IC16-20

建築

「宿命反転」の戦い

[掲載日:]

断絶の時代とテーマパーク

――今日は,荒川さんの《養老天命反転地》のお話を伺いながら,エンターテインメント・テクノロジーや一種の遊戯的な空間と建築との関係について討議いただければと考えております.

荒川――あなたのオーランドのティーム・ディズニー・ビルディングはテーマパークと言っていいのですか?

建築の画像
荒川修作(景相家)
Photo=大高隆

磯崎――ディズニーは「エンターテインメント・アーキテクチャー」と自らのコンセプトを呼んでいるのだな.だから建築はテーマがないといけないと言う.つまりディズニー・イデオロギーではあるけどね.

荒川――あなたの立場はどうなの.

磯崎――僕は,もともとテーマパークそのものというよりも,テーマパークを組み立てるようなプランニングのロジックがない限り,もはや計画概念は成立しなくなったという見方をしている.あの建物は,ディズニーから与えられたテーマじゃなくて,僕が勝手に作ったテーマをディズニーがオーケーしてくれた.「タイム(時間)」というテーマなんですよ.

荒川――だから,パークじゃない.

磯崎――いや,パークと言ってもいいのかもしれない.ティーム・ディズニーについては,僕は『10+1(テンプラスワン)』(INAX)という雑誌に,アメリカの雑誌に発表した「テーマ・パーク」というタイトルの論文を転載したことがある(No.2,1994).詳しくはそちらを読んでもらうとして,僕の経験から言うと,19世紀以来これまでの計画概念は,それがモダニズムの基本でもあったわけだが,物事はリニアにつながって伸びていくということを前提に組み立てられたロジックに基づいている.

建築の画像
磯崎新(建築家)
Photo=大高隆

 つまり計画を正当化する論理は,たとえばプログラムや機能がまずあるから,それらを組み合わせていくとこうなります,という三段論法だ.与件,演算,解という一連のプロセスです.それはリニアなんだ.たとえば日本では,経済計画を説明するときに,動向はこういう風になっている,とグラフを書きます.いまリセッションで下がったとか,いつ底打ちするかとか,議論がある.日本経済は右肩上がりで,これまで常にグラフが上向いていた.これを右肩上がりの経済と言っていたんだね.いまうつむき加減なんかとも言ったりする.

荒川――なるほど.

磯崎――これは全部,リニアなコンセプトで組み立てたロジックだと思うんだ.現在の日本はこのロジックそのものが破産したというのが僕の見方で,だから右肩も左肩も,底打ちであろうが天井うちであろうが,そんなものはないと僕は思っている.しかし,それに代わるべき論証方法が見つからない.

 その代わるべきものの一つとしてテーマパークがあるんじゃないかと思っているわけだ.なぜならば,すべての計画概念には連続した歴史があって,その結果が見えている.それが延長すると未来がこうなるという予測をするわけだけれど,テーマパークにはその歴史がない.

 たとえばそこには必ずしも新しくする要請がなくともいい.人も住んでいない.何が必要かという判定基準もない.あるのは物事のでっちあげです.そしてそのことの正当性を説明する言葉がない.

荒川――たとえば18世紀にアレキサンダー・ポープ(1688-1744)というイギリスの詩人がいたけれど,彼は完全にテーマパークの歴史的な創造者だと思います.

 たとえば彼は,ロンドンの庭園にローマ遺跡そっくりのミニチュアを作ったりしています.道も同じような木を植えて,地下はいわゆるグロッタで噴水があり,噴水の後ろにはガラスの破片がある.その散らかったガラスの破片に噴水が映るわけ.あれは完全にテーマパークとして成り立っていたわけだけれども,ポピュラーにはなりえなかった.倫理の問題でしょうね.

磯崎――18世紀の半ばというのもまた特別な意味があって,当時は断絶の時代だった.現代と全く同じことが言えると思うけれど.現代の前の断絶期が18世紀の後半.その頃にあなたの言う廃墟の概念も生まれてきた.それから現在の住居というものの概念も生まれてきている.

荒川――でもポープの場合はそれらを総合していたように思いますが…….

磯崎――それがイギリス風庭園と称されて,いずれ公園にまとめられていく.

荒川――あれだけの詩人が詩を書くことをやめて,あのテーマパークを一つの詩の体系として創り出そうとしたんだから,相当な力が入っている.彼は,自分ではテーマパークと呼んでいないけど,いまから考えるといろんなテーマがあって,体系的に作りあげようとしていたように思いますが…….いわゆる詩を行動に移そうとしたのでしょうね.身体の新しい使用法…….

磯崎――ポープの時代というのは,クラシシズム(古典主義)の概念が危機に陥って,それ以上続かないということがわかってきた時代だね.それまでは建築史的に言えば,ルネサンス,マニエリスム,バロック,ロココとずっと連続してきた.ところがその先が見えなくなった時代がポープの時代で,つまり先行き不明の状態が起こった時期だよね.そして,どうしようもなく行き詰まったクラシシズムの概念をどこで突破するかということで,あなたの言うようなさまざまの試みがなされた.最終的にはフランス革命みたいに社会も変わっていくという,そういう時代だった.

 それといまは非常によく似ている.われわれにとって,モダニズムがあの時代のクラシシズムと同じ役割をしていたわけだよ.そして,モダニズムは連続的な展開概念だからもうこれ以上展開しないではないかと言って,ポストモダニズムが生まれたけれども,これだってポストと言うからには連続しているわけだ.つまり,80年代のポストモダニズムはモダニズム内部の運動でしかなかった.いまはそれがもっと深刻な事態に立ち至っていて,モダニズム全般の問題が起こっているんだと思う.

荒川――まさにそのとおり.けれど,問題はこういうことじゃないのかな.19世紀のおしまいから20世紀にかけて,自然科学がすべての主導権を取っちゃった.現代思想というのは,この100年から150年,自然科学と一緒に,いや,自然科学について行けば何か生産的なものが生まれるだろうということでやってきた.特に建築は技術的にもそうならざるを得なかったわけだね.

 だけどいつまで待っていても思想的なものは出てこないわけだよね.技術的なものが思想にどうしても結びつかない.最近,ヴァーチュアル・リアリティだ,人工生命だとかいって思想に結びつけようとしているけれど,何一つ成功していないんだよね.

 そこで私たちの《養老天命反転地》が登場するんですよ.いったい私たちの生活の中で思想とはなんだろう,プリミティヴな状態でも新しい道徳が可能だろうか……,行き着くところはこの肉体だよ,と言ってね.現在ある以上のコンピュータなんて,出てきても必要ないんじゃないか.

