ビットあるとすると、88くらいは視覚で、聴覚が次で、味覚は2ビットぐらいしかないといわれている。味覚というのは、あまい、からい、にがい、しょっぱい、その程度のものを感じとるだけで、実はこの中で2ビットが何十ビットにまでふくれあがる。それはなぜかというと、食べたものだと視覚や嗅覚という要素がある。その中で生成される触覚的な情報、熱い、冷たい、のどごしや噛み心地といったことを含めると、口の中を通るものというのは、圧倒的に情報量が肥大していることに気づく。単純に局所的な感覚の情報を計量化しようといっても、ほとんど無理なことに気がつくべきです。

そうすると、マン=マシン・インターフェイス、特にVRで、人間のインサイド情報をマシンに対して計量的にインストールしたり、インターフェイス内部にわれわれの感覚情報や動作や生理学的な情報を導入しようとしても、実はわれわれの側では常に感覚の合成技術が変容しているわけです。だから、感覚の合成や編集の機能を定常的に定位することはできない。ただ、そういったマッピングを予測した上で、フレキシブルにメディアをデザインすることはまだ可能であると思います。その場合、コンピュータはある意味で非常に局所的なマシンであるわけですから、それを新しい形にリデザインしなければならないのではないか、という要請はかなりあると思います。❹


私たちが「現実」を精査する場合でも、まさに視覚はその他の感覚器官に比して、圧倒的な情報量を処理する器官であるが、電子情報メディアにおいても、視覚系の情報量は増大を加速し、決定的なハイアラーキーを反映してきた。ただし、私たちは「現実」を精査する場合、決して視覚にのみ依存した情報計測ではなく、聴覚、嗅覚、触覚、さらに均衝、熱、書語、運動など、マインド・プロセッサとも呼ぶべき極めて濃密な情報解析に大きく作用されていく。

そうした器官を持つことのなかった電子メディアの局所的な情報の肥大化は、視覚系メディアにおいてはまさに視覚化への欲望に貫かれた自動延長のテクノロジーとして位置づけられるだろう。本来「見る」という情報欲求が、人間とその文化にどのような影響を与えてきたかは、いわば人間が地球上の生態系とどのような関係を作りだしてきたかという問題とパラレルなのだ。

テクネ(手業)の時代の道具から、機械の誕生、そして記号や象徴的な手続きに基づいたメディアの進展、そして電子テクノロジーと電子メディアによる知覚器官の圧倒的な拡張を経て、私たちは現在、テクノロジーという自然概念を所有するに至ったといえる。

──武邑光裕「情報生態系の身体と非公認の現実」(「スタジオ・ボイス」1990年10月号)

伊藤 身体が深遠な感覚のエディット・スペースになってしまう。そしてそこに新しいインナーなインターフェイス群ができてしまう。

武邑 今、日本でもアメリカでも、例えばアメリカだと20億ドルの国家予算を使って人間の感覚情報を計量化しようとしている。第六世代コンピュータの要になるのが、感覚、情緒、そういうものの情報計量化に向かっていくというわけです。

※第六世代コンピュータ
感性、情緒理解を軸とするコンピュータ開発構想。通産省が主導する大規模プロジェクトであるが、いわば20世紀最後のコンピューティング・ドリームが実現する日は全く予測不能である。

それは、ある意味で僕らの感覚器官のメディア化であると同時に、現在、すでにインターフェイスはわれわれの内側に存在している、というスタンスに立った発想が出てきていると言うことになると思います。これはアメリカで80年代半ばくらいから躍起になってやってきていて未だにわかってないというか。

伊藤 ただ、そこで問題になるのが、せっかく様々な新しいシードができているのに、それがすぐに、旧来の産業とか社会の論理に回収されやすいことだと思う。

武邑 今、ウォール・ストリート話題になっているベンチャーの連中がいるんです。五人組の頭脳集団で、モトローラを軽く超えるような新しい石(集積回路)を作ったんですが、彼らが今度コンピュータを作るという話がある。IBMのカウンターとしてアップルが出てきたように、やはり出てきたなというようなイノヴェイションが起きつつある。従来の哲学、人文科学あるいはサイエンスといったものがつきつめてきた人間のリアリティや感覚が、バラバラにあったものがクロスフェードする地平が少しずつ見えてきたな、という感じがします。

