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情報と世界を読み取く10の視点

WEB 2.0を考えるための古典

[掲載日:]

二〇世紀半ばに予見された思想から、ウェブの未来潮流を見据える。

 ティム・オライリーらが普及させた「Web 2.0」は、統一的な定義を与えようがないが、どこかすばらしく感じる最近のウェブ・トレンドのすべてに貼られた言葉だ[★1]

★01――ティム・オライリーによる論考「Web 2.0:次世代ソフトウェアのデザインパターンとビジネスモデル」は、CNET Japanで翻訳されたものが読めるので、Web 2.0そのものについて理解を深めるためには、そちらを参考にしてほしい。
https://japan.cnet.com/article/20090039/
https://japan.cnet.com/article/20090424/

 しかし、その中心的な性質を一点だけ述べるとするならば、この世界を論じるための土俵が、コンテンツのレイヤーからアプリケーションのレイヤーに一段階上がったことである。このアプリケ—ション化によってコンテンツはデータとして扱われ、人間にとって可読なウェブ(Web 1.0)から機械にとっても可読なウエブ(Web 2.0)への変化は、ウェブをプラットフォームへと推進する。

 こうしたデータは、ソーシャルウェアと呼ばれる新しいソフトウェア群によって連携される。ロングテールや集合知は、その結果として起きた現象だ。ロングテールとは、日本語にすれば「長い尾」のことだ。Amazonの売上の半分以上が売上ランキング一三万位以下の本の積み重ねによって作られていることを、クリス・アンダーソンがブログで発表して話題になった。売れ筋だけ並べるのではなく、一個や二個しか売れない商品を積み重ねることによって全体としては大きな量になることをロングテールという。集合知とは、予測市場やソーシャル・ブックマークのように、複数人の小さな視点を集めることによって、かなり高い量の情報が作られることをいう。

 Web 2.0を考えるにあたっては、こうしたソーシャルな話題を扱った本を取り上げるのが普通であろう。だが、今回は、この業界の古典ともいえる論文を読み込んで、そこから光をあててみたい。

 ウェブが「くもの巣」であることからもわかるとおり、Web 2.0で注目されているウェブをネットワークとして見る視点は、ほとんど先祖がえりである。その先祖にあたるのが、ヴァネヴァー・ブッシュが一九四五年に『アトランティック・マンスリー』に発表した「As We May Think(われわれが思考するごとく)」という論文である。日本語では、西垣通編著の『思想としてのパソコン』(NTT出版、一九九七年)に収録されている。

 この論文では、有名な「memex」が導入される直前に、脳の網目状経路が実現する連想作用と図書館のような階層型索引システムとの違いが議論されている。神経回路がネットワークなのだから、人間が情報選択するときもネットワーク的にしてしまえばいいという発想から、ハイパーメディアやパソコンの元祖である「memex」は生まれてくる。

 この神経回路のメタファーこそが、「As We May Think」というタイトルの解題にあたる。外部世界のほうに神経回路をあわせるのではなく、外部世界を神経回路にあわせてしまおうというIAの思想はここにはじまるのだ。

 西垣がこの本の序文で鋭くも指摘するように、コンピュータをめぐる人間の知的関心は、人工知能(AI :Artificial Intelligence)と知能増幅(IA : Intelligence Amplifier)の二つの流れがある。IAの保守本流は、ヴァネヴァー・ブッシュ→ダグラス・エンゲルバ—ト→アラン・ケイと連なり、スティーヴ・ジョブズによってついに商業化に成功する。

 現在のIAの動向がブッシュによってどこまで予見されていたかを「As We May Think」に見ようとすると、そのあまりの網羅っぷりに読者は驚くことだろう。情報過多と認知限界、チープ革命、ウェアラブル・コンピューティング、ワイヤレス・コンピュ—ティング、Mathematica、Wikipedia、ペン・インターフェイスなどなど。最後には、世界を電気信号のネットワークとして見て、神経回路と外部世界を直接つないでしまおうという発想から、神経接続の可能性にまで言及している。

 世界をネットワークとして見ると、ネットワークには独自の距離があることが了解できるだろう。GoogleのPageRankをとってみればわかるとおり、検索の本質は、この距離を測ることにほかならない。検索とリコメンデーションとフィルタリング、ハイパーリンクは、その意味で区別できない。

 たとえば、クエリー・フリーという検索パラダイムがある。普通の検索が、入カフォームにキーワードを入れて検索ボタンを押すのに対して、クエリー・フリーでは、文字を入力する先からウェブ検索の結果をたちどころに表示する。この無意識の検索は、入力補完などによってすでに実用化されているのだが、これを検索だと気づく人は少ない。

 同様に、ハイパーリンクをダイナミックに検索することも可能だ。「はてな」のオートリンクは、ハイパーリンクを準動的に生成している。性能の問題さえ気にしなければ、検索結果の選択も含めて完全に動的にすることさえ可能だ。通常の静的なハイパーリンクは、最もシンプルな検索である。ブッシュが「As We May Think」の中で、ハイパーリンクのことを検索の一部と見なしていることは注目に値する。

 ある文字列と最も近い距離のドキュメントを作者が指定したものがハイパーリンクである。距離の近い順にすべて列挙すれば検索と呼ばれ、距離の近い最初のいくつかを絞って表示すればリコメンデーション、距離が遠いものすべてを削除して表示すればフィルタリングと呼ばれる。SNS(Social Networking Service)は人間関係に基づいて世界の距離を計算できると仮定し、それをインターフェイスのレベルにまで落としたものだ。