 アメリカでは最近,小学生がコンピュータを使うことを嫌がっていると聞いています.だってコンピュータはどんどん新しくなっていて,やっと覚えたと思ったらまた新しいのが出て,また習わなくちゃならない.そんなマシンなら使わないほうがいいんだと言っているらしいのね.むしろポープのテーマパークのようなものこそ,私がやろうとしていた意味での新しいテクノロジーなんですよ.

非言語的な身体へ

磯崎――いままでの,頭の中だけで動いていた思想じゃなくて,それをコントロール不能な部分を含めた身体の持っている感覚などのいろんな側面を手がかりに,もう一度組み立て直そうということだよね.これはもうひとつの思想だ.

荒川――ただ,思想までいってしまうと,また“アブストラクト”になってしまう.いままで自然科学として築き上げてきたいろんな技術,それによって生まれてきたものがある.それを今度は肉体の行為によって同じようなものを作りあげるための方法,それを見つけるためのテーマ革命が必要だということで,たまたま私たちは使い始めたわけです.

 つまり,一見プリミティヴだけれど,《養老天命反転地》がもたらす身体の新しい使用によって,行為とイヴェントとによって起こってくる現象は,その辺のコンピュータよりはるかにすごいものがあるように思います.それらは空間とか時間とかいう言葉で語られてしまっているから,一見機械やコンピュータとほど遠いものであるように思われていますが.だけど,そこに形成されるであろう場のようなものを,新しいコンピュータ(生命)と呼ぶこともできる.

 いままでは明言するのを避けてきたけれど,われわれが生きるのに与えられた短い時間の中では,こちらのほうが最短距離で新しい思想を打ち立てられるということを私たちは証明したい.自然科学を推し進めると,宇宙の神秘も肉体の神秘もわかるという,ものすごいロマンティックな考えがあるけれど,これはいつまでやってもだめですね.まだまだ長い時間が必要です.実証と言説の両方をやらなくちゃならないけど,磯崎さんは両方やっているんじゃない?

磯崎――うん,なんだかそういうはめに陥っている.黙ってものをつくっていればいいのだけど,それを理解してもらう枠組みを変えているから,そっちへ誘導しなきゃならない.誰かがやってくれるのを待っているんだけど,うまくいかないよね.

荒川――私たちは言説と実証を“コンバイン”して,少しでも身体の行為を経済化し政治化したいですね.身体の内部から肉体を引きずり出すその行為は,一種の道化をやること,プリミティヴな世界をひらくことです.

 たとえば,人間にはスポーツから思想を抜き出そうという行為はともかくもなかったし,いまだにない.どう見ても出てきそうにないんだよね.なぜなら,道徳とか倫理というものはそういうところを見えなくするような発明・発見ばかりしてきたからだよ.

 私がいま言わんとしているのは,真に思想的なテーマパークは可能かということじゃなくて,可能にせねばならないのに,そうさせない社会の体制を作りあげてしまった.それはちょうど一つの大きな歴史の病気のようだ,ということです.

磯崎――これまで身体についての議論はいろいろあるわけです.ところがそういう議論のほとんどは,舞台があって額縁があって,そこにダンサーが乗っているといった古い形式の舞台構成をイメージしているにすぎない.振付をやって自分の外にいる眼に映った肉体が,ああ動いたこう動いた,逆立ちした,そういうときに身体はどうやって動いたとか,何を感じただろうとかいうことを言うのが身体論だった.ところがそれはもうあなたの言う身体とは違うものでしょう.

荒川――その身体は,もう一つフレームを作っちゃっているんだ.

磯崎――しかもそのフレームを外から見ている.

荒川――そのとおり.この何千年もの間に人間のつくり上げてきた芸術の形式はすべてフレームがついています.いわゆる“ペシミズム”から出来上がっているからです.すべてフィクション…….

磯崎――そう,本来ならすべての感覚をコントロールすることができないような自分の身体,その中にいることから始まらないといけないんだ.フレームつきの色眼鏡をかけている.

荒川――言葉と言語で作られた身体ではなく.生身の身体の行為によってつくられた身体の場を“建築する”というのでしょうね.

磯崎――身体を言語化して,それを記号として操作するのではなくね.

荒川――ただ,初めにテーマがあるパークじゃなくて,テーマがある大地とでも言えるような場所へ移動させるような行為も可能じゃないかというのが私のアイデアなわけなんだ.ここから動かすこと,ここから消すこと,プッシュすること,その行為をさせる場所をテーマパークと言うんだろうね.

 それで思い出すのだけれど,かつて瀧口修造さんが,「一番身近なもので一番親しんでいて一番知らないもの,それは肉体だ」と言う詩を私に書いてくれましたが,事実そのとおりなんですよ.「肉体は身体とはさほど関係ないからね」と40年前に彼が言ったときには何を言ってるのかなと思ったけれど,いま考えてみるとさすがに詩人だった.私はそこに建築の原型を見るんだな.

 同じように,磯崎さんが30年くらい前に,日本人としての直観なのかあなたの直観なのか,「廃墟とは建築だ」と言ったけれど,建築家として廃墟に興味を持つという直観は,アジア特有のロジックなんだと思う.その体系を作ってやろうと思ったんだ.

 それをやるためには,何であろうとまず身体と言われているものを言語から離さなくちゃならない.それをどこまで離すことができるかという行為をさせるゲーム場をテーマパークとして使おうというのが,今回のアイデア.

 本当に理想的なのは,まさに使い古された,いまからインスタントな歴史が始まるであろう村,町,都市,そういう場所こそをテーマパークにしなければいけないね.だから私が一番興味があるのは都市なんだよ.だから東京の臨海副都心に新しい新市を構築するように,何年も前からブループリントを制作しているのですが.

「見えない都市」,あるいは都市計画と建築家

磯崎――都市についてはまた別な定義を出さないといけないけれども,少なくとも,僕らが都市を見る場合,それは身体や建築を見る場合も同じなんだが,見る眼鏡を引きずってきている.だから都市とか身体と呼ぶための眼鏡つまりフレームはかなり固定されていて,それがあるからお互いに同じものは同じに見えるという共通の認識ができていたけれども,現在はそのこと自体がおかしくなっちゃったんじゃないかと思うわけ.

 だからあなたの言う身体というのは非常におもしろいと思う.おそらく無媒介に,フレームなしにいきなりその中に入り込む,つまり記号化しないレベルでものを語るということはありうるとも思う.そういう強引さのことをあなたは言っているんだと思うけれども(笑).

荒川――まったくそのとおりです(笑).強引というけれどテーマがあるんだよ.ところで,あなたはいつごろから都市を作りたいと思わなくなったわけ?