先日ニューヨークで、その人たちのひとりと会ってきたんです。その時にホメオパシーの話が出て、これが今、アメリカとヨ一ロッパですごいブームになっている。で、僕はフラワー・エッセンシャル・レスキュークリーム※2というのを塗ってもらったわけです。

※ホメオパシー
ドイツの医師ハーネマン(1755-1843)を起源とする免疫学的な医学体系で、一般に同種療法と呼ばれる。

※2 フラワー・エッセンシャル・レスキュークリーム
1930年代におけるホメオパティ研究の代表的医学者であったDr.バック(Back)によって体系化されたフラワー・エッセンシャル・ホメオパティの現代的な再編がこの2、3年の間にアメリカでブームを引き起こしている。かつてのニュー・エイジとも一線を画し、極めてプラクティカルな利用者が多い。

それが、2時間くらいたったら、タクシーの中ですごくいい花の臭いがする。全身が花の臭いに包まれて、自分の手をかいでも臭いはしないし、タクシーの運転手が香水つけているわけでもないのにその臭いは30〜40分くらい続くんです。あとで彼に電話したら、嗅覚器官に直接花のエッセンスが入りこんだというわけです。びっくりして、さっそくそれを一個もらってきて、後で試してみたけれど、上手くいかなかった(笑)。ようするに今、様々な生理学や、知覚心理学や、生化学などが、かつて言っていた学際化というのか、あるいは集約化されつつあるのかなと思っているんですが。

それは何を意味しているのかと言えば、伊藤さんも言われたように、ひとつにはインターフェイスというのがすごく変容しつつある。マン=マシン・インターフェイス、人間とテクノロジー・メディアといった接続のためのメディア、ひとつの技術革新とは違うフェイズのものがでてきているような気がします。

伊藤 いままで究極的に網膜に情報が映ればいいというような考え方が主流だったのだけれど、物が対象化できないとか、インターフェイスが内部に入っていってしまうっていう、そういう言い方をしなければいけないある種の状況っていうのはすごく大きいことだと思います。

藤幡 脳内のソフトウェアというのがありますよね。今のレトリックでいうとインターフェイスが脳のなかに入っていったときに、最後にその子供の頃にインプリメントされた脳内のソフトウェアにしたがって認知したりしてる。古い言葉でいうと、感覚とか感性とか経験とかっていってたんだけど、どうもそういう曖昧な用語じゃ済まなくなってきているわけでしょう。だから全部の抽象美術みたいなのが意味なくなってしまったんですよ。見る価値がない。

武邑 だからヴェンダースの『夢の涯てまでも』ではないけれど、あの映画のモティヴェイションになったと彼自身が言っていたように、結局、「知ることより見ることは、人間に最も深い傷を与える」(ロラン・バルト)と。最終的に僕らが見るという行為の地平を突き詰めていくと、自分のルーツだったり、非制度的なリアリティというのが混然としてしまう。非常にアンオフィシャルな、プライベートな、そこに行くだろうな、というのは予感としてすごくあるんだけど。

※ロラン・バルト
1921年生まれ。フランスの思想家。彼の作品『神話作用』のなかで、中世において最も中心的な感覚は聴覚であり、視覚は触覚の次の三番目の機能を果たしていて、その後、視覚と聴覚の逆転が起こったと指摘している。

伊藤 深い記憶とか、強い体験とかを含めて、われわれ内部の問題をエディットしなおす作業が、これからもっと開発されたり研究されたりしなくてはいけないということですね。

武邑 オハイオのライトパターソン空軍基地で、トーマス・ファーネスがスーパーコックピット※2を開発したのは、敵機のレーザー光からパイロットの視覚を守るという目的だった。つまり、完全に外界を遮断する。

※トーマス・ファーネス
1980年代半ば、オハイオ州ライトパターソン空軍基地に於て、「スーパーコックピット」の開発を担当した、いわばヴァーチュアル・リアリティのパイオニアの一人でもある。現在は、ヴァーチュアル・リアリティ・インターフェイス研究の第一人者として、ワシントン大学ヒューマンファクタ一・リサーチ・ラボのディレクターを務め、ヴァーチュアル・リアリティの産学協同コンソーシアム・プロジェクトを主導している。

※2 スーパーコックピット
操縦者から等距離に設定されていたスイッチやレバーの機能をすべてヘルメットの内部に収容し、そこに装着されたゴーグルに次々に映しだされるイメージを見ることで、爆撃や戦闘まで行なってしまうもの。

