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あなたをこれまで最も遠くへ誘ってくれたもの(こと)はなんですか?

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祖父に連れられて歩いた幼い頃の道。地面に近い低い体で嗅ぎとって行くと、その先に何があるのかなあと草木や虫らに誘われて、まだかなあと思って歩いた道。その後、父に連れられて歩いた山道。子どもの体で雪道を歩く、山に登る、そういう果てしない感じが、身体にずっと続いていることかな?

もとい、この質問の依頼文にあった“近視眼的でつながりすぎたメディア環境のなかで、これからの「距離」を考えると同時に、より「遠くを見る」ことを、コンセプトとしたメディア”、という前提に実は引っかかっておりました。というのも、私にはそのような前提がありません。逆に大切なものが近くにあってもなかなか気づけない、私はそういう失敗ばかりを幾度も繰り返してきました。ですからモニターで遠くの情報という幻想を見るたびに、かえって足元をしっかり見る、感じる、ということがいかに難しいものかと考えます。

ノスタルジアとは究極のホームシックですが、遠くて帰れない距離というこの言葉が与えるうっとりさせる質感と同様に、なんとなくこの問い中に、ロマンティックで幻想的な隙があり、本質的な問いになっていないような感じがしてしまいました、ごめんなさい。

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既存のウェブメディアに不満を感じること、またこれからのウェブメディアに期待することはなんですか?

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ウェブメディアが手元のモニターで目だけに見せてくれるものは、誰かの合理性によって切り取った景色や情報ですから、当たり前のことですが、それはあくまでも二次資料である、という強い自覚が使う側に必要です。

コンパクトに凝縮した言葉という概念や記号が知ではなく、光の集積された平たい色の景色を眺めるだけでもなく、それらの二次資料が起こす幻想からいかに逸脱し、例え自分が未熟で無知であっても、その拙い身体のセンサーで感知していけるのか、その小さな“足元”からたった一人で手探りしていけるかと考えます。そういうタフで軽やかな身体を持ちたいと思います。

ウェブメディアはインフラのような大きな概念になろうとしていますが、あくまでもそれを使うのは欲望をたくさん抱えた多くの「私」であること。ウェブメディアは全体主義的な構造を備えているので、これまでの進歩主義的な嗜好性と同様、大きくたくさん支配していくところが、とてもつまらないと思います。

鴻池朋子 アーティスト

1960年生まれ。場所や天候を巻き込んだ、屋外でのサイトスペシフィックな作品を各地で展開し、人間の文化の原型である狩猟採集の再考、芸術の根源的な問い直しを続けている。