磯崎――僕はもともと都市計画が専門で,1960年頃初めてあなたと会ったとき,都市デザイナーと称していた.そのころは建築家になろうとは思っていなくて,都市をやろうと思っていた.そこで都市のことを少し勉強していた.それは大学で都市計画の講座を出たわけですから,当然勉強せざるを得ないわけだよね.

荒川――大学では都市を作る人を建築家とは言わなかったの?都市計画をする人は建築家と呼ばれない?

磯崎――呼ばれない.

荒川――それは逆だと思うけどね.都市を作る人を建築家と呼ぶんだよ.

磯崎――それがまっとうな意見なんだけれども,ライセンスがかかわるので日本の分類ではそういうわけにはいかないんだな.都市計画だけやっていては建築家のライセンスが取れない.都市計画家は都市計画のことしかできない.それは国家が決めたことなんだ.だから,都市をデザインしようと実際に絵を描いたり,調査をしたりしていた.すなわち,これはメチエということなんだ.油絵の具があって筆があってキャンバスがある,こういった一連の制作する道具があるわけでしょう.それを介さない限り絵にならないという通念があるわけ.これは,一般論としてだよ.

 そしてあなたが卒業するころに所属していたネオダダは,そのメチエの持つ限界といっさい無関係にやろうとした.メチエの持っているロジックなんかないということからものを考えようとしていた面があった.僕はそこに関心を持ってつきあったわけだ.それと同じことが建築や都市でやれるだろうかということだよね.

 そうすると,少なくとも都市に関していうと,計画という手段でしか都市と関わりが持てなくなる.職業としてやっていかなければならないから,あなたが絵を売るように,僕は何かを作らなければならない.都市計画家として何かプランを売るといったことになるわけ.そうするとそこで使えるメチエ,手段としての都市計画はこれはまた古色蒼然で,絵の比喩でいうと,まだ絵の具ができていない,筆もない,あるとしたら石のかけらで板に傷つけるという感じのプリミティヴなレベルの都市計画なんですよ.それが日本では都市計画法といった法に体系化されている.

荒川――それはどうしてなんだろう.これだけ頭のいい奴がいっぱいいるのに,ほかの国にあって日本にないわけは?

磯崎――いや,これは単に他の国と同じものを移転して,日本という国で法律にしたに過ぎない.日本が近代化するために,近代都市をつくる.そういう抽象的な理念によって支えられている.よくも悪くもそんな限界を背負っているのだよ.

荒川――どうも,日本民族は文明という言葉のコンセプトを知らなかったようですね.日本人がそれを知ったのはここ100年か150年前でしょう.日本人はシヴィリゼーションという言葉を翻訳するにあたって「文明」という漢字にしたけれども,これはもとの言葉から完全に意味内容のエッセンスが抜けちゃっているんだ.

 欧米人,特に欧のほうにとって,シヴィリゼーションという場合,それは「風景を都市化」することなんだ.どういうことかと言うと,山あり谷ありのところへ人間の影を作るということ,つまり,私の分身を住まわせるということが都市化なんだ.

 シヴィリゼーションということをまともに考えた奴は日本にはいなかったようですね.だから村や町ができちゃったし,東京もできちゃった.日本民族は本当は町や都市を構築した意識やコンセプトを持っていないのです.いわゆる文明(都市化)を知らないのです.意識して都市化されていない所には,お墓も意味を持ちませんね.どんなにすばらしい文化も都市化されていない場所には,うまく使用できないのです.現在の日本のように…….だからいまこそ新しい都市をつくらねばなりません.そのブループリントは出来ているのですがね.

 欧米の連中は,たとえばミッテランを見ればわかるけれども,借金しても,20パーセントの失業者がいても,新しいシヴィリゼーションを作りあげるためには少々の犠牲なんて平気なんだ.だから,都市をさらに都市化するためにはこれとこれが必要だと言って50兆円使って一人でやっちゃった.だけれども,それ以上の大切なことはこの地球上にはないということを知っているから文句を言う奴はいないんだよね.

磯崎――都市というものをいままでの制度,枠組みを完全に無視して,裸で見ると全く違うものなんだな.大学で教えるものとか,メディアで言われるものとか,本に出てくるものとかは,都市とは違う.日本が欧米を追いかけるために輸入した近代のコンセプトと本当の都市は違うんだ.それで僕は「見えない都市」ということを言いはじめたんだけれども.

荒川――いま,少し恥ずかしくない?

磯崎――いいや,そうでもない.いまでも字義どおりにとらえるとそれは限界があるけれど.別な言い方をすれば,目に見える物体の集積が都市ではないんだ,都市とはその裏にあるものだということだから,むしろ都市というものを概念として見直さなくてはならないんだ.ただ,そう言ったところで,都市計画を職業としてやっている人には全然関係なくて,他の領域の人しか関心を持ってくれないんだ.

荒川――建築家も持たない?

磯崎――そう.

荒川――その言葉は建築家としてのあなたを立証するためにはいいけど,啓蒙するためには意味を成さないと思う.なぜなら,あなたの言うとおりに都市というのは見えない都市でいいけれども,見えない都市というのは,心や魂を構築して共同の場をつくることだから.逆に魂と心というのが見えない都市ですよと言えばいい.でもあなたは,そうは言わない.

磯崎――そう一気に短絡しないでくれよ.短絡こそがラディカルな思考を可能にする手っ取り早い方法だと僕は何度も言ってきたから,心や魂に翔んでいくこともわからないわけじゃないんだけど,逆説的に言うと,啓蒙にはなりにくい.説明に手続きがいる.たとえば,現実の都市と,僕が都市を作る職業を選ぶということの間には根本的な矛盾がある.ところが僕が社会的に認知されるのは,職業的手段を介してでしかない.そうしないとお金をくれない.この矛盾を埋めるのはもう無理だと行き詰まりを感じたわけ.

荒川――それは60年代の初め?

磯崎――いや,60年代の初めはまだ破れかぶれだったから霞を食っていても大丈夫だった.ところが70年代になるとそうもいかない年頃になる.そこで70年の初めくらいだったか,都市から俺は手を引くということを言ったわけ.まあ,少しずつ建築で食えるようになってきたということもあった.そこでしばらく建築にこもって都市から撤退ということを言ったんだ.赤軍派が山にこもるような時代だったし,僕は別にゲリラ的に,大きい計画しかできない都市にかかわる制度を壊すために,小さい建築や住居にこもっていかざるを得ないと思っていたのだけど,世間はそうとってはくれない.あいつは都市がおかしくなるのを知っていながらその現場から逃げたと言われているわけですよ.

荒川――そう言われてもしょうがないよ(笑).

磯崎――でも,いくらやっても討ち死にするだけの話ですよ.無駄なことを責任を持って引き受けるなんて言ってもしようがないでしょう.