 しかし、これらはすべて、世界の距離を計算していることにほかならない。あとはユーザー・インターフェイスによって呼ばれ方が異なるだけだ。すべては検索なのだ。Web 2.0はこういった広い意味での「検索」の時代である。しかし、その重要性は六〇年以上前に予見されていた。

 もう一冊、本を紹介しよう。アラン・ケイ(Alan Curds Kay)の論文集『アラン・ケイ』(鶴岡雄二訳、浜野保樹監修、アスキー出版局、一九九二年)である。

 この本には「パーソナル・ダイナミック・メディア」「マイクロエレクトロニクスとパーソナル・コンピュータ」「コンピュータ・ソフトウェア」「教育技術における学習と教育の対立」の四つの論文が収録されているが、全く異なるテーマを扱っているように見えて、アラン・ケイの主張はたった一つである。

 パーソナル・コンピュータの父と呼ばれるアラン・ケイが、その概念を発表した論文のタイトルは、「パーソナル・ダイナミック・メディア」である。パーソナル・コンピュータとはパーソナル・ダイナミック・メディアにつけられた別称にすぎない。彼は、パーソナル・コンピュータを「個人が動的にメディアを作るメディア」すなわちメタメディアと位置づけていた。

 マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』(森常治訳、みすず書房、一九八六年[Marshall McLuhan” The Gutenberg Galaxy: The Making of Typographic Man" Univ. of Toronto Press, 1962])を、半年間他のことを何もしないで読み込んだアラン・ケイは、コンピュータを”コンピュータ”と呼ぶことに違和感を覚え、”メディア”と呼ぶことにした。そして今までのどのメディアとも違うのは、それがメディアを作るメディア、メタメディアであるという洞察に至る。

 パーソナル・コンピュータが「メディアを作るメディア」すなわちメタメディアだとして、それがグーテンベルクの印刷技術のように世界にあまねく普及するというのは、いったいどういう状況なのだろうか。そのことを議論するために、アラン・ケイは“コンピュータ・リテラシー”という言葉を作り、識字率を一〇〇パーセントに上げるがごとく、世界中の人がこのリテラシーを持つべきだと宣言した。

 コンピュータ・リテラシーとは、コンピュータを使いこなす技術のことである。だが、ここで“使いこなす”というのは、コンピュータ上のメディアでメッセージやコンテンツを作ることでは決してない。つまり、アラン・ケイの定義によれば、「2ちゃんねる」や「はてな」や「mixi」でメッセージを送信しあったり、WordやExcelで文書を書いたり、IllustratorやPhotoshopでかっこいい画像を作成しても、コンピュータ・リテラシーを持っていないことになる。それだけでは「メディアを作るメディア」としての特徴を活かしていないからである。

 では、プログラムを書く技術があればいいのだろうか。アラン・ケイは「プログラムは勉強さえすれば誰でも書ける」という。つまり、世の中にいるほとんどの職業プログラマーは、コンピュータ・リテラシーを持っていないということになる。

 アラン・ケイを代弁すれば、「はてな」開発者の近藤淳也や「gree」開発者の田中良和のような人はコンピュータ・リテラシーを持っている。近藤氏は、「はてな」を作る前にプログラムの素養はほとんどなく、プロのカメラマンであった。田中氏は大学時代は法学部政治学科出身で理系でさえなかった。そのメディアの必要性を感じた人間が、外部の専門家に頼るのではなく、「その手」で、たちどころにメディアを作ることができる能力、それがコンピュータ・リテラシーである。

 彼らは強い意志と優れた能力を持った特別な人たちだと、人はいうだろう。確かに、ユーザーが一〇万人を超えるメディアを誰でもが作れるというのは、ほとんどありえないことだ。そうではなく、誰もが自分のためにメディアを作れるようになるためには何が必要か、アラン・ケイは考えた。はじめての完全に動的なオブジェクト指向言語Smalltalkは、そのようにして発明されたのである。

 アラン・ケイは、“誰でも”を、はじめから子供たちにまで広げて考えていた。子供たちでも立派に文章は書ける。だから、子供たちでも立派にメディアを作れるはずだと考えた。そしてアラン・ケイは、コンピュータを教育の道具として使うのではなく、コンピュータを道具として教えるのでもなく、「メディアを作る」教育をすることが極めて重要だという知見に基づいて、優れた教育論を展開した。

 アラン・ケイは、極めて一貫した思想の持ち主である。以上のことは四つの論文に散在してはいるが、一貫した流れの中で理解しなければならない。「パーソナルコンピュ—タ」「オブジェクト指向」「コンピュータ・リテラシー」「教育論」「メディア論」は、彼の別々の仕事ではなく、一つの仕事「“すべて”の人々がメッセージだけでなく“メディアを作る”ことができるようになるためにはどうすればいいか」、ただその一点に集約される。

 その環境は、Web 2.0以降の世界において、どのように実現されるのだろうか。ユーザーがメディアを作れるソーシャル・メタメディアの萌芽はいくつか見られる。Ning.comは、誰でも人のソースをコピーしながらソーシャルウェアの開発・運用ができるというサービスだ。salesforce.comのAppExchangeはエンタープライズの世界でそれをやろうとしているし、secondlifeは3Dオンライン・ゲーム空間上でオブジェクトの挙動をユーザーがコーディング可能とし、次世代のウェブを予感させる。

 このような新しい潮流は、Web 2.0の先にあるもののように見えて、じつは古典の中に埋もれている。もちろん世界の進行の微分を感じとることも重要だが、時には骨太な古典の中から、次になすべき仕事を考えてみたい。

鈴木健

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