あれがいわゆるヘッドマウンテッド・ディスプレイの基本的な要素だったわけだけれど、彼らが80年代に1億2千万ドルぐらいの予算を使ってやったことは、インターフェイスの開発以前の、人間の感覚情報の計量化だった。それに異常な金を使ったために、ミリタリーの予算という枠組みが、生理学や、そちらの方向へと変換してしまい、大幅にカットされたわけです。ファーネスは、結局、ワシントン大学へ移ってしまったが、何が残ったかというと、膨大な感覚情報のデータベースなんです。

規模が縮小して、今やっとマン=マシン・インターフェイスの開発へとライトパターソン空軍基地は移行したけれども、それ以前の80年代の膨大な国家予算というのは、実体ある機械をつくる以前の問題にすべてが消費された。例えば、人間の第一視野とか視覚野の中で一番アイトラッキングが速度をもって行なわれるポイントだとか、そちらの問題の方が圧倒的に重要であったわけです。

伊藤 藤幡さんがNHKの「アインシュタイン・ロマン」のプロローグ篇でやったジェットコースターに乗っているときの視覚のパラメータでは、そういう計量化の作業はかなりやったんですか。

藤幡 いや何もやってないです。Gの感覚を、1枚のテレビのディスプレイで表現するのに何かいい方法はないかといろいろ荒俣宏さんとディスカッションして出てきたのがカトゥーン・アニメーションだった。あれはデフォルメすることによって、Gの感覚を見る人に訴えているわけだから、普通に撮ってきた映像をデフォルメすることで、結構Gの感覚がだせるかもしれないと思ったんです。そこから先は感覚的なやり方で、これぐらい伸ばしてみたらどうかなと言ってやっている。あれを人に見せたら加速度計でジェットコースターのデータをとって、それに合わせて動かしたらいいと言われた。

※Gの感覚
取力のある状態で、加速運動をした際に体感する、特殊な感覚。

伊藤 あれはピーター・ヴァイベルのエキスパンデッド・シネマ※2なんかにもつながっていきますね。デフォルメやエフェクトによって人間の感覚を変えてゆく。

※ピーター・ヴァイベル
1945年オデッサ生まれ。1976年以降、ニューヨーク州立大学センター・オブ・メディア・スタディ教授など、欧米各地の大学で教鞭をとる。リンツのアルス・エレクトロニカのコミッショナーであり、1991年からフランクフルトのニューメデイア研究所の初代ディレクターに就任。人間の身体の延長としてのマシンの進化論やメディアをめぐる都市国家論などを展開。

※2 エキスパンデッド・シネマ
ピーター・ヴァイベルが発想した「意識拡大のための映像」シリーズ。生体の知覚を包みこんでしまう全体環境としてのメディアを志向し、人間の感覚機能を工学へ転用してゆく生体工学と芸術の間のダイアローグが企てられていた。

武邑 リアリティの再生とか複製というのは、エフェクタブルだと思う。シミュレーションというのは、ある意味では現実を転写しなければいけないわけですが、今、フライト・シミュレーションでも、使っているのはすごくエフェクタブルで、実際に着陸するよりも圧倒的に地形がデフォルメされている。現実に存在している地形をそのままの縮尺率で変換しても、シミュレーションの中でのコックピットの情報としては弱くなってしまうんですね。逆にいえば、実際に飛行機に乗らなくても免許がおりてしまうというのは、リアリティにいく前の、一種の大リーグボール養成ギブスみたいなもので、あれは圧迫されて現実に戻ったときにそれ以上の力がでるんだけれども、今のシミュレーションは最初に増幅してあげるわけです

そうすると、現実に香港の空港に降りるときに、今までイメージの中にあった巨大な圧迫感とかが、すっと離れて、すんなりと降りていける。湾岸戦争のときのシミュレーションでも、迎撃されるとき、レーダー波のミサイルの光のポイントが1個見えてきたとき、迎撃される何秒か前に警告灯がつきますね。そのときに瞬時に判断をして、それを撃墜するなり、避けるなりするわけだけれども、実際の現実の中に起こるミサイルの迎撃よりもポイントが圧倒的に速くなっている。つまり現実の中での基準値を適用させてしまうと遅い。だから、ほんとうにテレビゲームなんです。

伊藤俊治
武邑光裕
藤幡正樹

(「B ニュー・パーセプション・セオリー」に続く)


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