荒川――80年代から90年代にもあなたはまだ逃げてるよ.都市を信じてないと言われてもしょうがないよ.あなたは,少々の間「建築家」からはなれて「文明評論」をしていたのではないですか…….

磯崎――だから,80年代の半ばになって,「いま,見えない都市」ということを言いながら,都市をもう一度別な視点から捉え直そうと思い始めたんだよ.だが,このときも,もう一度回避しました.時代はバブルだったからね.日本では忙しく立ち回っても,悪い結果しか出ないことがわかっていた.

 それからまだ10年しかたっていないから準備中というところだけれど,それは全く違う方向からの迂回のあげくです.つまり,改めて「建築」の概念をはっきりさせて,「都市」という概念を攻撃し破壊することです.この段取りをわかってくれないと,逃げていると見えるんでしょうが,この手続きを介してのみ都市の正体が浮かび上がらせうるんです.

 だから僕にとっての都市は,都市計画でできない都市だということははっきりしている.だからいま僕は,片一方で日本の都市計画法とかによってがんじがらめになっている制度を壊すことについては,ぱっと悪ノリするんだ.

荒川――そうですか…….

磯崎――そこでね,たとえば昨年神戸が大震災にあった.おもしろいことに大方の意見では,これでいままで全くできなかった都市計画ができるチャンスが来たと言う.ここで一生懸命再建の計画を作るべきだというふうに反応した人がかなりいる.行政もそうだった.建築家も学者もそうだった.

 だけどそれは火事場泥棒に等しい.なぜか.いままで彼らの持っている手段でできなかったのだから,ああいうふうに見かけが壊れて更地になったから自由に建物が建つだろうというのは幻想で,本当は目に見えない権利関係とか,みんなの生活とかの,それこそ身体を持った人間が住み込んでいる空間があるわけで,たまたま上家がなくなっただけで都市計画ができると思ってしまったところにものすごい誤りがあるんだよ.政府も行政担当者も都市計画学会や建築学会の連中もそう考えた.やろうという人たちは実際にプランを作った.でもろくなものができるわけないよ.

荒川――私もその計画は見たけど,幼稚園児よりひどいもんだよ.まずこの国の知識人で都市(文明)のコンセプトを持っている人はいるのだろうか.

磯崎――ひどいというのは悪いということ?

荒川――そう.もっといえば知識人で「文明を建築」するという意味を真剣に考え,実行しようとした人はいただろうか.「フクザワユキチ」はこれからほど遠い人ですね.

磯崎――そう言うと,差し障りがある(笑).

荒川――ニワトリが5万羽いたら,卵を産むのと産まないのを分けて,それでどのくらい飼育すれば計画的に卵を産ませることが出来るかというような調子で町ができると思っているんだよ.そして作ってみたら卵を産まなくなっちゃったとかそんなことを言っているんだよ.

磯崎――それが単線的なリニア思考なんだ.

荒川――そのとおり.あなたも関係あるけどね,それはモダニストの大失敗.たとえば,コルビュジエ.彼は都市計画において決定的な間違いを犯しただろう.1935,6年に彼が計画したパリ計画のことだよ.あれができていたら,いまごろパリなんて行く奴は誰もいないよ.それをいま神戸でやろうとしているんだろう.神戸の人たちは,あんな何十階建てというところに住みたくないと言っているのに,政府や県や市の担当者は作らせている.あのグリッドで出来上がってしまった非人間的,すべて経済を中心に考え,心についてはなんの計画もない…….

 だから,どう見ても現在の日本人で文明という言葉を真剣に考えている人はいないようですね.自分には全然関係ないってみんな思っているけど,文明というのは建築化,都市化なんだよ.だけどすごく短絡的に町なんかできちゃうと思ってるんだ.だから一度そうではないんだということがわかれば,日本人を変えられるかも知れない.私たちの《養老天命反転地》はそのためのテーマパークなんだ.いわゆる都市のミニチュア化ですね.

磯崎――テーマパークじゃなくて,あなたの作った心のパーク(笑).

荒川――そう,だけど本当はテーマパーク自身,そういう可能性を秘めていたものなんだよ.だから真剣に小学校から建築の歴史をちゃんと教えなければいけないんだ.みんな,町というのはできちゃっているもの,自然が作ってくれるもので,毎日の生活の中にぽつぽつと竹の子のように出てくるものだと思っている.文明とは構築することだということをまずは学生に教えなくては,文化などは何も生まれないでしょう.どんな文化を輸入されても,蓄積の場を持てませんね.

日本人と自然

磯崎――そこのところは日本のモダニストの権化と言われている丸山真男はちゃんと考えている.日本人が最後に行き着くのは「自然(じねん)」だと言います.要するにいつの間にかそうなってしまうような自然に頼って,そこに逃げ込むことで日本の思想は成立してきたことを的確に分析している.

 日本人は自然にどうしても引っかかっちゃうみたいだな.自然への畏怖感がある.われわれを超えた自然というものがどこかにあって,それにはかなわない.地震・雷・火事・おやじというものを丸ごと認めちゃう部分は,どうしても,残っているんですよ.

荒川――私の考えでは,自然というのは人工的に作られたものを言うんです.

磯崎――ということは,自然は神というわけですか.

荒川――いや,現実だね.私たちが知っている風景というのは神が与えたものでなくて,みんな「人間」が手を加えているものなんだよ.あの富士山といえども,人間が手を加えて,たくさんの人が行ったり踏んだり何かしたりしているからああ見えるので,あれがもし誰も行ってなかったら…….

磯崎――その比喩はちょっと無理があると思うな(笑).

荒川――富士山を例にあげれば,まず言葉を使っていろいろと言語化した.とくに日本語は,視覚にうったえる力がありますからね.ましてあの環境さえも富士山の一部にしてしまったようですね.もちろんあの見えない重さまでも…….

磯崎――まあ,富士山をカッコ付きで見ていることは確かだ.

荒川――つまり日本人は,いわゆる与えられたものをよい自然だと思っている.外国人は科学的な追究を徹底して行なって,もし見えない町があるとしたら,どこが見えないのか,どんなことをやったら見えない町が本当に出来るのかということを本当にやっているから,信じているんだよ.あなたも知っているだろうけど,現存している日本で一番古い村が奈良にあるでしょう.あれを私は見に行ってきたんだけど…….

磯崎――三輪のあたりかな.

荒川――そう.あれなんか象徴的だと思うんだよね.いまの人があそこへ行ったら,ああ自然がきれいだわ,なんて言うんだけど,あれは全部作られたものだよ.木一本と言えども自然のものじゃないんだよね.道一本でもみんな人工的に作ってある.そうすると,あれを見て「この自然はいい」って言うのはいったい何を言っているんだろうということだよ.草や空が青いこととか,そういうことかね?

磯崎――自然の物がいいって言っているんだ.

荒川――そうなんだ.日本人はヘーゲルの美学はゼロだから.自然を眺めて「これは私の魂にそっくりだ」なんてこと言う奴はいない.

磯崎――いやあ,わからないよ.それこそ日本の詩人などが言うんじゃないか.

荒川――いや,日本の詩人にそんな観念的な奴はまずいないと思うよ.なぜかと言えば,自然の中に入っていって,自分の足が濡れたりしたときに,その濡れ方にものすごく感動したり,松の葉っぱの匂いがすごかったりっていうのが日本人なんだもの.ものすごく体験型なんだな.もっとはっきり言えば,ものすごくプリミティヴ型.本当はそこから言語の介入があって,ヘーゲルたちの言うように,この風景は,この建物は,私の心とそっくりだっていうことになるんだけれどもね.

磯崎――超越的なものを,そういうふうに引き出して組み立てるというのはなかったね.

荒川――ということは,一度も歴史的にみて都市化がなかったということですね.だから「与えられた」モノやコトから何かを引き出して組み立てることを知らない民族です.身体から何かを引き出して,心や場を構築するという哲学も持ちえなかった.

磯崎――日本人の場合,もしあったとしたらさっきの地震・雷・火事・おやじで,要するに手のつけようのないような,なんかものすごい恐いものがあると.これはもうどうしようもない,というふうに思うことが,自然にひれ伏すことなんだよね.

荒川――そう.あなたはいま「恐い」って言ったけれど,自然もそれなんだよ.だから形も何もない.斬られるとか,押されるとか,落とされるとか,そういう感覚なんだよ.

磯崎――だけどそれでも,ヘーゲル的な超越性とはまったく違う超越者がいるんですよ.

《養老天命反転地》のマインドとは

荒川——超越性は,共同性を意味していますが,超越者は,共同の場を持たず個人的な出来事ですから,すこぶる日本的で抽象的なことですね.超越者は,どの国にもたくさんいます,いろいろなのが.“麻原”のようなものも…….

 「心のテーマパーク」に戻りますけれど,どこまでびしっと言語化できるか.それでその言語を,どこまで行為させることができるか.それがひとつ.

 それからいま私たちが話し合っている,いわゆる直観とか恐いとか恐くないとか,与えられたこの肉体の行動のうちで言語化できないものなどをインスタントな生活空間の場にして,それをゲームのようにしておいて,そこの中に,いわゆる日本民族っていうやつを入れたら,どんなことが起こるかというのがあの仕組みだったわけです.

磯崎――僕はその「日本人」は余分だと思ったね.

荒川――あれは外国人にわざわざ来てもらって,外国人と一緒にやったけれども,日本人が持っている常識っていうやつ,いわゆる道徳に結びついちゃったやつ,もっとひどいのは禅に結びついちゃったもの,それらをなんとか最短距離で変えるためには,どうしても日本人の何かを…….

磯崎――おそらく今日,荒川と僕は90パーセントあるいは99パーセント同じ意見だと思います.でもその部分だけ違っているんだよ.この1パーセントで基本的に違っている.

荒川――それじゃそこに焦点を合わせますか…….

磯崎――僕はこの《養老天命反転地》での荒川の意図はほとんど全部理解できるっていうふうに評価するけれども,でもわからないというか不必要だと思ったのは,日本列島と岐阜県だ.この二つを入れたことを,僕は不必要だと思ったんだよね.ああいうことはやらなくてもいいんじゃないか.でもいまの説明を聞くと,あなたにとっては最大に重要なところでしょう.

荒川――そう.やっぱり民族によって“希望”という意味も違いますね.死生観も.このローカルな感性をなんとかユニヴァーサルにするには,これはどうしても私には必要な行為なのです.

磯崎――そこがあなたと僕のあいだで食い違うわけ.

荒川――これはまさに建築の本質,“creative act”の一番根本のものなんだよね.われわれ人間にとってあらゆる環境というのは,まず与えられちゃう.まず与えられるがために,人間の悲劇が始まった.最初からそれをコントロールすることができない.

 そこでわれわれは生まれてきたときからずっと,日本人のお母さん,日本人の父から習わされてきたのが日本語で,食べさせられてきたのはだいたい日本の食事なんだよ.一番最初に,学んだんじゃなくて強制的に植え付けられてしまったもの,それはどんなにインターナショナルになろうとか言っていても,そうはなれないローカルなものなんだよ.そうしたローカルなものこそが,いずれは生活空間の一番根本になるものなんだよ.

 あなたのように,綿密な空間を作ったりというのは,私にはいまのところはどうでもいいんだ.素晴らしい空間の中へ行けば,人は幸福になれるはずなんだけど,誰もその使い方がわからないんだよ.だからそれをわからせるためには,生活空間でもう一度私たちは,練習し直さなくちゃ駄目なの.

 私がいま言っている生活空間というのは,普通に毎日生活してとかなんかというんじゃないんだよ.向こうから押しつけられたもの,与えられちゃったものなの.なぜって言ったら,与えられちゃったものは,どうしても解決しようがないから,黙っているか,使ってみてもなんだかわからない.それでおしまい.そこから日本人の直観が出てくる.あまりにも与えられたものが多いから,ナショナリティとかロジックとかそんなことを考えている暇はなくて,すべて直観でやっちゃうんだよね.

磯崎――日本語の構造がもともとそうなんだよ.

荒川――そのとおり.日本語というのはまず見るためのものだからね,それを使うことより.かたちを見たらすぐわかるからね.英語なんか見たってわからない.

磯崎――それと,ヨーロッパ的な意味でのロジックなしでコミュニケーション可能な言語だからね.

荒川――そうです.そこを言おうとしているんだよ.それなのにね,建築が,都市化が必要なんだよね.いやまったくアイロニカルですね.なにがあろうと日本の文化でなく,日本の20世紀の文明を構築しなければどんなに文化を発明,発見しても,置きかえ場所も使用する共同性の意味も持ちえませんね.いままでのように…….

磯崎――建築っていうのは,ロゴスそのものですからね.ロゴスによって構築する,いや構築がロゴスの運動になっている.それを建築と呼ぼうとしているわけですから.

荒川――そうなんです.建築とは出来事と現象によって場や場所を構築することですね.「都市化」はこの行為がなければ構築出来ません.いわゆる文明のない所には建築は必要がありません.だからこの国では都市化が必要でないのです.「壊す」ことじゃなくて「作り上げる」ことです.壊すことから始まったけど,おそらく私が見ている磯崎さんは,そこに無意識なんだよ.意識的にそこには入りたくないっていう何かがあるような気がするんだ.私はそこにものすごい意識的なんだけど.あなたがやってくれているところは,みんな「カンシャ」しているでしょう.

芸術家の宿命,建築家の宿命

磯崎――僕は,自省しているようなときに書いていると,やっぱりロゴスの運動をひたすら追っかけているので,それは西欧的な概念に基づいた建築を論じ,かつそれを介して創られていく何ものかに近づこうとします.

 ところが,身体的な知覚を手がかりに直観的な反応をすると,アンチロゴスとなるのかな,そのとき一気に日本が浮かび上がる.日本語はそんなときに便利ですね.ロジックなんかなしで伝達できてしまう.なぜか僕は,日本を好きなんだけれども嫌いだと思う.つまり愛憎関係が複雑になってくる.これはもうどうしようもなくあるんだよね.

荒川――それは,私が言ったことに通じないかな.

磯崎――通じているでしょう.ある意味でいうと,日本というのは僕らにとっての母胎なんだな.その母胎からわれわれがしょうがなく出てきてしまった.その記憶はもう消せない.最初のプリントとして記憶の中にひそんでいる.それは言語も同じです.一番最初に覚えた味は,もうしょうがない.それから歩き方にしても,一番最初に教えられたことは拒否できないわけですよね.生まれてきた場所もそうなんだけど,これは僕らの身体にべったりはりついてしまって,取り除きようがない.おぞましいんですね.だから,僕にとってみると,それを喋るのはいやなんです.

荒川――あなたがそう言うのはわかりますが,それらのイヴェントを言葉にし,言語にしなければ,あなたの言われる建築とロゴスの関係はなりたちませんよ.

磯崎――これがもし母親的なしがらみだとすると,片一方に父親的なものがある.これは僕らにとっては,ヨーロッパ的なほとんど理性にかかわるもので,ここには全体を組み立てる仕組みがひそんでいて,これが論理的な思考の大部分を編成してしまった.

 外から来たものは構造的に,ロジカルに捕まえやすい.この理性にあたるものは超越性を持った概念ですが,西欧人はそれを上へ超越させていけるけど,僕らは,それを外部から来るものとして受け取ってもいる.だが近代社会においては,それを認めることによって,僕らはやっと社会化して生活ができてきたんです.すなわちもとに遡ってみると,日本人は日本人としての生得の部分を抑圧しているわけ.

荒川――個人の生活空間の社会化及びインスタント的空間を構築するために必要な共同性への情熱をコントロールする.あの不思議な日本的感性のことですね.

磯崎――その抑圧を解除したら,それはもうややこしい.

荒川――私みたいな最もややこしい人間が前にいるからね.

磯崎――日本から遠く離れているから,より日本を意識している荒川修作がいる.たしかにね.無媒介,短絡といったラディカリズムの線でつっぱると,右翼の宣伝カーに乗っているのと同じことをやらされてしまいかねないのだよ.

荒川――いまそれを聞いていると,いかにあなたが啓蒙家かっていうことがわかるよ.頭のてっぺんから足の先までね.しかもあなたは芸術というものを使いながら啓蒙しているんだ.だからあなたは自己矛盾しているんだ.西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」とはまさにあなたのようなことを言うんだよ.

 あなたが背負い込んでいるのは共同のもので,あなたひとりの責任ではないのに,いかにもあなたが背負わされちゃったということなんだよ.日本人の蒔いた種.それには責任を持たなくたっていいんだよ,本当は.もちろんあなたも持ってくれるに越したことはないけど.あなたが啓蒙家だというのはそこを言っているんだ.私はそういうことに興味はあまりありません.それらのことはほうっておいても方向は生まれて来ます.

磯崎――だから荒川修作はアーティストで,僕は建築家なんだ(笑).

荒川――いやいや,本当はそれは逆なんだよ.どう見ても私が建築家であなたが芸術家さ(笑).今日はそれを言いたかった.あなたはまさに芸術家が持たなければならないものを全部持っている.で,私はね,芸術家が持ってちゃいけないものばっかりだったから建築家になったんだと思う.つまりあなたは文化を構築しようとしているのですね.

磯崎――僕は,それをまったく逆に思ってたんだけどね.お互い逆に見えるのかな(笑).

荒川――その見え方はものすごく違うね.あなたはいまここにいる,現実にある場から遠い遠い過去,そういうものにものすごい責任を持っている.責任っていうより,もう痛いぐらいなもの.いまからやってくる近い未来に対して.痛いぐらい身に染みているんだ.

 私は両方持ち合わせていません.ひとつあるのは,誰にでも根源的にあるもの,信じちゃうとか,消えちゃうとか,歴史じゃない,あえて言えばインスタントに出来上がる歴史ですね.だから,直観的で,何と言うか…….

磯崎――そう.そのとおり.本当に野蛮だよ.

荒川――その代わりね,それを超論理的にしてやろうと思ってるんです.それで,支離滅裂でアブストラクトな,混沌としたものがあるでしょ.日本のこういう環境で育ったから,だから,そうした混沌を私の言葉で,何とか言語にまで近づけていって,与えられていた言語に近づきその言語に新しいディメンションを与えてやる.いわゆる身体化する.そしてその生身の身体の行動から生まれた言語としての場を構築したいのですね.そしてその時,初めてひとつの思想が生まれるのでしょうね.

磯崎――そこのプロセスは理解できる.だから,そのときなぜ日本地図と岐阜県の地図を使ったのか.そこが問題だな.

荒川――外国もあるんだよ,8つぐらい.

磯崎――だけど,目立つのはそのふたつだよ.外国まで入れてあのパークを理解すると,建築として場を構築するために,いくつかのモデルを組み合わせて,ひとつの凡例を組み立てた,というふうに説明はできるわけ.説明はできるんだけど,それにしても日本地図が大きいじゃない.どさーっとのさばってるでしょう.そうすると日本地図しか見ないわけよ.岐阜県の地図も,あれは,近代のデザインを超える建築として,岐阜県の県境の線が利用されている.こういうふうに理解するわけ.で,そういうように,こういうものを使ってしまうこと自体が,僕は,誤解を招くと思う.

荒川――誤解はもう,いろいろあるだろうけど,それはしようがない.主題が常識であり道徳であったら,一番身近な,できあがってしまっていた言葉や言語を使うことが一番早道なんだよ.いわゆる経済的です.ただそれだけです.

 いまあなたは技術的な,部分的なことを言っていた.それにしても目立つじゃないかって,いや,目立ってもらわないと困る,と言いたい.なぜなら,どんな人間も,生まれたところで一番最初に親しみを覚えるのは,長いあいだ見たり聞いたり触ったりするものなんだから,まず直截に関係を持たせるためには,オリジナルなものを使ったらダメなわけ.

 いつもオリジナルなものをつくろうとしているんだよ,ビルでもなんでも.磯崎さんは,日本的とか日本とか日本人とか,文化全部背負ってるところがあるんだよ.都市化の進まなかった国ではしかたがありませんが,おたがいに「泣くに泣けない」時空を過ごしてきましたね…….

磯崎――それはね,背負わされる部分はありますよ.それが僕の宿命なんですよ.

荒川――あなたの,ポリティカル,ソーシャル,アーティスティックな位置はよくわかります.だからあなたがやってきたこと,これからやろうとしていること,もう手に取るようにわかるんだよ.本当は私もあなたの半分ぐらいのヴォキャブラリーは出さなくちゃいけない(笑).

磯崎――要するに,啓蒙をやらなきゃいけないってことがあるからね.

荒川――だけど今日はやらない.あなたがそっちで受け取ってくれるから.日本人の知識人の宿命ですね.

磯崎――損な役割になっちゃったなあ.普段の逆だよ(笑).

荒川――サルトルとメルロー=ポンティの論争を例にとると,メルロー=ポンティは哲学に行為なんかを結びつけないで,いわゆる学究一筋でいったわけだよね.そうしたらサルトルが「おまえのようなのは古い」と言ったわけだ.そしてサルトルは,俺はもう行動を起こす,映画もつくる,新聞もつくる,演劇もやる,と言ってぼんぼんやった.そして彼は国民的英雄になった.それをメルロー=ポンティは見ていて,サルトルはひょっとしたらフランス国民を変えちゃうかもわからないと思ったわけ.そういう意味では,あなたは,サルトルの立場を採ったんだよ.つまり,ある意味で哲学はもう極めたから,これを推し進めるよりも,まずあらゆる点に使ってやろうと…….

 もちろんそのあいだに新しい発見があったりもするけれど,まずそれをやっていこうと.これは,ある意味では資本主義社会と共産主義社会ぐらいの違いで,私も人間が幸福になるためには共産主義社会のほうが早いと思ったんだよ.知識人はみんなそうだと思ってたけれど,共産主義はダメになり,資本主義も結局腰くだけになってしまっているわけだよね.そういう意味ではあなたはコミュニズムと言わずに,一見ものすごくブルジョア的な行為で,私よりははるかにコミュニスティックなことをしてますね.私は逆に,言いたいことしか言わない.そうすると,あなたを追い越そうとする若い人の勢いのほうが,私の場合より何百倍もいるわけです.そうすると,そこから天才がひとり出てきたら…….

磯崎――逆もあるよ.荒川の場合だって,庭に行って,転んで痛い目にあったがゆえに荒川の思想がわかった,という人がだんだん出てきつつあるわけだから.それはかなり数は多いじゃない.

荒川――あなたは言説と実証の両方やっているけど,私たちはいまのところ少しの言説と実証です.私たちにはまだ言説を言葉に出来ない細部がたくさんありますが…….どんなに説明しても,説明しきれないところがいっぱいあるからね.あなたの場合,説明出来ないようなところでも説明してくれる.言説でできないところを,実証しているんだ.まず最も大切なのはスピード,軽さ,プリサイスネス,それからリピーティングができること…….

磯崎――まあ,いくつか重さや不確実さや一回性を背負って生きていきますから…….

荒川――そうすると,どうしてこんなに自明の建築と言われたものが,本当に一年おきに内容も変わって,意味も変わって来ちゃう時代にわれわれは住んでるんだろうってことになる.建築だけじゃないけれども,たとえば,日本はこの二千年の間に文明化したものは何かあるんだろうか.どうしても挙げられないんだ.文明のない所に「人間」は生活していませんから,まだ日本列島には「人間」は住んでいないのでしょうね(笑).なんとかして人間の世界をつくらなくてはなりませんね.

磯崎――ウォークマンがありますよ.これは日本人の身体性を機械の着装によって変えている例です.それをもっと広げていくとオウムの連中が使っていたへッド・ギアとかになるけれどもね.

荒川――あれは文明化っていうよりは,文化だよ.

磯崎――いや,そういうエレメントで象徴されるようなモノの開発については,日本人はかなりユニークだと思うよ.

荒川――それは,文明とはいえない,どんなことがあっても.

磯崎――そうだね,文化かもしれない.

荒川――オウム真理教で言えば,彼らの住んでいたところは文化化している.あの家のつくり方といい,あらゆるものを無視したこと,つまり象徴を無視したことだよ.あれは彼らの文化だね.いい悪いということでなくて,あえて挙げるなら,彼らはなにも構築をしてないんだ.

磯崎――そこが不思議なんだな.たしかに彼らは構築していない.建築を回避した.そこに見える短絡の手段は建築の生存さえゆすっていますよ.これは建築家の僕にはこたえますね.やっぱり僕はメルロー=ポンティの肩を持ちたくなる.

「宿命反転」の戦い

荒川――不思議なことはまだあるよ.たとえば,日本の庭は小さなテーマパークだよね.でも,それは肉体とか身体というものを排除した上に成立しているだろう.本当に不思議だよね.ほかの国の庭は,視覚とか感覚とかいうものが落ちていくところであって,身体も肉体も入れていくところなんだけど,日本の庭はどんなに大きくても小さくても眺めるほうなんだね.

磯崎――それは歴史にもよるんだけれども,確かに,石庭が生まれた中世末,つまり15-16世紀ぐらいまでは「見る庭」が主流だった.ところが,それから回遊式庭園が出てくると,ちょっと違ってくる.歩いてもね,身体性じゃない.せいぜい飛び石の打ち方とか,あるいはお茶室のにじり口から入れることで閉所恐怖症みたいに身体を圧迫することによって,何か思考を変えようとしているんだ.

 それまではメディテーションのためだった.石庭は絵と一緒で曼陀羅だからね,曼陀羅を壁にかけて見ていたのを平面的に見て向こう側においてやって,庭にしたというだけなんだ.

荒川――そのいい例でちょっと変わったのが桂離宮だよね.それと伊勢神宮や熱田神宮や出雲大社,これらは確かに平面的だよね.飛び石があって,5つなら5つ,6つなら6つの駅のような建物がある.そして,ひとつの駅から次の駅へ行くためには上がったり下がったりして特別なコースがある.それは眺めてくれとも言ってないし,それほどいい眺めでもない.特に桂離宮なんかはそうだよ.

 そうすると,いったいここの駅からあそこの駅へというのは,台所から便所へ行って,便所からリヴィング・ルームへ行って,リヴィングからダイニングへ行ってといった,まあそれを拡大したようなことだけど,そこには,私の言っている,「分身化してしまった現象としての肉体」っていうのを使ってるところがあると思うんだ.ただ見るだけじゃなくてね,能役者が舞台の上を動くときの動きのようなことをさせている.誰でもみんな,能役者みたいに動くんだよね.

 私は2回しか行ってないけど実験してみた.そうしたらね,身体はまあまあ自分の考えているところへ行くけれど,肉体は後ろからついてくる私より前に行っているんだよ.身体の極限化された動きによってコントロールされた肉体を呼び出すというのかな.その肉体は,なにも私がふたりになるわけじゃない.いかにもツインになったような状態で歩き出す.いつもふたり以上の私がある.足を滑らせたり,左を長く見てて右をちょっと見たりしたときに,不思議な現象を起こしたときに,身体と言われているのがぽっと消えて,肉体だけがひとり歩きする.そのときに,不思議に,自分の延長が生まれてきて,いかにも自分の肉体がふっと向こうへ走っていったような感覚になるんだ.

 そこでは,いかにも現象が見やすいようにできているんだよ.その場がどのように構築してあるかというと,不思議なことに,前景と中景と後景が瞬間に入れ違いになるようにできている.それこそ,まさに私が長いあいだ考えてきた現象を起こすための生活空間なんだよ.

磯崎――いまの説明は,現象学的身体そのものだね.メルロー=ポンティ自身がしゃべっているみたいだ.

荒川――まさにそのとおり.だから,あのなかの松琴亭の市松模様の壁なんて,あれは抽象的なものじゃなくて,ものすごい具体的なディメンションを伴った図式のようなものだよね.あれは全部直観でやったんだと思う.

磯崎――妙に知っていたらできなかったでしょう.知っていたというよりも,経験的に何百年もかかって組み立てたわけだからね.もとはと言えば,これは誰も実証できないけれど,桂離宮のあの敷地は『源氏物語』に出てくる桂宮の庭だったと言われている.それから3回か4回にわたって継ぎ足した.そのあいだに100年か150年ぐらいたっている.で,そのあいだに微妙な細部が附加されていく.ここを足す,別なものを消す.おもしろいのは,足すときに同じ美学で足してるわけで,そこがおもしろいですね.

荒川――あれがどうして素晴らしいかというと,日本人の死生観を考えたり,変える場所だからなんだ.なぜかというと,遠近が消えたりする場所というのは,夢の場所でもあるわけだ.そこで現実に寝たり起きたり,ご飯も炊けるような場所があって,しかも休むことができる.それでいて夢の場所っていうのは,いったい何がそうさせているのか.

 私は《養老天命反転地》で,それを意識的にやったわけです.私たちの身代わりになってくれる複数の地平を四方に出現させ,無名ではあるが,遍在の場として私たちの共同の場を構築したのです.

 あなたがあそこへ行ったとき,「あ,“間”が欠けている」と言ったでしょう.たった2ヘクタールぐらいのところで,頭から尻尾まで全部あるものを作ってくれって言われたんだからね.しかも,ここは人は住んでないけど,住めるような感じも入れてってことだから,ホテルのようにもなって,普通団地でもあり,アパートみたいにもなって,しかもテーマパークであって公園でもあるって言われたんだよ.いわゆる21世紀の未来都市ですね.

磯崎――誰にそういうこと言われたの?

荒川――私たちからです(笑).だから,そのとおりにやったんです.私が言おうとしているのは,死生観の問題で,結局文明というのは何のために都市化するかというと,いかにして消えていくか,いかにして永遠をつくるか,そのどっちかのための場所を構築することですね.

 欧米人はアジア人に対して,あらゆるものをおまえたちに取られてもいい,金に夢中になってくれてもいい,元気になってくれても何でもいいけど,死生観だけは俺らは,おまえたちから変えられないぞって言うんだな.おまえたちは俺らの影響を簡単に受けるけど,おまえたちがどんなことをやっても,俺らの死生観だけは変えないぞって.だから,かれらが何を恐れているかと言ったら,まったく違った「文明」が,「文化」ではありませんが,押し寄せてきて,死生観が変わることを恐れてるんだよ.

 日本人は逆に,死生観が最初からなかったんだから変えてくれって言ってるようだけれど,そんなことはないと思う.明確にあった.桂離宮を見ればわかりますが.ただそのランゲージが不足しているのと,抽象的で直観的なんだよね.体系的にはできてないから,読むことはできないんだよ.それは感じるしかない.「もののあわれを知る」あれですね.まったく困ったことです(笑).

磯崎――先ほどの宿命の話に戻ると,あなたは「天命反転」をReversible Destinyと英訳しているけど,そのデスティニーの部分というのを僕らは一人ひとりが背負い込んでいるわけでね.そのデスティニーを組み立てた中身というのは,僕にとってみると,日本であり母親であり,それに類する与えられた環境,Givenの部分だよね.

 それで,結局なんで生きてるかって言ったら,その宿命の部分といかに戦うかということ,つまり,戦うことでしか生きてないわけですよ.そのプロセスがまあ生きてるプロセスみたいなもので.そのときに,ビギニングとしての出自や発生の部分を壊すわけにはいかないんだけれども,しかし壊さないといけない.そういうものを僕らは常に背負っているわけね.その関係が,すべての思想のかなりの部分を組み立てている.

 あなたの言い方で,僕が非常に関心があっておもしろいのは,宿命を反転させるっていうこと.で,谷川俊太郎と一緒に養老であなたと議論したのも,その部分だったわけ.宿命が反転されるのかどうか.僕は,できるとも言えないし,できないとも言えない.だけど,それとストラグルはやってる.そのストラグルするときに,僕はそれを建築でやっている.建築をつくるということでやっている.そして僕の場合,初源としての日本がある.日本で仕事をするときこの宿命といつも向き合わされるのです.

荒川――だけどね,あなたが立っている場は,そこからちょっとあなたが先へ行ってるか,むしろ戻っているか,どっちかなんだよ.

 なぜかって言うと,あなたが相当意識化させようとしている部分は,建築をする場所でもないし,言語を成り立たせる場でもないし,あなたの直観が芽生えているところでもない.背負い込んでしまった宿命的なもの,背負い込まされたものを解体して,言語のほうへシフトさせる為,それこそあなたが歴史をつくるって行為だと思ってるんだよね.

 だから,私の場合は,そんなことをやらなくてもいいってことを言いたいんだ.そのような歴史は人間が地球上に生活している以上,ほうっておいても生まれてくるものですよ……と.

磯崎――この続きは次の機会に朝までやりましょう.話はやっとイントロにというところですから…….

[1996年1月23日,東京にて]

荒川修作
磯崎新

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